仕事で、昨今の小さいお子さんを持つ母親の心理傾向について、ある方から、お話を聞く機会がありました。少し前の教育を受けた母親層の人は、「子育てにおいても人には迷惑をかけない」「分相応の生活態度で暮らす」というようなことを当たり前のこととしてきたけれど、今の母親は、「子育てとは他人に迷惑をかけても仕方のないもの」「子どもを連れてディズニーランドにも行きたい!」と思うことを当たり前のことと考えているという、世代別の考え方の違いを語ってくださいました。聖子ちゃん世代は、結婚していようといなかろうと欲しいものはすべてを手に入れなければ気が済まないのです。(私個人は、聖子ちゃんの生き方も嫌いではありません。)語ってくれた人は、後者のあり方に対して、暗に批判的な考えをお持ちのようでした。仕事でなら、そういう風潮を理解しようと努力もするけれど、一個人に戻れば、到底、共感も出来なければ、むしろ白い目で見てしまうとのことでした。話はヨン様の話題にまで拡がっていったのですが、「冬のソナタ」は10分と観ていられなかったそうです。確かに、「冬のソナタ」は「良かった」という人と、「どこがいいのか分からない」という人の層が真っ二つに分かれています。その方は、ヨン様のどこがいいのかも分からなければ、ディズニーランドにも何の興味もないそうです。しかも、たまたま、高円寺の阿波踊りの話題も出たのですが、あんなものちっとも見たくもないと淡白に言われました。私は涼しい顔で、「ふ~ん…」と頷いていましたが、内心は冷や汗ものでした。なぜなら、私はディズニーランドにも興味があるし、阿波踊りにはつい最近、ノコノコと出かけてきたばかりだし、「絶対、他人には迷惑をかけない。」と誓ったこともないし、「分不相応な生活もしてみたい!」と思う方だし(それでいて、筋金入りのドケチであることを無性に楽しんでもいる変人だし…)「冬のソナタ」の世界に夢中にもなった口だし、ヨン様のことは好きでも嫌いでもどっちでもいいと思っているし、もっと言えば、すべてのことは人それぞれでどっちでもいいと思っている人間だし…自分と違う世界観を持っている他者のことを恨んだり排斥したりする前に、きっと、ちゃっかり、その他者のことを、私の視野から外してしまっているだろうし、人のことは本当にどうでもいいと思い込もう(ここがミソですね。本当は小心者で、内心では気にもなったりするのです。)としている人間だということを再認識してしまいました。私も相当に、自分の殻にがんじがらめになっている不自由な人間だと思っていましたが、それ以上に、自分の殻の価値を疑ってみることもせずに、殻をドンドン強固にしていく人もいることを知って、思わず、わが身のあり方を再度、振り返ってしまいました。自分を縛ってしまう元凶は、他者ではなく、自分自身そのものなんだということを目の当たりにした、気持ちの落ち着かないひとときでした。
今年の夏のお祭りはこれが、本当に本当の最後です。「夏は終わった!」と自分に言い聞かせ、浮かれ気分にケジメを付けて、後ろ髪を決して引かれることなく、この季節を自ら潔く締めくくるためにも、お祭り三昧だった、今年の夏の終焉を、「高円寺の阿波踊り」で勢いよく気分を盛り上げ、お祭りというハレの持つエネルギーをしっかりと脳裏に焼き付けようと思い、高円寺に出かけました。(ふ~!何という前口上の長さ!くどい文章なら、私に任せてください!自慢にもなりませんが、私の専売特許です。)この日は、道連れもなく、たった一人の冒険旅行となりました。開始時間の数分前に駅に到着した頃は、それでも駅前ロータリーはまだゆったりとしていましたが、おまわりさんが随所随所で通せんぼの役割をしていて、歩行者は一方通行で進むしかありませんでしたので、そのようにしていたら、いつの間にか、見当違いの方向に歩いていることに気づきました。