イメージ・シンボルの第2弾は「墓石」です。「墓石」ですから、明るく希望に満ちたイメージなどあるはずもありません。①貴賎や貧富の差をなくすところ。②世俗の栄光の終わりを意味する。③すべての生命が消えうせた領域を表す。④愛の終わりを表す。→こんなところですかね。肯定的な意味合いはシンボルとしてはないようですが、多くの魂の‘仮の宿’として、あるいは魂の安息所として、私は犯すべからざる荘厳な聖なる領域だとも思うのですが…。もっともっと宇宙的なイメージも存在すると想像していたので、ちょっと残念です。
私の手元に「イメージ・シンボル事典」という事典があります。ある‘語彙’がどんなイメージやシンボルの象徴として言い伝えられているのかを説明している事典です。「不死鳥」が体現しているイメージやシンボルとは、いかなるものなのかを調べてみました。ところが、あまりにも数々の意味や語源の説明が網羅されていて、結局は「不死鳥」を一言でシンボリックに語ってくれているわけではないと、私には思えてしまって…ちょっと気落ちしています。そこで、自分に都合のいい部分だけを取り上げてみることにしました。『①普通は不死鳥は雄のみであるが、両性具有だという説もある。②頭冠をつけ首筋は金色、尾羽には白と薔薇色が混ざり、目は光り輝く。』【象徴】①太陽崇拝を表す。②復活・不滅を表す。③永遠の青春を現す。④貞節・節制を表す。⑤驚異的な存在、またとない逸材を表す。⑥自己充足あるいは自己犠牲を表す。⑦キリスト教では、キリストの受難と復活を表す。【心理学】瞬間から瞬間へと死と再生を繰り返す人間の「意識」および「夢」と「変化」を表す。→まあざっとこんな風に記載されています。私としては、心理学で言われている「不死鳥」のイメージを採用しようと思います。高度な「意識」状態にありながらかつ、いつも、その場の状況や立ち位置に捉われずに、より高次の変容に向けて、停滞することのない飛翔を続けている「ある生命体」の象徴と、まずは定義してみたいと思います。ただ、「不死鳥」一人で自己充足されても困るのです。人と人との共生を考えている私にとって、自己完結のテーマは今は不要なものなので…。さぁ!あなたはココからどんなイメージを膨らませることが出来ますか?
私の‘智恵袋’である、¥680のお洋服を素敵に着こなす友人が教えてくれたとっておきのレシピです。①(簡単なサッパリ酢)ジャムなどの空き瓶に乾燥だし昆布を何枚か入れて、そこに、お砂糖大2-3杯、塩少々、味の素、お酢を瓶の中に入れて混ぜる。何にかけても美味しいそうです。暑い夏は特にお薦めですね。②①にブルーベリージャムを加えると、バルサミコ酢っぽくなって、また一味違う楽しみ方が出来るそうです。③②に生トマトのすりおろしに冷水を足したものを加えると、冷たくて美味しい「冷やしトマトスープ」の出来上がりです。④冷水(氷を加える)+きゅうり+わかめににんにくのすりおろしもしくはしょうが汁(or針しょうが)それにゴマとお酢と七味唐辛子をかけていただきます。⑤ラタトウーユ→オリーブオイルでにんにくをいためて、にんにくが焦げたら、にんにくは取り出して、そこにズッキーニ+なす+玉葱+ピーマン(緑・黄・赤)+トマト缶のトマトを加えます。漬けておくだけでも馴染んでくるそうですが、厚手の鍋で炒めながら、お好みの調味料を加えて味付けして下さい。⑥野菜ジュース→小松菜3すべ+セロリ1本+にんじん1本+りんご1個→これだけだと、ものすごい色でとても飲もうと思えるような代物ではないのだそうですが、ここにゆずを1キャップ入れると途端に美味しくなる(?)というか、飲みやすくなるそうです。ここに豆乳を入れてもいいそうです。さぁ…どれから挑戦してみましょうか!とりあえずは⑥がヘルシーでいかにも健康に良さそうですね!
