
心身総体の中から‘部分’が浮き出て、(ある状態として)症状が表出してくるのだそうです。ですから、歯の‘噛み合せ’が良かったり悪かったりするという‘部分’は全身(心身共に)状態に多大な影響を及ぼします。王監督がご自分で語っておられるそうですが、選手時代に一本足打法でボールを打つ度に、強く歯を食いしばるので、奥歯はすべてぼろぼろになってしまったということだそうです。一昔前は、家庭医は舌や脈をみながら、あるいは患者さんの体を触診しながら、全身状態を観察してくれたものです。それが、最近では、医療も高度に細分化され、(しかも、個人保護法の関係もあって、大きな病院の待合室では、私たちは、名前ではなく番号で呼ばれることも当たり前の風潮になってきています。)切り分けて切り分けて、ある部分(臓器)だけを精密に調べるという態勢(体制)になってきてしまっています。あっちもこっちも悪い場合は、いちいち診療科を変更して受診し直さなければなりません。内的な異常を早めに察知する能力が高くても、未病の段階で、医療に関わったとしたら、検査の結果にデータとしての異常がなければ、それ以上の訴えは‘気のせい’か‘不定愁訴’として片付けられてしまいます。人間としての喜びや感激は人や物事の‘全体’と接する時に生じてくるものであって(experiennce near)、切り分けて、部分のみをミクロで観察していくという態度からは、生きているという世界から遠ざかっていくことにもなってしまうので(experiennce distant)、湧き出てくる感情からも遠ざけるという以上の何ものをも生じさせません。切り分けられているものが多いほど、生命体は滑らかには動かなくなっていきます。私も、少し前までは、薬を信頼する気持ちも割合強かったですし、医療にかかることにもそれほど抵抗感もありませんでしたが、この頃では、医療が、私たちに提供してくれられるサービスの限界を感じずにはいられないことも多くなってきています。これはお医者さんのせいではないのですが、あまりにも、物事の発展や効率を目指しすぎてしまって、‘木を見て森を見ない’現象があちこちで起こっているようにも感じています。人や事象をトータルで見ていくという視点をもう一度蘇らせる世界観を取り戻したい!と願わずにはいられません。心と身体と精神が統合されてこそ、私たちは、自分らしく機能出来るのではないでしょうか?