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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

『あなたが私を好きだった頃』

2006年01月04日 | 読書
不思議なタイトルだと思いました。『私があなたを好きだった頃』ではなく、『あなたが私を好きだった頃』だなんて…。人は普通、自分の感情になら、一応、責任を持てる立場にありますが、人の感情は、自分があれこれ語ることの出来る領域にはないものだからです。たとえ、「あなたが好きだ!」と言われたことがあったにせよ、『あなたが私を好きだった頃』はないだろう…というのが、私の率直な感想でした。次に、感じたことは、これは回想録なのだろうなぁ…ということでした。『好きだった頃』ということは、今は同じ状況にはないということを暗に示しているからです。そして、本を開いて、活字を追ううちに、ますます、もっと不可思議な感覚に包まれていきました。井形慶子さんの書いたものとは思えなかったからです。かつての彼女と、最愛の彼との日々を回想して綴っていますが、その筆致は極めて幻想的で、文体にも、時の経過を踏んで語られるこの二人の関係の展開にも、まるで霞か靄がかかっているかのように、幾層にも膜が被せられていると、私には感じらたからです。井形さんは、二人の関係は愛に満ちたものだと表現していますが、私にはとても壊れやすいひりひりしたものにしか見えませんでした。それは、およそ成熟とは程遠い、お互いの稚拙な感情交錯の行き違いにしか過ぎないもののように見えてしまうのです。井形さんの不安がマックスの状態になっているにも拘らず、関係は揺ぎないものだと言葉で説明すればするほど、井形さんの内的現実と彼の気持ちを含む客観的な外的現実との乖離がはなはだしいものになっていき、文体を曖昧なものにせざるを得なくなっているのだとしか思えませんでした。やっぱり終わりが来た…というなり成り行きなのだなと理解していると、そうではなかったという流れになり、井形さんが、彼の人間としての素晴らしさを再認識するという結論に行き着くのですが、井形さんがどんなに、彼のことを褒め称えても、彼の人間としての等身大のイメージがどうしても私には伝わってこないのです。40代半ばの男性としての覚悟や賢明さが迫ってこないのです。確かに、仕事のポジションはそれなりの人なのでしょうが、女性に対する態度がこれでは余り情けない。きっと、仕事振りも、女性に対する態度と同等のものにしか過ぎないだろうとさえ感じされられてしまいました。(私は井形さんを誹謗中傷する気持ちは全くありませんが、井形さんの筆の力が、彼の描き方に対しては造形力を欠いているとしか思えません。)「ダメだ→そうではなかった→やっぱりダメだ→いやいや、そうではなかった。」このパターンが波のようにさまざまなうねりの高さで繰り返し繰り返し綴られていくのです。そうした井形さんの心のさざ波が、私にもある種の不安を蘇らせるのでした。普段は、明快で論理的にモノを言う人なのに、この違いは何なのだろうと、本を読み始めた当初には随分戸惑いました。井形さんは、彼とのこの関係において、別れの予感に常にさいなまれながら、彼の心が分からない不安に苦しんでいます。ところどころで友人のエピソードを挟みながら、話しを展開させていますが、ある友人の不幸な恋のエピソードの顛末について、「不幸を予測する彼女は、幸せに追いつけず、不幸に追いつかれてしまったのだ。」と分析していますが、これは彼女自身のことでもあるのではないかと感じられたほどです。けれど、さらに不思議なことが起こりました。先へ先へと読み進んでいくうちに、その文体の構成の独特なリズムに、私が、今度はある種の心地よさを感じるようになっていったことです。スピリチャル系の書籍を読んでいるような印象を持つようにさえなっていきました。最後の方には、私の大好きなシンクロニシティという言葉すら出てきたのでびっくりしたほどです。最終章でドクターカワカミという人物が井形さんに語りかける言葉が圧巻です。「君にこれだけは伝えておきたい。本当に悲しいこと、つらいこと、不幸や悲劇は実はこの世のどこにも存在しないんだ。嬉しいことや楽しいこと、悲しいことや辛いことはそもそもどこからやってくると思うかね。どこからもやってこない。それは、全部君が決めている。君が決めたときに『幸せ』も『不幸』も生まれてくるんだ。」「わたしがですか?」「そう、彼ではない。私でもない。君の心がすべての意味を決めているんだ。」井形さんは、長い、自問自答の苦しい日々の末に、ドクターカワカミの言葉をきっかけに、彼に電話をかけるという行動に出ます。そこで、この『あなたが私を好きだった頃』は幕を閉じています。井形さんの現在の夫は、福祉バスの運転手さんのはずですから、『あなたが私を好きだった頃』のあなたでないことだけは確かです。ですから、この恋の本当の結末のことは読者の想像に任されています。井形さんが彼に電話をかけてからの、その後の彼らの成り行きのことについては全く触れられていません。最後に「あとがき」で井形さんは次のように述べています。「仮に、自分を掛けることの出来る相手と巡り会えても、愛を貫く道は平坦ではありません。自分のことを振り返っても、他人の言葉によって信じていたものが揺らいだり、確信を持っていた愛がかく乱されるなど、相手へのこだわりが強い分、不安が募っていきました。そのたびに彼を知る前の自分は、どれほど平安だっただろうと、よく考えたものです。人を好きになって始まる孤独や不安は、一人で居るときより重くのしかかってくると気づいたのも、かけがえのない人に出会った時からでした。」ドクターカワカミは彼とのことで悲観的になっていた井形さんに次のようなことを語ります。「滝を考えてごらん。滝は出っ張った岩の上を流れ落ちる時、左右に分かれるだろう。障害があるからそこで二つに分かれるんだ。だけど流れはいつか、行く先で合わさる。分かれた水流は一本になって、また元に戻るんだ。」人と人との縁、結びつきは、簡単に出来上がったり壊れたりするものではない。それは男女の間柄にも当てはまる。人が考える時間軸と人生の時間軸とは全く別物だ。基盤のある人間関係は、流れていく滝のようにそれが遠い先であっても、いつかは元に戻るのだ。ただし、それに気づかないままどこまでも流されていく人が余りにも多い。」と。ドクターカワカミの言葉を受けて、井形さんは最後の最後に、次の言葉で、この本を締めくくっています。「見失ったものを諦めることは、一見とても潔く、幸せになる近道のようにも思えます。けれど、諦めない道を選択する生き方に今、多くの人が輝きを見出そうとしていることも、また事実なのです。そんな生き方を貫く勇気と純粋な気持ちは、誰かを深く愛する紆余曲折の日々に見えてくるのかもしれません。」 読者である私は、「諦める・諦めない」は状況や人によってさまざまであっても仕方がないと思っています。諦めたくなくても、諦めざるを得ない場合もあります。どちらがいいとは簡単に言い切れない複雑な事情が、人それぞれの背後には必ず潜んでんでいるからです。人間関係が滝のようであるという比喩も、そうかもしれないし、そうでないかもしれないとしか言えません。何故なら、今日的な複雑な現状がそれを許さないこともあると想像されるからです。それに、時は一刻も留まることを知らずに流れているし、人の心も成長し続けています。悲しいけれど、再び合流することだけが最善の道ではありません。お互いの成長がでこぼこ状態にあれば、もう再びの逢瀬は叶わないでしょう。けれど、基盤のある人間関係の大切さや、そうした関係はそんなにたやすくは破壊されるものではないという見識には感動しました。これまでの私は、このことに対して非常に懐疑的でしたが、今では、基盤のある人間関係の‘パワー’を信じたい気持ちで一杯です。
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