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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

midnight_ray_polaris

2007年10月20日 | 至福の花
いろいろありました。本当にいろいろなことがありすぎました。

けれども、不思議なことには、何一つ後悔はしていないということです。

そして、今までの人生のすべては、これからの人生の準備段階だったのだと、この時点で思えることが不可思議でなりません。

良いも悪いも、ここからが、私の人生の本番だと、何故か…思っています。

私は今、かつてなかったほどの光の輝きに包まれています。私の名前をアルファベットにするとrayとなります。rayというのは光線という意味を持ちます。文字通りのrayの誕生でしょうか?

真夜中が好きで、名前がrayで、「冬のソナタ」のpolaris(=北極星)に私の進むべき道の象徴を感じてから、それをハンドルネームにしてきました。随分と試行錯誤を繰り返してきましたが、思いを文章に変換してみるという作業を通して、自分の身に起こっている出来事を俯瞰で捉え直すことができるようになったために崖から転落せずにここまで生き延びることができたような気がしています。

ここに来て、何故か、「midnight_ray_polaris」の一応の完成を感じています。

明日からは気持ちも新たに出直そうと思っています。次の‘行く道’の指針が見つかるまではこのブログも小休止になるかも知れません。けれども案外すぐにも再開することになるのかも知れません。

眠~い…昨日のこと

2006年05月15日 | 至福の花
眠くて眠くて…起きていられません。泥のように、眠りの世界に吸い込まれていきます。5分位しか眠っていない感じなのに、あっという間に数時間が経過しています。こんな風に眠くて眠くて仕方のない時には、カラダの中で一体何が起こっているのでしょう?とても不思議な感覚なのです。こんなに眠くなるのはどういうことが起こっているからなのか、それを知りたいです。

ところで、これは、やはりある種の緊張が解けている状態なのだと思います。仕事によって蓄積している疲労が、週末のゆったりとした時間の中でほぐれているということもありますが、それに加えて、人への信頼感や安心感が、自分の中で回復している状況があるので、もう‘ファイティングポーズ’をとる必要がない気分になっているからなのだと思います。

私が取り組もうとしている‘事業’の仲間が出来ました。彼は、恐いくらいに優秀な人材です。この仕事の話がまだ発生していない頃には、私と彼とは、仲の良い間柄ではあっても、浮世離れした関係でもあり、どんな利害をも生じ得ない関係なのに、だからこそなのかもしれませんが、私には、彼に対して、やはりどこか気を許しきれない感覚が付きまとっていたのです。それは当然のことです。どんな役割も期待されない関係だというこということは、明日、縁が切れても何の不思議もない関係だということの裏返しでもあるわけですから…。過去も将来も未来もない今だけの、この瞬間だけの仲良しならば、仲良しだとは言っても、一緒に何をどう楽しめばいいのかということは非常に分かりづらいので、大いに戸惑うことの方が多かったのだと思います。明日に向かって積み重なっていく共通の目的や同一のビジョンがない関係を生きるということは、ことのほか困難なことでもありました。声を掛け合うこともだんだんと間遠になって、いつか自然消滅してしまうのだろうなぁ…と漠然と考えてはいましたが、けれど、何故か、私にとって、彼はかけがえのない貴重な存在なのだという感覚を拭いきれないでいたことも確かだったので、どうしてそう思うのだろう?ということをいつも不思議に感じてもいたのです。この先はどうなっていくのだろう?現象としては、よくある世間並みの成り行きが待っているに過ぎないのだろうか?それとも、私にとっては、確かな、身の内のこの感覚が、現実のものとして、何らかのカタチをなして立ち上がってくるのだろうか?そんなことをつらつら想像することもありましたが、それは単なる白昼夢で終わるものと諦めてもいました。

