プロの仕事 2005年11月30日 | 日々の泡 最近、突然メールの受信が出来なくなってしまうという出来事に見舞われました。 背景には、私がパソコンをインターネットに接続する際に選んだプロバイダーがどんどん進化し、統合を繰り返す過程で、この度は大幅な設定変更を余儀なくされるという状況がある中でのアクシデントでした。 私の家では2台のパソコンをADSLモデムを介して無線ランで飛ばしています。ある時を境に、IP電話も導入することにしました。IP電話にプランを変更する場合にはモデムの型番もそれに対応する必要があるという都合上、IP電話とADSLの両方を使用できるモデムに変更した経過もあります。その際、レンタルで使用していた、それまでの古いモデムを返却するなどの手間がかかったり、新しいモデムで再設定したりと、なかなか煩雑な作業が伴ったので、何か一つ機材やプランを変更するのにも、とても気が重い決断が伴うという経験をしています。 新しいモデムで再設定する際も一筋縄にはいかず、無線ランがうまく機能してくれるまでにも大変な作業時間がかかってしまいました。ですから、パソコンにまつわる不具合には本当に頭を悩ましてしまいます。 ブログの場合には設定変更は不要ですので、私は気楽でしたが、ホームページの場合には設定変更が必要になります。もう1台のパソコンを使用している家人は自分のホームページを持っているため、設定の移行作業をしなければなりません。移行作業を無事に済ませて、最後にパスワードを覚えやすいものに変更する段階で、自分はWebメールしか使っていないのだから関係ないと思って、パスワード一括変更ボタンを押してしまったというわけです。(家の中に、プロバイダーからメールアドレスをもらっている人間がいるということを忘れていたそうですから呆れてしまいます。)それで、メールパスワードも書き換わってしまったため、突然メールの送受信が機能しなくなったということが、サポートセンターの方が原因を突き止めてくれたのでやっと分かったような次第です。 家人に、その辺の状況を確認できないまま、(何しろ、パスワード一括変更設定をした、当の張本人はほとんど家にいることがないので、私としては、その辺の経緯を確かめるすべもなかったのです。)この一連の不具合を修正する過程はサポートセンターの専門技術員が全部フォローしてくれました。辛抱強く、こちらが理解するまで手取り足取り、嫌な態度一つ見せずに付き合ってくれるのです。私は元々、メカに弱いたち故に結構、サポートセンターにお世話になる機会が多いので、親切に指導してもらう度に、有難くて心から感謝することばかりなのです。 技術員にもいろいろな方がおられるので、その方たちの態度や対応から「こういう説明だと何も分からない人にも分かりやすい。」とか「こういう態度は相手に多大な安心感を与える。」とかのことを、いろいろ学んだり教えられたりことがことのほか多いのです。いつも彼らから‘プロの仕事’というものはどうあるべきかをユーザーの立場からいろいろと教えてもらっています。 こうして、人のお世話になる度に、私も、人に嫌な感じを与えずに、人から有難いと思ってもらえるような仕事が出来ているだろうか?と我が身を振り返っています。 社会の仕組みは、専門知識を持った人間同士の仕事振りで支えあうように出来ているのだとつくづく実感します。★ところで、突然、話しは飛躍しますが、家族というものは社会の仕組みの中の最小単位の一原型であり、主婦という立場にある人は、人(家族)を支える…という意味では、家族という一システムの中の要となる存在なのだということに気づきました。通常は、主婦の仕事が報酬を受けるという形はとりませんが、他者を支える仕組みの最たる典型となるのではないでしょうか?主婦のエキスパートがこなす仕事は、部分を分担するものではなく、家の中のすべての(人やものの)マネージメントを管理しているわけですから…。年中無休の重労働をこなす専門知識を備えているプロそのものだと、いつも尊敬の念で眺めています。
