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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

人生をマスターする10の鍵-その4

2006年01月31日 | my favorite・・・
他人の承認を求める気持ちを棄てること。自分の価値を判断するのは自分だけであり、誰が何と言おうと、自分の中に無限の価値を見出すよう目指せばいい。こう思ってしまえば、気持ちはとても自由になるはずだ。』 他人の承認を求める気持ち…とはどういう気持ちなのでしょう?誰かを喜ばせたい!とか誰かの期待に応えたい!とかの延長線上にある気持ちのことでしょうか?承認を求めるというよりは、成功したいとか、誰かの鼻をあかしたいとか誰よりも先んじて先頭に立ちたいとか、結局は、‘他人’ではなく‘自分’の弱さに打ち克って、生き難いこの人生において、自分なりのあるポジションを得たいという気持ちのことではないでしょうか?私自身には、‘他人の承認を求める気持ち’というものがないので、この言葉の意味が良く分かりません。「自分の価値を判断するのは自分だけ」ではないと思います。人がさまざまに、自分をどう捉えてくれているかという情報は、自分という全体像や実態を知る上ではとても貴重なものです。ただ、そうした情報に振り回される必要はないということでしょう。人は何とでも言います。ある意味、人の考えは、自分にとって、無責任極まりないこともありますから、人の考えを参考にはしても、そんなことで、自分を窮屈にしたり、それでがんじがらめになる必要はないということだと思います。自分は自分でしかないのですから、最後は、自分の考え方で、自分の思うとおりに生きるしかありません。人を傷つけたり不正を働いたりすることがない限りは、人の生き方に良いも悪いもありませんから、自分の生きたいように生きるしかないと思います。そう思えるようになるまでの道のりは、通常は、気が遠くなるほど長くて遠いものなのかもしれません。人生のいくつもの発達課題を超えて、ある程度の自分作りを終えて、もうどっちに転んでも、それはそれで何の問題もない…というくらいのステージに立てる身分になってからでないと、この課題をマスターすることはかなり難しいような気もします。だから、人生の草創期にある人は、むしろ、この課題には、まだ手をつけなくてもいいようにも思います。他人の承認を求める気持ちが起爆力になって、己の人生を驀進させるというメリットも侮れないと、私は思っています。また、たとえ、どんなに不自由を感じても、そうした気持ちが必要な‘時期’というものもあると思うのです。

人生をマスターする10の鍵-その3

2006年01月30日 | my favorite・・・
静穏に過ごす時間、瞑想する時間、迷う心を鎮める時間をつくること。そのような時、人は自分が純粋意識の源に繋がっていることに気づく。自分の内奥に注意を向けることによって、他人の判断に惑わされることなく、自分の直感に従って行動できるようになる。』 日々の生活に忙しく、自分自身が、社会にも家庭にもおおむねうまく溶け込んで、まあまあの機能を果たせていると思えれば、心静かに過ごす時間が大切だなどとは改めて考えたりはしないものです。そういう観点からすると、瞑想の価値に気づくこと自体が、ある意味、この世の時間や価値観から外れた瞬間を体験したことがあるという事実を克明に物語るものだと、私は思っています。自分に自信があり、他者からもある程度の評価を受けていて、これといった挫折体験もなく、手ひどい心の傷を負ったこともなければ、大いなるものに対する畏れの気持ちや敬虔な態度は通常は持ちにくいものです。というか、そうした側面にはしばしば気づくことすらないものです。多分、迷う心を鎮める時間の大切さを知っている人とは、この人生を通常とは異質な価値観で生きることに、ある種の覚悟を持たざるを得なかった人と言い換えることも出来るのではないでしょうか。他人の判断を無視することが出来るほど傍若無人ではないけれど、人を選ばず、うっかり自分の思いを語ろうものなら、どんな刃を突きつけられるか分からないことを十分に知り尽くしているからこそ、本当の思いはめったなことでは、人には漏らさないのだと思われます。自分が大事だと思っている想念は迂闊に人に話すべきものではありません。以前、気功の先生がおっしゃっていました。「願いが叶うまでは、自分がどんな願いを抱いているかを人に話してはいけません。話してしまったら願いは叶わなくなります。」と。そういうことなのかもしれないと強く感じます。だから、私は心を許した人にしか、自分を見せる気にはなれないのです。とりわけ、自分の内奥から、時を選ばず突然湧き出てくる直感というものは、私の中の非常に賢い‘智恵’だと思っているので、その内容を人に喋ることはほとんどありません。。理屈も何もないのですが、時々、直感というカタチで、私の中の智恵が私を導いてくれていると感じることがあります。直感に従って行動して後悔したことはないような気がします。

