
【どうぎょうににん】と読みます。四国巡礼のお遍路さんなどが、その被る笠に書きつける言葉で、弘法大師と常に共にあるという意味を表わしています。この言葉を知ったのは、神田橋研究会で、神田橋先生がしばしばこの言葉を使われていた時期があったからでした。元々は、四国巡礼のお遍路さんが使っていた【専門用語】だったのだとは思いますが、この言葉に含まれている深い意味合いが、精神療法のあり方とリンクするところがあるからなのでしょうか…精神分析の分野でも、この言葉を引き合いに出される先生方も少なからずおられます。同行二人という言葉のイメージが喚起するものは横並びに、同じ方向を向いて、同じ目的に向かって(精神的に)支えあって歩く二人の個々の人間の姿です。二人一組ではなく、一人一人の個としての歩みは別個のものなのだけれど、その二人は一つのうっすらとした膜で包まれているから、(この膜は薄いけれども、弾力性があって、容易に破れるような軟弱な質のものではありません。)孤独なだけではないというものです。けれど、これは、あくまでも私の抱くイメージにすぎません。やはりお遍路さんが愛用する言葉だけあって、宗教的で・ストイックで・寂しく切ない響きだなぁ…って思います。‘道行き’という言葉にも繋がるような、後ろのない感じ…‘背水の陣’とも違いますが、お気楽さとは程遠い‘やるせなさ’が伴った言葉のような気がします。ただ不思議と、冒頭の画像のような、ひっそりとはしているけれど凄みのある華やかさが似合う言葉でもあるとも思うのです。幸せな二人連れを同行二人とは言わないでしょうから、(白装束がそれを物語っています。)少なくとも、二人のうちの一人は幸せではない状態にあり、もう一人がその困難を支えている構図が想像されますから、辛い言葉と感じるのかもしれません。

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