意識への注目 2005年11月29日 | 日々の泡 以前に、【意識の7段階】という記事を書いたことがあります。その時点では、意識というものに対する認識も、書物を通しての知識以上のものではありませんでしたし、自分の中に体験としての積み重ねが希薄でしたので、自分の言葉で意識のことを語ることが出来ませんでした。ところが、この頃、自分自身の意識状態の微妙な変化をしばしば自分の感覚で捉える時間を体験するようになったため、意識というものの存在を生き物のように感じる瞬間が多くなり、そのことを不思議に思いながらも、とても興味深く、自分の意識状態を眺めるようになってきています。そうしてみると、あの【意識の7段階】というものも、自分の意識状態を測るための一つの目安であり、羅針盤としてのツールに過ぎないと考えるようになっています。時を選ばず、さまざまな意識状態が、私の身体の内奥から込み上げてきます。大きな特徴としては2つあります。以前には、恒常的に存在していた「ざわざわとざらついた否定的な感情にデコラティブされた意識」が、この頃では、恒常的なものではなくなっているということです。けれど、思いがけずも突然に、突き上げるようにこの意識状態がやってくることがまだまだ多いです。もう一つは、かなり前に体験したことのある【宇宙意識】に似た【至福】の感情を伴う意識状態がたま~に、私を訪れてくれるようになったということです。以前に体験した、この種の意識は、とろけるような心地よい意識でしたが、つい最近、感じた意識は、湯上りの時のように清潔で身体全体が静かに落ち着いた感覚に包まれながら、暖かさに満たされた気分が押し寄せてくる…という意識でした。意識の状態もよく‘見ている’と千差万別の様相を呈しているようなのです。今までにも体験したことはあったのかもしれないのですが、自分の内面のうごめきを静かに観察するなどという余裕も発想もなかったのでそんなことには気づかなかったのだと思います。こんなに身近に、絶え間なく変化している‘揺らぎ’があることに今まで何故、優しい気持ちで注目してこなかったのでしょう。いろいろなことをあまりにも迂闊に見過ごしてきてしまったのだろうと悔やまれたりもしています。 ★以前の記事【意識の7段階】はこちら
水牛の骨 2005年11月28日 | 日々の泡 先日、あるアロマの勉強会で、10月頃に知り合った漢方アロマを生業にされている女医さんに偶然再会しました。手をとって再会を喜んでくださる、その喜びように、私は少々気圧されて、どぎまぎしてしまいました。中国の方は、私たち日本人より感情表現がストレートでぐいぐい相手の気持ちの中に突進してこられる方が多いような気がします。久しぶりにお会いしたのだから、私の方も、もっとオーバーアクションのパフォーマンスをお返しした方がノリが良かったのかもしれませんが、社交辞令的な礼儀作法が苦手で、むしろ本来は引っ込み思案でもある私としては等身大の、‘今の自分’のありようを伝えることしか出来ませんでした。それで続いていく関係でなければ、いつも自分を取り繕っていなければならないので、関係自体に興味を失ってしまいます。だから大抵の場合、私の態度は‘無礼’なものとして相手に映っているはず…と推測しています。ところで今日の本題は違うところにあります。アロマを使っても、なかなか偏頭痛が取れないという、私の現状をお話したら、多分使用量が足りないのだろうとの指摘を受けましたが、と同時に、その女医さんがいつも携帯しておられる水牛の骨の固い黒いへらのようなもので、両側の首筋から背中と腕をこすってくださったのです。調子の悪い部分は真っ赤になるとのことでしたが、本当にそうでした。その赤みの様子から、風邪っ気があると言われましたが、後から考えると、身体に熱がこもっていたというか湿気っていたような気がしましたので、あれが風邪の独特の前駆症状だったのだろうなぁと得心出来ました。水牛の骨で経絡に沿って強い刺激を与えていくこの方法は、以前にご紹介した【吸い玉】に似たような治療法だと思いました。かなりの力でこすられるので、痕が残ってしまうのではないかと懸念しましたが、3日ほどで消えると言われた通り、本当にいつの間にか消えていました。デトストックの原理で、皮膚の表面から老廃物を排出させる方法らしいです。その後、世界ウルルン滞在記を見ていたら、この水牛の骨を使用している場面が出てきたので、(番組の中では、この水牛の骨を特に紹介はしていませんでした。したがってホームページにも写真は載っていません。)アジアの代替医療の現場では、この水牛の骨は治療のための必須アイテムらしいということがひょんなところから分かって面白かったです。 ★世界ウルルン滞在記→トップページの左側にある地図の右上の【ON AIR】をクリックして、11月20日放送分をご覧ください。中国の桂林に住むマッサージのすごワザの持ち主を紹介した回です。 ★【吸い玉】に関する記事
