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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

自分の存在を許してくれる人

2007年01月01日 | 映画
「暗いところで待ち合わせ」という映画を観てきました。この映画の持つニュアンスに、もうちょっと近いタイトルがあったのではないだろうかと、ちょっと残念な気はしますが、原作の題名がそうなのですから仕方がありません。主人公二人の心の動きを丁寧に描いたサスペンスタッチの気の利いた小品でした。

自動車事故のため、光を失ってしまったために家に閉じこもりがちの女性と、中国からやってきて、どんな環境においても周囲に溶け込めず、うつうつと暮らしている、‘心に闇を抱える’男性との、(ある殺人事件をきっかけに、ある目的のために女性の家に潜んだその男性との)同じ家でのそれぞれの暮らしが始まります。映画の説明書きには二人の共同生活とありますが、共同生活というような体裁をなしたものではありません。

二人の距離感がとてもいいです。彼女にとって、彼はちょっとだけサポートしてくれる人であり、ずっと居場所を探していた彼にとっては、彼女は、彼がずっと探し続けていたものが場所ではなく、「自分の存在を許してくれる人」だったことを気づかせてくれる人として描かれています。

最近の映画が素晴らしいと思うのは、人と人との関係を「べったり」とは描かないところにあるような気がしています。尤も、私が選ぶから、結果的にはそういう映画ばかりになってしまうのかもしれませんが、微かな触れ合い、しかも、息遣いを確かめるようにして、ちょっとずつ、ちょっとずつ相手の感触を感じながら距離を測りながら近づいたり遠ざかったりする関係。相手の気持ちの都合を尊重する思いやりとやさしさがひっそりと感じられて、観ているこちらの気持ちも静かに安定したものになっていきます。

こういう良質な映画を観ていると、どんなに寂しくても、どんなに辛くても、だからこそ、相手に受け入れてもらうためには、一人でも、ここに立っていることのできる(強がりかもしれないけれど…)気持ちの確かさが必要だと思わざるを得なくなります。

暗いところで待ち合わせ

フラガール

2006年12月16日 | 映画
「人生には降りられない舞台がある」この言葉と、TBSの「情熱大陸」という番組の画面に映っていた、蒼井優の不思議な魅力に惹かれて、「フラガール」を見に行ってきました。

松雪泰子や蒼井優のダンスの見事さ・素晴らしさには目を見張ると同時にワクワクするような興奮を覚えないではいられませんでした。いくら女優さんとはいえ、あれだけの踊りをモノにするには、一通りの努力や苦労ではなし得ないことだと思うと、やはり、スクリーンの中で、自分の可能性をできうる限り表現しようとする心意気のある人たちはやることが違うなぁと感心しきりです。

出演者がとにかく皆、素敵なのです。冨司純子など、あんなおしとやかな雰囲気の人がちゃんと炭鉱町のドスのきいた骨のある母親役を演じているのですから大したものです。豊川悦司や岸部一徳などは、他の話題作にも軒並み(?)顔を出していますので、観たいと思えるような映画には同じ顔ぶれが並んでいるというような珍奇な現象が起きてしまっています。それだけ、力のある人が偏っているということになるのでしょうか?

冨司純子が搾り出すように語る台詞があります。「今まで、暗い場所で、歯を食いしばって頑張ることだけが働くことだと思ってきた。だけど、踊りで人を喜ばすようなこともあっていいと考えるようになった。」細かい文言は、こういったものではなかったかもしれませんが、このような趣旨のことを語ります。

社会のお役に立つことや誰からも後ろ指刺されないで済む分かりやすい仕事だけが仕事ではありません。この映画は実話だそうですが、この奇跡の物語の過程には恋、友情、家族、など、人が生きる上で避けては通ることのできないありとあらゆるテーマが重層的に埋め込まれています。そんな中で、仕事とは何かということを考えさせてくれる点が盛り込まれていることも見逃すことはできません。

けれど、あれこれ難しく考える必要もありません。どこかで聞いたのですが、大変という文字には、大きく変化するという意味が含まれているのだそうです。大きく変化するような出来事に遭遇したり体験したりすることが大変でないわけはありません。大変な経過を踏まなければ、大きな充足感もまた得られないことでしょう。

松雪泰子や蒼井優がダンスを踊る時にはいていた真っ赤なフレアースカートが、私には強い意思と自由の象徴のように見えました。綺麗で美しいばかりではなく、「踊る」ということを汚すことのできない神聖な行為として守るための大事な武器に見えたのです。炭鉱町の、すべてが煤けて灰色に写る景観の中で、その赤いスカートだけは一際、その周辺を輝かせるものの象徴として機能していました。しなやかな身体の線―激しくテンポのいい踊りなのに、すべてがとてもゆったりとしなやかに見えるのは何故だったのでしょう。この踊りが、十分な余力を溜め込んだしなやかな生き方を表現するものに感じられたのは私だけだったのでしょうか?

