goo blog サービス終了のお知らせ 

アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

いつだって今が一番幸せ!

2007年09月24日 | 日々の泡
かつて、職場の女性上司に「過去の栄光なんて何の意味もないのよ!今が幸せでなければ…」と言われたことがあります。その頃の私は、「いつかは幸せになりたい!」と願う(ということは、‘今’が幸せとは決して思っていない)夢見がちな人間でした。幸せとは私にとっては、スキーのリフトのようなもので、ある一定の間隔を置いて、目の前に、あるにはあるけれど、目の前のチェアには決して手が届かない…という性質を備えたものでした。けれど、いつかは必ず幸せになるために、その日を楽しみにして、今の、目の前の苦労には耐えていこう!というスタンスの持ち主であったということは、幸せを手に入れることをとても楽しみにしている人間でもあったということです。

今が幸せでなければ、過去の栄光はガランとした古代遺跡のようなものになってしまいかねません。けれど、今もいつも、私が私として幸せであり続けるならば、過去の栄光は現在の私の強く頼もしい礎や土台となってくれるはずです。

今を幸せと実感出来なければ、‘幸せ’という絵に描いた餅は、いつまでたっても絵の中の餅でしかなく、私は永遠に、現実のものとして味わえるはずの生の餅の味を知り尽くすことは出来ないでしょう。幸せは未来にあるものではなく、‘今’という時の中にそれを感じ取れる能力を持った人間の心の中だけに存在できるものなのかもしれません。

結婚当初、タレントの山口もえさんが「人生がこんなに楽しいものだとは知らなかった!」と言っていました。彼女は今、本当に幸せなんだろうなぁ…と、人の幸せなのに、その言葉を聞いている私にも強く実感出来る迫力が伝わってきました。好きな人と一緒に生活できるという現実は、人をここまで幸せにする力があるのだと感動しました。

もえさんのように、強烈な実感を伴う幸せを持続的に体験できる人は、稀有かもしれませんが、私も遅ればせながら、やはり、自分のことを幸せだと感じられるようになってきています。そして、有難いことに、過去のどんな時よりも、「いつだって今が一番幸せ!」と、たとえ、どんな困難な状況を抱えていようとも思えるようになってきていることにもとても感謝しています。

もうそろそろ…

2007年06月08日 | 日々の泡
自分が書いた雑文をネット上に載せられる…などという体験はとてもエキサイティングなものでした。その楽しさに魅せられながら、ここまで一気に駆け抜けてきた感じがしています。自分を確認する作業としても、‘書く’という行為は、私に、これまでには知り得なかった新鮮な驚きと喜びをもたらしてくれました。

けれども、記事を更新し続けなければ…という観念が、常に頭の隅でノイズのようにチカチカしているのは、少々強迫的でもあるので、そんな自分に疲労感を覚えるようにもなりました。ゆったりと気ままに書きたい時や書ける時にだけ書いていくという姿勢の方が自然です。より自然に生きたいと願うようになったのですから、今までのような無理は禁物なはずなので、私にとっては、大切な大切なブログではありますが、書き続けることに息切れを感じるようになった以上、一旦、休め!というサインに耳を傾ける‘時’が近づいているようです。

運も実力のうち

2007年01月15日 | 日々の泡
ある成果を獲得するための力が少々足りなくても、首尾よく、好結果を手中に収めることが出来る場合があります。そんな時は、「運がいい!」と表現しますが、運も実力のうちなのでしょう。運を引き寄せる力は、ある種の本物の実力に匹敵するような気がします。

私などは、運というものは、それこそ運がよければ来るものであって、運が悪ければ逃してしまうものとして、言ってみれば、あまり当てにはできない博打性の高い性質を持ったものとしてしか捉えていなかったのですが、運のいい人というのは、運を限りあるものとは考えていないようなのです。

運は空から降る雨のごとく、その気になりさえすれば取り放題のものなのだそうです。溢れる豊かさで「運」は限りなくやってくるそうです。そういえば、多額納税者番付でいつも一位の斉藤ひとりさんという方も、「あなたにすべての良きことが雪崩のごとくにおきます」などという表現を使われています。雪崩が襲ってきたら潰されてしまうなぁ…、雪崩なんていう言い方が相応しいものかどうかなどと不謹慎なことをちょっと考えてしまいますが、確かに宇宙の恩寵は無尽蔵なもののようです。何かの拍子に、その無尽蔵の宝庫を引き出すポイントにアクセスすればいいだけのようなのです。宇宙の限りのない秘密にアクセスしてみたいものです。

INSIGHT(洞察)

2007年01月07日 | 日々の泡
病気の状態にありながら、「自分は病気である」という認識を持てない場合に、病識がないという言い方をします。精神科にかかる必要があるような重大な精神科的病いを抱えた患者さんは一般的には病識を欠くことが多いのですが、病識がないと、病状の改善を図れないばかりか自分の人生を自分のモノとして生きることが難しくなってしまう場合があります。それが一番の厄介な点のように思われます。自分の人生が自分のものでなくなってしまったら、自分の人生にどうやって責任を持っていったらいいのでしょう?