臨死体験と気功と瞑想 2005年11月27日 | 日々の泡 私が日々実践しているのは、瞑想などと呼べるような代物ではなく、瞑想の真似事に過ぎないと思っています。ただ目を瞑って、少しでも心静かな境地に近づけるような所作のカタチを作っているだけの段階でしょう…。気功も【たんとうこう】だけは極力、毎日行っています。目に見える効果はすぐには期待できませんが、いつの間にか、じわじわときっとそのうち何らかの効力を発揮するものなのだろと考えてはいます。が、もちろん、何かを必ずしも期待をしているわけではないので、何の変化がなくてもそれはそれと思っています。ただこの2つのキーワードが臨死体験という言葉と密接に深い結びつきを持っているということを言っているサイトを偶然にも見つけて興味を惹かれました。物事の成り立ちやある事象に対する考え方や捉え方は人さまざまですので、この考えにも賛否両論が集まるでしょうから、結局、事の真相はつまびらかにはなりませんが、案外、この3者は無関係ではないのかもしれないと、私は考えています。ただ、臨死体験にも体験の層にレベルの違いがあって、その後の変化も、体験の主にとって、いい方向に生じる場合と、あまりよくない方向に生じる場合とがあるような気がしていますので、臨死体験を語ることには微妙ないわく言いがたい感覚が伴います。臨死体験がいいことだとか悪いことだとかは論の外に位置していると思います。いいとか悪いとかの問題ではなく、体験した人にとっての事実が、体験した人の数だけあるということになるのかもしれません。 ★臨死体験・気功・瞑想の関係 ★「たんとうこう(站粧功)」に関する以前の記事
人間関係力 2005年11月26日 | 日々の泡 イギリスの文化や風土やイギリス人の暮らし方など…とにかく、イギリス全般のことに詳しい井形慶子さんという方は月刊情報誌「ミスターパートナー」の編集長でもあります。ご自身も、中学生の頃から、強烈な結婚願望を抱いていたということもあって、恋愛や結婚についての見識や見聞には、余人の考えも及ばない洞察力をお持ちのようです。最近、電車の広告で彼女の著作のことを知り、図書館にリクエストを出していますが、まだ本命の本は届いていません。が、類似したテーマで、他の読みやすい本を通勤電車の中で読んでいて、「なるほどなぁ!と感心させられたフレーズがいくつか飛び込んできたのでご紹介したいと思います。①【恋愛や結婚はロマンスではなくシビアな人間関係力が最後の決め手である。】←ただ、「好き」だとか「惚れたはれた」だけでは、人間関係は続かない。「俺について来い!」の時代は過去の遺物になったとし、20~30代のこれから何者かにならんとしている男性に、あれもこれも望んでも、望むこと自体が土台無理な要求であることを説明しています。男性にも女性にも、相手を惹きつけるためには押したり、引いたり、相談したり、提案したりというバランスがないと、すぐに飽きられてしまうと説いています。でも本当にそうなのでしょうか?恋に恵まれたことのない私など、町を歩いていると、カップルだらけなので、私以外の人々は、有り余るほどの恋を抱えているのだろうなぁと思え、とても楽しそうに、自分たちの‘恋’を謳歌しているように見えてしまいます。けれど、実態は、2度目のデートに漕ぎ着けられるカップルは極少なのだそうです。②【恋の成就のことはさておき、勇気を出して、相手に近づいてみましょうそれは、一つには自分の恋を成長させるためと、好意を寄せている相手のことをもっと深く知るためにです。】←このことは恋のことに限りませんね。どんな人間関係においても、自分からも相手に歩み寄る気持ちがなければ、関係は少しも発展していきません。結果は、自分の努力だけでどうにかなるものではありませんが、何事もプロセスが大事であることを思えば、傷つきが怖い…とビクビクしているだけでは何も始まらないでしょう…ネ。③【男の人の愚痴を聞いてあげよう】←ほとんどの男の人は、落込んでいたり、うなだれたりしている女性には相談に乗ってあげたり、手を貸してあげるのに、女性側は、男の人の弱音や愚痴に対しては、意外に寛容でないことが多いそうです。