どんなに周囲の反対が強硬でも、その風当たりに負けず、自分の筋を貫き通せば、それが完成した時には、拍手喝采を浴びることができる。仮に、拍手がないとしても、感動を呼び起こすことができる。壮観なフラダンスのうねりの中で、「生きることは(命を燃やすということは)こんなに楽しいことなんだろうなぁ」ということをしみじみと、どきどきと感じさせてくれる骨太な映画でした。

フラガール

かもめ食堂

2006年04月04日 | 映画
フィンランドが舞台の映画です。何故、フィンランドなのかは定かではありませんが、フィンランドが舞台で良かったと思えるような映画です。新聞の映画評や、たまたま目にした、この映画にまつわる感想文には、‘食’の素晴らしさのことが必ず取り上げられていました。確かに、それは、この映画のとても重要な一要素・一主題ではありますが、私には、「美味しい食べ物は人を幸せにする。」とか「食が人生の基本だ。」とかいうような主張が、この映画のメインテーマではないと思えました。これはやはり、人間の自立の物語だと思います。実に無駄のない、硬質な出来栄えの映画です。登場人物の3人の女性たちが、何故、フィンランドに辿り着いたかの説明などは明確ではありません。3人が3人共に平凡ではありますが、一風、変わった骨のある女性たちでもあると思いました。彼女たちのような生き方は出来そうで、いざとなるとなかなか出来ないものかもしれません。けれど、フィンランドという非日常の中においては、どの生き方もそれなりに無理なく共感できるものでした。が、一歩間違えれば、自分を即座に見失いかねない危険な状況に置かれた女性たちであると見ることも出来ます。でも、そんな余分なことを考える必要は、この映画にはありません。3人の生き方を安心して眺めていればいいのです。とりわけ、小林聡美演じるヒロイン役の女性の過不足のない生き方には気持ちが爽やかになるような風を感じました。何故、彼女はあんなに流暢なフィンランド語が話せるのでしょう?フィンランドの言葉は私には分からないので、流暢かどうかも分かりませんが、切れのいい、とても響きの美しい話し方が印象に残っています。フィンランドが舞台…ということは、この3人が置かれた状況が、まるで、言葉も十分には理解出来ない外国で、突然、生活を始めなければならないことと同様なほどの切迫した大変な状況にある…ということの隠喩だと、私は思っています。(ヒロインは言葉が話せる分だけ、準備性が整っている段階にあるといえそうです。)そうした三者三様の厳しい状況の中でも、3人とも相手にべったりと依存するようなことはしませんが、助力を求め、程よい援助は惜しみなく与え合います。かもめ食堂にお客さんが一人も来ない間も、ヒロインは焦ったり落込んだりすることもなく、タオルでグラスを丹念に磨き続け、じっくりと機が熟してくるのを待つことができるような腹の据わった女性です。途中の顛末はすべて省きます。映画の最後のシーンがとてもwonderfulでした。私には、この映画は、この最後のシーンのために作られた映画と言っても過言ではないような気がしました。3人の女性のそれぞれの「いらっしゃい!」という言葉が感動的です。丁寧すぎる「いらしゃいませ!」ちょっとぶっきら棒な「いらしゃい!」そして、飛びきり上等でキュートな「いらしゃい!」です。私にはどの「いらしゃい!」もすべて素敵に聴こえました。ここには、究極の‘おもてなし’の極意(こころ)があるからです。相手を自分の懐に招き入れようとする気概が存在するからです。一人でも生きていく覚悟の出来ている人たちが助け合う姿は本当に清々しい限りでした。この映画には隠されたテーマが満載です。でもさらっと描かれているので、そのテーマに気づいてもいいし、気づかなくても、それはそれで面白い…というふうに重層的な作り方がなされているように思いました。毎日、押すな押すなの盛況振りのようです。主題曲が井上陽水の「クレイジーラブ」というのもポップな感じで良かったです。いい映画は、どうしたってヒットするように出来ているのでしょうネ!かもめ食堂

