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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

midnight_ray_polaris

2007年10月20日 | 至福の花
いろいろありました。本当にいろいろなことがありすぎました。

けれども、不思議なことには、何一つ後悔はしていないということです。

そして、今までの人生のすべては、これからの人生の準備段階だったのだと、この時点で思えることが不可思議でなりません。

良いも悪いも、ここからが、私の人生の本番だと、何故か…思っています。

私は今、かつてなかったほどの光の輝きに包まれています。私の名前をアルファベットにするとrayとなります。rayというのは光線という意味を持ちます。文字通りのrayの誕生でしょうか?

真夜中が好きで、名前がrayで、「冬のソナタ」のpolaris(=北極星)に私の進むべき道の象徴を感じてから、それをハンドルネームにしてきました。随分と試行錯誤を繰り返してきましたが、思いを文章に変換してみるという作業を通して、自分の身に起こっている出来事を俯瞰で捉え直すことができるようになったために崖から転落せずにここまで生き延びることができたような気がしています。

ここに来て、何故か、「midnight_ray_polaris」の一応の完成を感じています。

明日からは気持ちも新たに出直そうと思っています。次の‘行く道’の指針が見つかるまではこのブログも小休止になるかも知れません。けれども案外すぐにも再開することになるのかも知れません。

いつだって今が一番幸せ!

2007年09月24日 | 日々の泡
かつて、職場の女性上司に「過去の栄光なんて何の意味もないのよ!今が幸せでなければ…」と言われたことがあります。その頃の私は、「いつかは幸せになりたい!」と願う(ということは、‘今’が幸せとは決して思っていない)夢見がちな人間でした。幸せとは私にとっては、スキーのリフトのようなもので、ある一定の間隔を置いて、目の前に、あるにはあるけれど、目の前のチェアには決して手が届かない…という性質を備えたものでした。けれど、いつかは必ず幸せになるために、その日を楽しみにして、今の、目の前の苦労には耐えていこう!というスタンスの持ち主であったということは、幸せを手に入れることをとても楽しみにしている人間でもあったということです。

今が幸せでなければ、過去の栄光はガランとした古代遺跡のようなものになってしまいかねません。けれど、今もいつも、私が私として幸せであり続けるならば、過去の栄光は現在の私の強く頼もしい礎や土台となってくれるはずです。

今を幸せと実感出来なければ、‘幸せ’という絵に描いた餅は、いつまでたっても絵の中の餅でしかなく、私は永遠に、現実のものとして味わえるはずの生の餅の味を知り尽くすことは出来ないでしょう。幸せは未来にあるものではなく、‘今’という時の中にそれを感じ取れる能力を持った人間の心の中だけに存在できるものなのかもしれません。

結婚当初、タレントの山口もえさんが「人生がこんなに楽しいものだとは知らなかった!」と言っていました。彼女は今、本当に幸せなんだろうなぁ…と、人の幸せなのに、その言葉を聞いている私にも強く実感出来る迫力が伝わってきました。好きな人と一緒に生活できるという現実は、人をここまで幸せにする力があるのだと感動しました。

もえさんのように、強烈な実感を伴う幸せを持続的に体験できる人は、稀有かもしれませんが、私も遅ればせながら、やはり、自分のことを幸せだと感じられるようになってきています。そして、有難いことに、過去のどんな時よりも、「いつだって今が一番幸せ!」と、たとえ、どんな困難な状況を抱えていようとも思えるようになってきていることにもとても感謝しています。

もうそろそろ…

2007年06月08日 | 日々の泡
自分が書いた雑文をネット上に載せられる…などという体験はとてもエキサイティングなものでした。その楽しさに魅せられながら、ここまで一気に駆け抜けてきた感じがしています。自分を確認する作業としても、‘書く’という行為は、私に、これまでには知り得なかった新鮮な驚きと喜びをもたらしてくれました。