ところで、この病識という言葉は、INSIGHTという単語で表す通り、文字通り内面を見ることに繋がる言葉です。精神分析の用語としては「洞察」という言葉が使われます。「あぁ!そうだったのか」体験をした時に、洞察が得られるとされています。

物事の表面だけでなく、内面に隠されている事象や微妙なニュアンスなどを心的事実として感じ取ることができるようになれば、恐らく、人生の意味も単一ではなくなり、世界が提示しているさまざまな謎をも重層的に読み取ることができるようになるのかもしれません。

INSIGHT…自分の都合の良いようにばかりでなく、自分を取り巻く、今ここでの現象をあるがままに見つめることができるようになれたなら。INSIGHT…その先の、自分の取るべき行動が手に取るように理解できるようになれたなら。INSIGHT…そして、自分の可能性を最大限に発揮して後には、その結果がどうあれ、その結果を素直に受け入れることができたなら。INSIGHT…良いも悪いも含めて、それが自分の人生だと認めることができたなら。INSIGHT…私は、私の人生を愛し、私の人生に対して肯定的な態度を持つことができるようになれるでしょうか?

匿名性の罠

2006年12月02日 | 日々の泡
インターネットは今までになかった新たな数々の価値を生み出してくれました。ブログがこんなに短期間に多くの人々に圧倒的な支持を得るようになったのにも、それなりの有効性が備わっていたからでしょう。

私がブログに親和性を感じることの一つに匿名で自分を表現できることの気楽さや自由な雰囲気がありました。社会の中であるポジションを得て生きている私という人間のペルソナを見せたくない人には見せなくてもいい、それでいながら、ある意味、自分の、最も本質的な素の部分を開示することができる…こんなに素晴らしい闊達さが許されているのです。こんなことが通常の社会のどんな場所にあるでしょうか?

ところが、今回ある事件を通して、ひょんなところから、身元が割れてしまう可能性がネットには潜んでいるということを知る機会に偶然にも遭遇し、驚愕の思いに捉われています。どんな時にも、油断は禁物なのです。誰にも、私の存在を知られないはずのネットという大海。けれど、無数の人々がその大海には泳いでいて、日夜、あらゆる情報にアクセスしようとしているのです。

私などは思いも付かないことですが、裏の裏の裏まで、隈なく情報を集めようとしている人もいるのです。邪の道は蛇です。ネットという暗闇の海の中にはどんな人間が潜んでいても不思議はありません。あなたの大事な産毛の生えた心をむしり取られないようにくれぐれも気をつけてください。

ネットに書き込むことは多くの人にとっては、恐らく、人には見られたくない、心の心情を吐露している生の声のはずです。そんな感情を人に盗み見されることは耐えがたいことです。検索エンジンに引っかからないように、キーワードになるような言葉は極力控えて、大海の中に埋もれてしまいましょう。案外、近い人間関係の中に罠のきっかけがあったりすることを肝に銘じて知りましょう。

私が決して盗撮しようとしているわけではない、見知らぬ人の本心や悩みに触れてしまうことは、私にとっては、本当に心の痛む辛いことです。私は、自分を容易には人に開示しない代わりに、人の心を無理やりこじ開けようとする趣味もありません。そっとしておいた方がいいことが人生には一杯あると思っている人間です。ただ、知ってしまったことを、知らなかったことにはできない不器用な人間でもあります。きっと、期せずして、こんな恐い体験を目の当たりにしてしまったことも、今の私には必要なことだったからなのでしょう。けれど、もう、この感情をいつまでも引きずることはしたくありませんので、ネットの海の中にではなく、宇宙の彼方の、誰にも知られることのない世界にそっと放ってしまおうと思っています。

攻防戦

2006年10月07日 | 日々の泡
精神分析的精神療法を受ける際の、セラピストとクライエントのやり取りのことを「交渉」という表現で、その関係を端的に表現された専門家がいました。問題を抱えて、その解決の助けを求める場合、どうしても依頼者の方が、立場が下のように感じられてしまうことが多いのですが、本来は対等な関係であるべきです。

考えてみれば、コミュニケーション能力というものは、緊張感を伴わない、「井戸端会議」的なものや「仲良しこよし」風のものならば別ですが、物事を前進させるためのやり取りであるならば、それは相手との交渉能力の域に関わってくるものだろう…と思えます。