都内のとある国立の大学院で博士論文を書いている私の友人は、都内某所に住んでいます、そこは下町ということもあるのですが、いまだに商店街というものが存在していて、そこの一角にある、お洋服屋さんのお洋服は全品が¥680なのです。上下一式だと¥1000と割安になって、もっとお買い得になってしまいます。かばんも帽子もバッグも小物類も売っていて、気に入ったものが見つけられれば、こんなにお買い得なお店は他には滅多にないと思います。他の場所では見つけられないような、このお店のものを、私の友人である彼女はいつも身につけています。素敵に着こなしているから、とても¥680のお値段のものには見えません。彼女が、昨年の冬、¥680のフェイクファーの携帯入れ付きのポシェットを抱えてきた時には、私は思わず、そのフェイクファーの携帯入れ欲しさに、「私にも買ってきて!」とお願いしてしまったのですが、当然のことながら、そんなお買い得商品が売れ残っているはずもありませんでした。諦めの悪い私は、必ず同じような商品が見つかるはずだと思って、ネットで検索してみました。そうしたら、それとほぼ同じ商品を売っているネットのお店があったのです。そこでの値段は¥1000からのオークションでした。運よく落札できたのですが、後から、送料が¥1000もかかってしまうことが分かりました。でも、それは後の祭りで、結局¥2000でのお買い上げとなってしまったのです。その後、それが原因かどうかは分かりませんが、スパイウエアに取り付かれ、パソコンを買い換えなければならない羽目にも陥ってしまいましたので、もうネットオークションには興味を持たないことに決めました。私は、通販も苦手です。はやりこの手にとって、実物を確かめてからでないと、何かを購入する気にはなれないたちのようです。ただ、絶版になってしまっていた書籍をユーズドで安価に購入できた時には、インターネットの有難さをじみじみ痛感したものです。何を購入するかは物によりますね。安心できるサイトなら快適なお買い物ライフが楽しめそうです。何につけ使い方次第…なのでしょうネ!
歯髄が細菌感染を起こすと、膿が溜まって、温熱刺激に反応するようになり、歯の内部の内圧が高まっていきます。歯に自然治癒力はありませんので、放って置いて歯の故障が治るということはありません。専門家による治療が絶対に必要になります。部分的な治療で軽快することがほとんどであるとは思いますが、抜歯が必要な局面をむかえることもあるでしょう。自分の歯が一番ですから、良心的な歯医者さんは保存両方を心がけてくれるでしょうが、それでもやむを得ずに抜歯でしか治療の方法が残されていないこともあるとは思います。抜歯してしまうと、これまでの痛みや苦痛が何だったんだ!と思えるほど、途端に楽になってしまうそうです。科学を勉強している多くの人はもう気づいていることでしょうが、心の仕組みと身体の仕組みは同じ次元で起こっていることです。分子レベルで起こっていることが心でも起こっているのです。さぁ!また心と身体の問題が登場してきました。心身一如ということです。話はころっと変わるよう恐縮ですが、一般的には「受動的」であるよりは「能動的」であるほうが積極性も高く価値があるように思われていますが、歯科学の分野では「受動的」であることには非常に高い付加価値があるようです。水というものは必ず高いところから低いところへと流れていきます。これが、低いところから高いところへ流れようと思ったら、(あり得ないことですが)大変なことになります。ものすごい抵抗を受けるにも拘らず、試みは必ずや失敗に終わることになるわけです。脂溶性の薬物は難なく「受動的に」細胞に流れていけるのだそうです。ところが「能動的」と言われている薬物は抵抗を受けてしまうのだそうです。素人の聞きかじりなので、細かいことの説明は間違っているかもしれませんが、大まかにはこんな事情があることを知りました。で、何が言いたいかというと、排膿路を知っている人間は強いということです。膿が溜まるまで溜まる状況にいくら耐えて苦しんでも(第一、膿なんて身体の内部に一時たりとも溜めておく必要のないものですから)、膿は穴を開けて、排除しない限り、膿自らは内部に溜まり続けるだけなので、水の流れが上へではなく下に流れるという真理をも踏まえると、そして「受動的」であることの力強さにも目を向けてみると、排膿路(膿を排出する道筋)を自ら、あるいは時には、人の力を借りてでも、見つけ出せる人間であるほうがいいのかもしれないという…話がしたかったわけなのです。ちなみに、精神分析の発達論の分野でも「受動的」であることは「能動的」であることの次の段階に訪れる、より高次の概念のようです。色々なことって、面白いことに、結構、根底では繋がっているんですよね!
