

数年ほど前になりますが、当時、ある巨大精神科病院の医師をしていらした先生の勉強会に出席していたことがありました。その先生が書いておられる一般向けの本は、人の‘欲求’という問題について、深く掘り下げているものなのですが、一見はとても分かりやすく書かれてあるにも拘らず、これがなかなか微妙な、実は本当に難しいテーマなので、私はこれまでに何度も、手に負えない感じがして、この問題を投げ出してしまっています。随分長い間、勉強会にも出続けていましたが、先生の言わんとされることが、とうとう、私には理解することが出来ませんでしたので、袂を分かつことにして、今では、ご縁も切れています。

けれど、‘意識’というものの存在を、強烈に意識するようになったのは、この先生のおかげかも知れないという思いがどこかにありますので、また最近、少し、先生の本を読み返しています。

『人は、欲求を実現してこの世の時間を楽しむ。満たされた欲求は次なる新しい欲求を生み出し、より深い、より精妙な喜びを準備する。しかし、満たされなかった欲求は、人の成長を止め、人生全体を否定する。人生の否定とは、自分の精神的な成長の否定でもある。』

上の文章を読んで、本当にそうだなぁ!と思いました。私はこれまで、自分の真の欲求を実現できたことなど、数えるほどしかありません。しかも、若い頃には、自分の願いは面白いほど何一つ実現しませんでした。最初の欲求が満たされないのですから、新しい、次なる欲求など出現しようもなかったわけです。ですから、真の欲求が、より深くてより精妙な喜びからは程遠いところに留まり続けているのもやむを得ないかもしれないのです。欲求はいつまでも満たされないままに、欲求自体が賞味期限切れになってしまっているので、自分でも、自分の真の欲求が何であるのかさえ分からなくなってしまっているところがあります。満たされなかった欲求は、私の成長を止め、私の人生全体を否定する役割をとっていたのかもしれません。私は、実は、このジレンマの網に深いところでがんじがらめになってもいたのです。

私は、人間の気持ちというものは年を経たからといって、本質的には変わるものではないと思っている人間ですが、通常は違うようです。人を恋する気持ちも、憧れる気持ちもいつまでも色褪せる事はないし、ある意味、ますますピュアになっていくものだと確信していますが、多くの人はそうは言いません。「若い子じゃやるまいし、愛だの恋だのはもうどこかへ置いてきた。」などと平気で言い放つ人もいます。そんな時は、「はあぁ~」と返すだけで、それ以上は何も言えなくなってしまいます。だから、私はどんどん寡黙になっていくのかもしれません。秘密主義にならざるを得ません。自分を語ってみたところで、世間の中では、私は浮くばかりだから…と思えば、面倒臭くなるだけです。でも、ここで一つ気づいたことがあります。私は自分を、人には見せませんが、心を閉じているわけではないということです。私は、とてもオープンマインドで正直な人間なんです。オープンマインドだけれど、自分を見せないだけなんす。でもそんな理屈は、誰も認めてはくれないかもしれませんね。「そんなのありかようぅ~」って言われるだけかもしれません。

自分の欲求を思い出し、「そうだ!これからは、自分の欲求の実現に向けて成長していこう!」って思えただけでも、私は自分自身を取り戻した気持ちになっています。