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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

ガチョウと黄金の卵

2006年03月31日 | 日々の泡
イソップ物語の中の寓話の教訓のお話です。ある貧しい農夫が、飼っていたガチョウの巣の中に、ある日、キラキラと輝く黄金の卵を見つけます。毎日毎日、ガチョウは純金の卵を産み続けてくれたために、やがて農夫は大金持ちになりますが、富が増すにつれて、欲も出て、せっかちになっていったため、一日一個しか生まれない黄金の卵が待ちきれずにガチョウを殺し、ガチョウのお腹の中の卵を一気に手に入れようと決心しますが、いざガチョウの腹を開けてみるとお腹の中は空っぽだったという事実に愕然とします。黄金の卵を生み出してくれるガチョウをとうとう殺してしまったからには、黄金の卵を手に入れる手段をも永遠に失ってしまったということになります。

目標を達成すること・または結果を手に入れることが【黄金の卵】ならば、その結果を手に入れるための資源あるいは目標を達成するための能力は【ガチョウ】ということになります。ガチョウを疎かにし、黄金の卵ばかりを追い求める生活様式を取り入れていれば、やがては黄金の卵を生み出してくれる資源をなくしてしまうことにもなりかねませんが、ガチョウの世話ばかりをしていて黄金の卵が生み出す価値のことに全く気づかなければ、自分自身とガチョウを潤す資源を失ってしまうということにもなります。【黄金の卵】と【ガチョウ】の両者の二つの側面のバランスを有効に保ててこそ、問題は最大の効果を発揮して解決されていくそうです。

【黄金の卵】という結果ばかりを求める行動に走ると、【ガチョウ】というかけがえのない存在を失いかねません。この比喩は人間関係にも当てはまります。あらゆる人間関係において、お互いの関係を維持することよりも、相手にして欲しいこと【黄金の卵】ばかりを要求していると、感受性や思いやりがなくなり、深い人間関係を保つための不可欠な要素(愛する気持ちや優しさ・思いやりに満ちた自然な雰囲気など)が失われていきます。日に日に【ガチョウ】の容態が悪化していくということになるわけです。

【ガチョウ】の気持ちや現在の状況への配慮なしに、「会いたい」一心で、【黄金の卵】を追い求めても、それでは、たとえ、【黄金の卵】が手に入っても、何故かあまり嬉しくないし、楽しくない…というようなことにもなりかねません。【ガチョウ】への真のコミットなしに、【黄金の卵】を欲しても、それは土台無理な要求に過ぎない…ということになるからなのでしょうか?何だかちょっと変な比喩ですかね…トホホ

インサイドアウト

2006年03月30日 | 日々の泡
自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム・人格・動機などを変えることから始めるという考え方を指します。インサイドアウトの考え方では、私的成功が公的成功に先立ちます。他人に対して何かを約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守ることから始めなければならない。自分自身を改善せずに他の人との関係を改善しようとすることは意味のないことだという考え方を指しています。

逆説的ではありますが、他人が私のことをどう考えているかということを気にしなくなるにつれて、却って、彼らの気持ちや自分との関係をもっと大切にするようになるというのは本当のことだと思います。また他人の存在が私の生活や私の感情を支配しなくもなります。自分の心の奥底に確固たる中心を持つようになり、周りの世界の変化に振り回されず対応できるようにもなれると思います。要するに、まず初めに【自分ありき】なのですね。扉を開ける鍵穴は外側にはないのだそうです。鍵は、それぞれの人間の内面からしか開けられないのだとしたら…どんなに他人からの助力があったとしても、最後は、自分の手で扉を開けない限りは、永遠に扉は開かない…ということになりますね。