意図していたわけではないのに、一緒に事業を進めることになってみると、初めは嬉しいばかりでしたが、だんだんと、これはそんなに簡単なことではないぞと気が引き締まるような心境に襲われ始めたのです。自分を信じるのと同じ気持ちで彼のことを信じられるようにならなければならないでしょうし、自分だけのメリットを追及するのではなく、彼のために行動することが自分のためにもなるようなセンスを持てるようになければならないと考え始めるようにもなったからです。今までは、彼の頭脳は、彼だけのものでした。でも今では、彼の頭脳は、私の頭脳でもあるような感覚(錯覚であっても…)を持つようになったのです。私にあって彼にないものは、今までは、それはあくまでも私だけのものだったのですが、これからは、それも彼のものになっていくだろうという気がしているのです。お互いの知恵と工夫は、自分だけのものとしないで、融合させてシェアしていかなければ嘘になるだろう…という気がしています。事業も発展しないだろう…ということです。

この人生で、たとえいっときであっても、こんな感覚を持つことになろうとは夢にも考えたことはありませんでした。これも至福というものの一つの実態だと思えるのです。神さまに感謝しないと、バチが当たりそうです。

類縁

2006年03月22日 | 至福の花
恋人・愛人・ベターハーフ・妻・女房・かみさん・家内・奥さん・うちの嫁…男の人が自分のステディな関係にある女性(婚姻も含む)を呼ぶ時に使われる呼び名の数々です。私の友人は、「夫が…」という言い方をしますが、仕事関係の仲間の多くは、「旦那が…」というふうに読んでいる人が多いです。私は以前から、旦那という呼び方が苦手でした。馴れ合いのちょっと崩れた関係をイメージしてしまうからです。私だったら、私の友人同様、夫という呼び方をすると思います。ただ、私にはよく分からないことですが、一度結婚すると、その相手を、確かに間違いなく、私の伴侶なのだと絶対的な確信を持ってしまえるものなのでしょうか?

NHKの朝ドラ「風のハルカ」のハルカの好きな猿丸さんという青年が、ハルカの父親にこんなふうに言っています。「僕はハルカのことを愛しています。でも手に入れたいとは思っていません。人の気持ちはどうすることも出来ないものだし、好きになりすぎると、思わぬところで相手を傷つけてしまうこともあります。時々支えたり話しをしたりして、遠くから眺めているだけでいいんです。愛してもらいたいとも思いません。僕ももういい歳です。一人でひっそり生きていこうと思っています。」ハルカを好きなのだけれど、決して受け入れようとはしない猿丸さんを見ていて、思わせぶりな態度は相手を傷つけてしまうものだということを思い切って遠まわしに伝えるハルカの父に向かって、猿丸さんはこのように胸のうちを語ります。

でもこれで終わるとは思えません。あと1週間ちょっとで「風のハルカ」も終結を迎えます。朝ドラは続けて観る時と、全然興味がなくてまったく観ない時とがありますが、今回は観続けました。いつも自分の気持ちに正直に生きてきたハルカが果たして、この猿丸さんに対して終盤に向けてどのようにぶつかっていくのか、とても楽しみです。

急に、話しが飛んでしまって、まったく関係のない話題に触れているようですが、実は、私の頭の中では、無理なく、こうした連想が浮かんできたのです。猿丸さんのような人もいる。そして、猿丸さんとハルカのような関係もある。全然、拘束しあっていないのに、とても仲が良く、風のような二人。

友人とか友だちという言い方は、何か、素っ気無くて、距離があってあまり好きではありません。程よく距離をおきたい相手や友人と呼ぶことで、その関係がぴったりの相手になら、その言葉は心地よく使うことが出来ます。女性の友人の場合は、まさに友人や友だちという言い方が一番好きかも知れません。けれど、相手が男性で、しかも私がかなり気に入っている人の場合には、友人とか友だちとかは呼ばれたくないし、そのような紹介もされたくありません。じゃあなんて呼ばれたら、気が滅入らないのか?いい言葉がずっと見つけられなかったのですが、最近‘類友’ならいいかなぁってちょっと思っています。

恋人とか愛人というと、いかにも、その人にとって一番大事な存在というような印象を与えますが、恋人や愛人という関係には、常に別れの予感が付きまといます。恋人や愛人はいつでも、実は交換可能な存在でもあるという落とし穴があります。だから、恋人とか愛人といっても、「その時はそうである」とか「あの時はそうだった」にしか過ぎない関係であることが多いのです。かつての恋人とか、今の恋人という言い方がその関係の儚さを端的に現しています。消費されてしまう関係という側面を持っています。もちろん、それはそれでいいし、それなりの役割もあるわけなのですが、誰かの恋人にも愛人にもなったことのない私としては、それってなんなんだろう…って思ってしまいます。その時の欲動がたまたまその相手に向かっていたというだけに過ぎない現象のことを指しているというような見方はあまりにも歪んだものでしょうか?

