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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

るにん

2006年01月21日 | 映画
生きるということの‘ある極限’を描いた映画だと思いました。この映画の中での設定のように、非常に閉塞的な狭い空間の中に押しやられたら、人は誰でもすぐにでも拘禁反応に陥ってしまうと思うのですが、そこにさらに、飢餓や貧困の追い討ちをくらい、これといった娯楽や楽しみもない日々だけを繰り返さなければならないとしたら…魔界が繰り広げられても何の不思議もないのかもしれません。慈愛だとか優しさだとかの感情が枯渇してしまったとしても誰もそれを責めることは出来ません。秩序を成り立たせたくても、秩序を形作る自律性さえ失われていくのです。そこに描き出された世界観は混沌だけに支配された恐怖がうごめくばかりのものでした。奥田瑛ニ監督作品ということで期待して劇場に足を運んだのですが、全編のほとんどの場面が、ハードポルノまがいの性描写と目を覆いたくなるような(殺戮現場をも含む)暴力シーンで埋め尽くされていたのです。sex&violenceも一つのテーマになっているのでしょうから、仕方ないのですが、そのリアルさに気分が悪くなるほどでした。あまりにも現実離れした極端な状況を描いているので、役者さんたちの演技の巧みさにも拘らず、しばらくは、何の感情移入も起こらないまま、気分は徐々に重苦しくなるばかりで、うんざりした思いはどんどん募り、心は暗澹とした渦で真っ黒になってしまいました。ところが、抜け舟が成功して、豊菊と喜三郎が江戸に着いてからの、時間配分から言えば、本当に少ない割合しか与えられていない、終了間際のほんのわずかな時間の映像は、あの八丈島での混沌が嘘か虚構であったかのように、一転して、近松門左衛門の浄瑠璃の世界のような様式美に彩られた美しさを放ち始めるのです。そうです。美しい秩序が蘇ってきたのです。ここから先はこうなるだろうという予測どおりの筋書きで物語りは進んでいきます。けれど、最後の最後に、これは単なる豊菊と喜三郎の情愛を描いた‘心中物’としての終結だけで幕を閉じる映画ではないのだということが分かってきて、(筋書きに伏流が見えてきて)内容に一段と深まりが増します。(予測外の展開でした。)喜三郎は豊菊を通して‘闇’を見ていたのです。追っ手に追い詰められ、もう逃げられないと分かった瞬間に、喜三郎は‘闇’の正体を掴みます。「自分が本当に求めていたものはこの闇だったんだ。自分は死に場所を探していたんだ!本当の祝言はあの世までお預けだ。」と豊菊に別れを告げながら、(喜三郎は、豊菊に自由を与えたくて、豊菊に逃げるように言います。一瞬でもいいから自由に生きるように諭します。)追っ手の集団と闘うだけ闘った挙句にお縄に掛けられて、まるで、磔にあったキリストのような姿で死んでいきます。死と隣り合わせの容赦のないギリギリの生は本当に残酷なものです。(映画の冒頭で描かれる、ぶっころがしの刑の場面などは怖くて息が苦しくなるほどでした。)一方、豊菊はと言えば、逃げるどころか、喜三郎の最後を呆然とした恍惚の表情で(もう一度、映像をなぞってみることは出来ませんが、実際はどうだったでしょう?これは、私のイメージにすぎないのかもしれません。)見届けます。そして自分も結局は命を永らえることは出来ない結末を迎えます。けれど、喜三郎に必要とされたという幸せを胸に死んでいきます。松阪慶子演じる豊菊の最後の表情が圧巻で素晴らしいです。あの表情こそ、人を愛し人に愛された女性の至福の表情以外の何ものでもありません。観ていて幸せな気分になれるような映画ではありませんが、奥田監督の力量に感服せざるを得ない映画でもありました。映画 『るにん』 公式サイト

ためてはいけない!