分かるような気がします。自立という言葉は簡単に使われていますが、人が本当に自立を手に入れるためには、ある種の環境やある種の、自立を促すためのシステムの中に入り込む必要がありそうだと、この頃では思い始めています。幾つになっても、何かをやりたいと思うことに遅いということがないように、自立という態度や実質も年齢を重ねれば自動的に得られるというものでもありません。だから、漫然と生きていても、自立は容易くは手に入らないということになります。そう考えると、人間が自立していくためには、やはり、ある種の仕組みの中に入り込んでいく必要があると、どうしても感じてしまいます。けれど、そんな仕組みは誰の前にも簡単に現れるというものでもなさそうなので、これもまた難しい問題です。インサイドアウトの姿勢を大事にし続けていくしかない。自分に正直に生きていくしかない…と思っています。ただ、‘逆境’という言葉が一つのキーワードになりそうな気がしています。

依存→自立→相互依存

2006年03月29日 | 読書
『7つの習慣』という名著のことをご存知ですか?ここには、人が人として成長していくとはどういうことなのかが分かりやすく書かれてあります。成長のプロセスを理解するために、依存・自立・相互依存のそれぞれの成長レベルにいる人の持つパラダイム(思考の枠組み)の違いを説明してくれていますので、触れてみたいと思います。

成長の連続体において依存状態にいる人が持っているのは「あなた」というパラダイムです。主体は「私」ではなく「あなた」ですので、事の成り行きの結果はすべて「あなた」のせいになってしまいます。自立は「私」というパラダイムですので、行動の責任はあくまでも「私」にあり、従って、結果も「私」が選択できるものとなります。そして相互依存のパラダイムは「私たち」です。「私たち」は協力することが出来ますので、「私たち」が力を合わせれば、一人の時よりももっと素晴らしい結果を生み出すことが出来るわけです。誰かに依存している人は、欲しい結果を得るために他人に頼らなければなりません。自立している人は、自分の努力によって欲しい結果を得ることが出来ます。(もちろん、得られない場合もありますが、少なくとも結果を他人に依存しなくても済みます。)そして相互依存をしている人々は、自分と他人が協力し合って、力を尽くしあって、最大の結果を生み出すことが出来ます。(もちろん、結果が出ない場合もありますが、その際にも悔しい思いや反省点を分け合って、さらに励ましあって前進することが出来ます。)

依存は他人次第で、自分のあり方が決まることなので、常に、依存している人に嫌われないようにビクビクしていなければなりませんし、嫌われないとしても、依存されている方も生身の人間ですから、いつ力を失うかもしれません。とにかく、他人のありように一喜一憂し、自分の思惑がいつ大打撃を受けるかもしれないという不安定な心理状態に甘んじていなければなりません。そう考えると、人に依存するということはリスクが大きすぎますし、決して安楽な生き方ではないことが分かります。

自立していれば、自分で考えて自分で行動することが出来ます。自分の方向性は自分の意思によって決まってくるので、他人が自分のことをどう思おうと、そんなことにはあまり捉われずに、ある程度の自尊心を保持することも可能です。真の自立が達成されると、周りの状況に左右されるのではなく、周りの状況に作用を及ぼすことの出来る人間となります。状況や他人に対する依存性から開放されることで、このような属性が余禄として身につくわけです。自立できるということはそれだけでも、大変な成功なわけですが、相互依存状態は、自立よりももっと高いレベルの成熟の様態となります。

なぜならば、自立的な考え方だけでは、相互依存的な現実に対応できないからです。自立していても、相互依存的に考えたり行動したりするまで成熟仕切れていない人は、人や組織との難しい現実に対処するために不可欠な相互依存のパラダイムを身につけるまでには至っていないからです。

「一人でも居られる・二人でも居られる。」「一人でも居られる・人とも居られる。」これが理想でしょうか?相互依存が出来る人とは、自立を成し遂げている人でもあるので、自立していない人は相互依存関係には入れません。自立出来ていなければ、相互依存ではなく、単なる依存状態に陥るだけですので…。相互依存への道のりは決してたやすいものではありません。自立出来ていなければ、人との関わりの中で、すぐに、人への不満や不信や恨みが出現してくるからです。相互依存関係は競争関係ではありませんので、愛を与え、愛を受けることを恐れていては相互依存関係は成り立ちません。人に依存している人が、相互依存状態にどうしても入ることが出来ないのは、それだけの人格と自制の力がないからだそうです。すごく参考になりますよね。Amazoncojp:7つの習慣―成功には原則があった

