アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

Give And Given

2005年12月31日 | my favorite・・・
私はずっと、人間関係の基本はギブ&テイクにあると思ってきました。自分が出来ることぐらいのことは相手からも返してもらうのでなければ、そもそも対等な人間関係など築きようもないと考えていたからです。ところが、最近、ある方がギブ&ギブンということを言っておられることを知りました。ギブ&ギブそしてギブンこそが与え、与えられる関係の基本なのだとその方は説明されています。テイクのことはひとまず棚上げして、ギブ&ギブの心根で接してこそ、もしかしたらギブン(与えられること)が余禄として付いてくるのかもしいてれません。ちょっと視点を変えてみれば気持ちの構えも変換できそうです。

SAYURI

2005年12月30日 | 映画
この映画を観終わって、映画というものは、現実そのものを写実的に描写するばかりのものではなく、優れてファンタスティックなものなんだということを改めて痛感させられました。日本を描きながら、スクリーンの中に超然として存在していたのは、日本という国のような…でも、必ずしも日本ではなくてもいい、映画の作り手が描く壮大な無国籍的な空想の世界の拡がりでした。しかもこれは単なるシンデレラストーリーでもなければ、芸者の世界の‘謎’を陳列しているお話しでもない、観るものの想像力をかき立てる良質なファンタジーなのだと、私は感じていました。物語の内容そのものに感動するというような映画ではなく、このような運命にさらされた人の思いはいかばかりのものか!というような感情移入を容易に起こさせる吸引力に満ち溢れた映画だったのです。渡辺謙や役所広司など、国際的に活躍している男性俳優にはあまり魅力を感じないほど(役所広司は一途で、その一途さゆえに人を許すことの出来ない堅物な男性像を演じているのですが、今や、そういう男性像には私自身が、全然、魅力を感じないということも、男性陣の存在に惹かれなった大きな理由の一つかもしれないと思っています。)これは女性の生き方の凄まじさに魅了されてしまう映画です。すべての女優陣の迫力ある演技には圧倒され脱帽しましたが、チャンツィー以外では、ミシェル・ヨーという女優さんの独特の優雅な雰囲気に魅せられてしまいました。チャンツィーを一流の芸者に仕立て上げる‘お姐さん’の役どころの女優さんです。また、SAYURIの子役時代を演じた大後寿々花さんの初々しいひたむきさや可憐さも際立っていました。チャンツィーは美しいだけでなく、アクロバティックともいえる動きやしなやかさを身につけている女優さんなので、他の追随を許さない存在感を醸し出せる貴重な存在です。女性の生き方が、どの人をとっても本気ですごかったです。女優さんたちの演技力が生半可ではないからこそ茶番にならずに、一つの世界観が生み出せたのでしょう。この映画の不可思議な魅力のもう一つの側面は、日本のお話しなのに、話される言葉が全編これ英語という点にあります。これが意外に違和感なく、むしろ客観的に、この映画の顛末を眺められる要素にもなっていたことが、この映画にアップテンポな勢いを付け加えていたのだと思います。そして、さらに面白いことには、時々、日本語がぽつっぽつっと聞こえてくることです。これがまたとてもチャーミングで優しい感じなのです。この手法が意識された演出だとしたら、すごく気の利いた技法だと思いました。時々聞こえる日本語の美しさが際立つからです。優しいのにスパイスの効果を持っているということになります。この点も、今までに味わったことのない感覚でした。そして、何より良かったことは最後が悲劇で終わらなかったことです。どろどろした確執のやり取りや不幸な成り行きが繰り返される展開の末に哀れな結末でエンドマークが出るのではやり切れませんので、切なくても、SAYURIの夢の実現が果たされた大団円のまとめ方には救われました。エンターテイメントには希望が大事だと思います。優しく従順なだけでは、自分の人生を切り開いていくことは出来ない。智恵と勇気といい意味での強かさを持ち合わせてこそ、自分の欲しいものの傍に近づくことが出来るのだ…そういう女性こそが魅力的なのだ!と思え、元気を貰うことが出来ました。SAYURI