県庁の星

2006年03月04日 | 映画
仕事と生活とのバランスを天秤に乗せた時の最近の私の気分は…仕事に自分の心情や生活を捧げるようなことは到底出来ないし、したくもない。すなわち、仕事にどっぷり浸かったりのめり込んだりは物理的にも精神的にもしたくはないし出来ない。仕事に従属したくはない…というものです。ひと頃の私は、仕事と生活を切り離して考えることなど無理な相談というほど、仕事をすることは即自分の人生を生き切ることでもあるという感覚で生活していました。天職とまではさすがに考えてはいませんでしたが、丁寧にその時々の自分の気持ちに忠実に仕事に向かうことが即自分の人生を誠実に真摯に生きることでもあったわけです。いつからこんな風に、私の仕事観が変化してしまったのかと言えば、やはり職場異動によって、仕事の中身がすっかり様変わりしてしまってからなのです。この変化が、私に仕事が自分にとってどういうものであったかを改めて考え直すきっかけを、くしくも与えてくれることになったのです。人には誰にでも得て不得手がありますので、どんな仕事に直面しても、目の前の職務を磐石にこなしていくことなど、なかなか出来るものではありません。それが出来れば優秀な職業人として評価されるのでしょうが、人は、スーパーマンではないのですから、すべてのことに精通していなくても別に構わないし、恥ずかしいことでもないと、最近の私は思うようになってしまいました。けれどそうは言っても、一日24時間のうち1/3は仕事をすることで費やしている以上、そこで自分のセンスを生かせるのでなければ、残り1/3の純粋な自分の時間もグレードアップのしようもありません。(最後の1/3は何物にも変えがたい睡眠時間です。) 「県庁の星」は、そんなごちゃごちゃな私の気分を整理するのには最適の映画でした。織田裕二演じる通称‘県庁さん’に象徴される行政と柴咲コウ演じるスーパーのパート職員に代表される民間との対比。それぞれの長所と短所。それぞれの悲哀ややりきれなさが圧倒的な説得力で描き出されていました。(少なくとも、私にとってはそうでした。)‘県庁さん’はスーパーに赴任した当初は、マニュアルがなければ動けないという融通のなさを露呈させます。県庁では生え抜きの若手係長も、スーパーという現場では、‘使えない’し‘固くて’実力を発揮できないのです。描かれ方が極端ではありますが、いかにもという感じがして思わず苦笑してしまいました。が、逆に、スーパーの曖昧な混沌さが含む問題点を文書にして整理し尽し、整然と改革に乗り出していく様もまた、これぞ組織で培われた行政マンならではの手腕と、胸のすく感動を覚えることが出来るのです。古くなった素材に少し手を加えてコストを下げ、もう一度売り物にするという、好ましいやり方ではないけれど、顧客には人気のある安いお弁当作りと、県庁さん提案の、良質な素材を使って、味も吟味した特選弁当との両者のお弁当の売り上げが実際にはどのような伸びを示すかを試してみるやり方を許す副店長(?)の懐の深さには感心しました。そして、その売上高をグラフにして毎月の推移を示していくのです。この結果を見れば、徒な観念論に走ることもないですし、‘今何が必要か!’という現実を誰もがまざまざと感じ取ることも出来ます。組織で緻密に働いてきた人間と民間で叩き上げで頑張ってきた人間とがタッグを組んだ時、本当に目を見張るような成果が結実するのです。それでも‘県庁さん’は出世コースからは外されてしまうという悲哀を背負う結末になります。それほどまでに、個人の適正な努力や頑張りというものも体制側からすれば、些細な一つの動きにしか過ぎないということを画面からまざまざと見せ付けられます。もうすでに計画案が完成してしまっている新プロジェクトのプレゼンの席で、コスト削減案を提出しても、幹部からは「前向きに善処する。」という言葉を貰っただけで、実質的には、見事に相手にされず、改善案はゴミ箱に丸められてしまうという情けない結果に終わってしまいます。(もし、こんなことが本当にあるとしたら、それは行政の怠慢というような問題では済まされな悪質な犯罪行為【予算を過剰に計上するという意味で】だと思うのですが…)けれど、結果がどうであれ、プロセスを見た時、それぞれのサイドの力(潜在能力が隈なく発揮される)を確認することが出来るので、成功物語や英雄物語ではないだけに、小品ながら、なかなか見応えのある映画になっているのです。ただ、織田裕二にはもっとのびのびと楽しそうにハチャメチャに演じて貰いたかったという、ちょっと残念な気持ちが残りました。‘県庁さん’らしく少しお行儀が良すぎたのではないでしょうか?
県庁の星