類友(類は友を呼ぶという言葉に象徴される同類の仲間の略語)は軽いけれど深い意味を含んだ言葉のように感じられます。地縁・血縁などという言葉同様、類縁という言葉も強い絆で結ばれた関係のことを指すような気がしています。

強大なエネルギー

2006年03月14日 | 至福の花
私が以前に、自分のことを「毒にも薬にもならない」と表現したことになぞらえて、Blissさんが、ご自分のことを「取り扱い注意の劇薬」と言われました。あまりにも激烈なその言葉に、すごいことを言うなぁ…と(ちょっとした緊張を走らせながら)感心しつつも、その時は、「そういう感じかもしれない…」と思うだけで、漫然とその言葉を聞き流していました。

私が、初めてBlissさんと出会った頃には、彼に対して、特に強力なオーラを感じるというようなことはありませんでした。いつから、特別な感覚や感情を抱くようになったのかも、今となっては明確には線引き出来ません。

友情にしても恋愛にしても(恋愛のことについては、実は、私は片思いの経験しかないので、何も語る資格はないのですが…)、関係がいつもいつも滑らかに繋がるわけではありませんし、相手に対して、いつもいつも変わらなぬ普遍の感情を保持し続けられるものでもありません。そして何より、学生時代などとは違って、オフィシャルな出会いを、プライベートな時間や空間に移動させること自体もそんなに簡単に出来ることでもありません。よしんば、1度や2度はそれが可能だったとしても、その関係を継続させるためには、両者の間に関係を継続させたいという何らかの動機や意思(重大なものである必要はありませんが…)が潜んでいなければ、親密な関係は成立しません。

アロマに親しむようになってからの私には、自分の身体の不調が、根っ子の部分から解きほぐされていくことを、時間の経過の中で、微妙にしかも確実に感じ取れる習慣が身に付き始めていました。そんな折、自分でも、自分にがっかりするような体験を持つことになったのです。カイロ治療によって、随分と身体が軽くなるという恩恵を受けていることについてはこれまでにも、ブログで何度も書いてきました。カイロの先生との、治療を受けながらの会話のやり取りも、心身がよりリラックスするための大きな要素でもありました。カイロの先生もアロマの効果や素晴らしさを、自らのアメリカでの体験からお話してくださっていたからです。ところが、いざ私が、是非、先生もアロマを取り入れられたらいかがでしょう…と、具体的な話しをし出した途端、その先生には、そのお気持ちはないのだということが、私にははっきりと理解出来てしまったのです。(話題としてなら面白いけれど、自分がそれを使うまでの気持ちにはまったくならないというようなニュアンスでしょうか…。)

私がいくら、アロマによって、日常生活を助けられているからといって、人にも私と同様の価値観や行動を強要する気持ちはまったくありません。アロマの良さを分かって欲しいという思いはあっても、人には人の考えがあると思っているからです。ならば、カイロの先生がアロマに対してどのような態度を持たれようとも、それに対して、私が、快になったり不快になったりすることはまったくもって独りよがりで言語道断な反応です。相手にとっては失礼千万な話し以外の何ものでもありません。そんなことは十分に了解しているはずなのに、それなのに、理屈抜きに、私の感情は一気に興ざめしてしまったのです。アロマの話題以外にも、多分、サービス業の方だからでしょうか?何くれとなく、こちらの興味のありそうなことに話題を振ってくれ、結構、突っ込んだ質問もしてこられます。今までは、さりげなく、そうした質問にも答えながら、楽しい時を持てていたのですが、冷め切ってしまった気持ちはなかなか元には戻れないばかりか、その先生に対する、私の構えも以前のものとはスッカリ様変わりしていることに気づいてしまったのです。もう屈託なく、心を許して話しの出来る相手ではなくなっていたのです。