けれども、記事を更新し続けなければ…という観念が、常に頭の隅でノイズのようにチカチカしているのは、少々強迫的でもあるので、そんな自分に疲労感を覚えるようにもなりました。ゆったりと気ままに書きたい時や書ける時にだけ書いていくという姿勢の方が自然です。より自然に生きたいと願うようになったのですから、今までのような無理は禁物なはずなので、私にとっては、大切な大切なブログではありますが、書き続けることに息切れを感じるようになった以上、一旦、休め!というサインに耳を傾ける‘時’が近づいているようです。

わがまま者

2007年02月11日 | my favorite・・・
最近の私は、自分のために、わがまま放題に生きています。それでも、この流れを阻止するどんな要因も現れません。表面的には、従来どおり、従順で素直な私だからかもしれません。が、それとても無理をしてそうしているわけではなく、それが自然だからそうしているまでです。

実は、自分の意思がない人形のような人間だと思われていた時代もありましたが、心の奥底には、決して人の言いなりにはならない反骨精神が宿っていて、ここぞの時には、その‘小さな反逆児’が顔を出します。でも、誰も、それが私の本当の意思だとは気づかないのです。裏で糸を引いている親玉がいるはずだと(人には)思われるくらい、「私の中の天邪鬼」は私の身のうちに存在しているものとは想像されにくいのです。

本当の私は、容易に人の言うことを聞くほど、簡単な人間ではないのです。それが、人からは優柔不断で迷いの多い世間知らずの人間に映るようなのです。

シトロネラ

2007年02月01日 | my favorite・・・
左の画像がシトロネラ。右の画像はマグノリアです。

台湾製の漢方アロマは確かに使い心地がとてもいいので、偏頭痛持ちだった(毎晩のエッセンシャルオイルの燻蒸と、この漢方アロマのおかげで随分と辛い症状が改善しています。)私は漢方アロマの「マグノリア」を中心に首筋から肩にかけていつもいつもいい気になって塗り捲っていました。けれど、ハイテクオイルと称する100%純粋のフランス製の精油も、ミントなどはとてもすっきりとした使用感なので、ミント以外のハイテクオイルもいろいろと使ってみることにしました。それぞれのアロマの効能を読んでいたら、シトロネラが私には合っているのではないかと思われたので、ここ数日試しています。

漢方アロマは独特の匂いがありますので、慣れてくれば、まことに馴染み深い匂いとして、自分としては違和感なく使えるようになりましたが、匂いへの感受性は人によって様々なので、あるいは周りの人の迷惑になることもあるかもしれないとも思っていましたが、シトロネラに関してはそのような心配は不要だと分かりました。

職場で気分転換に、首筋にシトロネラをつけた途端、隣の席の人が思わず、「ああいい匂い!」と叫んでいました。トムヤムクンの匂いだと言うのです。正確にはトムヤムクンには入っているレモングラスの匂いなのです。使用感もさっぱりとしていて、塗りすぎると皮膚がヒリヒリするくらいになりますので、ほんの少し付けるだけでOKです。あまりにもいい匂いだったので、「電話の受話器に少し塗って欲しい。」と言われてしまいました。

首筋の凝りや偏頭痛にいいばかりではなく、心の動揺を抑え、気持ちを落ち着かせることにも一役買ってくれます。香りを楽しむなどという高尚な趣味は持たない私ですが、身体が自分に不足している何かを(香りを通して)欲しているというサインに気づくようになっています。

メール好き

2007年01月18日 | my favorite・・・
メールは送るのも貰うのも大好きです。記録に残るし、一度送ってしまったものは取り返しがつかないから苦手だという人もいますが、取り返しがつかなくても、記録に残ってしまっても、それでも、私はメールが大好きです。パソコンメールも携帯メールも好きであることに変わりはありませんが、携帯メールの簡便さはひとしおです。それにライトな感覚で、気持ちをやり取りできることの楽しさは人と人との関わり方に今までとは別バージョンの構造をもたらしてくれたと思っています。メールを受信する時の着信音の音色や携帯本体の振動を耳たカラダに感じた時の幸福感は携帯を持ってみて始めて知りうる醍醐味でした。大好きなあの人と、この人とダイレクトにかつパーソナルに繋がっていられる…という感覚は何物にも変えがたい喜びです。