博士の愛した数式

2006年01月27日 | 映画
数学が提示する深い‘意味’を読み取れない私は、とても残念ながら、この映画の真に優れた核の部分を読み取れないも同然なので、表層的な理解しか出来ませんでした。義姉と博士との複雑な関係や家政婦と博士と家政婦の息子ルートとの時を追って徐々に深まっていく情愛の世界のことも、まさに人物配置や設定の巧みな‘良く出来た映画’を観ている以上の感動は伝わってこないのです。家政婦の靴のサイズが24センチであることに、博士は「実に潔良い数字だ。」と感心するのですが、何故24センチが潔い数字なのかがちんぷんかんぷんだった時、すでにこの映画を、私は理解することが出来ないとお手上げの気分に襲われてしまいました。一事が万事。ここがポイントだと思える箇所はすべて見送らなければならないのですから、あとは分かる部分だけを繋ぎ合わせるだけの情けないものとなりました。ですから、大人になって数学の先生になったルートが授業で、博士と過ごした‘ありのままの日々’の素晴らしさを数式を用いながら回想する、この映画の要とも言えるシーンでも、ガラス張りの向こうの世界を眺めるような白けた気分が付きまとってしまうのです。義姉の頑な心が緩んでいく経過にも説得力が伴いません。深刻すぎても気が滅入る。けれど、辻褄あわせは嘘臭い。この世の真実を、あるカタチで表現するということはかくも難しいことなのですね。こんな複雑で困難なことに挑戦し続けている映画人に敬服しきりです。
映画「博士の愛した数式」公式サイト

るにん

2006年01月21日 | 映画
生きるということの‘ある極限’を描いた映画だと思いました。この映画の中での設定のように、非常に閉塞的な狭い空間の中に押しやられたら、人は誰でもすぐにでも拘禁反応に陥ってしまうと思うのですが、そこにさらに、飢餓や貧困の追い討ちをくらい、これといった娯楽や楽しみもない日々だけを繰り返さなければならないとしたら…魔界が繰り広げられても何の不思議もないのかもしれません。慈愛だとか優しさだとかの感情が枯渇してしまったとしても誰もそれを責めることは出来ません。秩序を成り立たせたくても、秩序を形作る自律性さえ失われていくのです。そこに描き出された世界観は混沌だけに支配された恐怖がうごめくばかりのものでした。奥田瑛ニ監督作品ということで期待して劇場に足を運んだのですが、全編のほとんどの場面が、ハードポルノまがいの性描写と目を覆いたくなるような(殺戮現場をも含む)暴力シーンで埋め尽くされていたのです。sex&violenceも一つのテーマになっているのでしょうから、仕方ないのですが、そのリアルさに気分が悪くなるほどでした。あまりにも現実離れした極端な状況を描いているので、役者さんたちの演技の巧みさにも拘らず、しばらくは、何の感情移入も起こらないまま、気分は徐々に重苦しくなるばかりで、うんざりした思いはどんどん募り、心は暗澹とした渦で真っ黒になってしまいました。ところが、抜け舟が成功して、豊菊と喜三郎が江戸に着いてからの、時間配分から言えば、本当に少ない割合しか与えられていない、終了間際のほんのわずかな時間の映像は、あの八丈島での混沌が嘘か虚構であったかのように、一転して、近松門左衛門の浄瑠璃の世界のような様式美に彩られた美しさを放ち始めるのです。そうです。美しい秩序が蘇ってきたのです。ここから先はこうなるだろうという予測どおりの筋書きで物語りは進んでいきます。けれど、最後の最後に、これは単なる豊菊と喜三郎の情愛を描いた‘心中物’としての終結だけで幕を閉じる映画ではないのだということが分かってきて、(筋書きに伏流が見えてきて)内容に一段と深まりが増します。(予測外の展開でした。)喜三郎は豊菊を通して‘闇’を見ていたのです。追っ手に追い詰められ、もう逃げられないと分かった瞬間に、喜三郎は‘闇’の正体を掴みます。「自分が本当に求めていたものはこの闇だったんだ。自分は死に場所を探していたんだ!本当の祝言はあの世までお預けだ。」と豊菊に別れを告げながら、(喜三郎は、豊菊に自由を与えたくて、豊菊に逃げるように言います。一瞬でもいいから自由に生きるように諭します。)追っ手の集団と闘うだけ闘った挙句にお縄に掛けられて、まるで、磔にあったキリストのような姿で死んでいきます。死と隣り合わせの容赦のないギリギリの生は本当に残酷なものです。(映画の冒頭で描かれる、ぶっころがしの刑の場面などは怖くて息が苦しくなるほどでした。)一方、豊菊はと言えば、逃げるどころか、喜三郎の最後を呆然とした恍惚の表情で(もう一度、映像をなぞってみることは出来ませんが、実際はどうだったでしょう?これは、私のイメージにすぎないのかもしれません。)見届けます。そして自分も結局は命を永らえることは出来ない結末を迎えます。けれど、喜三郎に必要とされたという幸せを胸に死んでいきます。松阪慶子演じる豊菊の最後の表情が圧巻で素晴らしいです。あの表情こそ、人を愛し人に愛された女性の至福の表情以外の何ものでもありません。観ていて幸せな気分になれるような映画ではありませんが、奥田監督の力量に感服せざるを得ない映画でもありました。映画 『るにん』 公式サイト