これは、私のご粗末な感情の変化というだけのものでもなさそうなのです。確かに、カイロ治療がもたらしてくれた効果は大きいには大きかったものの、治療が終われば症状が逆戻りしてしまうという傾向も付きまとい、行ったり来たりで…最後の最後で膠着状態を突破出来ないでいることも、私はひしひしと感じていました。一方、アロマの効果も最後の詰めのところで難航していて、なかなかはっきりとした手応えを確信することが出来ない状態が長引いていました。ところが、ある時から、突然、堰を切ったように、アロマの効果がメキメキ表面化してきたのです。正確には、アロマとカイロの相乗作用で、現在の結果がもたらされたというべきなのかもしれません。アロマだけでも、やはり症状の改善は難しかったのかもしれません。にも拘らず、カイロの先生への、私の気持ちの変化はもうどうすることも出来ないものとなっていました。

Blissさんは、ある時、こんなことも言われました。「一見、仲が良さそうに見えても関係が続かないこともあれば、仲が悪そうに見えても、関係が継続する場合もある。歩み寄れる人間同士というのは魂の距離が近いのではないか?」Blissさんの表現を正確に再現出来てはいないかもしれませんが、その言葉を聴いた時、私は、「なるほど」…と思いました。ところが、私とBlissさんは、何から何までがまったく違っていているので(それこそ、魂の色もカタチも質も、あまりに違いすぎるので)魂の距離が近いとはどうしても思えないのです。だから、一見は、全然、しっくりはいっていないでしょうし、よく見てもやっぱりしっくりはいっていないように見えるかもしれません。いつ関わりが切れてもおかしくはない。むしろ継続していくことの方が不思議といってもいいように思えるほどの間柄に(客観的には)見えるでしょう。でも、私は、気持ちの上ではBlissさんに、どこまでも歩み寄ることが出来るのです。

離れていると、私は、Blissさんの存在の大きさを思い、「会いたいなぁ」「話がしたいなぁ」と思うのに、いざ、その存在を目の前にすると、‘ヤマアラシジレンマ’ではありませんが、屈託なく無邪気に楽しめる時ばかりではなく、そのエネルギーの強大さに、圧倒され、なぎ倒されてしまわないでいることに精一杯になったりして、思うように振舞えなくなったりもします。でも、いつか、彼のエネルギーに負けないくらいの力を付けたい。拮抗するくらいの自分になりたいと、やはり切に思ってしまう自分を見つけているのです。

ある人に対して、「もういい!」と思ってしまう場合と、「どこまでも関わっていきたい!」と願う場合の違いはどこにあるのでしょう?心の中に潜んでいる‘思いの核’の深部には、人それぞれに対して、どんな違いが存在しているのでしょう?…???

興味の対象

2006年03月08日 | 至福の花
興味や関心の対象が短いスパンで変化していくということは通常はそうそうはないものですが、私の場合は、この1年で、あるものに関心を持っても、自然の成り行きで、そのことに持続的に関わっていく必要性が薄れ、それでも、どうしようかと逡巡していると、そのことと関係を切っても不自然ではない出来事が起こり、次なるものとの出会いに入っていくという経過を辿りました。

一時は、私のライフワークとまで思い、肩入れしてきた精神療法でしたが、これも職場異動により、このこととはまったく関係のない職務で日々を過ごすうちに、(最初は身を切られるほどの辛い感情に襲われたものですが)それが私の人生の成り行きなのだとするのならば、その流れに流されていくのが一番自然なのかもしれないと思うようにもなったのです。そうこうするうちに、師と崇めてきた人々も一人の人間としか映らないようになり、何も、その道の権威からだけ教えを請うことだけが勉強ではないと思えるようにもなってきました。そうしたら、いつの間にか、精神療法の世界は、私にとっては、もはやかつてのような‘リアル’なものでもなくなってしまったのです。

