一燈照隅

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東條首相と靖国神社の鳥居

2005年09月11日 | 東條英機
東條と靖国神社の鳥居
鈴木志津
〈下町の一職人が崇高なお仕事の絆で、東条首相に接したのでございました〉 と言う言葉で始まった志津さんの手紙は感動的なものだった。
(略)
志津さんの夫は下町・木場の材木職人だった。東京へ出て50年、人の二倍真面目に働いて、軍に接収された製材所の工場長をしていた。
ある日、大変な仕事が舞い込んできた。それは誰の目にも敗戦の気配が感じられるころだったが、靖国神社の大鳥居の青銅を供出するため、わざわざ倒して木製の鳥居に作り替えるのだという。新しい鳥居を創るために、木曽のご神木が晴海に運ばれた。ご神木というのは樹齢千年を超えた檜のことで、切られてもなお千年生きるといわれるものである。
この新しい御神木の鳥居造りには、東條首相がことのほか熱心で、自ら細々と指示を与えた。それも大変な気の配りようで、晴海から九段の靖国神社に御神木を運ぶときも、馬車やトラックを使わず、なんと職人と軍人、遺族達の、人の力だけで、心を込めて綱を引いて運んだという。
そしてなおも東條首相は、大変に難しい注文を次々に出した。 鳥居の柱は八角に落として丸くすること。これには職人達も驚いた。せっかく太い御神木を、どうしてわざわざ難しい作業をして細くするのか、と誰もが考えた。
ところが東條首相の注文には深い思いが込められているのだ。「八紘一宇」にちなんだ八角だったのである。
(略)
東條首相の命令はそれだけではなかった。作業に当たっては、御神木に乗ってはいけない、跨いでもいけない、失敗は絶対に許されない、と言う厳しいものだった。 当然ながらこんな難しい仕事を引き受ける職人は、木場中に一人もいない。そんななかで、失敗すれば罰を受けるのも覚悟の上で、志津さんの夫が工場の職人達を連れて、潔く引き受けたのである。
「仕事にかかります前には、水をかぶって身を清めました。失敗すれば俺の体はどこへ行くか解らん、下着だけは新品を頼む、といいましたが、当時は何もかも底をついていました。一尺の布を買うのにも衣料切符が必要で、苦心しました。こんな気持ちは戦争を知らぬ現代の人には解ってもらえませんが」 志津さんの言葉は、明瞭でしかも目の前の出来事のように気がこもっていた。
八角の大鳥居を造りあげ、嬉しそうな東條首相が歩み寄って「責任者はお前か」と言って手を握り「ご苦労」と言われたときは、志津さんの夫は一生に一度の涙が出たという。精魂傾けて取り組んだだけに、その喜びは一層大きく、一人の職人の生涯を輝かせる大仕事になったのである。
それから三十数年たった頃だろうか、志津さんは大変なことを耳にした。「靖国神社の御神木の鳥居が消えてしまった」というものである。志津さんは仰天して靖国神社に走った。そんなばかな話があるものか、消えるはずがない、そう念じながら坂を登っていった。ところがそれは本当だった。夫が造った八角の鳥居が、いつの間にかコンクリートの大鳥居に化けていた。
志津さんはその足で社務所に駆け込んだ。御神木の鳥居がどうして消えたのかを問いただすためである。
問いつめられた社務所の人は「古くなって腐ってきたので、危険だからこの東洋一の大鳥居に変えたのです」と答えた。三十一年目に建て替えていたのである。
「腐った? そんなはずはない。御神木は千年も生きるといいますよ。法隆寺の柱は千三百年もたっているのに健在です。腐ったのではないでしょう。どうして倒したのですか。東條さんが建てたからですか」 志津さんは納得できないので問い詰めたが、その質問には答えてくれなかった。
壊した残骸はどこにあるのですか、と執拗に問い詰めると、小さく切って表札にして関係者に配ったのだと答えた。 志津さんはますます許せなくなった。
「その表札は、東條家にも届けたんですか、私も関係者です。私も晴海からここまで曳いてきた一人です。夫が命をかけて造ったのです」 志津さんは情けなくて声を上げて泣き崩れた。
社務所の人も涙を流して、両手をつき頭をすりつけて、申し訳ないと謝った。 そして最後の一枚だという傷のある表札を志津さんに渡したという。 鈴木志津さんが命ある限り抱えている栄光と悲しみの思い出である。
志津さんの手紙は、こういう言葉で結ばれている。
〈東條首相のことを耳にするたび、活字にふれるたびに、心に深く刻まれたあれこれが浮かび、瞼が熱くなり、いく筋もの涙が流れます。 東條首相は、戦争を企てたお方か、巻き込まれたお方か、おしえて頂きとうございます。
平成元年五月三十一日                 鈴木志津〉
「東條英機封印された真実」佐藤早苗著 講談社

靖国神社に木製の鳥居が有ったことを始めて知りました。それを東條首相が造らせたことも。


東條手記Ⅰ
東條手記Ⅱ
東條手記Ⅲ
東條手記Ⅳ
東條手記Ⅴ
東條手記Ⅵ
東條手記Ⅶ
東條手記Ⅷ 
http://blog.goo.ne.jp/misky730/c/67bb41af64126b846f2dc54b8d82c4c5

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5 コメント

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東條英機 (ake0515)
2005-09-28 18:14:27
トラックバックありがとうございました。

靖国神社の馬鹿でかい鳥居を、話は知らなかったのに、私はすごい違和感を感じていました・・・。でかいけど木じゃないので。そんな話が合ったのですね。木製の鳥居がそんなに早く腐るわけ無いですよね。志津さんの質問に否定もしないとするとYES?東條英機氏の合祀前だったのかな?三十一年目は。調べてみます。他の手記も読ませていただきます。
Unknown (misky730)
2005-09-28 19:41:49
鳥居を建ててから31年後だと昭和49年前後だと思います。いわゆるA級戦犯の方々が合祀されたのは昭和53年。しかし昭和46年に崇敬者総代会で了承されてから靖国神社が合祀するまで7年もかかっています。日中国交正常化が昭和47年何か政治的な物が動いたのかもしれませんね。
言挙げはしないはずなのに (seton1894lobo)
2005-09-29 10:28:59
これは知りませんでした。東條さんといえば、現在は悪いイメージが定着してしまい、残念でなりません。やはりこれは、多くの日本人が人として自立した本来の姿に戻る、あるいは近づくべきなのだと感じています。これは多分、現在の日本人はそれが出来ないいため、大きな声に騙されているのではないか、と思えるからでした。
Unknown (misky730)
2005-09-29 18:25:07
setonさん、東條元首相をほとんどの人が悪人にしています。石原慎太郎や三宅久之のような人達でさえ。戦後占領軍や共産主義者がいわゆるA級戦犯に責任をなすりつけて、連合国側は正義だったというイメージが確立してしまった。しかし本当にそうなのか。東京裁判での東條元首相を見れば全く違う事が判ります。
Unknown (coto matoca)
2008-03-29 09:19:22
TBありがとうございました。

木製の鳥居のお話は、まったく知りませんでした。
政治的な思惑から存在自体を消されてしまったのでしょうか。
切られてから後も千年生きる御神木に対しても申し訳ないですし、
やるせないお話ですね。

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