ALWAYS 三丁目の夕日 2006年01月02日 | 映画 この映画の影響もあってか、昭和ブーム到来の感があります。何故今、昭和か?ということで、昭和33年頃の景観や昭和のあの頃の人々のあり方などがクローズアップされていますが、この取り上げられ方が‘昔は良かった’式の懐古趣味で終わってしまうのだとしたら、この映画が作られた意味が半減してしまうでしょう。‘携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう’というキャッチフレーズが示すように、本当に画面一杯に、生きていくことの喜びと哀しみが余すところなく表現されています。文明の利器がなくても、みんな押しなべて生きることに退屈している様子はないし、どこか(庶民の哀歓を秘めながらも)とても楽しそうでもあります。あんなにステキな牧歌的ともいえる町並みは、今はもうなくなってしまっているけれど、あんなにゆっくり流れる時間や素朴な生活もなくなってしまっているけれど、じゃぁ、あの頃、生きた人々が備えていたものを、今を生きる私たちが失ってしまっているのかといえば、私はそうではないと思っています。今だって、同じ心を同じように持ち合わせているはずです。「俺とお前は縁もゆかりもないただの他人なんだぞ!」何かというとそんな言葉を口にしながらも、吉岡秀隆演じる茶川竜之介は親に捨てられた淳之助役の子役と徐々に絆を深めていきます。性善説や性悪説のどちらか一辺倒では人は語れません。人は状況次第で、いい人にも悪い人にもなりえます。いい人だからとか時代が良かったからという言葉では何も語れないと思うのです。人と人とが固い絆で結びつくには、あるいは深い縁で繋がり合うには、恐らく何らかの仕組みや仕掛けが必要なのではないでしょうか?仕組みや仕掛けは一律のものではなく、ケースバイケースで異なるものなのでしょうが、恐らく愛情深いとか慈悲深いとかだけの理由ではなく、人と人とを、時間という制約を越えてまでも結びつけるための魔法の仕掛けというものがあるはずだ!と、この映画を観ながら、それが何なのかを、私は考え続けていました。それにしても、俳優さんたちの演技がどの人をとっても、ため息が出るほど、本当に素晴らしかった!です。だからこそ、あのwonderful world=夢のようなイリュージョンが胸に迫ったのだと思います。涙あり笑いあり。そして、涙も笑いも共に暖かいのです。 ★ALWAYS 三丁目の夕日