どちらを見回しても、人・人・人なのですが、何故か、その人の流れに規則性がないので、どこを目指せばいいのかがにわかには掴めませんでした。そこからの行動は直感だけが頼りでした。「多分こっちの方向だろう…」今までの私なら、ただウロウロしているだけで、どうしたらいいのか見当もつけられず、かといって、電信柱に登るほどの勇気もなく・機転もきかず、途方にくれているだけだったと思うのです。ところが、何だか本当に不思議でたまらないのですが、すいすい歩いていくうちに、あっと言う間に最前列のスポットに立っていたのです。「こんなところに居座って怒られないかなぁ…」と少し気持ちが逡巡していた時に、そこに座っていた人が、しぐさで「あっちの方がいいよ!」と指し示してくれたのです。「どうして…こう上手くいっちゃうんだろう?」あり得ない事なのですが、遮るものが殆どない場所でエネルギッシュな踊りの数々を堪能することができてしまいました。最後まで観ていたい気持ちはやまやまだったのですが、7時半頃には帰ることにしました。その時間なら、駅もすいているだろうと判断したのですが、思い違いもはなはだしく、駅は大変な大混乱でごったがえしており、切符を買う人、構内から出てくる人、構内へ入る人を分けるために、駅員さんが人々の流れを三層にロープで仕切っているほどでした。気を落ち着けて、構内へ入る人の流れに加わり、ほどなく無事に改札を抜けると、待っていたかのように電車が滑り込んできました。気功の先生がよく話されるのですが、例えば、車に乗っていて、駐車場を探そうとするとすぐ見つかるとか、何かを意図すると、何気なくその状況が目の前に現れるというようなことで、自分の今のあり方をチェックできるのだそうです。先生は瞬間・瞬間がそんなことの連続だそうです。色々なことがスムーズに流れていくのであれば、今の自分のあり方はOKと判断していいようです。もちろん、すべてのことがそんなに都合よくいくわけはありません。歩く度に信号が赤になるというようなことにも、私たちはしばしば遭遇するわけですし…。ただ、何となく運が悪いと感じたら、チョッと自分の内面に目を向けて、「どこが悪いんだろう?」と考えてみることが、ずれてしまった循環を好転させることの助けにもなるようです。そういえば、この頃の私は、何も考えずに、何かに身を任せるように行動していることが多い割には、私の身の回りの様子や起こってくることをじっと観察するようになってもいます。良いことも、あまり良くないことも、「こうやっていろいろな現象が立ち上がってくるんだ!」と知ることは、現実を対象化して、眺めることの第一歩となります。こうした態度を持つように心がけると、少しだけ余裕が生まれるようです。お祭りという激しくダイナミックな現実の中で、静かに、自分の行動を観察している「もう一人の自分」を感じていました。架空の町を彷徨っているような不思議体験は冷めた興奮を伴った楽しさに満ち満ちていました。8月最後の週末の夜はこうして夢のように過ぎていきました。
取り立てて書くことは何もありません。表情が次々と変化する画像で、チェ・ジウの美しさとその魅力を満喫してみてください。私は、芸能界の人で、誰かを素敵だと思ったことはあまりないのですが、ジウ姫だけは例外です。彼女は颯爽としているのに、お茶目で、周囲を和やかにする雰囲気をも感じさせてくれる人です。彼女のそういうところが大好きです。もちろん本人を知っているわけではないので、あくまでも映像から伝わるイメージだけで判断しているに過ぎないのですが、彼女が現れると、周りの雰囲気がさ~と華やかになるのは確かです。本当のスターなんでしょうね!
