
漠然と「幸せになりたい!」と願ってはいても、なかなか‘幸せ’にはなれないものです。隣の芝生は何処までも青く見えるものですから、幸せは人のモノで、自分にはそんな幸運はついぞ巡っては来ないものなのだ!とどこかでは深く諦めながらも、心の片隅では、やっぱり諦めきれずにしぶとく幸せになれるはずの自分を応援したりしているものです。

こんなに望んでいるのに…何故?と訝しく感じはするものの、最近、チョッとその理由が分かるような体験に遭遇しました。自分が望む幸せのイメージの輪郭が鮮明で具体的になっていないということがまず大前提に控えていることに加えて、手に入れたいものを手に入れるための準備段階においてすら、一つ一つの成果を受止めることにびびっている自分がいることを発見したのです。とても驚きました。

成功したい→そのためには一緒に頑張ってくれる仲間が欲しい…こうした思いを抱えながらも、人に自分の波動を伝えられずに、迷路をぐるぐるぐるぐる動き回っていました。ところが、私の意思に同調して、事業に加わって、私と共に勉強することを決めてくれる人が一人発生(?)したのです!→こんなことが起こりうるとは夢にも考えられないことでした。→一人でも、そういう人を見つけられると張り合いが出てきて、気持ちが変わると言われていましたし、自分でも、そうなったら、すごく嬉しくて、気分はハイになるだろうなぁと想像していたのです。→ところが、現実は違っていました。予想もしていなかった心理状態に見舞われたのです。自分だけならいざ知らず人にまでリスクを背負わせてはならない・巻き込んだら申し訳ない…そんな気持ちに襲われると共に、その人に幸せになってもらう責任が生じたことをはっきりと自覚しました。もう昨日までの、他人としての‘その人’ではなくなってしまっていたのです。

今までは、私が空想する‘幸せ’は私だけのものでした。人をまで巻き込んだカタチの幸せを想像したことはなかったのです。「あの人と一緒に幸せになりたいなぁ~」という願いも、現実のあの人を巻き込んでいるわけではないですし、これも悲しいかな…自分ひとりの空想の中での‘あの人’なわけです。ところが、現実的に、私の言動に影響を受けて、ある人が、その人の人生の方向性を、部分的にせよ、変更してみようという気持ちになり、行動を起こしてくれたのです。もやは、私一人が、幸せを空想しているだけの状態に留まることは、倫理的にも許されない状況へと歯車は回転し出すことになりました。

「幸せになりたいわ~」などと白昼夢のごとくほざいているわけにはいかなくなったのです。思いを現実のモノやカタチに変換していく必要が生じてきたのです。一歩先に歩み出した私がぼやぼやしていたら、私を信じて新たな価値を取り入れ始めてくれた人に顔向けが出来ないことになります。

そうしたら、人に何と言われるかわからない(えげつないとか気がおかしくなったのではと思われたらどうしよう)と足踏みしている私ではいられない…と考えるようになってきました。人は何とでもいうのです。すべての人が、私の事業に賛同してくれるとは限らないのは、あまりにも当たり前のことなので、いちいち傷つかなくても、一つ一つの事実として受止めていけばいいだけのことだと思えるような力持ちにならなければなりません。一人でも多くの人に、私の扱う商品を信頼し支持し親しんでもらいたい…という視点だけに目を向けることにしました。

こうして、突然の、この出来事をきっかけに、ほんの数日の間に、私の中に眠っていた未知の感情や感覚が微妙にかつ大きく揺れ動き始めたのです。今までの価値だけに安住して、これまでの生き方だけにしがみついていたとしたら、このような感情や感覚のことは一生知らずじまいで済んでしまっていたことでしょう。そう考えると、やはり生き方が、その人の現実を作っていくというのは本当のことだと強く思えます。

頭で考えて知的に処理するという手続きとは違うシステムが稼動し出しているような感じがあるのです。あるエネルギーが燃焼されて、今まで、コケのように堆積されて滞っていたものが、そのエネルギーの燃焼の力で一部押し流されたような感覚もあります。ネガティブな意識が岩のように立ちはだかっていて、素直で無邪気な感情が解放されずに縮こまっていたようなのです。人の気持ちは身体と同じですね。心の血管壁に塊となってへばりついている老廃物質を綺麗に取り除かないと人生や生活が豊かに拡がっていかなくて命取りになってしまいそうです。