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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

SWAROVSKI

2006年12月24日 | my favorite・・・













スワロフスキーのクリスマスバージョンのネックレスを買いました。

韓国ドラマの「冬のソナタ」の中では、polaris(=北極星)が象徴的に描かれていました。「天国の階段」もそうでしたが、韓国ドラマでは、ストーリーの展開の中にネックレスやストラップなどがうまく組み込まれているので感心することが多いです。「天国の階段」で、使われていたネックレスのフェイク物を御徒町のとあるお店でたまたま見つけて購入したこともあります。

「冬のソナタ」のpolarisネックレスは大久保の韓国ドラマ御用達のショップで数年前に入手しましたが、付けて見るとあまり見栄えがしないので、ほとんど使用したことはありません。

スワロフスキーのネックレスには星が2つ付いていて、涙のしずくのようなチャームがところどころにあしらってあります。モデルさんがまぶたとまつげのところに星屑のようなシルバーのラメ(?)を散りばめてメークアップしているチラシに魅せられてしまいました。

鎖の部分で長さが調節できるので、チョーカー風にも使えます。星と涙をクリスタルで繋ぎ合わせたネックレスを首に付けるとせめてデコルテのあたりにだけでも幻想的なクリスマスの荘厳さが漂うような気分になります。

フラガール

2006年12月16日 | 映画
「人生には降りられない舞台がある」この言葉と、TBSの「情熱大陸」という番組の画面に映っていた、蒼井優の不思議な魅力に惹かれて、「フラガール」を見に行ってきました。

松雪泰子や蒼井優のダンスの見事さ・素晴らしさには目を見張ると同時にワクワクするような興奮を覚えないではいられませんでした。いくら女優さんとはいえ、あれだけの踊りをモノにするには、一通りの努力や苦労ではなし得ないことだと思うと、やはり、スクリーンの中で、自分の可能性をできうる限り表現しようとする心意気のある人たちはやることが違うなぁと感心しきりです。

出演者がとにかく皆、素敵なのです。冨司純子など、あんなおしとやかな雰囲気の人がちゃんと炭鉱町のドスのきいた骨のある母親役を演じているのですから大したものです。豊川悦司や岸部一徳などは、他の話題作にも軒並み(?)顔を出していますので、観たいと思えるような映画には同じ顔ぶれが並んでいるというような珍奇な現象が起きてしまっています。それだけ、力のある人が偏っているということになるのでしょうか?

冨司純子が搾り出すように語る台詞があります。「今まで、暗い場所で、歯を食いしばって頑張ることだけが働くことだと思ってきた。だけど、踊りで人を喜ばすようなこともあっていいと考えるようになった。」細かい文言は、こういったものではなかったかもしれませんが、このような趣旨のことを語ります。

社会のお役に立つことや誰からも後ろ指刺されないで済む分かりやすい仕事だけが仕事ではありません。この映画は実話だそうですが、この奇跡の物語の過程には恋、友情、家族、など、人が生きる上で避けては通ることのできないありとあらゆるテーマが重層的に埋め込まれています。そんな中で、仕事とは何かということを考えさせてくれる点が盛り込まれていることも見逃すことはできません。

けれど、あれこれ難しく考える必要もありません。どこかで聞いたのですが、大変という文字には、大きく変化するという意味が含まれているのだそうです。大きく変化するような出来事に遭遇したり体験したりすることが大変でないわけはありません。大変な経過を踏まなければ、大きな充足感もまた得られないことでしょう。

松雪泰子や蒼井優がダンスを踊る時にはいていた真っ赤なフレアースカートが、私には強い意思と自由の象徴のように見えました。綺麗で美しいばかりではなく、「踊る」ということを汚すことのできない神聖な行為として守るための大事な武器に見えたのです。炭鉱町の、すべてが煤けて灰色に写る景観の中で、その赤いスカートだけは一際、その周辺を輝かせるものの象徴として機能していました。しなやかな身体の線―激しくテンポのいい踊りなのに、すべてがとてもゆったりとしなやかに見えるのは何故だったのでしょう。この踊りが、十分な余力を溜め込んだしなやかな生き方を表現するものに感じられたのは私だけだったのでしょうか?

どんなに周囲の反対が強硬でも、その風当たりに負けず、自分の筋を貫き通せば、それが完成した時には、拍手喝采を浴びることができる。仮に、拍手がないとしても、感動を呼び起こすことができる。壮観なフラダンスのうねりの中で、「生きることは(命を燃やすということは)こんなに楽しいことなんだろうなぁ」ということをしみじみと、どきどきと感じさせてくれる骨太な映画でした。

フラガール

匿名性の罠

2006年12月02日 | 日々の泡
インターネットは今までになかった新たな数々の価値を生み出してくれました。ブログがこんなに短期間に多くの人々に圧倒的な支持を得るようになったのにも、それなりの有効性が備わっていたからでしょう。

私がブログに親和性を感じることの一つに匿名で自分を表現できることの気楽さや自由な雰囲気がありました。社会の中であるポジションを得て生きている私という人間のペルソナを見せたくない人には見せなくてもいい、それでいながら、ある意味、自分の、最も本質的な素の部分を開示することができる…こんなに素晴らしい闊達さが許されているのです。こんなことが通常の社会のどんな場所にあるでしょうか?

ところが、今回ある事件を通して、ひょんなところから、身元が割れてしまう可能性がネットには潜んでいるということを知る機会に偶然にも遭遇し、驚愕の思いに捉われています。どんな時にも、油断は禁物なのです。誰にも、私の存在を知られないはずのネットという大海。けれど、無数の人々がその大海には泳いでいて、日夜、あらゆる情報にアクセスしようとしているのです。

私などは思いも付かないことですが、裏の裏の裏まで、隈なく情報を集めようとしている人もいるのです。邪の道は蛇です。ネットという暗闇の海の中にはどんな人間が潜んでいても不思議はありません。あなたの大事な産毛の生えた心をむしり取られないようにくれぐれも気をつけてください。

ネットに書き込むことは多くの人にとっては、恐らく、人には見られたくない、心の心情を吐露している生の声のはずです。そんな感情を人に盗み見されることは耐えがたいことです。検索エンジンに引っかからないように、キーワードになるような言葉は極力控えて、大海の中に埋もれてしまいましょう。案外、近い人間関係の中に罠のきっかけがあったりすることを肝に銘じて知りましょう。

私が決して盗撮しようとしているわけではない、見知らぬ人の本心や悩みに触れてしまうことは、私にとっては、本当に心の痛む辛いことです。私は、自分を容易には人に開示しない代わりに、人の心を無理やりこじ開けようとする趣味もありません。そっとしておいた方がいいことが人生には一杯あると思っている人間です。ただ、知ってしまったことを、知らなかったことにはできない不器用な人間でもあります。きっと、期せずして、こんな恐い体験を目の当たりにしてしまったことも、今の私には必要なことだったからなのでしょう。けれど、もう、この感情をいつまでも引きずることはしたくありませんので、ネットの海の中にではなく、宇宙の彼方の、誰にも知られることのない世界にそっと放ってしまおうと思っています。