それほど欲しかったわけではないのに、何故か買ってしまった一足です。色合いは何とも表現しがたいものです。茶系とも言えますが、そこに鉄だか銅だかの金属系の色が少し加わっているような色とでもいえるでしょうか?写真は比較的、そのままの印象を伝えていると思います。メッシュであることと、すごく華奢で、履いた直後はあまり履いている感じがしないのに、だんだん足に張り付いてきてぬげにくくなることと、かかとが極めて低いため、地べたを踏んで歩いているような原始的な感覚を持てるところに惹かれています。それから、リボン結びが付いていることでポイントがぐ~んと上がったことを付け加えておきます。リボンやフリルやレースや透ける素材にはメロメロになってしまう私なので…
浅草に遊びに行く時には、必ず立ち寄る靴のお店があります。夏ならサンダルが、冬ならブーツが全品¥2100均一です。もちろんもう少し高価な品揃えもありますが、そちらは、何となく垢抜けない…というか、趣味に合わないので、そちらのコーナーには目が向きません。ただ、あくまでも¥2100は¥2100なりの価値の品物ということになるとは思います。が、oneシーズンで履き潰してもいいと思えるならば、それはそれなりに楽しめます。「安物買いの銭失い」は真っ平ら御免という方にはお奨め出来ませんが、ちょっとポップでファンキーで不良っぽい雰囲気を味わってみたいという遊び心をお持ちの方なら、是非一度試してみてください。お店には溢れるほどの履物類が置いてありますが、今回は、私の手持ちの2足のサンダルをご紹介します。
今年で25回目になるそうです。夏休みは毎週、毎週どこかで何らかのお祭りが開催されていましたが、とうとう夏休みも最後の週末となり、賑やかで陽気なサンバの大行進が雷門通りを闊歩する浅草サンバカーニバルが火蓋を切りました。今年の夏は、私も混雑と喧騒にもみくちゃにされることを覚悟で、幾つかのお祭りに繰り出してみました。サンバカーニバルの開始時間は1時半からなのに、私たち一行はゆっくりと、夕方4時ごろから、見始めたため、人垣に遮られて、最初は音が聞こえてくるだけ…の状況の中で、人並みに押されているだけでしたが、同行者がこういうときの切り抜け方に詳しい人だったので、ちょっとした隙間からするするすると最前列に出るコツを教えてもらえたので、誰にも咎められずに、あっという間に特等席を確保でき、次から次へと現れるサンバの行列に興じることが出来ました。花火見物の時もそうでしたが、見栄えのいい写真が取れるコツを掴めるようになるのは、2度目以降ですね。デジカメ写真はさっぱりでした。上に記載した写真は吾妻橋付近の交差点で写したものです。
この世で起こってくる事象って…事象そのものもそうですが、その事象に伴って生起してくる、例えば、人の気持ちやさまざまな経験がもたらす感慨なども、あると思えばあるようでもあり、ないと思えばないような気持ちにもなってしまうことって案外多いですよね。「確かにあるんだ!」と思うことも、「イヤイヤあるようでないんだ!」と思うことも、この両者は正反対に位置しているようでありながら(片方はpositiveな捉え方であり、片方はnegativeな考え方のように見えますが…)いずれの思い方も結局は、同様の次元での同様な構え方であるような気がしませんか?物事はあるのかないのか、本当のところは人智では‘計りかねる’、というか‘計り知れない’もののような気がします。あるとも決め付けず、ないとも断定せず、ある場合もあれば、ない場合もある…どちらとも分からないままに、そう!今、分からないことは分からないままに、ただ、そこに起こってくる現象を静かに眺めていられたら…宇宙の奇跡に触れられるようになるのかもしれません。が、そのこともやっぱり本当のところは分からないことですよネ。ある方が、その著書の中で、面白いことを言っていました。精神レベルに応じて、その人に相応しい現実が起こってくるので、Aの道を選ぼうがBの道に進もうが大きな違いはないと。どちらの道を選ぶかで幸不幸が決まるのではなく、精神レベルの違いによって、選ぶ内容や段階がおのずと異なってくるという考え方に触れた時には思わず膝を叩いてしまいました。‘目から鱗’が落ちたのです。本当にその通りだと、私も思いました。
