テレビを見ていたら、世界で一番古い企業は日本の「金剛組」と紹介していました。
ただ創業の年代を言っただけで、何をしている企業なのかの紹介が全くなかったのが残念です。
「金剛組」は四天王寺造営の時に作られた企業で、千四百年以上経った現在も営業しています。
日本最古の四天王寺と一緒に年代を重ねてきた企業です。
この「金剛組」、一月ほど前の産経新聞のコラムで紹介されていました。
何代も続く「老舗」と言われる企業は多くありますが、それを遙かに超えた千四百年も続く事自体が素晴らしいことだと思います。
ただ創業の年代を言っただけで、何をしている企業なのかの紹介が全くなかったのが残念です。
「金剛組」は四天王寺造営の時に作られた企業で、千四百年以上経った現在も営業しています。
日本最古の四天王寺と一緒に年代を重ねてきた企業です。
この「金剛組」、一月ほど前の産経新聞のコラムで紹介されていました。
何代も続く「老舗」と言われる企業は多くありますが、それを遙かに超えた千四百年も続く事自体が素晴らしいことだと思います。
技術あつての千四百年
古いものが好きだ。いま目の前にあるものが、いったいどんな時間を過ごしてきたのか想像する。
アンティークショップで買った1950年代製の時計は、誰の腕でどんな時間を刻んできたのか、自分と同い年のライターは、何本の煙草に火をつけてきたのか。
しかし、それらはモノに過ぎず、背負う歳月も数十年。では、ヒトが1OO年、1000年とつながり、同じ看板を掲げ続ける魅力とは、どんなものだろう。「老舗」を訪ねてみよう、そう思った。
推古天皇の時代、西暦593年に造営された大阪の四天王寺。手がけたのは578年に聖徳太子が百済から招いた3人の工匠だった。そのひとりの名を金剛重光という。企業として、日本、いや世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代だ。その末裔に会うために四天王寺に向かった。
JR天王寺駅を降り、谷町筋をまっすぐに北へ。天王寺公園の緑がまぶしい。泉州名物の水なすを売る露店をながめながら歩くと、右手に石造りの大きな鳥居が見えてきた。重要文化財で日本三鳥居のひとつという。鳥居脇の石柱には「大日本仏法最初四天王寺」の文字。どこか誇らしげだった。
その鳥居のほど近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」はある。1400年以上前から、ずっと。
「四天王寺さんのおかげでこれまでやってこられました。ずっとお守りせなならんのです。離れたらあきません」
そう話すのは、重光から数えて三十九代目、同社相談役の金剛利隆さん。利隆さんは四天王寺から「四天王寺正大工第三十九世金剛広目利隆」の名を得ている。四天王のなかで西を守るのが広目天。いかにも、と感じた。利隆さんの案内で境内を歩いた。五重塔と金堂、講堂が南から並び、回廊が囲む。金堂の脇で利隆さんは立ち止まった。「全部鉄筋コンクリートですわ」。言われるまで気づかなかった。
「いかに木に見せるか、という苦労をしながら、飛鳥時代の姿を再現したんですな」
四天王寺は過去7回、焼失や倒壊の憂き目に遭ってきた。織田信長の焼き討ち、大坂冬の陣、室戸台風、空襲…。しかし、そのたびに再建してきたのは常に金剛組だった。四天王寺を見舞った災厄が、はからずも金剛組を存続させてきたのではないか。不謹慎だが、利隆さんにそう尋ねてみた。
利隆さんはうなずいた。「はっきり言うたら、四天王寺の一員にしてもらったということです。江戸時代までは扶持米をもらってやってきたんですから」
状況が一変したのは明治の廃仏殿釈。四天王寺は寺領を失い、金剛組の仕事も減った。しかし、職人気質の経営は、営業で仕事をとることをよしとせず、いきおい会社は傾き、三十七代目は「先祖に申し訳ない」と代々の墓前で自殺した。
三十八代を継いだのはその妻、よしえだった。利隆さんの義母にあたる。「四天王寺の女棟梁いうて有名やったんです」。室戸台風で倒壊した五重塔を5年かけて、昭和15年に再建した。しかし、空襲のため昭和20年に焼失。同じ轍を踏むまいと、戦後は鉄筋コンクリート造りになった。焼失はなくなったが、逆に言えば、それは金剛組にとって試練だったのかもしれない。一昨年、経営不振から金剛組は大阪の中堅ゼネコン高松建設の傘下に入り、金剛家出の社長は四十代でついえた。「いずれは金剛家から、と思うてます。支援はありがたいですが、やっぱりどこかで本家の筋がつながってないと」と利隆さんは言う。
金剛組本社3階の相談役室。利隆さんは、ロッカーから大切そうに鞄を出した。中から取り出したのは、江戸時代に生きた三十二代金剛喜定の書き遺した戒め「職家心得の事」だった。こうある。
一、 曲尺の使い方など、大工の基本的な技術習得に励み、神社仏閣について教養を積んだ上で仕事に当たること。
創業以来、四天王寺に寄り添いつつも金剛組の存続を裏打ちしてきたのは、宮大工たちの確かな技術。平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」を寄進した。まつられているのは、大工道具の曲尺を持つ聖徳太子。全国から参拝する大工が絶えないという。
「技術あっての金剛組です。技術で生きて、なんとか続いてきた。それは継承していかなあかん」と利隆さん。「歴史は歴史です。汚したらあきません。大工はみな必死で一生懸命ですわ」
「老舗」を辞書でひいてみた。語源は「仕似す」。似せて物事をすることという。親から子、子から孫へ、1400年以上に渡って伝承される技術。先祖の技をどうまねてきたのか、宮大工の「仕似す」を見たくなった。(酒井潤)
"毎週木曜日掲載(産経新聞)
どんな新しいジャンルのものが出てきても、日本はすぐに高品質のものを作り上げてしまいますよね。技術もさることながら、妥協を許さない「ものづくり魂」があるからだと思います。(こちらでは簡単に妥協し過ぎた製品がたくさん売られています。)
目先の利益ばかり追って生産拠点を海外に移すことは、長期的に見て大きな損失になるのではないかと危惧しています。
http://www.geocities.jp/ino_hideki55/kyouzaikenkyu-sennnennokugi.htm
職人は金儲けよりも素晴らしいモノを作ることに生き甲斐を感じる人たち、そしてそのような職人は日本では非常に尊敬されます。
今後もそうあってほしいですね。建国以来続くプロジェクトX。
自分達が作った物で、買われた方が喜んでいただけたらと言う気持ちが有るのでしょう。
それに、それだけの物を作らなければならないと言う心持ち。
その事が、こうすればもっと良くなるのではないかと言う研究心。
また職人さんは自分の使う道具は神聖なものとして大切にする心。
この事が大切なのだと思います。
>目先の利益ばかり追って生産拠点を海外に移す…
まさに仰る通りです。
「千年の釘にいどむ」紹介有り難うございます。
この釘が日本刀と同じじゃないでしょうか。
職人さんは名を残すより作った物を残したい。
その気持ちがあるから、良い物が作れるのでしょうね。