いつもの気功教室が、この日は中国人の方々との「気功交流会」と合同で行われました。いつもなら、気功教室の生徒は7~8人なのに、この日は大変な盛況振りで、狭い部屋の中では先生の姿も、普通にしていては、見えないほどだったのです。カカム先生も日本語と中国語を交互に使いながらの大奮闘です。でも、先生はいつも以上に楽しそうでした。先生の国籍は日本ですが、やはり母国の人々との交流にはえもいわれぬ嬉しさが伴うものなのでしょう。ほとんどが中国語という状況の中で、また、中国の方たちは非常によくお喋りをされるので、わいわいがやがやとした雰囲気の中で、私の意識はだんだんと弛緩して朦朧となりやがては茫洋となっていってしまったようです。気功の実践に入った時からは、本当の眠りに入ってしまったのです。もちろんあたりがざわついていることやまわりの人の気配はそれとなく感じてはいるようでしたが、起きていられなくなってしまったのです。どのくらいの時が経ってからでしょうか?「冷たいお茶を入れましょうか?」という人の声で目覚めました。この日は、先生の訓話は少なく、ほとんどが武道のデモンストレーションでした。相変わらずの、先生の動きの見事さに、私は当たりもかまわず拍手をしてしまったら、ほぼ同時にみんなが拍手をしていました。先生のコラム記事が中国の新聞に載ったとのことでの緊急集会のようでした。私の隣に座っていた、中国語も日本後も両方理解できる女性が、私にその記事の内容を翻訳して教えてくださいました。『人生の幸福は健康である。有名になることやお金を得ることも幸せには違いないが健康がなければ真に幸せとはいえない。調心・調身・調息を心がけるだけでいいのだから健康になることはとても簡単なことだ。人生で起こる一切の出来事は夢幻(ゆめまぼろし)のようなものなのだから、人生の何たるかを看破して(見破って)物事(特に、欲望や雑念…)に捉われすぎずに健康を保持しよう。』というような内容であることが分かりました。気功は宗教とは異なります。信じようが信じまいが‘気’は信じない人の周りにも確かに存在するものなのです。ただ、信じたほうが、効果が大きいとの説明がありました。不思議な雰囲気に包まれた集会でした。だからでしょうか?目覚めた後には、夢から覚めた後のような感覚(その集会すらが夢の中の出来事だったのではないかというような…)に襲われている自分が、そこにぽつんといたのです。
友人に熱狂的なジャニーズファンがいます。2年位前に、友人のただならぬエンターテイメントに対する思い入れの強さを知ってから、そんなにも人を惹きつけてやまない大衆芸能ってどんなものなんだろう…私も、今まで知らなかった未知の世界を覗いてみたい!という興味と衝動にかられて、それ以来、その友人に頼んで時々は、ジャニーズのコンサートに連れて行ってもらうようになりました。というわけで、今回は、国立代々木体育館で行われているジャニーズの中の5人グループ‘嵐’のライブを体験してきました。歌って、踊れて、お芝居ができる…それは誰もが与えられているわけではない特別で稀有な才能です。まして半端ではない大人数のファンを相手に大きなイベントを張るからにはそれだけの心構えと尋常ではないタフな心身のコントロールが日常的に求められています。「今日はちょっと調子が悪いから休ませて!」なんて事は簡単には通用しない世界が彼らの日常です。その上、ジャニーズの活動には極めて過酷な要素も加味されています。グループとしての成長はもちろんのことですが、個人個人としてのタレントを伸ばしていくための活動も同時併行して、当たり前のこととして視野に入れていかなければならないのです。グループとしても仲良く、かつ個人としての己の資質の向上をも目指さなければならない…これは「言うは易く行うは難し」で大変な修行の日々でしょう。自分の足りない部分はグループの力で引っ張ってもらおう…なんて、安易に人頼みを決め込んみても、そうは簡単には問屋は卸してくれません。そして、彼らの下積み生活は人にもよりますが、意外にも長く、ですから過酷な状況を少年時代から、長期間強いられてきているのです。相当なバランス感覚を備えていなければ、生き残ることはできないだろうと…人事ながら「ご苦労様!」と声をかけたくもなります。ところが、そんな彼らでありながら、実は、私は彼らにそんなに親和性を感じているわけではありません。あくまでも、私の友人が何故そんなにも彼らに惹かれるのかを知りたくて足を踏み入れただけの、私のジャニーズ修行でした。そして、嵐のライブは初めてではないのに、今回、全く始めての感覚を、自分の中で体験したのです。まあまあの席だったこともあって、彼らの表情や動作から、私にある感覚が呼び覚まされたのかもしれません。まず、歌は口パクでした。踊りもカタチは恐らく完璧なのでしょうが、完璧というカタチをなぞっているだけの動きに見えてしまったのです。そして彼らの向かう視線は(一体、どこを見ているのでしょう?)誰をも見てはいないのではないでしょうか?というより、特定の個人を見てはいけないと無意識に知っているのかもしれません。私は、とてもよく出来た、ある‘造形’を見物しているような気になってきました。テーマは「ONE」。あなたにとってのONEはなんですか?という問いかけ。ステージの最後で彼らの一人が会場に向かって語りかけます。僕たちにとってのONEはファンの皆さんのひとりひとりです、と。私の友人は、彼らを「愛している」という表現を使います。愛を一杯あげに行くのだと。彼らはファンからの愛ある視線を飽和するほどに浴びることによって、オーラを放つようになり、芸能人としての大きな力を身につけていくのでしょう。でも、その時の私は「ふ~ん!そうなのかぁ…」と思って、そのショーを見つめていました。とてもよく出来た台本通りのコンサートだったのだと、感じられてしまったからです。でもそうでもしなければ、彼らとてとても持ちませんよね!ステージは、去年よりは洗練されていたのかもしれませんが、荒削りの生々しさには欠けていたように、私には思えました。私の少々、偏屈なそんな感想を抜きにしたところで、素直にちょっといいなと思えたのは、大ちゃんこと、リーダーである大野くんの艶のあるセンチメンタルな甘い歌声と切れのある踊りです。彼の甘い余韻の残る歌声は彼独自の持ち物です。あんな声の持ち主は私の知る限り二人といません。やっぱり人にはない、自分だけに備わっている‘何か’…っていうものには誰も難癖をつけられない価値が歴然と存在しますよね。代々木体育館を埋め尽くす人々に‘夢’を与えられる嵐が作り出すエンターテイメント空間。やはり、彼らの存在はかけがえのないものだとも思わなければ嘘ですよね!