21日の日曜日の夜に、日テレで、『Tokyo美人物語~本当のキレイを探す旅』という番組を放送していました。私の大好きな、韓国のトップスターのジウ姫ことチェ・ジウをお目当てに、この番組にチャンネルを合わせました。彼女は本当にキレイで素敵です。明朗快活で自然体で伸びやかで…彼女の姿を眺めているだけで、私はとてもにすがすがしい気持ちになれるのです。チェ・ジウを筆頭に、番組の進行役である4人の女性ナビゲーターたちが、各界の、選ばれた女性たちに次々に、「あなたにとっての、本当のキレイとは何?」とテンポ良く、問いかけていきます。けれど、予定調和…を破るような、斬新な答えというものは、なかなか出てくるものではありません。そんな中、演出家である蜷川幸雄氏の娘さんである、蜷川実花さんの答えが、私の気持ちを捉えました。「自己ベストを更新し続けること」というものだったからです。何事もそうですが、人と自分を比較しても何も始まりません。そんな努力は不毛ですし、徒労に終わるだけです。ある人に憧れたり、ある人の言動をお手本に、模倣から何かを始めたりすることはとても大事なことかもしれませんが、やっぱり、自分は自分でしかないので、かけがえのない自分が、自分としてどのように進化していくか…ということに照準を合わせていくしかないと、私は思っています。「自己ベストの更新」なんてなかなか出てくる言葉ではないですよネ!蜷川実花さんは自分の力で、自分のオリジナルな行き方を工夫してきた人に違いないと…感じました。
今までは、‘思考と感情’が、私の生きづらさの元凶であると、薄々は気づいていながらも、それが長年慣れ親しんできた私そのものでしたから、‘思考と感情’を私の身から、引き離して客観化できる可能性についてなど、思いを巡らせたことすらありませんでした。ところが、本当に、つい最近、長いこと、私自身を呪縛して、身動きできないほどに、私を苦しめてきた‘思考と感情’というものの正体に、突然、直面する体験を持つこととなりました。そんな時、あなたから予期せぬメールが届いたのです。前回、お会いした時から日にちを数えれば、もうすでに2ヶ月以上の時間が経過していました。2ヶ月以上もの空白を成すすべもなく、ただ安穏と、ひたすら何かの重圧に耐えてきた自分の心模様を思うと気が遠くなるようでもありましたが、それでも、私の気持ちは、自分でも驚くほどに前だけを向いていたのです。今までなら、こうはいかなかったと思います。今までの私だったら、心の中で繰り返す言葉は、「何故?何故?何故?」だったはずです。どんな事象にもまずは理由を求めずにはいられない悪癖が顔を持ち上げていたはずですし、ついでに、他者の心の(分かるはずもない)中身までをも詮索し始めていたはずです。ところが、今回はまったく違っていました。私は、私をいたぶり、貶めようとする‘思考と感情’を完全に無視することが出来ていたのです。そればかりか、私の存在を思い出してくれた人への感謝の気持ちで胸が一杯になってもいたのです。会いたい人に会うことに、もはや何の理由も必要ありませんでした。これまでなら、会えることの喜びよりも、会ってしまえば、すぐ次に襲ってくる別れの悲しみや虚しさや次に会えるのはいつだろう…というようなもろもろの雑念に心が奪われてしまって、「今、この時の幸せ」というものに向かい合うことすら覚束ない私だったはずです。無限地獄を彷徨うような苦渋を味わいながら、‘今’ ではない、幻想の中の時間や気持ちへの執着にがんじがらめになっていたはずです。ところが、今回ばかりは、いつもの私がどこにも見当たりませんでした。一体、何が起こったというのでしょう?突然にも、私の何かが、長年の金縛りから解き放たれたとでもいうのでしょうか?この心境の変化がただただ不可解で、摩訶不思議な心持ちでした。過去や未来への拘りにしがみつこうという気持ちの一切がこそげ落ちてしまっていたのです。(今までは、実体のない‘過去’や‘未来’に何故か縛られていたのです。)‘今’を生き切るほどの、人生の達人には、まだまだ程遠い私ですが、どんなに頑張っても、明日にならなければ解決できないこともある。逆に、明日になれば、何の努力もなしに解決出来てしまうこともある、というようなことに、最近では、気づくようにもなっていました。