人生をマスターする10の鍵-その2

2006年01月29日 | my favorite・・・
現在に生きること。現在という時間しか私たちにはない。この場のできごとに注意を向け、一瞬一瞬のなかに充足を見出すこと。事実をすべて完全に受け入れよう。そうすれば現実から学ぶことができる。自然の無限の摂理は現在に反映されている。あるがままの宇宙が、あるがままの現在である。宇宙の広大無辺な計画に逆らわず、むしろこれと一体となるよう努めよう。』 私たちは、過去-現在-未来という一本の時の流れが修正不能なものとして、綿々と続いているものと思い込んでいますが、それは人間が作り上げている概念に過ぎないのかも知れず、便宜上、過去や未来という構図が示されている方が分かりやすいからというだけのことで、時間側からすれば、時間はいつもそこにただあるだけで、流れというものさえないのかもしれないとも思うのです。そうした時間というものに、私たちが、過去だとか未来だとかの名称を付けて考えてみることさえ、宇宙レベルで俯瞰してみれば、もしかしたら本来はあまり意味のないことなのかもしれません。あるいは、いくつもの時間がパラレルに存在していて、何人もの自分が、この人生をたった一つのもののように思い込んで、そこそこの世界で、わき目も振らずに、懸命に生きているという仮説も成り立ったりはしないでしょうか?人生を、バランスの取れた自己として生きるコツが、多くの書物で提案されていますが、数々のアイデアの中にも幾つかの共通項があります。【今を生きる】という項目(智恵)は、その最たるものではないでしょうか?当たり前のことだし、今さら…という気がしないでもありませんが、こんな簡単なことが本当に難しくて、誰にも、めったには出来ないことなのです。自分らしく生きることを考えれば、そのスタート地点には必ず、この言葉があり、ゴールに到達するその日まで、志を棄てない限り、この言葉は、ずっと伴走し続けてくれる相棒でもあります。考えてみれば、過ぎてしまったことは、たとえ修正可能であったとしても、過ぎてしまったことに拘って、その出来事から自由になれないでいることは、自分に対してもとても残念なことですし、忸怩たることでもあります。それよりは、‘今’に注意を向けることの方が多分ずっと大切なことのはずです。未来という、今は実態のない時間も、今の積み重ねによって先々に、現象してくるものなわけですから、未来を展望するとしても、今を充足させなければ、未来もまた実体のない空疎な空間に成り下がってしまうでしょう。すべての繰り返される時間が、その時が来れば砂上の楼閣だったなどということになってしまってはたまったものではありません。私の場合はと言えば、今を生きられるほどの人生の達人ではありませんが、今となっては、過去のことをくどくどと思い返したり、取らぬ狸の皮算用よろしく、未来のことを誇大的に思い描いたりすることはほとんどなくなりました。いつの間にか、今のことと、ちょっと先の未来のことだけを射程に入れることで、自分の中のバランスを取るようになっているのです。【今】は多分、昨日までの自分の生き方の集大成なのです。