現実化するもの

2006年03月28日 | 日々の泡
漠然と「幸せになりたい!」と願ってはいても、なかなか‘幸せ’にはなれないものです。隣の芝生は何処までも青く見えるものですから、幸せは人のモノで、自分にはそんな幸運はついぞ巡っては来ないものなのだ!とどこかでは深く諦めながらも、心の片隅では、やっぱり諦めきれずにしぶとく幸せになれるはずの自分を応援したりしているものです。

こんなに望んでいるのに…何故?と訝しく感じはするものの、最近、チョッとその理由が分かるような体験に遭遇しました。自分が望む幸せのイメージの輪郭が鮮明で具体的になっていないということがまず大前提に控えていることに加えて、手に入れたいものを手に入れるための準備段階においてすら、一つ一つの成果を受止めることにびびっている自分がいることを発見したのです。とても驚きました。

成功したい→そのためには一緒に頑張ってくれる仲間が欲しい…こうした思いを抱えながらも、人に自分の波動を伝えられずに、迷路をぐるぐるぐるぐる動き回っていました。ところが、私の意思に同調して、事業に加わって、私と共に勉強することを決めてくれる人が一人発生(?)したのです!→こんなことが起こりうるとは夢にも考えられないことでした。→一人でも、そういう人を見つけられると張り合いが出てきて、気持ちが変わると言われていましたし、自分でも、そうなったら、すごく嬉しくて、気分はハイになるだろうなぁと想像していたのです。→ところが、現実は違っていました。予想もしていなかった心理状態に見舞われたのです。自分だけならいざ知らず人にまでリスクを背負わせてはならない・巻き込んだら申し訳ない…そんな気持ちに襲われると共に、その人に幸せになってもらう責任が生じたことをはっきりと自覚しました。もう昨日までの、他人としての‘その人’ではなくなってしまっていたのです。

今までは、私が空想する‘幸せ’は私だけのものでした。人をまで巻き込んだカタチの幸せを想像したことはなかったのです。「あの人と一緒に幸せになりたいなぁ~」という願いも、現実のあの人を巻き込んでいるわけではないですし、これも悲しいかな…自分ひとりの空想の中での‘あの人’なわけです。ところが、現実的に、私の言動に影響を受けて、ある人が、その人の人生の方向性を、部分的にせよ、変更してみようという気持ちになり、行動を起こしてくれたのです。もやは、私一人が、幸せを空想しているだけの状態に留まることは、倫理的にも許されない状況へと歯車は回転し出すことになりました。

「幸せになりたいわ~」などと白昼夢のごとくほざいているわけにはいかなくなったのです。思いを現実のモノやカタチに変換していく必要が生じてきたのです。一歩先に歩み出した私がぼやぼやしていたら、私を信じて新たな価値を取り入れ始めてくれた人に顔向けが出来ないことになります。

そうしたら、人に何と言われるかわからない(えげつないとか気がおかしくなったのではと思われたらどうしよう)と足踏みしている私ではいられない…と考えるようになってきました。人は何とでもいうのです。すべての人が、私の事業に賛同してくれるとは限らないのは、あまりにも当たり前のことなので、いちいち傷つかなくても、一つ一つの事実として受止めていけばいいだけのことだと思えるような力持ちにならなければなりません。一人でも多くの人に、私の扱う商品を信頼し支持し親しんでもらいたい…という視点だけに目を向けることにしました。