自己開示…その2

2005年12月29日 | my favorite・・・
嫌悪感を味わうことのないグループ体験をしました。グループを行う際には幾つかの約束事を守る必要性があります。それは、①秘密厳守…グループで話されたことはグループ外には持ち出さない。②活発な意見交換はいいけれど人の発言を非難したり誹謗中傷するようなことはしない。③発言したくなければパスもOK。その他にも細かい約束事はありますが基本的にはこの3つくらいだと思います。私は、その日は司会を仰せつかっていました。始めは参加者全員に自己紹介を兼ねて近況報告をしてもらいます。それが一巡する頃には、グループの凝集性はすっかり高まり、雰囲気も盛り上がっていますので、司会者はことさら口を挟む必要もなく、目の動きや一言二言の促しだけで、参加者全員が均等に隠し立てのない思いを率直に語り始めます。意見はまとまる必要はありませんしまとめる必要もありません。言いっぱなし聴きっぱなしでも、一応、この道の専門家と言われる人が一人二位いれば、大きく方向性がずれていく心配もまずないと思います。何故、今回のグループには今までのような違和感を覚えなかったのか?皆が思いのたけを洗いざらい語っていながらも、節度が保たれていたからだと思います。やりきれない情緒を垂れ流しにしている人が一人もいなかったからでしょう。そして、自分の思いを語るだけでなく、グループメンバーを支えあう姿勢が貫かれていたことも大きな要因です。自分の苦しみを語りながらも人の苦境をも思いやる、一呼吸の余裕を持てている人が多かったからです。長年、好き好んでやってきたわけではなかったけれど、(仕事上の必要に迫られた部分がほとんどでしたが)たった一度でも気持ちのいいグループ体験が出来たからには、私のグループに対する捉え方も変わって行くことになるのかもしれません。実はここにトリックスターとも言うべき、新参者が加わってくれていたことの影響が大きかったのです。やはり、人生のどんな場面に置いても、人の存在が場に与える影響力の大きさというものは侮れません。最後は人ですネ。つくづくそう思います。

自己開示…その1

2005年12月28日 | 日々の泡
個人的にはグループ体験は苦手です。人間関係を改善させるためや薬物・アルコールからの脱出、引きこもりの親の会、思春期問題を抱える本人および親の会などの治療としてのグループ体験があちらこちらで花盛りであることは、このブログでも何度も触れさせてもらっていますが、昨今、当たり前のように行われているグループ治療というものに対して、何かがどうも違う…という居心地の悪さ、グループ終了後の釈然としない感覚、自己肯定感や自己効力感に満たされるどころか自己不全感が澱のように沈殿していく不快感を覚えるのは私だけなのでしょうか?何故、グループ体験に嫌悪感を抱いてしまうのかの、私なりの一つの答えに辿り着きました。ある先生が、精神療法を行う際の比喩として、饅頭のあんこの中身をすべて見せて(語って)もらわなくても、饅頭の皮だけを話題として取り扱うことだけで、あんこの部分の本質的な問題をも解決に導けるようなワザを持てる事が、精神療法家としての上等なあり方であろうと語っておられるのですが、グループにもそれは言えることだと私は思っているので、グループの中で、語りたい人は自分のすべてを語ってもいいけれど、中身を語らなくても、問題の本質を語るやり方というものもあると思っています。ところが、往々にして、大抵の人はあんこの中身のすべてを語るようです。子どもとの問題は普遍化出来る面が大きいのでまだしも…とも思いますが、夫婦関係の、しかも極めてプライベートで繊細な部分のことや恋人との痴話喧嘩のあれこれを、まれにですがお話しされる方もあります。そして、そういった場面に出くわす度に、私は密かに面食らい、後にウンザリしてしまうのです。井戸端会議との区別がつきません。そうした行為で、精神的な問題のどこが昇華されていくのでしょうか?皆目見当がつかないのです。私は、関係性を築いていない対象から、饅頭のべたべたのあんこの中身を見せ付けられることが苦手のようです。親密な関係にある人から1対1で、あんこの中身を見せられることには少しも嫌悪感を覚えませんし、むしろそこまで信頼してくれているのかという感謝の気持ちさえ抱きます。突然ですが、自分の場合に、話題を転じます。私の場合には3つの段階が存在するようです。一つ目は、全く自分を開示する必要性を感じない段階。二つ目は、少しは開示するけれど、あくまでも、部分的に開示するだけの段階。三つ目は、適度の信頼感と安心感の中で無理なく、自分の核になる部分を開示できる段階です。この三つ目の段階で自己を開示できるのは、今のところBlissさんに対してだけですね。私にとって、自己開示とはそれほど厳しく、困難なことです。言い換えれば、それほどに自己開示の必要性を感じる場面には滅多なことでは遭遇しないということでもあり、通常は、自分を、敢えて、自己開示する必要性を感じないということでもあります。自己開示したいと思える人には、ほとんど出会うことさえ出来ないと思っています。だからこそ、そんな人に出会えた喜びは、砂漠で(きらっと)光る一粒の宝石を見つけたようなときめきに匹敵するのです。