これも、生きることがとても難しくなっているこの時代に、男女で心の仕組みに決定的に大きな差や違いがあるはずもないので、お互いに助け合い、いたわり合えたらいいのではないかと、私も同感です。④【ステキな男性の特徴(共通項)はバランスとバラエティである】←人との距離の取り方、仕事と私生活の時間の使い方、これらはすべてその人の中に潜む「バランス」感覚とのこと。そして、このバランス感覚にすぐれた男性をよくよく観察すると、10~20代の頃、猛烈にアルバイトや仕事をした人が多いそうです。そしてもう一つ。そんな彼らの中にはどんなジャンルの話しをしても相通じる豊富な「バラエティ」があるのだそうです。平たく言えば、実に多趣味で興味の対象が広いということなのだそうです。最後に、⑤【自分が分かることだけを認めていったのでは先に進みません。相手を上手にカバーするコツは、何よりもあなたが相手と積極的に関わる姿勢です。】←関わらないでいる、という状態も、ある時は、それが積極的な関わりの姿勢であることもあります。でも、気持ちは常に、「あなたを忘れてはいませんよ。私はとても積極的にあなたに関わっているんですよ!」という姿勢を持つことが大事だと、再確認させられました。理屈はともかく、元気を貰えたこと、人に対して積極的になってもいいんだって、もう一度、思えたことで、幸せな気持ちになれました。 ★mr partner
ロングホール 2005年11月25日 | 至福の花 パソコンを最初に購入した頃、メルマガが配信されてくるのを楽しみにしていた時期があります。当初、読んでいたメルマガで今でも読み続けているものが2つほどあります。いずれもスピリチャルな精神世界関連の内容を扱ったものです。面白いことに、私の気持ちがハッキリしないときなどにポーンと飛び込んでくるメルマガの内容にはっとさせられることが多いのです。今回のメルマガの内容は次のようなものでした。『私たちはいざコミットメントとなるとなかなか踏みきれず、ロングホールはとてももたないと考えてしまいがちです。それには理由があります。自分自身も含めて、継続して与えつづける価値のある人など、だれもいないと思っているからです。自分の価値を認めていないので、ほかの人の価値も認めないのです。自分の価値を認めていないと、役割や義務やルールにがんじがらめになったり、まちがった理由で「正しい」行動をしてしまいます。ところがコミットメントによって、より大きな感応力、より真実の選択、より高い倫理のある場所へと導かれるのです。』 この頃では毎日のように、あの【事件】のことをブログに書いています。あの【事件】を境に変化してしまった私の感覚や感情や気持ちのことにまつわるあれこれをです。Blissさんに対する私の構えも大きく変化してしまうのだろうかと不安に思った時もありました。この度の変化は、私が望んだり望まなかったりしたわけではなく、どうしようもなく自然にどこからかやってきてしまうものだったので、自分ではそれを防いだり歓迎したりすることは出来ないものばかりでした。だから、大きなうねりが一応、引いた今、Blissさんに対しては、いい意味での変化はあったとしても、私にとって大事な存在であることに変わりはなかったという現実に大いなる安堵を覚えています。
クリスマスイルミネーション 2005年11月24日 | my favorite・・・ 新宿アイランドタワーのクリスマスイルミネーションです。アイランドタワー内の木々にライトアップされた青とシルバーの色彩が鮮烈な印象で、心の中まで真っ青な青色一色に染まってしまいそうで…とても素敵です!心がワクワクします! 地下にある広場では(右の画像)、時々、無料のライブが開催されています。 ↓青梅街道沿い側にある入口と、地上広場の一角にあるお花屋さんの様子です。 ↓画像がぶれてしまっていますが、雰囲気を感じてみてください。