こうして、突然の、この出来事をきっかけに、ほんの数日の間に、私の中に眠っていた未知の感情や感覚が微妙にかつ大きく揺れ動き始めたのです。今までの価値だけに安住して、これまでの生き方だけにしがみついていたとしたら、このような感情や感覚のことは一生知らずじまいで済んでしまっていたことでしょう。そう考えると、やはり生き方が、その人の現実を作っていくというのは本当のことだと強く思えます。

頭で考えて知的に処理するという手続きとは違うシステムが稼動し出しているような感じがあるのです。あるエネルギーが燃焼されて、今まで、コケのように堆積されて滞っていたものが、そのエネルギーの燃焼の力で一部押し流されたような感覚もあります。ネガティブな意識が岩のように立ちはだかっていて、素直で無邪気な感情が解放されずに縮こまっていたようなのです。人の気持ちは身体と同じですね。心の血管壁に塊となってへばりついている老廃物質を綺麗に取り除かないと人生や生活が豊かに拡がっていかなくて命取りになってしまいそうです。

RAS

2006年03月27日 | 日々の泡
脳の中にはRASという網目状の神経があるそうです。RASは夢や願望を叶えるための「外部情報」を取り込む高感度アンテナのようなもので、感度がいいだけに、その時、自分に必要な情報だけを集めて意識の中に取り込み、そうでないものは取り込まない働きを持っているそうなのです。「私はこういう人物とで出会ってこういう夢を叶えていく」と具体的に願うと、その指令を受け受けたRASは本当にそういう人物を探し出してくるそうなのですが…(本当でしょうか!)出会っているのに気づかないのは、RASの性能が落ちているためとか…。具体的な願望を持つと、RASのアンテナにかかりやすくなるそうですから、やはり目的は曖昧であるより明確な方が願いは叶いやすいということになるようですね。古今東西の誰もが、明確で具体的な目標を持つことの大切さを説いています。輪郭のハッキリしすぎたものが苦手で、明確なものには振り回されやすくて疲れてしまう私は、だからなのでしょうか?欲しいものを手に入れることがなかなか出来ません。本当に困ったものです!!!

宇宙意識

2006年03月26日 | 日々の泡
以前、このブログに時々、「宇宙意識」のことを書いていました。「宇宙意識」とは「宇宙の意志」というようなことらしいです。私が考えていた「宇宙意識」とはちょっとニュアンスの違うものでした。ある方のブログに、この「宇宙意識」についてのとても興味深い記載がありましたので、そのまま転記してご紹介します。『この自然を観察して見ると、いろいろなところに、宇宙意識が創り出した秩序を発見できます。今朝は広島でも雪がちらつきましたが、雪の結晶は、どうしてあんなに美しい六角形をしているのでしょう?ミツバチの巣を見ると、一つひとつの穴も、やはりきれいな六角形です。宇宙意識が設計した秩序は驚くべき精密さがあります。人間には、男女に共通して9つの穴があります。目(2)、耳(2)、鼻の穴(2)、口(1)、尿道口(1)、肛門(1)です。この9を2倍すると18です。これは、人間の1分間の平均呼吸数です。また、凪の状態の時の、1分間の海の波の回数でもあります。18を2倍すると36です。これは人間の平均体温。36を2倍すると72。これは、平常時の1分間の平均心拍数です。72を2倍すると144。これは、最高血圧の正常値。144を2倍すると288。これは、細胞が生まれ変わる平均日数です。また、受精卵が赤ちゃんになって生まれるまでの平均日数でもあります。そして、288を2倍すると576。これは、骨が生まれ変わる平均日数です。』すごいですよね!こんな話しをどこかで聞いたことがあるような気もしますが、私たちの生理的な営みにまで、宇宙意識が深く介在していたとは…しかも倍々の数字に意味が込められているとは!!宇宙の神秘のことを少しでも知っているか、あるいは、そのことに対してまったくの無知であるかによって、宇宙に対するアンテナの立て方が違ってくるかもしれません。時々は、宇宙からの情報を受信しやすいように、アンテナを微調整して動かしてみる必要がありそうです。