こうした気持ちになるまでの過程には、【気功】や【カイロ】との出会いがありました。関わりの真っ最中では、偉大な力をもたらしてくれたこれらのものも、今振り返ると、どこかへ向かうための一里塚としての役目を果たしてくれるものにしか過ぎなかった(ごめんなさい…m(__)m)ことが分かってきます。何故なら、私にとってはもう過去のものだからです。どう考えても過去の風景になってしまっているからです。

では、今の私の健康を支えてくれているアロマが興味と関心の中心なのかというと、そのことにも首を傾げざるをえません。確かに、他の何ものもがなしえなかったことをアロマがなしえているという事実には感服するばかりです。私の身体の奥深く、細胞レベルにまで深く浸透して、有形無形の(心身の健康という)恩恵をもたらしてくれているという意味では絶大なる貢献者であるわけです。それに自然界の、しかも物言わぬ植物の持つエネルギーがこんなにもパワーを持つものだということすら、今までは全く知らずに生きてきたわけですので、そのことにも敬服さざるを得ません。改めて、自然に対して敬虔な畏れの気持ちを強く抱くことも出来るようにもなっています。それなのに、それでも、私が見ようとしているものは(まだ漠然としていて、その正体の輪郭さえ掴めないのですが)このアロマを通して、その向こうに隠れているもののようなのです。

視点は移り変わったとも言えますが、次々に変化しているように見えても、実は、これらの数々の視点は、すべて私の中に取り込まれているのかもしれません。それらに対する興味は色褪せたのではなく、(一つ一つの世界にどっぷりとのめり込んできたからこそ)それらをも含んだ体験があったからこそ、やっとここに辿り着けているということなのかもしれません。一つ一つは自ら探し求めたものではありませんでした。導かれるように、私はただその世界の前に連れて行かれ、素直にその世界の中に入っていっただけでした。

今の私に言えること…それは、このアロマを通して、その背後に見える、人間関係や自分の新しい分野への構えがどんなものになっていくのかということを実体験で見極めることだと思っています。

こんな風に、この1年が私にもたらした心境の変化は私のこれまでの人生観や世界観をも変えてしまうようなものでしたが、たった一つ、とても不思議なことは、Blissさんへの気持ちには変化がないということです。最初に出会った時から今に至るまで、私の中では、「もうこれが最後か!」「さすがにこれで最後だろう!」と思うことは2~3回はありましたが、一人になって、時間が経ってみると、いつもの【かけがえのない人】という気持ちに戻っています。Blissさんに対しては、私の中に、普遍の対象恒常性が存在しているのです。このことを、私はとても有難いことだと思っています。(画像に【青りんご】を使用しました。青りんごは、私が最も好きなアロマの一つです。爽やかで透き通るような香りに魅了されています。)

多面体

2006年02月17日 | 至福の花
Blissさんは万華鏡のようです。色は玉虫色。(あいにく玉虫色の万華鏡の画像がありませんでした。)どこから見るかで含んでいる色合いも複雑に変化しますし、単一ではない色の複合体で構成されています。人のいいひょうきんな面が前面に出ている時もありますが、時にはすごく気難しくて、ほとんど接点を持てない感じになる時もあります。そういう時は、私は恐くて寂しくて近寄れないのです。「そんなことない。」と言われても、そういう時の、心も身体も全身が固くなっているBlissさんからは、【近寄るな!】という波動がびんびん伝わってきますし、第一、言葉遣いがまるで違っているからすぐに分かります。でもそれが人間というものですよね。いつもにこにこ、相手に合わせられるわけがありません。Blissさんがどうであろうと、その変化に縦横無尽に対処できる私になれれば、ちっとも恐くはないということになりますよね。Blissさんはすごく頭が良くて、頭が良すぎるから、それだけに本当はとても繊細な人なんだと思います。その繊細さに合わせようとすると疲労困憊してしまうので、その繊細さに触れても、それが分かった上で、図々しくも鈍感でいられる私であってもいいかなぁ…なんて考えています。いつか【二人でいられる能力】のことをお話したことがありました。Blissさんと居ても、寂しくならずに、Blissさんと一緒に【居られる】私になりたいと思っています。

