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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

ハロウィン

2006年10月19日 | my favorite・・・
友人から届いた10月のお花はずばりハロウィン仕様です。文句なしに楽しく可愛い仕上がりです。黄色のグラデーションが‘元気’を誘います。

風水的にも、黄色は活力を蘇らせる色のようです。「黄色い花はプレゼントに最適」そう言いながら、私の家を訪れる時には、いつも黄色いガーベラと白のかすみそうをアレンジした生花を携えてきてくれる人がいます。黄色い花を見るたびに、「元気をもらっている」感じがする私です。

書く女

2006年10月16日 | my favorite・・・
二兎社の芝居は一体いつ頃から観るようになったのでしょう…もう思い出せない位、昔のことです。忘れもしません。雑誌HANAKOに掲載されていた宣伝広告の「あなたを忘れたい」という題名に惹かれて劇場に足を運びました。現在の二兎社の主宰は永井愛さん一人ですが、当時は、NHKの大河ドラマの脚本家としても有名な大石静さんと二人で主宰していて、早変わり二人芝居がそれはそれは面白く楽しく、気の利いたシャレた舞台でした。

永井さん一人になってからの舞台は、とてもシリアスになって作風の印象が様変わりしました。それまでの明るくおしゃれで哀愁に満ちた胸の痛くなるような舞台から社会派としての骨のある舞台へと変化していきました。永井愛さんは一人になっても撤退せず、孤軍奮闘の末、毎年のように演劇関連の由緒ある賞を総なめにするまでにビッグになられたのです。

私だけの偏った見方になるかもしれませんが、二兎社は昔から、女性の生き様を主軸に描いた舞台が際立って光っていたように思います。どんな困難があっても、それを背負ってしまったことに対する言い訳をせず、抱えてしままった矛盾から逃げずに進んでいく女性の意識を主題の一つにしていました。

今回の「書く女」は樋口一葉を主人公にして、小説の師である半井桃水や家族(母と妹)、歌塾の先生や女友達、幾人かの青年文士たちとのやり取りを中心にそれぞれの人物像が浮き彫りにされてゆきます。

私は演劇通ではありませんので、演出のことやお芝居の出来栄えについての専門的な批評はできません。ただ、寺島しのぶさんの鬼気迫る演技はやはり素晴らしかったと思えますし、周りを固める役者さんたちも力量のある方たちばかりでしたので、優れた見ごたえのある舞台空間の中に身を置けた感動を味わえたと思っています。

舞台の最終盤が一番のクライマックスでした。どん底の貧困状態にもめげず、その状況を持ちこたえた一葉でしたが、恋焦がれた桃水との恋の成り行きにおいては、とうとうどんなカタチも見ずに終わります。いろいろあったけれど…最後に一人一人の人に、一人一人の人の存在と向かい合ってお礼をいう場面があります。今では死語にもなっている感謝という言葉を思い出させます。その場面は、私にとっては見所の一つでした。圧巻でした。

現代では、あまり切実な問題としては取り上げられなくなりましたが、男女の立場の違いで、男性には許されることが、女性には許されなかった時代の、女性が抱える忸怩たる思いが吐き出されるシーンがありました。文言の一字一句を覚えているわけではないのですが、男性に許されることのすべてを、女性も同じように(それはおおっぴらには行わないとしても)やってしまえ…(こんな乱暴な言い方ではなかったとは思いますが、私の心の中には、このような勢いで入り込んできました。)そんなニュアンスのことを一葉が語る場面に、私はひどく感動しました。ここでは男女の対比で表現していますが、このことは男女の問題だけには留まらない問題だと思います。

誰かにできることを「あなたはしてはいけない」とか「あなたにはできない」とは言われたくない。「あなたにはできない。」という人の言葉に簡単に同意してしまうわけにはいかない。私の中にふつふつと湧き上がる思いでした。できないことは山ほどあります。人にはできることとできないことがあるのは当たり前なことは百も承知です。でも、自分がやりたいと思ったことが上手くいかないからといって、「あなたにはできない。」という言葉を容易に受け入れてしまったら、あまりにも自分が可愛そうすぎます。

舞台のセリフとは全然関係のない文脈にそれてしまっているのかもしれませんが、一葉の激しい言葉を耳にした時に、私の心の中に賦活された思いはこのようなものでした。芝居の中のセリフや役者さんの造形に触発されて、自分の身のうちに潜在している感情群の特徴を確認するのも楽しい経験です。

二兎社うぇぶ

攻防戦

2006年10月07日 | 日々の泡
精神分析的精神療法を受ける際の、セラピストとクライエントのやり取りのことを「交渉」という表現で、その関係を端的に表現された専門家がいました。問題を抱えて、その解決の助けを求める場合、どうしても依頼者の方が、立場が下のように感じられてしまうことが多いのですが、本来は対等な関係であるべきです。

考えてみれば、コミュニケーション能力というものは、緊張感を伴わない、「井戸端会議」的なものや「仲良しこよし」風のものならば別ですが、物事を前進させるためのやり取りであるならば、それは相手との交渉能力の域に関わってくるものだろう…と思えます。

さらに一歩踏み込んで言えば、その交渉が、ある種、命がけの様相を呈してくる場合、攻防戦ともいえる雰囲気を持つものともなってくるでしょう。私も本気なら、相手も本気である場合には、畢竟、そのような成り行きになるはずです。

‘本気’が足りない時には、‘気’すなわち‘波動’が相手に伝わっていかないので、ゆるゆるとした、世間話や雑談の域を超えられません。

私は最近、気がつけば、命がけともいえる攻防戦を繰り広げている自分に直面しました。攻防戦の領域に足を踏み込んでいる時には、恥とか外聞というものが出る幕がないことも知りました。それは、いろいろな面で、相手に飲み込まれてはならないからです。ものすごい消耗感です。そんな攻防戦を潜り抜けても、それでも、その先に成功体験が待っているとは限らないのが人生と知りました。