さらに一歩踏み込んで言えば、その交渉が、ある種、命がけの様相を呈してくる場合、攻防戦ともいえる雰囲気を持つものともなってくるでしょう。私も本気なら、相手も本気である場合には、畢竟、そのような成り行きになるはずです。

‘本気’が足りない時には、‘気’すなわち‘波動’が相手に伝わっていかないので、ゆるゆるとした、世間話や雑談の域を超えられません。

私は最近、気がつけば、命がけともいえる攻防戦を繰り広げている自分に直面しました。攻防戦の領域に足を踏み込んでいる時には、恥とか外聞というものが出る幕がないことも知りました。それは、いろいろな面で、相手に飲み込まれてはならないからです。ものすごい消耗感です。そんな攻防戦を潜り抜けても、それでも、その先に成功体験が待っているとは限らないのが人生と知りました。

事業家

2006年09月22日 | 日々の泡
最初は、ただ単純に、私の長年の憂鬱の種に効果があるものならば、偏頭痛を軽減できるものならば…という動機だけで、アロマの世界に首を突っ込んだだけでした。元々はアロマに特別の興味があったわけでもありませんし、匂いフェチというわけでもありませんでした。

今でも、このアロマに対して特別の拘りがあるわけではありません。極めてニュートラルな距離感の中で、これらのアロマと付き合っているに過ぎません。ところが、やはり、かなり客観的に、冷めた視線で眺めてみても、なかなかに優れた効能を持つ商品だという認識を新たにしています。

以前、私の親戚の家に長いこと出入りしていた、ある事業家のことを思い出して、最近、突然の事ながら、電話連絡をしアポを取って、直接お目にかかりいろいろとお話しをさせていただく機会を持ちました。

ささやかながら開始した、私の事業に対して、彼の助力を得ることができたなら…と微かな期待を抱いてのことでした。直接的に関わってはもらえなくても、何らかの智恵を伝授してもらえるかもしれないし、知人を紹介してもらえるかもしれないとも考えてのことでした。

ところが、私の甘い考えは、即座に砕かれてしまったのです。彼の言い分は次のようなものでした。■長年、安定した固い仕事をしてきた人にできるような類の仕事ではない。■たらればの話しはしても仕方がない。■100万とは言わない。30万でもいいから稼げるようになったら、話しを聞きましょうということになってしまいました。

営業の仕事などは私には決してできないとずっと思ってきました。私には一生、無関係な分野のことだとたかをくくってきました。現に今でもできるはずもないことではあります。けれど、もうできないでは済まされなくなっています。するしかないのです。とにかく、何らかの実績を作り出さなければ、人の力を借りることさえできないという現実の厳しさも知りました。まず初めに、私は何をしたらいいのでしょう。分かりません。けれど、何事かをなさなければ、誰も、私の本気を信じてはくれないのです。諦めさえしなければ、投げ出してさえしまわなければ、挫折したことにはなりません。そう信じて、今日も、私は歩いています。

人と関わるということ

2006年09月14日 | 日々の泡
親密な関係にあっても、人は人、自分は自分ということを忘れてしまうと、私の場合は大変なことになります。そんなことを甘やかしてくれる人が周りにはいないからです。「そんな君でもいいよ。」などと言ってくれる人は一人もいない過酷な境遇で生きています。人が自分と同じカプセルの中にいて、人の感情や思いを自分のものであるかのごとく、うっかり捉えしまおうものなら、多分ものすごく不幸になると思います。けれど、少し前までは、そういう傾向に流れていましたから、すごく苦しかったし、とても不幸でした。世界の誰一人も、私の思うようになど動いてはくれません。そんなことは当たり前のことなのに…。でもとても苦しかったのです。いつも一人でいるくせに、一人で生きていくことの覚悟ができていなかったからなのでしょう。今でも、一人で生きていく覚悟などはできていませんし、一人で生きていかなければならないとも思ってはいませんが、何か、今までよりはもう少し爽やかな、少なくとも、そう鬱陶しくはない一陣の風が心の中を通り過ぎるようになりました。

これはどうしてなのでしょう?自分でも分かりません。ただ、人との距離を幾分測れるようになったかららしいのです。人との関係に圧倒されたり飲み込まれたりするようなことが以前ほどはなくなりました。危ない感じになっても、限界点を飛び越して、もっと先まで行ってしまい自分を惨めにするということがめっきり減ったような気がします。どんなことも通過点なんだから、これが結果ではないのだから、明日は明日の風が吹くんだから…。今の感情に押し流されることなどないんだから!と気持ちを切り替えられるようになったからかもしれません。誰にもしがみつかないで、自分の力で立っていられるような人間にこの先もなっていきたいと思っています。

不確実性を生きる

2006年09月08日 | 日々の泡
先行きが不透明で、先々のことが読めない。こうした状況を、私たちは一般的には大変恐れるのではないでしょうか?少なくとも、私はずっと恐れてきました。どんなことでも先取りしようと努力してきましたし、「転ばぬ先の杖」「先んずれば人を制す」をモットーとして生きてきたのです。