日々移動する腎臓のかたちをした石

2006年01月28日 | 読書
村上春樹氏の『東京奇譚集』という短編集の中の一編の不思議なお話しのタイトルです。淳平とキリエという二人の男女の、短い期間の交流を、都会的な乾いたそれでいて非常に豊かな潤いのあるタッチで描いた作品です。小品ながら佳作でもあります。淳平は、「愛情を適時に適切に具象化するという重要な意味を持つ能力」に自信を持てなくなって、「心は光明と温かみを欠いた場所に沈みこんでいった。」時を過ごしています。そんな時に、ひょんなきっかけでキリエという女性と出会い、ライトな感覚で、どちらからともなく近づき、恋のような雰囲気に浸りながら濃密な時間を共に過ごすことになります。二人には、「ここに来るまでは決して簡単な道のりではなかったけれど、小さい頃からやりたいと思っていたことを職業にしている」という共通点があります。淳平は、「職業というのは本来は愛の行為であるべきなんだ。便宜的な結婚みたいなものじゃなくて」と言います。キリエは言います。「誰かと日常的に深い関係を結ぶということが、私にはできないの。あなたとだけじゃなく、誰とも」「もし誰かと日常生活を共にしたり、その相手に感情的に深くのめり込んだりしたら、今自分がやっていることに完全に集中できなくなってしまうから、今みたいなままがいい」と。心が乱されるとバランスが失われて、自分のキャリアに重大な支障が生じるかもしれないということを心配しています。淳平は小説家なので、キリエという存在に触発されて、人の目が届かない時に限って場所を移動する腎臓のかたちをした石を題材にした小説を書きます。二人の関係が突然終わるなどと想像も出来なかったのに、淳平が小説を書き上げた途端にキリエとは連絡がつかなくなります。その後、ラジオから聞こえてくるある番組を通して、思いがけずも淳平はキリエの素性と正体を知ることになります。失って初めて、淳平はキリエのことを「他の女性には一度も感じたことのない、特別な感情を抱くようになっている」ことに気づきます。それは「明瞭な輪郭を持ち、手応えをそなえた、奥行きの深い感情」でした。その感情にどのような名前をつければいいのか、淳平には分かりません。「しかし少なくとも、他の何かと取り替えることの出来ない思いだ。」ということに気づきます。「もう二度とキリエに会えないとしても、この思いはいつまでも彼の心にあるいは骨の髄のような場所に残ることだろう。彼は身体のどこかでキリエの欠落を感じ続けることだろう。」ことをひしひしと感じます。これを機に、それまでの臆病だった淳平の気持ちにある変化が訪れます。キリエは彼にとって、「本当に意味を持つ」女性の一人だったということを思い知ります。彼の中にはもう以前のような恐怖はありません。大事なのは付き合った女性の数ではなく、‘いつまでに誰かと何かの関係に落ち着く’というようなカウントダウンにも何の意味もないことを悟ります。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなのだということを理解するようになるのです。腎臓のかたちをした黒い石は小説の中の一つのアイテムなのですが、彼の心を操る重要なツールとして不可思議な動きでうごめき続けます。が、彼の心が定まった時、その黒い石は姿を消し、もう二度とは戻ってこないものとなるのです。石が夜毎、勝手に歩き回るわけはありません。でも、そんなことが本当に起こりうるような心持ちになるのですから、小説家の想像力というものはものすごい威力を持つものなのだと感心します。黒い石は何を象徴しているのでしょうか?私には分かりません。ただ、とても言葉では言い表すことなど出来ない宇宙の拡がりを感じるばかりでした。
村上春樹著 東京奇譚集

博士の愛した数式

2006年01月27日 | 映画
数学が提示する深い‘意味’を読み取れない私は、とても残念ながら、この映画の真に優れた核の部分を読み取れないも同然なので、表層的な理解しか出来ませんでした。義姉と博士との複雑な関係や家政婦と博士と家政婦の息子ルートとの時を追って徐々に深まっていく情愛の世界のことも、まさに人物配置や設定の巧みな‘良く出来た映画’を観ている以上の感動は伝わってこないのです。家政婦の靴のサイズが24センチであることに、博士は「実に潔良い数字だ。」と感心するのですが、何故24センチが潔い数字なのかがちんぷんかんぷんだった時、すでにこの映画を、私は理解することが出来ないとお手上げの気分に襲われてしまいました。一事が万事。ここがポイントだと思える箇所はすべて見送らなければならないのですから、あとは分かる部分だけを繋ぎ合わせるだけの情けないものとなりました。ですから、大人になって数学の先生になったルートが授業で、博士と過ごした‘ありのままの日々’の素晴らしさを数式を用いながら回想する、この映画の要とも言えるシーンでも、ガラス張りの向こうの世界を眺めるような白けた気分が付きまとってしまうのです。義姉の頑な心が緩んでいく経過にも説得力が伴いません。深刻すぎても気が滅入る。けれど、辻褄あわせは嘘臭い。この世の真実を、あるカタチで表現するということはかくも難しいことなのですね。こんな複雑で困難なことに挑戦し続けている映画人に敬服しきりです。
映画「博士の愛した数式」公式サイト