どんなにやりたくなくても、気が進まなくても、今しかやれない、今だからこそやれる、言い方を替えれば、今だから、やらせてもらえることもある、というようなことを考えるようにもなっていました。だからなのでしょうか?久し振りに、あなたと共に過ごした、たったの1時間半の時が、振り返ってみると、私にとっては‘永遠’にも匹敵するほどの‘至福の時’だったことを実感出来たのです。あの時間の中にいた私は、本当に幸せだったし、純粋に、‘嬉しさの塊’だけの存在でした。私を取り巻く現実は何も変わっていないというのに、私という現実の何かがほんの少しだけ仕組みを替えた…というようなことなのでしょうか?でも、チョッと心配なのは、私はどこかで無理をしているのではないだろうか?ということです。こんな殊勝な気持ちが長続きするものだろうか?ということです。けれども、あなたと過ごした時間の中の、一点の曇りもない楽しさの体験は、例えてみれば、宝石箱を開けた瞬間に、周囲に飛び散る、眩い煌きにも似た、私にとっての‘かけがえのない宝物’だったということも、紛れもない真実だったのです。だから、今までとは違う時間を生きられた自分も、確かに存在していたという現実を信じてみようと思います。厳しくて、容赦のないあなたに背を向けずに(思考や感情は「ついてなんかいかれな~い!!」と悲鳴を上げながらも【ついて来い!なんて、一言も言われたことはないのにネ!】、感覚や直感はあなたから片時も、離れることが出来なかったのです。)‘縁を切りたくない’という一念でここまで歩いてきたからこそ、こんなにも自由な眺望が突然、目の前に開けてきたのかもしれないと思ってもいるのです。
歯周組織の破壊を引き起こす過度な咬合力によって(歯軋りなどが誘引になるようですが、就眠中の歯軋りは自分でコントロールできるものではないので困ってしまいます。)著しい歯の動揺を引き起こす状態に陥ってしまいました。突然の激しい歯の痛み(拍動痛)で目が覚めました。(昨晩までは何事もなかったのに…です。)炎症が治まらないと、麻酔も効かないので(…だそうです!)、当座は痛みを止めるための積極的な治療は出来ないのです。痛みを抑えたくても、炎症部分に抗生剤を塗布しようものなら塩で揉んだような痛みが増幅するだけとのことで、噛み合わせによる外傷を少しでも緩和させるために、歯を少し削る以外のどんな処置もしてもらえずに、1回目の治療は終わりました。次の治療までは、1日2錠、24時間ごとに3日間飲むと、7日間分の効き目が持続するというジスロマックという内服の抗生物質と鎮痛剤だけで様子をみなければなりません。こんなことは初めてでした。抗生物質の効き目は、丸1日半経ったところでようやく少し実感することが出来るくらい即効性のないものでした。鎮痛剤が効いている間はいいのですが、その薬効が切れると、激しい痛みに苦しむ以外のことは何も出来ません。咬合性外傷は医原性(かつての治療による悪しき影響を原因とする)のものでもあるそうですが、口腔内が、私と同じような状態にあったとしても、人によっては、私と同じ状況を引き起こすとは限らない(=何事も起こらない)そうなので、人体の不思議をここでも実感させられることになります。人によって、症状を引き起こしたり、起こさなかったりするわけですから、症例のことを細かくチェックしだすと、ことは免疫学の分野の問題にまで拡大していってしまうそうなので、宇宙の不思議な営みは私たちの身の回りの外界だけに留まらず、個人の身体の中をも含むあらゆるところで起こっていることに気づきます。(フラクタル構造はあちらこちらに縦横無尽に張り巡らされているわけです!) 身体1つをとってみても、このように、人それぞれの身体の中で、絶え間なく、千差万別の現象が満ちては引き、引いては満ちているということになるわけなのですネ!終わりがいつとも知れぬ、随分ひどい痛みが続きますが、やっつけられる一方ではなく、私の中の自然治癒力は、抗生物質や鎮痛剤の力を借りながら、刻一刻と、私の安楽のために働いていてくれているのだと思うと、私の中の‘智恵’を励ましつつ、その力を信頼し、応援したい気持ちがいやが上にも高まってきます。頑張れ!私の中の自然治癒力!