2006年01月20日 | 日々の泡
一般的には、消費よりは節約の方が堅実な感じがします。貯えに対して消費量が過ぎると生活にも破綻をきたしてしまいますから…。ただあまりにもチマチマチマチマしていると、お金の節約は出来るかもしれませんが、気持ちや精神の柔軟性も一緒に節約されていってしまうような気がします。実は、この辺のバランスはそんなに簡単なことではないようなのです。貯め込むと、心も身体も重くなってしまうのだそうです。正負の法則めいたものが絡んでいるようです。お金ばかりでなく、知識や愛情を始めとするさまざまな感情も溜め込まずに開放していったり、あるいは他者に還元していったりする方が、水源はますます豊かになっていくようなのです。買い物をする、人に話す、日記を書く(ブログは、匿名ではありますがオープンな日記ですからとてもいいことになります。)、映画を観て涙を流す、あるいは大いに笑うなどの行為がとても大切なようです。確かに、物事は循環させていくこと、一所に留まらせずに流れに乗せていくことが大事ですよね。そうでないと、停滞させたものは古くなって濁ったり腐ったりしてしまいますから、結局は使えなくなってしまいます。抱え込まない、開放的な気持ちを持つように心がけようと思います。

無料着メロ

2006年01月19日 | my favorite・・・
無料とは言っても、無料であることと引き換えに、こちらにとっては必要のない情報を大量にじゃんじゃん送信してくる‘無料着メロ’が多い中で、正真正銘の優良無料着メロサイトがこちらです。無料であるだけに、自分の欲しい楽曲がくまなく揃っているということはないでしょうが、もし気に入った曲が見つかれば、音色も悪くはないので、利用価値の高い、なかなかに有難いサイトだと思います。すぐに携帯に送信できるような至れり尽くせりの配慮も行き届いています。よろしければ、一度、是非活用してみてください。 愛メロ♪無料和音着メロ!

1月のお花

2006年01月18日 | my favorite・・・
今月のお花は、バラとガーベラのコラボレーションです。淡い色合いが見事に溶け合って、優しく柔らかいニュアンスを醸し出しています。まだ、冬真っ盛りなのに、「もう直ぐ春が来るんだなぁ~」そんな気持ちになりました。今回、届けられた画像は3枚ありましたが、左の接写の画像が特に素敵でした。アレンジメントのお花には、昔ながらの古典的な生け花とはまた違ったモダンさを感じます。毎回、ファイルを開くのが本当に楽しみです。ファイルを開く瞬間の‘ドキッ’とする気持ちは、友人からの何よりのプレゼントです。

オリジナルバージョン

2006年01月17日 | 読書
『すらすら読める養生訓』という本を読みました。貝原益軒の【養生訓】を分かりやすく解説した上で著者の考察を加えた、親切で分かりやすい本です。【養生訓】の一節にこんな文章があります。「年老いては、わが心の楽の他、万端、心にさしはさむべからず。時にしたがひ、自楽しむべし。(年をとったら、自分の心の楽しみのほかは、何事にも心を向けてはいけない。その時々によってみずから楽しむがよい。)」というものです。このくだりは究極の一節で、ここに至るまでには、細かいもろもろの注意事項が書かれてあります。★年をとって子に養われている人は、若い時より怒り易く、欲深くなり、子を責め、人をとがめて、晩年の節操を保たず、心を乱す人が多い。とか★年をとってからは、一日を十日として日々楽しむがよい。つねに日を惜しんで、一日も無駄に暮らしてはいけない。世の中のありさまが自分の心にかなわなくても、それは凡人だから仕方のないことと思い、自分の子どもをはじめ他人の過失をなだめ許し、とがめてはいけない。怒ったり恨んだりしてもいけない。~中略~一日も楽しまないでむなしく過ごすのは、愚かなことというほかない。とか★過ぎ去った人の過失をとがめてはいけない。自分の過失も何度も悔やんではいけない。人の無礼で道理に合わないことも怒り恨んではいけない。とか★年を取ると気が少なくなるから気を減らすことを避けなさい。とか★年老いたら、だんだんと事を省いて少なくするのがよい。事を好んで多くしてはいけない。好むことがいろいろあると事が多くなる。事が多いと心労が重なって楽しみを失う。とかのことが、自身の体験談を踏まえて具体的に記載されています。けれど、【養生訓】は江戸時代の、しかも貝原益軒という一人の個人の人生観であり老境についての考え方ですので、戸惑う部分や到底納得できない箇所も多々ありますが、閉塞感が蔓延する今の時代に、この書が多くの人々に読まれているからには、人の心を惹きつける真実が随所に隠されているからだと思いました。こうした境涯は何も老境に差し掛かった者だけのものでもないのではないでしょうか?IT関連の仕事に携わる人などで、30才そこそこでセミリタイアー生活を欲しいままにしている人も存在するご時世です。年がいくつであろうと、如何にして生きていくかという命題は、その人となりを決定付ける最重要課題になるはずです。老境に入ったら、何を楽しむにも愛するにも、自分なりのオリジナルなやり方でやればいい。それを発見することがまた老境の楽しみであり、それを誰はばかることなく自由自在に出来るのも老境のおかげである。老いを楽しく生きるとは、そうした生き方のオリジナルバージョンを見つけ、それを行うことだと説いているのです。やっぱり健康で長生きしなければ、こうした折角の楽しみを棒に振ることになってしまいそうです。すらすら読める養生訓

