自分に対して開かれた心 2006年01月22日 | 日々の泡 アルコールや薬物からの回復を目指す治療においては、医療サイドで出来ることには始めからかなりの限界が見込まれることもあって、自助グループに通い続け、先行く仲間…(同じようにアルコールや薬物の問題による挫折体験を持ちながらも、自助グループを活用しながら回復の道を歩んでいる先輩)と関わりながら、自己回復を図って行くことが奨励されます。アルコールや薬物治療に関わる関係者も当事者も、グループでしか回復はありえない…とまで言い切ってしまうことが多いので、グループも、数ある選択肢の中の一つだというふうに軽く捉えてもいいような雰囲気は、この文化の中にはなかったように思います。私には、そうした考え方自体が、非常に偏った一つの‘神話’のように思えましたし、独特の治療モデルが形成されていて、独自の治療文化を作り上げているようにも見えました。こうしたグループに見学参加させていただきながら、このようなグループのどこに、究極のどん底にまで落ちてしまった人を再生させる力が潜んでいるのかが、私には十分には理解出来ませんでした。そして、それは(それ以上、グループに関わり続けなかったため)ずっと分からないままで終わってしまっています。自助グループだけが万能だとは、私には、今でも、どうしても思えません。グループで蘇る人もいれば、グループが苦手で、そこからドロップアウトする人がいたとしても、それもまた一つのあり方だと思えてしまうのです。1対1の個人療法でこそ、自分が素直になれて、何でも喋れるという人がいても少しもおかしくないと、私は考えていました。そして、その構えは今も変わってはいません。皆が皆、グループ・グループと、グループというものを礼賛する強い傾向の中で、私は一人、心の中で「そうとは限らない。そうとは限らない。」と念仏を唱えていました。先日、一つの回答を得るような言葉と出会いました。『他人に対して何でも喋ることが治療ではなく、自分の心が自分に対して開かれているということが治療になる。』 そうなんですよね!自分の心が自分に対して開かれてさえいれば、治療形態はどんなカタチであっても、また、場所も何処であってもいいはずです。誰一人として同じ顔の人がいないように、個人の資質が甦る場所も、人さまざまであっていいはずです。ある特定の場所からしか光が差し込まない、とか、ある特定の場所にしか光が存在しないなんてことはあり得ないことですよね!