ゆる体操

2005年12月27日 | 日々の泡
『ゆる体操』の本を読みました。体がコルとか、緊張してストレスがたまるというのは脳神経系のなせるわざなのだそうです。受動的に身体を休ませても(温泉に入ったり、マッサージを受けたりすること)脳神経系の働きは改善されないから、一時的には気持ちが良くて心身がリラックスしても、その状態は長くは続かず、すぐに元の状態に戻ってしまうということです。すなわち、脳神経の働きを改善しなければ、受動的な行為を幾ら繰り返しても元の木阿弥状態にリセットされてしまうということなのです。ところが、体操は自分の脳神経系の働きによって自分の身体をほぐしたり、ゆるめたりしていくものなので、体操を繰り返していくと、自分の脳神経系の側から身体をゆるめるテクニックが身についていくそうですし、積極的に体操をやらなくても、無意識のうちに、コリがほぐせるようになるという説明なので、コツを掴めば、身体を柔らかくすることが出来るようになるのかもしれません。緊張を強いられる場面に遭遇すると(この時は、交感神経が優位となります。)、「緊張してはまずい、身体をゆるませよう」というふうに脳神経系が働きます。そこで、ゆる体操をすることによって副交感神経も機能しだし自律神経のバランスを整えることが出来るようになります。そのようなことが習慣になると、例えば、筋肉の状態が脳に伝わると、そのままの状態にしておいていいのかどうかという脳の判断が変わってゆくそうです。ゆる体操で、自分の身体を感じながら繰り返しゆるませていると自分の身体の筋肉からくる情報に対して閾値(機能的境界)が変わってくるということになります。以前ならば素通りしていた情報がフィルターにかけられ「筋肉をこのままの状態にしておくと強いコリになってしまう」という判断をするようにまでなるそうですから、ゆる体操で覚えたテクニックが無意識のうちに活用されていくことになります。身体をときほぐすだけでなく、脳神経系のテクニックが自然に働くようになっていくということですから、身体はかなり高度なプロセスを習得するということになります。こうしてみると、脳はすごく鈍感で騙されやすい臓器でもあるけれど、訓練次第では素直で従順な臓器だということにもなります。脳は主語を判別できない…ということもよく耳にします。人の悪口などを言うと、脳は主語を省いて、その内容を判読しますので、その言葉を口にした人に嫌な感情がブーメランのように戻ってきてしまうのです。脳の有効活用法を知らないでいると、心身に受けるダメージが無駄に増大してしまいそうです。あぁ!賢くなりたいものです!!このゆる体操ですが、本の中の図解は丁寧に説明してはありますが、やはり本を見ているだけではコツはイマイチ上手く掴むことが出来ません。かといって習いに行く暇もありませんので、こうした理屈や概念があるということを自分なりに取り入れる…という段階で留まってしまいました。
★ゆる体操 ★運動科学総合研究所  

12月のお花

2005年12月26日 | my favorite・・・
友人から、「12月のお花」が届きました。今回のお花は、生け花にヒントを得た技法を使ったものだそうです。今回は、今までのアレンジメントとは随分趣が異なっているので、久し振りに、却って新鮮な感覚を呼び覚まされましたし、発想一つでどんな風にでも(素材を)アレンジできるのだなぁと感心しました。素材の選び方からアレンジの仕方まで、センスとイメージは縦横無尽に活躍しているようです。

