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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

純粋意識

2006年01月25日 | 読書
アーユルヴェーダ関連の書籍を読んでいると、しばしば‘純粋意識’という言葉が出てきます。この言葉の意味は自明の理として使われていることが多いので、何となく、自分なりの理解で読み飛ばしていましたが、この言葉の意味を詳細に説明してくれている本に出会いました。「私」という意識というものは、「私」という自分を‘見る’意識と、「私」という自分を‘見られる’意識とに分かれているそうです。それから、実は、もう一つ、見る意識が見られる意識を見ている状態という意識もあるそうです。アーユルヴェーダでは、見る意識のことを「認識者(リシ)」・見ている状態の意識のことを「過程(デーヴァタ)」・見られる意識のことを「対象(チャンダス)」と呼んでいます。このように、意識は一つでありながら、同時に三つに分かれているということの解説で、意識という捉えどころのない実態をより重層的に理解できるような気がしました。意識は常に一つに統一された状態にありながら、三つに分かれることによって自分を認識しているのです。マハシリ・ヴェーダ医療(形骸化していたヴェーダ医学をマハシリという人が生き返らせたところから、この名称を使っているようです。)この統一された意識のことを「純粋意識」と呼ぶのだということを今頃になってやっと知ることとなりました。三つに分かれた意識は、そのままには留まらず、認識している認識者を認識する、というような行程を繰り返し、分かれ続けているということです。(極めて哲学的ですネ!)私たちが日常生活で経験していることは、すべて意識の認識によって成り立っています。たとえば、お腹が痛い人がいるとして、このことは、その人が腹部の痛みを認識しているということであり、痛みを認識する意識が、痛みを認識する過程によって、痛みという対象の意識を認識しているということにもなります。純粋意識は普遍的な存在であり、永遠にその統一の状態を保ちつつ、同時に、それ自身の揺らぎによって認識者ともなります。そして認識者は自分自身を見ることによって過程を生じさせます。そこでさらに、意識は自分が見られる対象へと変化していくのです。過程とは、意識が自分自身を主観的に認識している状態であると表現できるそうです。私たちが、一般に「心」と呼んでいるものは、実はこの“過程”に相当するのだそうです。悲しいとか辛いとかの感情的体験を伴う「心」というものが、あくまでも個人の主観的な体験であることは誰もが知っています。心が常に動きを持っているのは(心コロコロという表現があるように…)その本質が活動だからだそうです。そして、過程は対象へと変化を遂げます。つまり、意識は自分を主観的に体験している状態から、客観的なものへと切り離し、対象となるのです。意識には‘あたかも自分を自分ではないものへと’変換するような力が備わっているということです。体や物質は意識から見た時、それは対象という状態にあるものなのです。……というようなことがヴァータとかラジャスとかタマスとかの専門用語を駆使しながら説明されますが、難しい用語はすべて省きましたし、途中の解説も、私が分からない部分は表現を変えたり、はしょったりしました。意識という小宇宙はこのように智恵深いもののようです。三つの機能を巧みに使い分けて、常に事象を観察し続けている賢い哲学者はいつも、どの人の心身の中にも常駐していると思うと、何だか一気に賢くなれるような気がしてくるから、不思議です。
医療法人社団 邦友理至会 [マハリシ南青山プライムクリニック]