各地で毎年行われる花火大会は夏の風物詩として、多くの人々にとって心躍る楽しみな行事の一つになっています。以前は、わざわざどこかに出掛けてまで、花火を愛でようという気持ちを持つこともなかったのですが、最近では、実物の花火の美しさや胸の底にまでどーんと響いてくる轟音と共に夜空に花開くあの奇跡を、ひと夏に一度は体験しないと気持ちが納まらないような…不思議な胸騒ぎを覚えるようになってしまっています。隅田川の花火大会は、人出が多すぎて、吾妻橋などに足を踏み入れようものなら、立ち止まって見物することも許されず、立ち並ぶビルの景観に遮られて、花火の全貌を眺めることすらままなりません。‘お祭り’というものはそんな風にせせこましく、ある種の危険を伴うものでもあるのですが、(そこが‘お祭り’の醍醐味と思う人も多いとは思いますが…)私としては、一度は、もっと優雅な落ち着いた気分で花火見物をしてみたいものだと願ってもいました。調布の花火大会の存在はかねてより気にはなりながらも、一度も足を運んだことはありませんでした。花火大会当日の微妙な時間に、都心をも襲った震度5の大地震の余波が交通機関にも少なからぬ影響を及ぼしてもいましたが、何故か、その時の私の気分は凪のように静かでしたので、予定通り、花火に会いに出かけることにしました。最寄り駅は京王線京王多摩川駅か調布駅か布田駅の3駅です。「京王多摩川駅や調布駅は大混雑していますので布田駅をご利用ください。」とのアナウンスも流れていましたので、私は布田駅を利用することにしました。そのためか、大きな混乱には巻き込まれずに、遮る建物のない場所で、ゆっくりと真夏の夜空を彩る華やかな1000発にも及ぶ花火の大乱舞を、思う存分堪能することが出来たのです。デジカメで何枚もの写真を撮っては見たものの、夜の風景をデジカメに収めることはとても難しく、実際の花火の美しさを再現することはまったく不可能でした。ですが、少しでも、その時の雰囲気をお伝えしたかったので、調布市観光協会のホームページに掲載されていた幾つかの花火の写真の中から、私が、一番気に入ったものを載せさせていただくことにしました。まだまだ、あちこちで実施される予定の花火大会はこれからも続々と控えています。皆さんも一度、その興奮を味わいに、是非、現地に足を運んでみてはいかがでしょうか?それから、いつも感じることなのですが、京王線は本当に気の利いた私鉄だと感心することが、この日もありました。布田駅は通常は、各駅停車の電車しか止まらない駅なのに、花火見物のお客さんのために、花火大会終了後は、快速電車も臨時停車させてくれたのです。当たり前のことのようですが、こんな臨機応変さって、案外、お役所などでは考えられないことでもあるような気がします。京王線の粋な配慮のおかげで、イライラしないで済んだ乗客も多かったのではないでしょうか…
私が何故、最近、「身体」のことが気になるようになったかと言えば、「心は幻」…とか「心は容易に嘘をつく」とかの言葉に出会うようになったからです。心理学の分野にフォーカシングという療法があります。意識にはまだ浮上していないけれども、前意識の周辺をうろうろしていて、意識の世界に顔を出そうとしている、まだ、言葉にはなっていない感情や感覚を身体で捉えようとする試み…というか、そのやり方(療法)のことを私はフォーカシングと理解しています。また、まだ形にはなっていない感覚や感情を捉える場合のセンスを、「フェルトセンス」というのだと認識していますが、そのセンスが鋭敏になるということが、すなわち、身体の声に敏感になるということと同義語でもあるのかなぁ…と、素人考えですが、思ってもいます。私は身体の智恵を信じていますので、(もしかしたら、信じたいということなのかもしれませんが…)身体が、私たちに発信してくれる情報をきちんと受け止めることが出来るようになれば、幻に惑わされることも少なくなると予感しているのですが…それにしても、私たちの智恵の宝庫の在り処は本当はどこに存在するのでしょうか?詮無いこととは言え、己の愚鈍であることに甘んじるばかりではなく、折角、生かされているうちに、‘能力の限界の壁’を透明人間のようにすっと飛び越えて、聡明になりたい!豊かな智恵を持てるようになりたいという切望…しきりの昨今です。