ALWAYS 三丁目の夕日

2006年01月02日 | 映画
この映画の影響もあってか、昭和ブーム到来の感があります。何故今、昭和か?ということで、昭和33年頃の景観や昭和のあの頃の人々のあり方などがクローズアップされていますが、この取り上げられ方が‘昔は良かった’式の懐古趣味で終わってしまうのだとしたら、この映画が作られた意味が半減してしまうでしょう。‘携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう’というキャッチフレーズが示すように、本当に画面一杯に、生きていくことの喜びと哀しみが余すところなく表現されています。文明の利器がなくても、みんな押しなべて生きることに退屈している様子はないし、どこか(庶民の哀歓を秘めながらも)とても楽しそうでもあります。あんなにステキな牧歌的ともいえる町並みは、今はもうなくなってしまっているけれど、あんなにゆっくり流れる時間や素朴な生活もなくなってしまっているけれど、じゃぁ、あの頃、生きた人々が備えていたものを、今を生きる私たちが失ってしまっているのかといえば、私はそうではないと思っています。今だって、同じ心を同じように持ち合わせているはずです。「俺とお前は縁もゆかりもないただの他人なんだぞ!」何かというとそんな言葉を口にしながらも、吉岡秀隆演じる茶川竜之介は親に捨てられた淳之助役の子役と徐々に絆を深めていきます。性善説や性悪説のどちらか一辺倒では人は語れません。人は状況次第で、いい人にも悪い人にもなりえます。いい人だからとか時代が良かったからという言葉では何も語れないと思うのです。人と人とが固い絆で結びつくには、あるいは深い縁で繋がり合うには、恐らく何らかの仕組みや仕掛けが必要なのではないでしょうか?仕組みや仕掛けは一律のものではなく、ケースバイケースで異なるものなのでしょうが、恐らく愛情深いとか慈悲深いとかだけの理由ではなく、人と人とを、時間という制約を越えてまでも結びつけるための魔法の仕掛けというものがあるはずだ!と、この映画を観ながら、それが何なのかを、私は考え続けていました。それにしても、俳優さんたちの演技がどの人をとっても、ため息が出るほど、本当に素晴らしかった!です。だからこそ、あのwonderful world=夢のようなイリュージョンが胸に迫ったのだと思います。涙あり笑いあり。そして、涙も笑いも共に暖かいのです。
ALWAYS 三丁目の夕日