人生をマスターする10の鍵-その1

2006年01月26日 | my favorite・・・
ディーパック・チョプラ氏の「エイジレス革命」という著作の中に、「人生をマスターする10の鍵」なるものについての記述があります。「人生をマスターする」というのは、自分の人生や状況に対して自主性を持つという意味であるとした上で、興味深い10項目が挙げられています。バイロンという人は、「人は自分の限界を超えて成長していく。天国はその先にこそある。」などというすごいことを言っていますが、すべての人間が、限界を超えてまで成長できるようなきっかけやチャンスを掴めるわけではない(恵まれるわけではない)と、私などは思っています。淡々と繰り返される日常の中から、心境の変化や気持ちの転換を掬い上げることは至難の技です。さまざまな文化や時代に生きた長寿の人たちを研究した結果、「長寿に最も関連のある自我意識は、人生をマスターしているという思いだ」という考察を導き出した人がいます。また、とても意外なことなのですが、創造的活動に入った年齢が遅い人ほど年をとっても創造的でいられるようだという研究結果もあります。年をとれば、すべての能力は衰えていくばかりだと思われがちですが、わが国にも、日野原重明氏や森光子さんのような方もおられます。それでは、その、10の内容について、少しずつ、書いてみようと思います。まずは、その1.についてです。快、不快というサインによって示される体の智恵に耳を傾けること。何かをする前に、自分の体に「これをどう感じるか」とたずねてみる。もしも肉体的あるいは感情的な苦悩や悲嘆のサインが戻ってきたら注意した方がいい。逆に快感と前向きな熱意が伝わってきたら、迷わず実行すればいい 極めて、原始的で根源的な‘心身の声’に素直に耳を澄ませばいい…ということを言っています。生まれたての赤ちゃんが、未分化な状態から、まず手始めに掴む感覚が、すなわち、この快-不快の感情であることを思えば、要するに、人間としての基本に還れ!ということのように思えます。快-不快の違いに対して鈍感になってしまうと、自分という存在からはどんどん遠ざかっていくことになると思いますので、私もこの考えには同感です。同感どころか、今では、私の場合は、不快な方向には眼が向きません。快こそを‘我が友’にしている日常です。

純粋意識

2006年01月25日 | 読書
アーユルヴェーダ関連の書籍を読んでいると、しばしば‘純粋意識’という言葉が出てきます。この言葉の意味は自明の理として使われていることが多いので、何となく、自分なりの理解で読み飛ばしていましたが、この言葉の意味を詳細に説明してくれている本に出会いました。「私」という意識というものは、「私」という自分を‘見る’意識と、「私」という自分を‘見られる’意識とに分かれているそうです。それから、実は、もう一つ、見る意識が見られる意識を見ている状態という意識もあるそうです。アーユルヴェーダでは、見る意識のことを「認識者(リシ)」・見ている状態の意識のことを「過程(デーヴァタ)」・見られる意識のことを「対象(チャンダス)」と呼んでいます。このように、意識は一つでありながら、同時に三つに分かれているということの解説で、意識という捉えどころのない実態をより重層的に理解できるような気がしました。意識は常に一つに統一された状態にありながら、三つに分かれることによって自分を認識しているのです。マハシリ・ヴェーダ医療(形骸化していたヴェーダ医学をマハシリという人が生き返らせたところから、この名称を使っているようです。)この統一された意識のことを「純粋意識」と呼ぶのだということを今頃になってやっと知ることとなりました。三つに分かれた意識は、そのままには留まらず、認識している認識者を認識する、というような行程を繰り返し、分かれ続けているということです。(極めて哲学的ですネ!)私たちが日常生活で経験していることは、すべて意識の認識によって成り立っています。たとえば、お腹が痛い人がいるとして、このことは、その人が腹部の痛みを認識しているということであり、痛みを認識する意識が、痛みを認識する過程によって、痛みという対象の意識を認識しているということにもなります。純粋意識は普遍的な存在であり、永遠にその統一の状態を保ちつつ、同時に、それ自身の揺らぎによって認識者ともなります。そして認識者は自分自身を見ることによって過程を生じさせます。そこでさらに、意識は自分が見られる対象へと変化していくのです。過程とは、意識が自分自身を主観的に認識している状態であると表現できるそうです。私たちが、一般に「心」と呼んでいるものは、実はこの“過程”に相当するのだそうです。悲しいとか辛いとかの感情的体験を伴う「心」というものが、あくまでも個人の主観的な体験であることは誰もが知っています。心が常に動きを持っているのは(心コロコロという表現があるように…)その本質が活動だからだそうです。そして、過程は対象へと変化を遂げます。つまり、意識は自分を主観的に体験している状態から、客観的なものへと切り離し、対象となるのです。意識には‘あたかも自分を自分ではないものへと’変換するような力が備わっているということです。体や物質は意識から見た時、それは対象という状態にあるものなのです。……というようなことがヴァータとかラジャスとかタマスとかの専門用語を駆使しながら説明されますが、難しい用語はすべて省きましたし、途中の解説も、私が分からない部分は表現を変えたり、はしょったりしました。意識という小宇宙はこのように智恵深いもののようです。三つの機能を巧みに使い分けて、常に事象を観察し続けている賢い哲学者はいつも、どの人の心身の中にも常駐していると思うと、何だか一気に賢くなれるような気がしてくるから、不思議です。
医療法人社団 邦友理至会 [マハリシ南青山プライムクリニック]