携帯電話・携帯メールの機能を考えついて、それを一般の人々が日常生活の中で当たり前のように無理なく使えるものにまで商品化した人はすごいと思います。こんなに便利で生活の質を一変させてしまうようなものならば人々に受け入れられないわけがありません。私たちは携帯を買わせられているとは通常は考えもしません。たとえそうであったとしても、補って余りある恩恵を被っているのですから、このビジネスは供給者側にも需要者側も共に、win-winのバランスをもたらしてくれているわけです。私が手がけるビジネスもやがてはこうした展開を迎える日が来るであろうことを願っています。

運も実力のうち

2007年01月15日 | 日々の泡
ある成果を獲得するための力が少々足りなくても、首尾よく、好結果を手中に収めることが出来る場合があります。そんな時は、「運がいい!」と表現しますが、運も実力のうちなのでしょう。運を引き寄せる力は、ある種の本物の実力に匹敵するような気がします。

私などは、運というものは、それこそ運がよければ来るものであって、運が悪ければ逃してしまうものとして、言ってみれば、あまり当てにはできない博打性の高い性質を持ったものとしてしか捉えていなかったのですが、運のいい人というのは、運を限りあるものとは考えていないようなのです。

運は空から降る雨のごとく、その気になりさえすれば取り放題のものなのだそうです。溢れる豊かさで「運」は限りなくやってくるそうです。そういえば、多額納税者番付でいつも一位の斉藤ひとりさんという方も、「あなたにすべての良きことが雪崩のごとくにおきます」などという表現を使われています。雪崩が襲ってきたら潰されてしまうなぁ…、雪崩なんていう言い方が相応しいものかどうかなどと不謹慎なことをちょっと考えてしまいますが、確かに宇宙の恩寵は無尽蔵なもののようです。何かの拍子に、その無尽蔵の宝庫を引き出すポイントにアクセスすればいいだけのようなのです。宇宙の限りのない秘密にアクセスしてみたいものです。

INSIGHT(洞察)

2007年01月07日 | 日々の泡
病気の状態にありながら、「自分は病気である」という認識を持てない場合に、病識がないという言い方をします。精神科にかかる必要があるような重大な精神科的病いを抱えた患者さんは一般的には病識を欠くことが多いのですが、病識がないと、病状の改善を図れないばかりか自分の人生を自分のモノとして生きることが難しくなってしまう場合があります。それが一番の厄介な点のように思われます。自分の人生が自分のものでなくなってしまったら、自分の人生にどうやって責任を持っていったらいいのでしょう?

ところで、この病識という言葉は、INSIGHTという単語で表す通り、文字通り内面を見ることに繋がる言葉です。精神分析の用語としては「洞察」という言葉が使われます。「あぁ!そうだったのか」体験をした時に、洞察が得られるとされています。

物事の表面だけでなく、内面に隠されている事象や微妙なニュアンスなどを心的事実として感じ取ることができるようになれば、恐らく、人生の意味も単一ではなくなり、世界が提示しているさまざまな謎をも重層的に読み取ることができるようになるのかもしれません。

INSIGHT…自分の都合の良いようにばかりでなく、自分を取り巻く、今ここでの現象をあるがままに見つめることができるようになれたなら。INSIGHT…その先の、自分の取るべき行動が手に取るように理解できるようになれたなら。INSIGHT…そして、自分の可能性を最大限に発揮して後には、その結果がどうあれ、その結果を素直に受け入れることができたなら。INSIGHT…良いも悪いも含めて、それが自分の人生だと認めることができたなら。INSIGHT…私は、私の人生を愛し、私の人生に対して肯定的な態度を持つことができるようになれるでしょうか?