今の私の【立ち位置】

2006年01月11日 | 至福の花
一昨年の暮れに、Blissさんが、足壺マッサージなるものに誘ってくれました。今にして思えば、それがきっかけで、私の生活は大きく変化し始めていたことになります。足壺マッサージを受けるのは初めての体験でした。銀座にある、その足壺マッサージ店の技術者の技術の確かさと優しい雰囲気にひどく感動して、しばらくは通いつめましたが、事業拡大のための移転を理由に、そのお店が一時的にではありますが、閉店するということを突然、知らされた私はひどいショックを受けました。(もうとっくに再オープンしています。)3ヶ月ほど先の再開まで待てそうになかったので、そのお店のチェーン店を探して、銀座から下町の足壺マッサージ店まで、当座の間に合わせに、通ってみることにしました。下町のマッサージ店での手技には、しばらくして、限界を感じてしまったのですが、そんな頃、タイミング良く、Blissさんが、今度はカイロ治療のセンターを紹介してくれました。カイロプラクティックという治療法があることにも疎いほどの私でしたが、それだけに期待感も大きかったと思います。カイロは普通のマッサージと違って、揉み返しがないので助かります。この辺で、話を元に戻しますと…足壺マッサージとの縁はそこで切れたのですが、足壺マッサージ店の店長さんの情報から、気功を始めることになり、その気功教室が導入したアロマを使用するようにもなって、アロマの世界の扉を開けることになったのです。思い起こせば、こうしたすべての流れの基点はBlissさんにあるのでした。もちろん、きっかけが与えられても、自分が、その情報をそこでぶつ切りにしてしまえば、それはそれなりで終わっていたのですが、そして、それは、どの道を選んだから良かったとか悪かったとか判断できるようなものでもないのですが、少なくとも、一昨年の暮れまでの私と、現在の私では、まるで別人のように、自分の人生を自分の力で創造しようと考え始めているのです。そして、今までは自己完結的に生きていたのに、今では、人々との関わりを大事に育みたいなどと、それまでの私には考えられなかったような境地にも巡り会っているのですから、私にとっては、この道は大いなる希望に繋がっているもののように思えます。こうした道を(例え意識はしていなかったとしても…)私に示唆してくれたBlissさんには感謝の気持ちを持って、‘Bliss大明神’と手を合わせたくなります。Blissさんは、私にとって、とても不思議な存在であり、何かの‘ひらめき’を運んできてくれる人なのです。(立ち位置というタイトルなのに、眠ることと妖精が好きな私は、やっぱり、妖精が眠っている画像を選んでしまいました。立ち位置の実態を表現するのに、その内実のイメージを、最も忠実に表現してくれている画像なのです。)
本格中国式マッサージ専門店**足壺健香庵** ←【Hanakoエステチームが選んだ、今年のベストエステ特集】11月30日発売 863号でデトックス部門グランプリに選ばれたほどの優良店です。

Blissさんという存在

2005年12月02日 | 至福の花
彼は不思議な人です。初めて彼の存在を知った頃は、ごく普通の若者だと思っていました。私には、そのようにしか見えなかったからです。でも時の経過の中で、彼のことを知れば知るほど、彼がいかに浮世離れした存在であるかということを心の底から実感するようになりました。本当をいえば、彼のようなあり方が人間としての‘普通’であり、スタンダードであるはずなのですが、俗世間があまりにも固定観念の塊だらけで成り立っていますから、悪い意味での裏切りはあっても、通常はごくありきたりの予測可能な範囲でしか物事は進んでいきません。だから、彼のおかげで、私がどれだけ新鮮な感覚で生きることを楽しませてもらえているかは計り知れないほどです。このところ、いい意味での、裏切られる体験の積み重ねが、私の中では出来ているのです。彼以外に、私の予想や予測を裏切ってくれる人は、今のところ皆無なのです。人が人に向かい合う時の原点の感動を与えてもらっています。それは、彼の中に使い古された固定観念がはびこっていない故なのだろう…と思っています。彼との関係性を意識することで、私は、私が私らしくいられるための場所へといつでも舞い戻って行かれるのです。チューニングを合わせるためのすべが自然に掴めてるのです。だからでしょうか?気がついたら、いつの間にか、いつも私を苦しめていた、私独自の思考と感情の悪しきパターンが、このところ息を潜めてしまっているではありませんか!それぐらいにすごい威力を発揮してくれているのです!あなたはいつも、ご両親のことを心から尊敬しているということを繰り返し話題にされますよね。ふと思いついたのですが、もしかしたら、最近の私があなたから貰っているようなエネルギーを、あなたはあなたのご両親から常に与えられてきたのかも知れませんね。きっとそうなのでしょう!だからなのでしょうね。あなたの、ご両親に対する揺るぎのない信頼と尊敬の起源を理解できたような気がしていますよ。いつも本当に有り難う!