症状

2006年01月24日 | 日々の泡
心身総体の中から‘部分’が浮き出て、(ある状態として)症状が表出してくるのだそうです。ですから、歯の‘噛み合せ’が良かったり悪かったりするという‘部分’は全身(心身共に)状態に多大な影響を及ぼします。王監督がご自分で語っておられるそうですが、選手時代に一本足打法でボールを打つ度に、強く歯を食いしばるので、奥歯はすべてぼろぼろになってしまったということだそうです。一昔前は、家庭医は舌や脈をみながら、あるいは患者さんの体を触診しながら、全身状態を観察してくれたものです。それが、最近では、医療も高度に細分化され、(しかも、個人保護法の関係もあって、大きな病院の待合室では、私たちは、名前ではなく番号で呼ばれることも当たり前の風潮になってきています。)切り分けて切り分けて、ある部分(臓器)だけを精密に調べるという態勢(体制)になってきてしまっています。あっちもこっちも悪い場合は、いちいち診療科を変更して受診し直さなければなりません。内的な異常を早めに察知する能力が高くても、未病の段階で、医療に関わったとしたら、検査の結果にデータとしての異常がなければ、それ以上の訴えは‘気のせい’か‘不定愁訴’として片付けられてしまいます。人間としての喜びや感激は人や物事の‘全体’と接する時に生じてくるものであって(experiennce near)、切り分けて、部分のみをミクロで観察していくという態度からは、生きているという世界から遠ざかっていくことにもなってしまうので(experiennce distant)、湧き出てくる感情からも遠ざけるという以上の何ものをも生じさせません。切り分けられているものが多いほど、生命体は滑らかには動かなくなっていきます。私も、少し前までは、薬を信頼する気持ちも割合強かったですし、医療にかかることにもそれほど抵抗感もありませんでしたが、この頃では、医療が、私たちに提供してくれられるサービスの限界を感じずにはいられないことも多くなってきています。これはお医者さんのせいではないのですが、あまりにも、物事の発展や効率を目指しすぎてしまって、‘木を見て森を見ない’現象があちこちで起こっているようにも感じています。人や事象をトータルで見ていくという視点をもう一度蘇らせる世界観を取り戻したい!と願わずにはいられません。心と身体と精神が統合されてこそ、私たちは、自分らしく機能出来るのではないでしょうか?

