
数学が提示する深い‘意味’を読み取れない私は、とても残念ながら、この映画の真に優れた核の部分を読み取れないも同然なので、表層的な理解しか出来ませんでした。義姉と博士との複雑な関係や家政婦と博士と家政婦の息子ルートとの時を追って徐々に深まっていく情愛の世界のことも、まさに人物配置や設定の巧みな‘良く出来た映画’を観ている以上の感動は伝わってこないのです。家政婦の靴のサイズが24センチであることに、博士は「実に潔良い数字だ。」と感心するのですが、何故24センチが潔い数字なのかがちんぷんかんぷんだった時、すでにこの映画を、私は理解することが出来ないとお手上げの気分に襲われてしまいました。一事が万事。ここがポイントだと思える箇所はすべて見送らなければならないのですから、あとは分かる部分だけを繋ぎ合わせるだけの情けないものとなりました。ですから、大人になって数学の先生になったルートが授業で、博士と過ごした‘ありのままの日々’の素晴らしさを数式を用いながら回想する、この映画の要とも言えるシーンでも、ガラス張りの向こうの世界を眺めるような白けた気分が付きまとってしまうのです。義姉の頑な心が緩んでいく経過にも説得力が伴いません。深刻すぎても気が滅入る。けれど、辻褄あわせは嘘臭い。この世の真実を、あるカタチで表現するということはかくも難しいことなのですね。こんな複雑で困難なことに挑戦し続けている映画人に敬服しきりです。
★映画「博士の愛した数式」公式サイト
理屈や理由など、「考えて」見てしまうと、むしろ本当に伝えたい部分が伝わらなくなってしまい、結果、見終えた時に白けてしまうのです。
靴のサイズが24cmで、潔い数字という表現も、意味を求めるより、単純に『○.5』みたいに端数がないからスッキリしてるくらいに受け取れば十分だったと思います。
有名な絵画に専門家は、様々な理論や理屈をつけて褒め称えていますが、本当に大切なのは、その絵画を見て、何を感じたか、ではないでしょうか?
映画も同じことだと思いますよ。