売る能力

2006年03月25日 | 読書
私は、今話題になっている小説とかエッセイとか自己啓発の類の本以外はほとんど読んだことがありません。が、最近、日系四世のロバートキヨサキ氏と公認会計士のシャロン・レクターという人の共著の「金持ち父さん貧乏父さん」という本を読んでみました。タイトルとは裏腹に(そんなにお気楽な本ではなく…)お金や経営に関するなかなか難しい内容が詳細に詰まっている本でした。私は株や不動産を初めとする資産運用のことにはまったく無知ですので、書かれてあることの字面を追うだけで、本の知識を生かして、自分も資産を増やしてみよう…というようなわけには行きませんが、幾つかの項目は、経営者になろうとする人でなくても、人生訓として面白く読めるものです。特に、セールスとマーケッティングすなわち、売る(モノだけではなく、自分の才覚や機転や信用などを含む)能力のことについて説明している件の部分は大変勉強になりました。売る能力の基本にあるものは『相手が顧客であれ従業員であれ、上司、配偶者、または子どもであれ、他人と意思を疎通させる能力だ。人生で成功するのに不可欠なのは、書く、話す、交渉するといったコミュニケーション能力だと言ってもいい。~中略~私はセールスとマーケッティングの能力ほど重要な技術はないと思う。大抵の人はセールスとマーケッティングの能力を習得するのは難しいと思っている。その大きな理由は、拒否されることに対する恐怖だ。コミュニケーションや交渉の仕方がうまくなり、拒否されることに対する恐怖心をコントロールすることが出来るようになれば、それだけ人生が楽になる。』私はセールスマンではありませんので、何とかして、商品を売るための努力や工夫に頭をひねらなければならないということが一切ありません。このことはとても有難いことでもあるのですが、人生や人間関係における重大な危機意識を見落としてきた要因でもあったのではないだろうかと、今頃になって自問自答しています。生きるためには、嫌でも人との関わりのことを考えなければならない…という局面に立つ必要が通常はあるものなのに、私にはそれが希薄だったような気がしています。嫌ならやめればいい。もうその人とは会わなければいい。極端に言えばそれでも済んできたわけです。商品についても然りです。どうしても、その商品を気に入ってもらうためには、商品に関する知識や、その商品の唯一無二の価値と素晴らしさを人に理解してもらわなければなりません。これまでは、私は、人に‘お願い’をしてまで何かを訴えることなど一度もしないで済んできたのです。(もちろん、プライベートは別です。)であればこそ、人に頭を下げる必要がないから、人とは対等な関係や立場で仕事をすることが可能であったわけですが、それはそれで、私にはとても良かったことなのですが、だからなのでしょうか?仕事をしていく上で、どうしても人を大切にしなければならない…とまでは考えてこなかったような気もするのです。相手の欲しいものが何なのか。どういうことを相手にしてあげればいいのか。そういう観点から人を眺めたことがあったでしょうか?コミュニケーション能力はそれほど洗練されていなくても、「私は人付き合いが下手だから…」で済ませてきてしまいました。以前に、精神分析の先生が、「分析の過程は交渉能力の過程でもある。」といわれた時、私はその言葉の新鮮さにひどく感動したものでした。書くという行為の不思議さはブログの世界で日々味わっています。話すという部分は、Blissさんとの時々の対話で行きつ戻りつ学ばせてもらっています。交渉能力というと仕事における取引上の言葉のような印象を受けてしまいますが、そういうドライなニュアンスとは別に、優れて人間的なコミュニケーションの手続きの用語でもあると、私は思っています。拒否されることに対する恐怖…これは本当に深刻です。拒否されたって平気だなんて決して思えません。だからこそ、この部分をどのように扱うかに‘鍵’があるのでしょうね!Amazoncojp:金持ち父さん貧乏父さん

さすが!