SAYURI

2005年12月30日 | 映画
この映画を観終わって、映画というものは、現実そのものを写実的に描写するばかりのものではなく、優れてファンタスティックなものなんだということを改めて痛感させられました。日本を描きながら、スクリーンの中に超然として存在していたのは、日本という国のような…でも、必ずしも日本ではなくてもいい、映画の作り手が描く壮大な無国籍的な空想の世界の拡がりでした。しかもこれは単なるシンデレラストーリーでもなければ、芸者の世界の‘謎’を陳列しているお話しでもない、観るものの想像力をかき立てる良質なファンタジーなのだと、私は感じていました。物語の内容そのものに感動するというような映画ではなく、このような運命にさらされた人の思いはいかばかりのものか!というような感情移入を容易に起こさせる吸引力に満ち溢れた映画だったのです。渡辺謙や役所広司など、国際的に活躍している男性俳優にはあまり魅力を感じないほど(役所広司は一途で、その一途さゆえに人を許すことの出来ない堅物な男性像を演じているのですが、今や、そういう男性像には私自身が、全然、魅力を感じないということも、男性陣の存在に惹かれなった大きな理由の一つかもしれないと思っています。)これは女性の生き方の凄まじさに魅了されてしまう映画です。すべての女優陣の迫力ある演技には圧倒され脱帽しましたが、チャンツィー以外では、ミシェル・ヨーという女優さんの独特の優雅な雰囲気に魅せられてしまいました。チャンツィーを一流の芸者に仕立て上げる‘お姐さん’の役どころの女優さんです。また、SAYURIの子役時代を演じた大後寿々花さんの初々しいひたむきさや可憐さも際立っていました。チャンツィーは美しいだけでなく、アクロバティックともいえる動きやしなやかさを身につけている女優さんなので、他の追随を許さない存在感を醸し出せる貴重な存在です。女性の生き方が、どの人をとっても本気ですごかったです。女優さんたちの演技力が生半可ではないからこそ茶番にならずに、一つの世界観が生み出せたのでしょう。この映画の不可思議な魅力のもう一つの側面は、日本のお話しなのに、話される言葉が全編これ英語という点にあります。これが意外に違和感なく、むしろ客観的に、この映画の顛末を眺められる要素にもなっていたことが、この映画にアップテンポな勢いを付け加えていたのだと思います。そして、さらに面白いことには、時々、日本語がぽつっぽつっと聞こえてくることです。これがまたとてもチャーミングで優しい感じなのです。この手法が意識された演出だとしたら、すごく気の利いた技法だと思いました。時々聞こえる日本語の美しさが際立つからです。優しいのにスパイスの効果を持っているということになります。この点も、今までに味わったことのない感覚でした。そして、何より良かったことは最後が悲劇で終わらなかったことです。どろどろした確執のやり取りや不幸な成り行きが繰り返される展開の末に哀れな結末でエンドマークが出るのではやり切れませんので、切なくても、SAYURIの夢の実現が果たされた大団円のまとめ方には救われました。エンターテイメントには希望が大事だと思います。優しく従順なだけでは、自分の人生を切り開いていくことは出来ない。智恵と勇気といい意味での強かさを持ち合わせてこそ、自分の欲しいものの傍に近づくことが出来るのだ…そういう女性こそが魅力的なのだ!と思え、元気を貰うことが出来ました。SAYURI

大停電の夜に…My Foolish Heart

2005年12月13日 | 映画
久しぶりに映画を観ました。群像劇というもので、2~3人の人間の間で起こる幾つかの小さなエピソードがあちこちでリンクしあって全体を一つの物語として構成しているものです。けれど、偶然にもリンクはしているけれど、それはたまたまのものであって、その場その時の‘縁’で終わってしまうものなので、どろどろ感がなくて非常に都会的な雰囲気を演出しています。それにクリスマスイブの夜から明け方までの一晩の出来事を描写しているだけですし…「Foolish Heart」とは豊川悦司のジャズバーの名前です。全編にベースを基調にしたジャズ(「My Foolish Heart」という題名のジャズのようです。その他にも色々な曲が流れますが、ジャズのことは分かりません。)が流れていて、(何しろ停電の夜ですから)蝋燭屋さんの蝋燭が唯一の光として煌きます。いずれの人が抱えているテーマも深いものですが、さらっと描かれていますので、象徴的なおとぎ話しとして深刻な現実味には触れていません。が、私はしみじみとした感慨に耽ることが出来ました。人との関わりを当たり前と思ってはいけないこと…ある関係を一度手放したら、どんなに思いを深く持続させていようとも、もう過ぎ去った時や大切な人は、容易には再び私のもとには戻ってくれない。(人生は無常を常とするから、状況はどんどん移り変わってしまうものなのでしょうね。けれど、また、それが人生の妙味とも言えます…)どんなカタチであっても、‘今’というこの時に、人を‘思える’という事はきっとすごく幸せなことなんだと改めて実感できたこと。それに、どんなに辛くても、愛する人の過去をも含めたすべてを許せてこそ、人と人との優しい関係が成立するのだということ。映画の中の登場人物たちの体験を我が事のように追体験しながら、これらの想念が、ジャズのメロディーに乗って脳裏を駆け巡っていました。
大停電の夜に