あるアニメ監督の、独白にも似た「次に、私が考えていること」についてのお話をお聴きする機会がありました。開口一番、監督の口から発せられたのは、カタカナの「カラダ」という言葉でした。私が最近、しばしば考えている身体のことと、テーマが同じなのかと思われ、一瞬、興味が喚起されたのですが、「身体」とは異質の「カラダ」の問題について言及されているのでした。カラダとは肉体としての身体のことを言っているのではないのだそうです。「カラダ」はempty(空っぽ)のことやshell(貝殻の殻)のことをも象徴的に表す言葉でもあるそうなんです。甲冑が大好き。中身のないものがお好きなのだそうです。私には、このことの謎を読み解く力はありませんでした。この監督の言われるところの「カラダ」に開いた穴ぼこは決して埋まらないそうです。生きるということは「カラダ」を減らしていくことだとのことでした。ここまでの話で、私には「カラダ」は極めて空しい(虚しい)ものに思えて、すでに、それ以上、話を聴き続けることすら辛くなっていました。けれど、次に「何かと関わることでしか生まれてこない自分」という言葉を耳にした途端、本当にそうだなぁ…と思えました。私たちは、その存在が、一個人としてはどんなに優れたものであろうと、一人で存在していても何の意味もないように、私には思えるからです。まさに、「何かと関わることでしか…」私という個は、生きた生々しい存在として出現してくることはないだろうと思えるからです。ほとんどの人は自分というものを意識することはまれであり、社会的に反応しているだけなのだそうです。この態度は、私の有り様とはまったく異なるものでした。私はただの1秒たりとも自分という存在を意識しないでいられる瞬間はありません。ですから、人間であれば、自分を意識することは当たり前のことだと思ってきました。それがほとんどの人がそうではないと知って、だから一般的には、生きるということはヒトにとって、そんなに苦しいことではないのだな~と理解しました。これはいい悪いの問題ではなく、自意識過剰という問題でもなく、私の意識は常にどんな時でも、自分自身の内面に向かっているという、私の個体としての現実のことを表現しているだけです。私にとっては、こんな当たり前のことが万人にとっての事実ではないと知って、本当に驚きましたが、とても参考になりました。だから私は常に常に自分と対話してしまうのだと分かったからです。さらに監督は「自分が自分について考えることは不可能」とも言われました。それは私も本当にそうだろうと思います。不可能なことを、無謀にもいつもいつも試みていたからこそ、私の生きる営みはとてもきついものだったのだと分かります…監督にとって、残された興味(?)はご自分の死以外にはないそうです。ようやくそこまで来たかという感慨すらおありのようでした。今までになく楽チンに生きているし、ある種の達成感もおありだそうです。粛々と生きればいいそうです。自我も幻のようなものだと言われました。自我に執着し続けていると現実的なレベルの欲望(お金・地位・名誉など)に長けるだけ。自我を素通りして、カラダのなかに情報はどんどん入ってきている。命あるものと対峙した時にだけ生じてくるシステムがある。人間は実は、自分で生きているわけではない。生きるという現象を受け入れている存在なのだ…というようなお話が延々と繰り返されました。同じ人間でも、人はこんなにも一人ひとりが違う存在なのだと思い知った夜でした。この監督と私とはまったく異なる地平に立っています。監督は天才であり創造者でもありますが、私は凡人であり、物事を創造する力は希薄で、むしろ物事を消費し続けること位にしか能がありません。やっぱり人生って…人それぞれのものであり、人の生き方も多様なものなんですね。天才の人生も凡人の人生も、その人生の価値の重みに軽重はなく、同一の価値を有している…というこの宇宙のあり方を本当に面白いと感じます。