

神田橋條治先生の『古稀記念―「現場からの治療論」という物語』という新刊書は難しい言葉は使われていないため、一見、読みやすい内容なのかと勘違いしてしまうかもしれませんが、大変に難解で、私には歯が立ちませんでした。頭では、ほとんど理解できないのです。感覚的にしか、しかも自分なりにしか、この‘童話’を読み解くことはできませんでした。ただ、ここに出てくる‘ファントム’という単語が、現代の人間のあり様や実態をとても分かりやすく表現してくれていると感じられて、目からウロコの思いに捉われました。恐らく、ヒトを、このように捉えて、今の現実社会で散見されている種々の現象を説明してくれている書籍は現在のところは他にはないと思われます。その意味では、まったく新しい概念に出会ったという驚きと新鮮さを覚えました。

さて、これは、精神科臨床の治療の現場で起こりうる危険を回避するための、あるいは、より良い精神科治療を進めるための治療者の態度や心構えを初心者やベテランというすべての臨床家のそれぞれのレベルに応じて受止めさせうることのできる啓蒙の書なのだと思いますが、私にとっては、今までとはまったく違う場所へと連想が飛翔していってしまうものでした。治療の場で起こることとは関係のない、一般の人間関係における様相のことだけが脳裏を駆け巡ったのです。

ヒトはファントム(幻という意味でしょうか?)である…という定義(?)を前提として、この物語は始まります。ヒトはファントムとしての、あくなき自由自在性を求める自分と、あくまでも保守性・存続性を志向する(からだの声に耳を傾けることの大切さが起死回生のための鍵であることが強調されているからには、保守的であるからだが心の安定性の要になっていくのだと想像されます…)からだ(からだは、こころほどにはやみくもに自在性を追求するということはないのだそうです。)である自分とで構成されている存在であることから、治療者にはファントムT(セラピストの頭文字のT?)とからだTがあり、患者さんにはファントムP(ペーシェントの頭文字のP?)とからだPがあることになり、治療者と患者さんとの関わりは、ファントムT、からだT、ファントムP、からだPの四者の関わりが錯綜して、二者の関係が織り成されていくというふうに、この‘童話’は展開していきます。

私は、このファントムという言葉に出会ったことによって、何故、人がこうまでも束縛を嫌い、どこまでも自由自在性を希求していくのかが、心底、分かったような気がしています。この自由自在性を求めて留まることを知らずに彷徨うファントムの特性は、今までずっと、私の心に限りない不安を呼び起こす元凶となっていました。この性質は軽佻浮薄で、安定性や信頼性に欠け、人と人とを結びつけることを邪魔する亡霊・あるいは人と人との関係を消費させてしまうトリックスターとして、私にとっては、とらえどころのない恐怖の対象でもありました。けれど、この(神田橋先生が説明される)ファントムというイメージで捉えると、何故か、もう怖くはない・無闇に恐れる必要もないという感覚を掴めるのです。ファントムは切れ目なくからだと結びついてもいるからです。ファントムとからだを切れ目なく結びつけるものが感覚と知ったからには、私は、からだの智恵を得るためには、感覚に鋭敏である感性を持つ必要があることも教えられました。

大事な人のファントムがどんなに傍若無人で、羽のように軽く大空に舞っていってしまうものであっても、その根底には、大地に根ざしたからだが存在しているということになります。糸の切れた凧のように、飛んでいってしまうように見えるファントムにも、からだとの関係を通して、宇宙の塵と化してはしまわない大いなる創造性が潜んでいることも分かりました。

神田橋先生の本は、自分の精神状態の変化や成長のレベルに応じて、読む度に、読み方に変化が生じてきます。1回目は、とにかく全体像を掌握したいためにざっと読みをしました。私の書いた文章は、本文を正しく反映したものではなく、私の思い込みに彩られた、私独自の感じ方を綴ったものに過ぎませんので、私の書いたこの文章を信じたり、鵜呑みにしたりはしないようにくれぐれもよろしくお願いしたいと思います。
★「現場からの治療論」という物語
★心理学の本