箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

多文化共生教育が必要

2021年08月31日 07時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ
東京オリンピックが謳っていた「多様性と調和」それ自体はすばらしい概念です。

グローバル時代にふさわしい言葉でした。

学校教育の中でも、「ちがいを認めあう」とか「ちがいをを豊かさに」という標語で、多文化共生教育を40年近く進めてきました。

たとえば、自治体にもよりますが、日本国内には外国人の集住地域があり、そこを校区にもつ学校には、「外国につながる子」、外国にルーツをもつ子がたくさん通ってきます。

また、外国人の少数点在地域からも、何人かの外国にルーツをもつ子が、学校に通ってきます。

外国にルーツをもつ子が多い学校であろうが、少ない学校であろうが、日本語指導の必要性に軽重はありません。

さて、その子たちを受け入れた経験から言いますと、多様性が調和するのは、それほど簡単なことではありません。

異なる民族や文化をもつ人がいっしょに暮らしたり、生活を共にしたりなると、当然葛藤や衝突が起こります。

ですから、ほんとうに共に生きたり、共生して調和しようとするなら、努力がいります。覚悟もいります。

マイノリティの子を排除したりしないよう、学校でのしくみがいります。

社会でなら、制度や法の整備がいるのです。

しかし、今回のオリンピックでは、ジェンダーバイアスに基づく問題発言や障害者との共生とはほど遠いできごとがありました。

また、大会終了後も自治体の長が、公式な表敬訪問の場で、女性アスリートに「彼氏はいるの?」と尋ねたり。

これが、「共生と調和」を掲げた日本の実態です。

でも、連続して起こったからこそ、問題が明らかになりました。ここからがスタートです。

学校では、おとなたちの中に偏見があることも含めて学習して、次世代の人たちが「多様性と調和」で、マイノリティとマジョリティが対等に暮らしていく社会づくりの担い手として育ってほしいと願います。

失敗をバネにして向きあう

2021年08月30日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
人が生きていくうえで、残念なとことを経験したり、悔しい思いをすることはよくあることです。

ときには、敗北感を感じることもあるでしょう。

でも、敗北感を知っている人の方が、生きていくうえでいいように、わたしは考えます。

多くの人は、わたしも含めて、負けたのを他人のせいにしたり、環境が影響したとか、年齢のせいにしてやり過ごすことが多いのではないでしょうか。

そのとき、天の声が聞こえてきます。

「逃げているのでないか?」

その声を聞いて、問題に向き合おうと思い直したりするのです。

いくらごまかしても、心のひっかかりは残ったまです。

向き合おうことでしか、敗北感から解放されることはないのです。

もしかすれば、優勝したアスリートは、うまくいかなかった経験をバネに、悔しさを薬にして、転んでも立ち上がったきたのでしょう。

ふつう、優勝したという結果だけをみて、周りの人は称賛しますが、そこへ至るまでのみちのりは、本人しか知らないことが多いのです。

教育の分野では、生徒にこのたくましさ、レジリエンスを育てることが大切だと思うのです。

「結果よりプロセスが大事だ」とよく言います。

しかし、その言葉は、結果が出せなかった生徒への気休めやなぐさめに使われることもあるのです。

そうでなく、敗北や失敗に対して向き合って、問題を自分自身の問題から起きたことととらえ、たくましくレベルアップした過程をみつめたとき、プロセスが輝くのです。



リモートと対面の両方を使い分ける

2021年08月29日 06時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
昨年から現在までで、リモートワークが進展しました。

ただし、国内の労働者の約6割はリモートワークができない仕事に就いています。

さらに労働者の約4割は非正規雇用であり、窓口業務や販売業に従事しています。

これらの仕事は対面でないとできないことが多いでしょう。

また、農業、林業、漁業はリモートでは成り立ちません。

ということで、去年から現在までで、リモートワークができる仕事とできない仕事の違いが明確になったのです。

今後は、リモートワークができる仕事は、さらにリモートが進展していくのではないかと思います。

さて、このブログがおもにテーマにしている教育に関しては、家庭学習と学校の学習のつなぐ点で、リモートが活躍していくでしょう。

何しろ、GIGAスクール構想で、ほぼ一人1台が行き渡るからです。

学校内でも端末を使い学習をしますが、それは対面授業の中で活用するのであり、リモートではありません。

一方、リモートが進んだ中でわかってきたことがあります。

それは職場への所属感が帰属感が薄くなるという弊害です。

特に新入社員にとっては、会社に行かないので、誰がいるかわからない、雑談する機会もないということが起こります。

雑談は無意味なように思えますがけっしてそうではありません。

雑談により、どんな人かがわかりますし、職場のコミニケーションが円滑になります。

会社になじめないという理由で、離職する人が増える心配があります。

こと教育に関しては、将来の労働環境を見据え、アナログにもデジタルにも対応できる人を育てる必要があります。

そのとき、アナログがデジタルかではなく、あるいは対面かリモートかではなく、状況や目的にあわせて使い分け、コミニケーションのとりかたを変革して、対面のよさを再認識できる。