9月のお花】:2005年10月15日

6月のお花】:2005年06月20日

エイジレス

2005年12月25日 | 日々の泡
社会の中で人と関わる時、どうしても、私たちは相手の付帯状況というものを気にしてしまいがちです。年齢のことや家族状況等、学生ならどこ大学に通っているか、社会人ならどういう会社でどういう仕事に就いているか等々のことです。私の周りには、不思議なことに、こうしたことを、少なくとも表面上は全く気にしていないかのごとくに振舞う人が若干名います。私に対する言葉遣いもいわゆるタメ語ですし、付き合い方も全くの横並びです。そうした関わり方をしてもらえる方が私は気を使わなくて済むのでとても気楽です。だから、時々年齢差のことを、私との関係が心地良いのだと言ってくれる際の友好のしるしの枕詞として、あるいは、ほんの軽い気持ちの補足として、「年齢の違いにも拘らず…」とか「今までにはなかったこと!」などの言い方をしてくれる人がいますが、本当にその通りではあるのですが、鼻白んでしまうのは、実は、私の方こそが、年齢のことにこだわっているという何よりの証拠なのかもしれないなんて思ってもいます。「別に、あなたよりも年長だからといっても、それは相対的なことに過ぎないし、いつまでも若くはいられないという条件も万人に共通の事実なのよ」って言ってしまいたくなります。が、どうしてもそういう尺度が必要になるのでしょうね。

思いがけずも届いた2通のメール

2005年12月24日 | my favorite・・・
いつだったか、Blissさんに、私は‘思いが強すぎる’と指摘されたことがあります。今まで、私は思いの強いことを悪いことだと思ったことは一度もありませんでしたので、そのような指摘を受けたことにとても強い衝撃と驚きを覚えました。が、ほどなく、強すぎる思いは、相手に圧迫感を与え、気を重くさせるものであることを知りましたので、それ以来、人に対する思いは強くさせすぎないように気をつけるようになりました。気功を習うようになってからは、何事も中庸が大切であることを教えられ、ますます、偏りすぎない気持ちの持ち方の大切さに注意を向けるようになっています。今までは、何につけ、マイナスよりはプラスのほうが価値があると考える人間でした。けれど、気功の世界観はそうではありません。陰と陽はどちらかがいいとか、どちらかにより大きな価値があるとかということではなく、両者に同等の価値があり、すべてはバランスで成り立っていると考えるような類のものです。すべてのことは程々が良いのです。最初は、それではフラットであることがいいのかと考えてしまい、事なかれ主義的で面白味のない人間像や宇宙観を思い描いてしまったものですが、気功の先生の「嬉しいからといって喜びすぎない。悲しいからといって落ち込みすぎないことが大事です。平常心が一番です。」という言葉に、徐々に共感できるようになっていったのです。糠喜びは禁物。一喜一憂も宜しくない。と思えるようになってきました。Blissさんに対してだけでなく、いろいろな人に、この感覚を適応するようになりました。濃い関係を築きすぎた!あるいは近づきすぎた!と感じたら、意識的に距離を取ってみるようにもなりました。実際、自分もそういう時は苦しく感じるようになって、自然に距離を取れるようになってきたのです。それで、ダメになる関係ならばそれでもいいという覚悟も持てるようになりました。そうしたら、本当に人生は皮相的で皮肉に満ちているものだと感心するのですが、意識的に、関係から遠ざかるような不義理をしても、それでも(だからなのかもしれませんが→時間の‘間’が科学反応を起こさせる場合があるようです。)そんな私を見捨てずに、メールをくれる人もいるのです。表面的には、何があったというわけでもないのに、(言外には大いなる波乱が生じていたのですが)ずっとずっと長いこと音信不通だった人や、仕事上の繋がりから、見てみぬ振りをするわけにはいかず、半分はやむなく始まった関係を、何とか自然消滅させたい…と願って、ちょっと強引に関係を切ろうとしていた人など。今回、届いた2通のメールは、私が心の中で、関係の終焉を少し意識しながらも、その結末については、自分のあずかり知らないこととして、大いなるものの意思に委ねて、執着などの強い情念から、自分の気持ちを意識的に開放させていた人たちから届いたものです。彼女たちのくれたメールの文面には、押し付けがましさなどがまったくなく、私に対する‘愛’に溢れていました。私と関わってくれている人たちの変貌振りを見ていると、人間とは放っておいても成長していく存在なのだろうなぁと改めて思ってしまいます。十年一日のごとく、さっぱり進化しない自分を尺度にしたら、周りの人々の変化は計ることが出来なくなってしまうとため息をつくと同時に、もしかしたら、彼女たちに対する私の変化が彼女たちの変化をも促しているのかもしれないともちょっと思ったりもしました。星が動くということは、人が動くということだそうです。運は人が運んでくるものなので、結局、人に会わないと何も動かないのだそうです。変化を起こしたかったら、人に会うこと、人と関わることが大切だそうです。でも、何かをすることだけが行動ではありません。何かをしないでいることが積極的な‘行動’であることもあるようです。