波紋をモニター出来る能力

2006年01月23日 | 日々の泡
人と関わる時には、自分の思いをいかに相手に過不足なく伝えられるかが一義的に大事なことのように思いがちですが、そんなことよりももっと大事な視点があることを知りました。『自分が相手に伝えたことや行ったことに対する波紋をモニターできる能力』なのだそうです。意識下で、常に雰囲気の流れをスキャンできる能力が作動していれば、目の前の対象から放射される波動や反応を、(一見しては、状況をただ漫然と眺めているだけのように見えても)読み取ることが出来るようになってくるのかもしれません。相手からの反応を如何に細かくモニターできるか…。最初は、意識的にでないと、そうした‘読み取り’も難しいことでしょうが、だんだん、きっと、意識せずとも、いつもいつも波紋の渦をきちんと感じ取れるようになっていける気がします。ところで、‘言葉は嘘の道具’だそうなので、相手の、言葉よりは行動を、行動よりは生理的変化を観察していくことが確かな指標になるようです。何故ならば、生理的変化は自分の努力によって作ることの出来ない変化だからです。そして、その場の雰囲気を味わっていくようにするのです。‘場の味’がどう変化するのか…を見ていくのです。雰囲気の‘気’というものは、自分自身の意識下によってしか見ることの出来ないものです。料理の味は舌でみますが、気は自分の意識下がじっと見ています。無意識がその場に影響を与えられるような人になると、目の前の対象に変化を起こせる人になっていけます。気功の達人などは、まさにその好例なのだと思います。無言でいても、その場の‘気’の流れを変化させることができるのですから…。ただ、それは目に見えないものなので、対象側の方にも、ある程度、‘場の味’の変化を感じ取れる能力がないと、変化は起こらないか、起こっても案外長持ちせずに元に戻ってしまうかもしれません。‘私’を取り巻くもの…特に過去と他人は、私の力で変えようとしても無理だし、変えようとすること自体が誤りです。変化を起こさせたかったら、とにかく自分が変わるしかありません。私たちは、変わりたい!と思っても何故変われないのでしょうか?それは、心が変わらないからです。心が変わらなければ、絶対に生き方も変わりません。(私の使っているアロマの愛好者には、アジア諸国の人も多いのですが、私のごく近くにいる2人の中国人女性がすごく不思議な人たちで、私に、こうした考え方を、彼女たちの生き方を通して教えてくれます。)私たちが知らない(気づかない)だけで、この宇宙には、多分、すごく不思議な事象や現象が星屑のごとく散りばめられているのでしょう!

いろいろな考え方が私の頭の中で錯綜しているので、矛盾した概念が散らばっていて、論旨が一貫せず、読みずらくなっています。表層では矛盾を孕んでいるのですが、底流では太い一本の流れに合流しているつもりです。

自分に対して開かれた心

2006年01月22日 | 日々の泡
アルコールや薬物からの回復を目指す治療においては、医療サイドで出来ることには始めからかなりの限界が見込まれることもあって、自助グループに通い続け、先行く仲間…(同じようにアルコールや薬物の問題による挫折体験を持ちながらも、自助グループを活用しながら回復の道を歩んでいる先輩)と関わりながら、自己回復を図って行くことが奨励されます。アルコールや薬物治療に関わる関係者も当事者も、グループでしか回復はありえない…とまで言い切ってしまうことが多いので、グループも、数ある選択肢の中の一つだというふうに軽く捉えてもいいような雰囲気は、この文化の中にはなかったように思います。私には、そうした考え方自体が、非常に偏った一つの‘神話’のように思えましたし、独特の治療モデルが形成されていて、独自の治療文化を作り上げているようにも見えました。こうしたグループに見学参加させていただきながら、このようなグループのどこに、究極のどん底にまで落ちてしまった人を再生させる力が潜んでいるのかが、私には十分には理解出来ませんでした。そして、それは(それ以上、グループに関わり続けなかったため)ずっと分からないままで終わってしまっています。自助グループだけが万能だとは、私には、今でも、どうしても思えません。グループで蘇る人もいれば、グループが苦手で、そこからドロップアウトする人がいたとしても、それもまた一つのあり方だと思えてしまうのです。1対1の個人療法でこそ、自分が素直になれて、何でも喋れるという人がいても少しもおかしくないと、私は考えていました。そして、その構えは今も変わってはいません。皆が皆、グループ・グループと、グループというものを礼賛する強い傾向の中で、私は一人、心の中で「そうとは限らない。そうとは限らない。」と念仏を唱えていました。先日、一つの回答を得るような言葉と出会いました。『他人に対して何でも喋ることが治療ではなく、自分の心が自分に対して開かれているということが治療になる。』 そうなんですよね!自分の心が自分に対して開かれてさえいれば、治療形態はどんなカタチであっても、また、場所も何処であってもいいはずです。誰一人として同じ顔の人がいないように、個人の資質が甦る場所も、人さまざまであっていいはずです。ある特定の場所からしか光が差し込まない、とか、ある特定の場所にしか光が存在しないなんてことはあり得ないことですよね!