ところがどんなに細心の注意を払っても、この人生の成り行きはまったくもって予測どおりには運んでいかないものだということを嫌というほど実感してからというものは、そんなことに汲々とすることが、ただただバカらしくなり、組織の中の枠にはまった生活ぶりにも飽き飽きするようになってしまったのです。そしてとうとう、私はこれまでの生き方をこれからも続けていこうとは思わないまでに変貌してしまったのです。

どんなにあがいても苦しんでも、一向に、自分が変わりようもない時もありました。むしろそうした時間が長すぎたくらいです。どこを眺め回しても、変化をもたらす兆しのひとかけらもない時はどうしようもなくそんなものは一切どこにもないのです。それが、来るときには突然に、前触れもなくやってくるものなのだということを今回知ったのです。そうなると、その流れに乗れるか乗れないかが危ぶまれるほど、チャンスは急激に目の前を横切りました。今までの慎重で臆病な私だったら、今回のこの事件も、素通りさせていたかもしれません。途方もないビジネスの話なんて、私の人生には無関係の荒唐無稽なこととして切り捨てていたことでしょう。それが、暗々裏のうちにこの流れに乗ってしまっているのです。先のことは何一つ読めないまま、この不確実性を生きることができているのです。

不確実性は人生がうまくいっている証拠だと言われても(「精神世界」系の書物では必ずそう言い切っています!)、まず、大方の人はその不確実性に身を委ねることはできないでしょう。これまでの生き方に心底ウンザリして、新天地を求めようとするやむにやまれぬ気持ちに捉われた者でなければ、不確実性を生きることは空中で綱渡りをすることよりも難しいことだと思われます。

世に花盛りの口コミ商品

2006年09月04日 | 日々の泡
最近ある人に、「健幸寿命を延ばす疾病予防施設」なるものがあることを教えられました。その施設に払う会費と医療費で月に保険が使えて16000円程度の費用がかかるそうです。そんな施設がビジネスとして成り立つということにも驚きましたが、会員になると無料で配布されるという、ある健康補助食品がなんとネットワークによる方法で販売されているものなのです。私は、自分がこの世界に関わるようになるまで、世の中に、こんなにも多くのネットワークを使った口コミ商品があるということすら知りませんでした。

ネットワークの世界でやっていけるような人は、私のようにオロオロはしていないのだそうです。周りの人にどんなに嫌がられても、友人・知人を失ってしまっても平気なエネルギーとパワーを持っているそうなので、いつも平然と落ち着いている…とのことなのですが。果たしてそうなんでしょうか?一人から契約を取れれば、教育費が出るとかの計算を頭でしていて、相手がビビッているとか嫌がっているとかのことで、自分が傷ついたりはしないということですが、本当にそんなことがあるのでしょうか?そんなことを続けていたら、人間としての心はどこかへ置き去りにしなければならなくなります。私などは、むしろ、そういう人たちに勧誘される側の人間であって、そんな仕事を広める側に入れるわけもないというのが誰もが思う大前提のようです。

どんなことにも理屈はあるし、どんな理屈にも一理はあると考える、私のような人間の場合は、これはこうだ!という決め付けができません。これも一理ある。あれも一理ある。どんなことにも正当な側面がある。などといっていたら、大抵は悪意を持って接近してくる人に立ち向かうことはできません。それでも妙に臆病でけちな私なので、今までは騙されたり、ひどい目に合うという経験からは一切免れていました。

ネットワークビジネスに関わって、その組織を先導している人たちのすべてがすべて悪意のある人たちばかりというわけではありませんが、ネットワークでビジネスをすすめることのできる人と、苦手な人のいることは少し考えれば分かることなので、誰でもが簡単に成功できてしまう、夢のツールであるようなことだけは言わないで欲しいと思います。できる人もいれば、そんなことには向かない人もいるのです。そのことをわきまえた言動を静かに行って欲しいと願っています。

確かに、商品は悪くはない場合も多いので、商品という‘道具’を使って、ビジネスをうまく展開するきっかけを掴むことのできる人には面白い商材となりうる可能性もある…位のところでとどめておいてくれれば、このビジネスにももっと品位のある印象を持ってもらえるのではないでしょうか?けれど、それでは、それこそビジネスにはならないのでしょうね。本当にガンガンやっていきたい人にとってはそんなトロイことでは仕事にはならないのでしょう。まったく、世の中の熾烈さには頭が下がります。とてもついてはいけません。ついていけない自分でいいです。私は人を騙さなくてもいいやり方で、仕事をしていきたいし、これからもそうした方法を模索していきます。自分が汚れてしまうことを、自分に許すことはできません。