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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

日々移動する腎臓のかたちをした石

2006年01月28日 | 読書
村上春樹氏の『東京奇譚集』という短編集の中の一編の不思議なお話しのタイトルです。淳平とキリエという二人の男女の、短い期間の交流を、都会的な乾いたそれでいて非常に豊かな潤いのあるタッチで描いた作品です。小品ながら佳作でもあります。淳平は、「愛情を適時に適切に具象化するという重要な意味を持つ能力」に自信を持てなくなって、「心は光明と温かみを欠いた場所に沈みこんでいった。」時を過ごしています。そんな時に、ひょんなきっかけでキリエという女性と出会い、ライトな感覚で、どちらからともなく近づき、恋のような雰囲気に浸りながら濃密な時間を共に過ごすことになります。二人には、「ここに来るまでは決して簡単な道のりではなかったけれど、小さい頃からやりたいと思っていたことを職業にしている」という共通点があります。淳平は、「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と言います。キリエは言います。「誰かと日常的に深い関係を結ぶということが、私にはできないの。あなたとだけじゃなく、誰とも」「もし誰かと日常生活を共にしたり、その相手に感情的に深くのめり込んだりしたら、今自分がやっていることに完全に集中できなくなってしまうから、今みたいなままがいい」と。心が乱されるとバランスが失われて、自分のキャリアに重大な支障が生じるかもしれないということを心配しています。淳平は小説家なので、キリエという存在に触発されて、人の目が届かない時に限って場所を移動する腎臓のかたちをした石を題材にした小説を書きます。二人の関係が突然終わるなどと想像も出来なかったのに、淳平が小説を書き上げた途端にキリエとは連絡がつかなくなります。その後、ラジオから聞こえてくるある番組を通して、思いがけずも淳平はキリエの素性と正体を知ることになります。失って初めて、淳平はキリエのことを「他の女性には一度も感じたことのない、特別な感情を抱くようになっている」ことに気づきます。それは「明瞭な輪郭を持ち、手応えをそなえた、奥行きの深い感情」でした。その感情にどのような名前をつければいいのか、淳平には分かりません。「しかし少なくとも、他の何かと取り替えることの出来ない思いだ。」ということに気づきます。「もう二度とキリエに会えないとしても、この思いはいつまでも彼の心にあるいは骨の髄のような場所に残ることだろう。彼は身体のどこかでキリエの欠落を感じ続けることだろう。」ことをひしひしと感じます。これを機に、それまでの臆病だった淳平の気持ちにある変化が訪れます。キリエは彼にとって、「本当に意味を持つ」女性の一人だったということを思い知ります。彼の中にはもう以前のような恐怖はありません。大事なのは付き合った女性の数ではなく、‘いつまでに誰かと何かの関係に落ち着く’というようなカウントダウンにも何の意味もないことを悟ります。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなのだということを理解するようになるのです。腎臓のかたちをした黒い石は小説の中の一つのアイテムなのですが、彼の心を操る重要なツールとして不可思議な動きでうごめき続けます。が、彼の心が定まった時、その黒い石は姿を消し、もう二度とは戻ってこないものとなるのです。石が夜毎、勝手に歩き回るわけはありません。でも、そんなことが本当に起こりうるような心持ちになるのですから、小説家の想像力というものはものすごい威力を持つものなのだと感心します。黒い石は何を象徴しているのでしょうか?私には分かりません。ただ、とても言葉では言い表すことなど出来ない宇宙の拡がりを感じるばかりでした。
村上春樹著 東京奇譚集