2006年03月24日 | 日々の泡
現在、職場をあげて取り組まなければならない仕事が山積している関係上、30名近くの要員が召集され、3~4名のグループを組んで、23時頃まで、集中作業をするという日が数日設けられています。私は、そのしょっぱなの日に組み込まれました。私のグループには、一人、事務職の人が加わっていたのですが、そのおかげで事務職の人の、仕分け作業をする際の手際の良さと整理能力の高さに、改めて感服し脱帽するという体験をしました。人間の能力というものは、実にさまざまなところに発揮されるものなのですネ。適材適所。場所を得れば、水を得た魚のように己の持ち味を生かすことができるのだろうと思います。

数年前、自分の、通常の仕事とはまったく異質な仕事を任せられることになった時、異なる職場の、事務職のBlissさんにお世話になったことがあります。その時も、事務職に携わる人の能力の高さに感嘆したものでした。細かい具体的な実務作業と共に、仕事の進め方や段取りの組み方をも教えてもらいました。私一人では、到底果たせなかったであろう成果がカタチをなしていくさまを、つぶさに身を以って体験した時、魔法の世界を垣間見たような心持になったことをいまでもはっきりと覚えています。私はもともとがせっかちですから、何事に対しても、意味もなく長引かせることが出来ませんし、とにかくさっさと片付けてしまいたいたちですが、Blissさんと一緒に仕事を手がけた時の記憶が、その後の仕事の仕方にも微妙に影響を与えていると感じることがままあります。仕事とは簡単なものではありませんので、質の向上にはなかなか手が届きませんが、とにかく‘直ぐやる課’であるということだけが、私の‘売り’です。

少年の心

2006年03月23日 | 日々の泡
WBCで日本が世界一の結果を出しました。私は野球のことは何も分かりませんが、それでも「もしかしたら、日本がトップに躍り出るかもしれないなぁ…」と漠然と感じてもいました。一番驚いたのは、イチローの態度やそれに伴う発言の数々です。韓国に敗れた時のむき出しの感情の発露には度肝を抜かれました。「野球人生でもっとも屈辱的な日」と言い切り、その後も、「韓国に3度負けることは許されない」「王監督に恥をかかせるわけにはいかない」とまで公言したのですから。その後の成り行きや形勢をまだ十分には読めない微妙な時期に、反感を買うかもしれない状況の中で、相手国を挑発し、自国のチームの危機感を煽り、結束力を固める。右に転ぶか左に倒れるかも定かではない渦中で、イチローの心をここまで駆り立てたものとは一体何だったのでしょうか?

これまでのイチローのイメージは「孤高」とか「クール」といったものでした。個人主義的で、勝敗が問われないオリンピックなどには興味を示さなかった経過があります。それが今大会では一転、積極的にインタビューにも応じ、喜怒哀楽を率直に表現したのです。準決勝で勝った時は「本当に気持ちいいですね。本当にしゃくに障りましたからね」など、今までには想像もできないほどのありのままの自己表現を惜しみませんでした。

 今回のこの出来事は、イチローの中に、元々は内在していたけれど、今までは日の目を見ることのなかった多くの豊かな資質を解放させるきっかけとなるものだったと思います。少年の心に戻れる体験だったのではないでしょうか?イチローの野球人生の原点にあるはずの並々ならぬ情熱が沸騰した感じです。昨年、「古畑任三郎」で見せた演技も高く評価されていました。いろいろなことに挑戦する気持ちの広さが伺われます。王監督に関するイチローのコメントも、王監督の人となりを的確に賛美する素晴らしいものでした。一時的に集合したチームでも、これだけの凝集力と牽引力を高めることが出来るのですネ。まさに一瞬の奇跡を見た思いです。見事なリーダーシップを余すところなく発揮したことで、イチローは、己の可能性の枠をさらに一回りも二回りも拡大させたことと思います。イチローを始めとする日本チームの健闘を心より称えたいと思います。コングラチュレーション!!!