他力【たりき】と他力本願【たりきほんがん】 2005年11月23日 | 日々の泡 他力に本願という文字がくっつくと、【他力=他人の助力】を心から謙虚に願うという深い意味を持つような印象を受けますが、実際には、自分の努力はそっちのけで、他人まかせにするという意味合いになってしまうのですから、言葉の使い方というものは本当に難しいものです。 『他力』という書名の五木寛之氏の書き物が出版された当時は、【他力】の態度が、この混迷の時代を生き抜く上では欠かせない要素である…という特集がテレビや雑誌でよく組まれていました。【他力】の意味を辞書でもう一度、確認してみますと、〔(1)他人の助力。(2)〔仏〕 自己の力で悟るのではなく、仏や菩薩の力を借りること。仏・菩薩の加護のこと。多くは浄土教で、衆生(しゆじよう)を極楽へ救済する阿弥陀仏の本願の力のこと。〕という説明がなされています。ちなみに、【自力】の意味は、〔(1)自分自身の力。「―ではいあがる」(2)〔仏〕 自分に備わっている悟りを開く能力。また、自分の修行によって悟りを開こうとすること。〕とあります。【自力】も【他力】もどちらも、一人の個人の中に混在しながら、いい意味で、時と場合に応じて、バランスよく使いこなせばいい力であることが了解できます。ところが、【他力本願】となると、冒頭で触れたように、途端に、〔他人の力に頼って事をなすこと。他人まかせにすること〕ということで、あまりいい意味合いが含まれないことになってしまいます。 前段の説明が長くなりすぎてしまいましたが、実は、私が、このブログを書き始め・書き続けることの大きな目的の一つに、気功を実践することで起こってくるであろうはずの、自分自身の変化を見つめていくということがあったのですが、7ヶ月以上もの間、毎週1回も休まずに通い続けてきた気功教室と私との関係が、困ったことに、マンネリ期に突入し始めたと思ったら、あれよあれよという間に突然、終結期を迎えてしまったのです。見ることも聞くことも珍しく、吸い取り紙のように、知的興奮を感じながら、何かを吸収していた時期は、今や、確実に終息してしまいました。最初の頃は質問だらけだったのに、終わりの頃は質問も疑問も湧いてきませんでした。気功の先生は何もどこも変わってはおられませんので、変わったとすれば、それは私の何かが変わりつつある…ということになってしまいます。何かが確実に変質しつつあるのです。原因は特定できる何かではないのですが、何かが停滞していることを感じないわけにはいかない状況を迎えてしまいました。原因は特定できないとは言うものの、取りあえずは、2つの原因が考えられます。先生は変わっていない。けれども、私が先生の、今までには気がつかなかった一面に気がつくようになっていたということと、最近経験した恐怖体験がもたらした心境の変化が気功教室に対する私の態度を変容させてしまっているらしということです。【他力】や【他力本願】という言葉も一つのキーワードになっているような気がちょっとしています。もはやこれ以上、先生を師と仰ぎ続けることは出来なくなっているようなのです。これ以上の関わりは、【他力本願】でも【他力】でもない世界に知らず知らずのうちにスライドして行くことになるということを私の無意識が気づいたようなのです。ある時期においては、とても重要な影響を自分に及ぼしていたものが、突然、何らの意味をも持たなくなるか有害にさえなる…そんなにあることではありませんが、何度かそういう体験をしたことがあります。もちろん、相手ばかりではなく自分にも原因がありますが、裏を返せば、どちらのせいでもないという言い方も出来ます。仕方のないことなのだと思います。悪い関係ばかりでなく、いい関係にも、何故か?縁が切れれば終わりが訪れます。(縁が切れたり繋がったりすること…その違いが何に由来するのかについての経緯は、私には推し量ることが出来ませせん。大いなる謎ですが、その謎には太刀打ち出来ません。)この停滞は、私にこうした変化を知らせる兆候だったのでしょう…。けれど、渦中にある時は、何事にも一生懸命に夢中に取り組むたちなので、後悔という感情とは無縁です。【他力本願】や【他力】で良かった時期は驀進期でもありますので、勢いもあり吸収することも多いですが、【他力本願】が無害である時期にはいつか終わりがやってきます。これからは、生活の中で無理なく続けられる気功を、自分なりにやっていこうと思うようになりました。 ここで、話題はまたしても突然、変わりますが、気功を始めた時期とカイロ治療を開始した時期が丁度重なっているのに、両者に対する態度がここに来て、正反対であることにも不思議な符号を感じています。カイロについては、途中で放り投げるわけには行かないという覚悟を持てているのです。カイロ治療においては、完全なる【他力】の姿勢がとても大事だということが分かっているからかもしれません。