同行二人

2006年01月16日 | 日々の泡
【どうぎょうににん】と読みます。四国巡礼のお遍路さんなどが、その被る笠に書きつける言葉で、弘法大師と常に共にあるという意味を表わしています。この言葉を知ったのは、神田橋研究会で、神田橋先生がしばしばこの言葉を使われていた時期があったからでした。元々は、四国巡礼のお遍路さんが使っていた【専門用語】だったのだとは思いますが、この言葉に含まれている深い意味合いが、精神療法のあり方とリンクするところがあるからなのでしょうか…精神分析の分野でも、この言葉を引き合いに出される先生方も少なからずおられます。同行二人という言葉のイメージが喚起するものは横並びに、同じ方向を向いて、同じ目的に向かって(精神的に)支えあって歩く二人の個々の人間の姿です。二人一組ではなく、一人一人の個としての歩みは別個のものなのだけれど、その二人は一つのうっすらとした膜で包まれているから、(この膜は薄いけれども、弾力性があって、容易に破れるような軟弱な質のものではありません。)孤独なだけではないというものです。けれど、これは、あくまでも私の抱くイメージにすぎません。やはりお遍路さんが愛用する言葉だけあって、宗教的で・ストイックで・寂しく切ない響きだなぁ…って思います。‘道行き’という言葉にも繋がるような、後ろのない感じ…‘背水の陣’とも違いますが、お気楽さとは程遠い‘やるせなさ’が伴った言葉のような気がします。ただ不思議と、冒頭の画像のような、ひっそりとはしているけれど凄みのある華やかさが似合う言葉でもあるとも思うのです。幸せな二人連れを同行二人とは言わないでしょうから、(白装束がそれを物語っています。)少なくとも、二人のうちの一人は幸せではない状態にあり、もう一人がその困難を支えている構図が想像されますから、辛い言葉と感じるのかもしれません。

←この笠です。

聞香

2006年01月15日 | 読書
【ききこう】とも【ぶんこう】とも【もんこう】とも読みます。意味は、「香りをかぎ味わうこと。また、その香りをかぎ分けること」とあります。香りをかぐことを香りを聞くと表現したところに、この言葉を考え付いた人の見識の高さを感じます。江戸時代に生きた神沢杜口という人の「翁草」という随筆に「香は気をやしなひ、心をいさぎよくす」ということが書かれてあるそうですので、日本におけるアロマテラポーの源流がこの当たりにも偲ばれます。今までは、アロマとはまったく無縁の生活を送っていましたし、今回も、自分からアロマに積極的な興味を抱いたわけではありませんでしたが、いつの間にか、スッカリ私の生活の必需品として、アロマはなくてはならないものになってしまいました。アロマは、一般的には、香を愛(め)で、ストレスを軽減し癒しをもたらす…などの効用があるのでしょうが、私にとっては、優雅な趣味の領域で愛用するようなものではなく、私の生命を維持し存続させる(健康の保持増進と病気の予防)ための、手放すことの出来ない強力な魔法のお守りとなってしまっているのです。
足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ

SST

2006年01月14日 | 日々の泡
Social Skils Trainingの略で、社会生活技能訓練とも言います。この技法がアメリカから輸入され登場した当初は、私などは、こんな子供だましのマニュアルは一日も速く廃れればいいと不謹慎にも考えていた口です。生活というものは曰く言いがたい味わいで流れていくもので、生活のある場面を切り取って、人との交流の仕方を‘技術’としてあるいは‘技法’として学んでいくなどということが功を奏するとはとても考えられなかったからです。ところが、時の経過と共に、精神医療や福祉の現場においてSSTは絶大なる人気を博し、今では押しも押されもされぬ地位を確立してしまいました。しかもどんどん拡大発展して留まるところを知りません。私はマニュアルや技法を疎んじすぎているから、何事に対してもあまりにもアバウトで、その場しのぎに生きているから、だから人間関係能力が向上していかないのでしょうか?アサーティブトレーニングとか、何とか訓練とかが花盛りの昨今です。
SST普及協会
アサーティブジャパン どんな講座があるの
IFF講座(アサーティブトレーニング

10年ぶりの再会

2006年01月13日 | 日々の泡
とある場所で仕事上の相談関係にあった人と10年ぶりに偶然出っくわしました。あっという間に10年分のあれこれがタイムスリップし、その空間が一時、10年前に逆もどりしていました。懐かしい。とにかくすべてが懐かしいのです。その人は、ただの一介の仕事上の関係にあっただけの私の名前をフルネームで覚えていてくれたのです。名前を覚えていてもらえるということ自体が、通常はとても嬉しいことですが、10年の時を経ても、ある人の記憶の中に自分の存在が埋もれていて、ある瞬間にそれが再び蘇りうることもあるという‘奇跡の時’を体験しました。神様から昨年の年の瀬に、私仕立てのちょっとホコリのかぶった粋なプレゼントを贈ってもらった気がした一日があったのです。

量子力学理論

2006年01月12日 | 読書
量子力学(量子物理学)理論に基づいて書かれた、ディーパック・チョプラ氏の著作を読んでいると、‘量子の場’とか‘量子のスープ’いう言葉が度々出てきます。この本は、大変、平易な言葉で書かれたものですが、言葉は平明でも、理論自体は極めてスピリチャルで奥深い概念で構築されていますので、私などは、ほとんど、その骨格を感覚的にしか捉えられないのですが、そこには、読者に理解を促すための幾つかのキーワード(センテンス?)が繰り返し登場します。【与えることの法則】【望んでいるものを引き寄せる‘磁石のような力’】【沈黙・瞑想・裁かないことの実践によって生まれる純粋な潜在力】【自ずから生まれる適切な行動=あらゆる状況が起こっている時の、それにふさわしい反応】【防衛しないこと】【何かをコントロールしたいという気持ちを放棄する】【執着を捨て、あらゆるものの見方に心を開く】【意識の中に秘められている2つの要素(注意と意図→注意はエネルギーを生み、意図は変容をもたらす)】【結果に執着しない願望】そして極めつけは、【不確実さの知恵→ここには既知の価値観からの自由がある】これらの言葉が寄せては引き、引いては寄せる波のごとく、読む者の潜在意識に忍び込んできます。どのキーワードにも深い洞察と意味づけがなされていますが、私には、この【不確実さ】が一番の試金石であり踏み絵でした。氏は、安全さを求めることは実際には極めて儚いことだと説明していますが、このことの解釈が、ずいぶん長い間、私には納得がいきませんでした。安全を求める気持ちが強すぎたからです。でも今では、その気持ちは過去の条件付けと不安から来ていたことだと分かります。安全性と確実性の追求は、実際には、既知のものへの執着だったのだと思います。過去の価値観にしがみついている限り、自分の生き方にも進化は望むべくもないということが、この頃、ようやく理解できるようになってきました。不確実さを許容できるということは未知なるものに心を開く余裕を持てることでもあるのだと思えるようになったのです。あとは、意図と願望でさえも、我が身から手放し、解き放ってしまってもいいのです…というか解き放っってしまった方がいいようです。意図と願望にさえ執着しなくてもいいのです。最後は宇宙の意思がすべてを組織化してくれます。私たちは、その奇跡を待っているだけでいいのです。 人生に奇跡をもたらす7つの法則