類縁

2006年03月22日 | 至福の花
恋人・愛人・ベターハーフ・妻・女房・かみさん・家内・奥さん・うちの嫁…男の人が自分のステディな関係にある女性(婚姻も含む)を呼ぶ時に使われる呼び名の数々です。私の友人は、「夫が…」という言い方をしますが、仕事関係の仲間の多くは、「旦那が…」というふうに読んでいる人が多いです。私は以前から、旦那という呼び方が苦手でした。馴れ合いのちょっと崩れた関係をイメージしてしまうからです。私だったら、私の友人同様、夫という呼び方をすると思います。ただ、私にはよく分からないことですが、一度結婚すると、その相手を、確かに間違いなく、私の伴侶なのだと絶対的な確信を持ってしまえるものなのでしょうか?

NHKの朝ドラ「風のハルカ」のハルカの好きな猿丸さんという青年が、ハルカの父親にこんなふうに言っています。「僕はハルカのことを愛しています。でも手に入れたいとは思っていません。人の気持ちはどうすることも出来ないものだし、好きになりすぎると、思わぬところで相手を傷つけてしまうこともあります。時々支えたり話しをしたりして、遠くから眺めているだけでいいんです。愛してもらいたいとも思いません。僕ももういい歳です。一人でひっそり生きていこうと思っています。」ハルカを好きなのだけれど、決して受け入れようとはしない猿丸さんを見ていて、思わせぶりな態度は相手を傷つけてしまうものだということを思い切って遠まわしに伝えるハルカの父に向かって、猿丸さんはこのように胸のうちを語ります。

でもこれで終わるとは思えません。あと1週間ちょっとで「風のハルカ」も終結を迎えます。朝ドラは続けて観る時と、全然興味がなくてまったく観ない時とがありますが、今回は観続けました。いつも自分の気持ちに正直に生きてきたハルカが果たして、この猿丸さんに対して終盤に向けてどのようにぶつかっていくのか、とても楽しみです。

急に、話しが飛んでしまって、まったく関係のない話題に触れているようですが、実は、私の頭の中では、無理なく、こうした連想が浮かんできたのです。猿丸さんのような人もいる。そして、猿丸さんとハルカのような関係もある。全然、拘束しあっていないのに、とても仲が良く、風のような二人。

友人とか友だちという言い方は、何か、素っ気無くて、距離があってあまり好きではありません。程よく距離をおきたい相手や友人と呼ぶことで、その関係がぴったりの相手になら、その言葉は心地よく使うことが出来ます。女性の友人の場合は、まさに友人や友だちという言い方が一番好きかも知れません。けれど、相手が男性で、しかも私がかなり気に入っている人の場合には、友人とか友だちとかは呼ばれたくないし、そのような紹介もされたくありません。じゃあなんて呼ばれたら、気が滅入らないのか?いい言葉がずっと見つけられなかったのですが、最近‘類友’ならいいかなぁってちょっと思っています。

恋人とか愛人というと、いかにも、その人にとって一番大事な存在というような印象を与えますが、恋人や愛人という関係には、常に別れの予感が付きまといます。恋人や愛人はいつでも、実は交換可能な存在でもあるという落とし穴があります。だから、恋人とか愛人といっても、「その時はそうである」とか「あの時はそうだった」にしか過ぎない関係であることが多いのです。かつての恋人とか、今の恋人という言い方がその関係の儚さを端的に現しています。消費されてしまう関係という側面を持っています。もちろん、それはそれでいいし、それなりの役割もあるわけなのですが、誰かの恋人にも愛人にもなったことのない私としては、それってなんなんだろう…って思ってしまいます。その時の欲動がたまたまその相手に向かっていたというだけに過ぎない現象のことを指しているというような見方はあまりにも歪んだものでしょうか?

類友(類は友を呼ぶという言葉に象徴される同類の仲間の略語)は軽いけれど深い意味を含んだ言葉のように感じられます。地縁・血縁などという言葉同様、類縁という言葉も強い絆で結ばれた関係のことを指すような気がしています。