カイロの治療を自力でやられたら、それは非常に恐いこと…だそうですので、全面的に治療者を信頼し身を委ねる気持ちが身体の改善にも繋がっていくのだろうと…信じることが出来るから…気が楽なのでしょう。 ここでまたチョッと話は横道にそれますが、神田橋先生は毎週、カイロ治療を受けながら、その技法を一生懸命盗んで、患者さんにミニ治療をしてあげるのだそうです。先生の行きつけのカイロ治療院では、アロマテラピーも取り入れているとのことで、その影響もあって、神田橋先生はいよいよ、アロマ治療も開始されるそうです。アロマテラピーは一種の漢方治療でもありますので、その人にあったお薬(アロマの場合は香り)の選定や調合が非常に難しいのですが、調合の妙次第では、西洋医学の力も及ばないほどの効力を発揮する可能性に、(漢方治療は)開かれています。 これから、気功を自分の生活の中にどのように位置づけていくのかが思いがけずも大変な課題となってしまいましたが、これからも【他力本願】のみに陥らないように注意しつつ、【他力】と【自力】の出番を見極めながら、縁あって、自分が夢中になるほど魅せられたものに対しては、注意と関心を向け続けていこうと思っています。
なにもできない… 2005年11月22日 | 日々の泡 あの【事件】以来、私は糸の切れた凧のようになってしまいました。もう自分の力以上のことは何も出来なくなっているのです。出来なくなっているという事情はあるものの、自分以上のことをやろうとする気力もなくなっているというのが本当のところです。何故か、向上心を敢えて持たないでいたいという気持ちがとても強いのです。何らかの【気】が抜けてしまったのでしょう…。背伸びをする必要性も感じなければ、その気にもなれないのです。ある意味、こんなに楽な状態を今までには体験したことがなかったような気もしています。最低ラインで低め安定に生きる事しか出来ないのです。最低限のことしか出来ない生活振りです。極端に言えば、食べて寝て呼吸をすることしか出来ない…といってもいいかもしれません。野心を抱いたり、必要以上の欲を持ったりすることが出来ません。もう、非凡であることには興味も関心もなくなってしまいました。ぼーっと周りを見つめていると、自分にとって必要なことだけには自然に気持ちが動いていきます。ほとんどの情報には目を通さなくなりました。 もう、あくせく情報をかき集めようとはしないし出来ないのです。世の中の大方の情報は自分には不要なもののような気がしています。けれど、自分にとって大切な人やものに対する気持ちの掛け方は強くなっていると感じています。 思いは強くなっているのに、執着心やこだわりの感情や気持ちには以前ほど苦しむことはなくなりました。静かに見つめているだけで、なかなか行動は伴いません。 あの【事件】を【臨死体験】とは言いませが、あんな忌まわしい【事件】だったのに、あんなことが、私にとっての何かの【通過儀礼】の役割を果たしているようなのです。 死ぬほどの恐怖体験、自分が無になっていたかもしれない…という体験を通過することの重大なダメージ。 それは、1つの個体から、何かをこそげ落とさせる働きを持っているようです。 プリミティブな段階でしか生きられなくなっているから…私は眠ってばかりいます。 寝ても寝ても、いつも眠くて、どこかに吸い込まれていくようです。これから先、私はどうなっていくのでしょう?
見てる街 2005年11月21日 | 日々の泡 家の近くの町内掲示板に貼ってあった「見てる街」のチラシです。いつから貼ってあったのか?気が付きませんでしたが、町内のあちらこちらの掲示板に一斉に貼られてありました。右下に小さく「けいしちょう」とあるように、もちろん警視庁で作成されていることは分かりますが、どんな部署の(広報担当者であることにも間違いはないでしょうが)どんな人が考案したものなのかを想像してしまいました。家を擬人化している発想がとてもいいですし、しかも、指した指先が大きくクローズアップされているところも、いかにも、「家だってちゃんと見ているんだぞ!」という主張が強く表現されていて、「そうだ!犯罪は許さないぞ!」「この街は通報する街なんだぞ!」という共同体意識を持つことが出来ます。簡潔な言葉でズバリ、こちらの気持ちに【何か】を訴えかけてくるチラシ一つで、防犯意識もぐっとモラルアップしてくるから不思議です。