悪夢 2006年01月03日 | my favorite・・・ いっとき、夢分析というものを受けていたほどに、私は、夢には一方ならぬ興味を抱いています。その当時、私の夢を分析してくれていた人は、‘気づき’のセンスが抜群で、ばらばらな夢のカケラを繋げることに巧みな技術(感性)を持っている人でした。では、そんな体験が、私の人生に何らかの現実的で有益な‘良き事’を運んできてくれたかというと、夢を解釈してもらうことには、(面白がってやっているという)趣味以上のほとんど何のメリットももたらしてはくれなかったと思っています。その時は必死でしたが、今になって振り返ってみると、それはとてつもなく非生産的であるからこそ、とてつもなく(苦しくても…)豊かな作業でもあったという、それだけの意味合いのものでした。けれど、無意味で高度な未知の遊びに夢中で取り組むという稀有な体験は純粋な楽しみと今までにはなかった独特の感覚を運んでくれ、その後の私の、人生に対する捉え方を少しずつ変えていくものでもあったように思えます。私は、自分にとっては深い意味を持つけれど、一般的、世間的には、使い物にならないような、道楽と言われても仕方のない、お金のかかる体験を自ら買って、山ほどしてきました。やむにやまれぬ内的な促しのままに心の旅を続けてきたわけですが、もう二度と、同じような体験を繰り返すことは出来ないでしょうから、今では、私にとっては、それらの数々のガラクタの山とも言うべき体験は、私独自のかけがえのない貴重な財産にもなっているのです。精神的な病において、悪夢を見続けることは自律神経の揺れを示すもので、症状が好転していく徴候だと言われる先生もおられますが、私には、この辺の事情はまったく分かりません。いい夢も悪い夢も、夢自体の内容云々ではなく、その夢を見た人がその夢を見たことで、どういう感情に捉えられているのか、どういう情動を体験しているのかということの方にポイントが置かれるはずだと思っています。ところで、ひどい悪夢を見ました。天まで届くかと思われるほどの(幅が狭くて)高く聳え立っているコンクリートの上にへばり付いている自分がいました。怖くて怖くて立てないのです。立てば眩暈を覚えて、たちどころに地面に落下してしまうでしょう。しばらくは這いつくばって前に進んでいましたが、幾らそんなことをやっていても埒が明かないことにすぐに気づき、何を思ったか!果敢にも、私は、立ち上がった途端に、地上めがけてジャンプしたのです。普通なら助かりっこないのですが、舞うように、無理なく、何度かの緩やかでゆったりとしたフライングの後に、大地の上に、難なく着地していたではありませんか!怖い怖いという恐怖心を抱いていた人間の仕業とはとても思えない大胆な行動でした。悪夢ではありましたが、目覚めた時には、‘九死に一生を得る体験をした’いい夢だったという感想を抱いていたのです。幸運な夢だったとすら感じていました。