年齢を超越させる因子

2005年12月23日 | 日々の泡
朝日新聞の紙上に目にとまった特集記事がありました。あるフォーラムを通して分かったことなのだそうですが、実年齢を超越して輝いている人には「想像(イマジネーション」と「創造(クリエーション」の力が備わっていたのだそうです。ある年齢を過ぎたら「自分の責任で自由に生きていいんじゃあないか!」という姿勢を持っている人…ということになるのでしょうか。人生の後半は下り坂と捉えるのが通常の考え方です。事実、現象的には、その通りでもあります。五木寛之さんなどは、この【下り坂】の自覚をしっかり持つことの重要性を説いています。五木さんは、無力であることや朽ちていくことなど、一般的には、否定的な意味合いだけを持つ言葉を否定的で絶望的だけではない概念へと変換して、私たちに示してくれています。でも、すべてが下り坂ばかりとは限りません。単なる語呂合わせに過ぎないかもしれませんが、【成熟への上り坂】を歩んでいく時節であることには間違いないと思います。
…ことさら頑張ろうとしなくても、自然体でいて、そのままで、ありのままの自分の持ち味を隈なく発揮しながら、自分のために生きることが周りの人の力にもにもなりうるような存在。優しくて穏やかで、人と自分を比較したり、人と争ったりするようなことなことには興味も関心もないし、人との関わりを通して、幸せをシェアすることを実践している小さな宇宙。 これが、今のところの、成熟した人間像に対する私のイメージです。「君子の交わりは水の如し」と言います。成熟した人間の関わりのあり方は情熱を秘めながらも表面上はきっと淡々としたものなのでしょう!

空想の現象化

2005年12月22日 | my favorite・・・
『ツライときは、自我は自分の力で何とかしようとします。すると、今の不幸せな状態に意識が集まり、それでまた、さらに『不幸エネルギー』をドーンとつくり出す。じっとしていればいいものを「これじゃいけない、何とかしよう」と…。意識を向けるから、顕在化するのです。対処しようとすることが、不幸せな状態にエネルギーを注ぐことになり、ちっとも減退していかない……これが、苦しみが続く理由です。どちらかと言うと、対処すればするほど、苦しみは大きくなります。』最近、こんな文章を目にしました。この状態は、まさに今までの私のありようを見事に言葉にして語ってくれているものです。心の中に、あるイメージを抱き続けると、この現実世界に必ずそのイメージが物質化してくると言われています。否定的な状況を何とか改善しようとして、そのことに意識を集中させればさせるほど、益々土壷にはまってしまいがち…ということは経験的には、その通りだと納得出来ますが、心の中に、ある肯定的なイメージを抱き続けていると、それが現実のこととして実現していくということが本当のことかどうかは、私の体験としてはまだ実証されたことはありません。【空想が現象化する】などということが本当のことなら、自分の願いだけを空想していればいいのですから、随分と楽しい事のように思えます。
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