NANA

2005年09月07日 | 映画
ナナ 奈々 ↑<携帯ストラップのイメージ図> 左側は大崎ナナバージョンで右側は小松奈々バージョンです。ストラップ
←上映館で購入した
小松奈々バージョン
携帯ストラップ




単行本が13巻で2500万部のヒットを飛ばして快進撃を続けているマンガ「NANA」が映画化されて公開中です。朝日新聞の朝刊でも大きく取り上げられ、香山リカ氏・藤本由香里氏(彼女は確か、少女マンガの評論家としては第一人者の方のはずです。→一度、間近でお話をお聞きしたことがありますが、とても切れ味の鋭い方だった覚えがあります。)・歌人の枡野浩一氏のそうそうたる面々がきちんと、それぞれの視点から、このマンガの魅力を語っていたので、人気の勢いが止まらないこのマンガを映像化したものなら、一見の価値はあるはずと思い、上映館へ足を運びました。大崎ナナと小松奈々…対照的な2人のNANAの恋と友情と彼女たちを取り巻く仲間たちとの交流を生き生きと描いた映画でした。大崎ナナはパンクバンドのカリスマ的ボーカリスト。ファッションは黒と白だけでクールに統一。小松奈々は子犬のように可愛らしくて飼い主に忠実だけれど手がかかってしょうがないと思われがちな恋に一途な女の子。いつもピンクのバラの花のイヤリングかネックレスか髪飾りを付けています。だから、小松奈々バージョンの携帯ストラップにはアンティーク仕様の綺麗なバラの花が付いているのです。この映画を観ての、私の感想(①と②)と補足(③)は次の3つです。①まつげが上向きに綺麗にカールされていて、その上向きのまつげをパタパタさせながら、つぶらな瞳で、いつもいつも夢見ているような表情の小松奈々。こんなに無邪気で悪気のないカワイイ女の子がどうして好きな人に相手にされなかったり、もてなかったりするのかがとても不思議だったということが一つ。男言葉を使い、一見女の子らしくなく、ツッパリ型の大崎ナナ。左の上腕部に蓮(大好きな人の名前が連【れん】だから…)の花の刺青をしているナナ。意地っぱりで、けじめを大事にするために、危うく、大好きな人との関係が終わってしまいそうになったけれど、連の包容力のおかげで最後は悲しい結末にならずに済みます。②連とナナの昔と今を表現するのに、昔の入浴シーンと現在の入浴シーンが描かれるのですが、それが全然イヤらしくないばかりか、妙にリアルな情景だったことが好印象として残っています。そのシーンがあったために、この映画が悲喜こもごものありきたりの青春映画としてさら~っと終わってしまうことなく、幻想的でありながらも切実な現実感を醸し出すことに成功していたような気がして、とても感心しました。昔のバスタブは小さめで、石鹸の泡だらけの中に2人がつかりながら会話をします。現在のバスタブは昔よりは大きく、白濁の入浴剤の中にたくさんの赤いバラの花びらが浮かんでいます。(ナナが浮かべたものです。)若い2人が、今はそれぞれにやりたいことがあるのだから、歳を取ったら一緒に暮らそう…みたいな話をするくだりの場面があるのですが、それが年寄り臭いわけでもなく、むしろすがすがしく潔い感じがして、ポイントの高いシーンだったと思います。入浴シーンをこんなふうに使っている映画を観たことはありませんでしたので、すごく新鮮な感覚を覚えました。そのことが二つ目③最後は、私の最近の趣味のことです。この映画のために作られた携帯ストラップを劇場内で購入することが、映画を観ることと同等の楽しみになっています。今回は小松奈々バージョンのストラップを購入しました。蛇足ですが、大崎ナナの歌う曲がどこかで聞いたことのあるような曲だと思っていたら、やはりラルクアンシエルのhydeの作曲だったと分かり納得しました。確かに、あれはhyde以外の誰の曲でもありません。ファンでない私でも、hydeの曲だってすぐに分かりました。 『NANA』公式ホームページ