ロングホール

2005年11月25日 | 至福の花
パソコンを最初に購入した頃、メルマガが配信されてくるのを楽しみにしていた時期があります。当初、読んでいたメルマガで今でも読み続けているものが2つほどあります。いずれもスピリチャルな精神世界関連の内容を扱ったものです。面白いことに、私の気持ちがハッキリしないときなどにポーンと飛び込んでくるメルマガの内容にはっとさせられることが多いのです。今回のメルマガの内容は次のようなものでした。『私たちはいざコミットメントとなるとなかなか踏みきれず、ロングホールはとてももたないと考えてしまいがちです。それには理由があります。自分自身も含めて、継続して与えつづける価値のある人など、だれもいないと思っているからです。自分の価値を認めていないので、ほかの人の価値も認めないのです。自分の価値を認めていないと、役割や義務やルールにがんじがらめになったり、まちがった理由で「正しい」行動をしてしまいます。ところがコミットメントによって、より大きな感応力、より真実の選択、より高い倫理のある場所へと導かれるのです。』 この頃では毎日のように、あの【事件】のことをブログに書いています。あの【事件】を境に変化してしまった私の感覚や感情や気持ちのことにまつわるあれこれをです。Blissさんに対する私の構えも大きく変化してしまうのだろうかと不安に思った時もありました。この度の変化は、私が望んだり望まなかったりしたわけではなく、どうしようもなく自然にどこからかやってきてしまうものだったので、自分ではそれを防いだり歓迎したりすることは出来ないものばかりでした。だから、大きなうねりが一応、引いた今、Blissさんに対しては、いい意味での変化はあったとしても、私にとって大事な存在であることに変わりはなかったという現実に大いなる安堵を覚えています。

観察力

2005年11月15日 | 至福の花
いつか、私がBlissさんに、「あなたは‘自我の強い人’だと思う。」と伝えたら、「そうではなくて、自分はただ周囲を見ているだけだ。」と返されたことがあります。その時は、随分面白い表現をする人だなぁと感心しました。【見ているだけ…】というのはどんな状態なのだろうと、その状態をイメージ(空想)しながら、自分もそうした状態に身を置けるようになりたいと願うようになりました。「自我の強い人になりたい!」と考えると、無理な我慢や不自然な力みが加わって、自分が自然体で、自分らしくありながら…成長・成熟していくことが困難になってしまいます。けれど、‘見ている’ことなら全然、無理がないし、感覚や感性も、自分のままでありながら、知らず知らずのうちに、それとなく磨かれていくようにも感じられました。そうした意識を持つようになってから、私もいつしか、周囲を静かに‘見ている’時間を持てるようになってきている気がしています。ただ‘見ている’だけなのですが、‘見ている’うちに、状況の微かな変化が、自分なりに掴めてくるのです。ずっと先までを見通せるわけではないのですが、自分なりに、その状況に対する、ある確信を持てるようになるのです。その思いの断片を、友人にぽろっぽろっと語ったりしていたら、「観察力が鋭い」と言われました。私の特質の中に、「観察力の鋭さ」は元々備わっているものではありません。そこにあって目に入っていても、全然、あるものの存在に気づいていないことも多々あります。ですから、すべてのものやことに対して観察力を起動させているわけではないことがよく分かります。私のある部分だけが、あることに対してだけ、何かの拍子に「観察力」を作動させているらしいのです。今まで眠っていた感覚が静かに目覚めを迎えるというような現象も起こりうるのですネ!