生花のコサージュ

2007年01月03日 | my favorite・・・
私の母はもうとってもいいお年頃なのに、仲のいい旧友が多くて、友人たちとの交流に毎日大忙しです。

友人たちの住まいは東京だけではなく、あちこちに分散しているにも拘らず、誰かが声をかけると、皆が気軽にすぐに集まってくるのです。「この指止まれ!」という名称の旅行の会もあったりして…遊び上手な元少女たちは今も意気盛んです。

そうした友人の中に、ダンス好きの人がいて、毎年一流ホテルでダンスの会を主宰したりして、1年の成果をお披露目したりする場合も必ず招かれています。自分は踊れないくせに見るのは大好きだから嬉々として出かけて行きます。先日は藤沢に住む友人のダンスパーティに招かれて遊びに行ってきました。

画像のお花は、その友人のお弟子さんたちが用意してくださったお土産用の生花のコサージュです。(フローラルウインズというフラワーショップのお花でした。)よく見ると、一つ一つのお花や沿えてある緑の葉物が凛としているのが分かるのです。見ているだけで、それぞれのお花の息吹や囁きが聞こえてくるような感動を覚えるのです。アレンジもとても素敵で、素材のそれぞれの持ち味が絶妙のバランスで生かされています。ラッピングの紙の質感や色、使ってあるリボンの細さや色合いなどの微妙なニュアンスにも良質のセンスが漂っています。何よりも、何日たってもお花が全然傷まないのには驚きました!仕入れをする人のお花を見る目の確かさがしのばれます。

お花を見ていてこんな気持ちになったことは初めてです。お花に関わっている人たちの心意気が、手渡された人の心にもきちんと伝わるのですね。裏を返せば、手を抜いた仕事はすぐに見破られるのだろうな…ということへの気づきです。仕事とは…と言うことが最近の私の主要なテーマでもあるので、つい、そうした観点から物事を眺めがちなのですが、世の中にはちゃんとした仕事をしている人がいるということをこんなところでも実感できて、しみじみとした幸せな気持ちになりました。

私は、お花のある暮らしはしていませんが、周囲には数人のお花好きの人がいてくれるので、時々は生のお花から新鮮な波動を貰うことができています。

Floral WIND'S

自分の存在を許してくれる人

2007年01月01日 | 映画
「暗いところで待ち合わせ」という映画を観てきました。この映画の持つニュアンスに、もうちょっと近いタイトルがあったのではないだろうかと、ちょっと残念な気はしますが、原作の題名がそうなのですから仕方がありません。主人公二人の心の動きを丁寧に描いたサスペンスタッチの気の利いた小品でした。

自動車事故のため、光を失ってしまったために家に閉じこもりがちの女性と、中国からやってきて、どんな環境においても周囲に溶け込めず、うつうつと暮らしている、‘心に闇を抱える’男性との、(ある殺人事件をきっかけに、ある目的のために女性の家に潜んだその男性との)同じ家でのそれぞれの暮らしが始まります。映画の説明書きには二人の共同生活とありますが、共同生活というような体裁をなしたものではありません。

二人の距離感がとてもいいです。彼女にとって、彼はちょっとだけサポートしてくれる人であり、ずっと居場所を探していた彼にとっては、彼女は、彼がずっと探し続けていたものが場所ではなく、「自分の存在を許してくれる人」だったことを気づかせてくれる人として描かれています。

最近の映画が素晴らしいと思うのは、人と人との関係を「べったり」とは描かないところにあるような気がしています。尤も、私が選ぶから、結果的にはそういう映画ばかりになってしまうのかもしれませんが、微かな触れ合い、しかも、息遣いを確かめるようにして、ちょっとずつ、ちょっとずつ相手の感触を感じながら距離を測りながら近づいたり遠ざかったりする関係。相手の気持ちの都合を尊重する思いやりとやさしさがひっそりと感じられて、観ているこちらの気持ちも静かに安定したものになっていきます。

こういう良質な映画を観ていると、どんなに寂しくても、どんなに辛くても、だからこそ、相手に受け入れてもらうためには、一人でも、ここに立っていることのできる(強がりかもしれないけれど…)気持ちの確かさが必要だと思わざるを得なくなります。

暗いところで待ち合わせ