そんな時代は目前に来ていると言えるでしょう。




希望の光が射すとき

2021年08月28日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ

わたしは以前に大阪府の児童養護施設を研修で見学に行ったことがあります。

親元で暮らせない子どもを育み、自立させていくために、養育する施設です。この子たちはふつう施設から校区の小中学校に通っています。

施設の担当者の話を聞いて、真摯に子どもに向き合っておられるようすを聞かせてもらいました。

ことわっておきますが、この施設にはそのようなことはないのですが、新聞報道によると全国の児童養護施設の中には、職員から殴る蹴るの暴力が横行しているところもあるそうです。

最近、2歳から18歳にかかわった児童養護施設のもと入所者が施設内の職員による日常的な虐待を受けていたことを通告する動きがあります。

この人は生後まもなく乳児院に預けられました。後に実母からは「不倫でできた子」だと聞かされました。2歳になって児童養護施設に入りました。

そこでは、幹部職員による暴力が日常的に行われていました。そのためか、自分も学校で周りの子に暴力を振るうこともあったのです。

いま、通告した虐待の事実を県と施設側がそれぞれ調査している段階です。


さて、世の中には「望まれて産まれてきた子」がいる中で、発言者のことばをそのまま借りれば「望まれず産まれてきた子」もいます。

その子たちは自尊感情を大きく低下させ、時にして生きることに投げやりな生活態度になることもあります。

でも、そんな人たちに、ふとしたことで希望の光が差し込むことがあります。

それを表現したのが秋元康さん作詞の「最後のカタルシス」(2012年 NMB48)です。

作詞の背景はわかりませんが、絶望しか感じない若い魂を浄化(カタルシス)させていくきっかけを綴った歌詞を紹介します。


「最後のカタルシス」

やさしい瞳で 叱ってくれたね
あなたは 母親のように…
まわりの大人は あきらめてたのに
どうして名前を呼んだの?  ♪♪

路地裏のネオン 雨に打たれた猫
荒んでた心に希望の光が射す

もう一度 生きようか? ここから抜け出すんだ
ボロボロの過去なんて捨ててしまおう
もう一度 生きようか? 未来は外にあるよ
眠ってた魂は 最後のカタルシス

少ない金貨を握らせてくれた
あなたに 返しに来るから

道のゴミ袋 誰かの怒鳴り声
望まれず生まれて 望まれる夢を見てた

俺なりに生きてみる やりたいようにやるさ
この世に正解も間違いもない
俺なりに生きてみる 何かが始まるだろう
傷ついたその分だけ 祈りはカタルシス

もう一度 生きようか? ここから抜け出すんだ
ボロボロの過去なんて捨ててしまおう
もう一度 生きようか? 未来は外にあるよ
眠ってた魂は 最後のカタルシス

俺たちは生きるんだ たとえ何があっても
そのドアを開けてみろ すべてはカタルシス🎵


すべてオンラインで就職します

2021年08月27日 11時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ

わたしは、教頭・校長を務めているとき、高校入試の際の面接練習を何度も行いました。

オンラインではなく、すべて直接中学3年生との対面面接でした。

中学生は人生初の面接を受ける人が多く、緊張した面持ちで臨んでくれました。一生懸命に答えようとする子どもらしい態度は、わたしを何度もすがすがしい気持ちにさせてくれました。

また、中学3年生全員についてどんな生徒かを教頭や校長が知っているわけではありません。3年間で直接話したことがほとんどない生徒もいるわけです。

そのような生徒も含めて、直接顔と顔をあわせて、面接練習をするのは、私にとってもありがたい経験でした。



さて、内閣府の4年前の調査結果によると、初めて就職した企業を退職した理由として「仕事が自分にあわなかったから」と答えた人は、じつに約40%に上りました。

この結果をそのまま受けるならば、就活生の希望と仕事の実態がミスマッチを起こしているといえます。

もちろん就活生も企業の採用面接にそなえて、準備をして臨みます。

こう答えた方が面接官の印象がいいとか、うなずきを適度にいれて質問に答えるなど、いろいろなテクニックを身につけます。

4年前の調査結果ですから、まだ新型コロナウイルス感染症がはやる前に、就職した仕事が自分にあわなかったという現実があったのです。

そして、いまはコロナ渦によって、会社訪問を取りやめ、面接も対面でなくオンライン面接を実施する企業が増えました。

就活生は画面越しに面接官と向き合うようになりました。

就活生にとっては、自分の熱意を伝えにくくなり、画面を通して会社を紹介されても、学生にはわかりにくく、入社したあとの自分の姿を思い描きにくいのではないでしょうか。

また、オンライン面接には好印象を持ってもらうためのテクニックがあります。

照明を明るくすると、明るい印象を持ってもらえる。モニターに写っている面接官の顔を見るのではなく、その上にあるPCのカメラを見るなどのテクニックです。

こういう面接で、学生と面接官がお互いを理解して、深まりが出るかは疑問です。

テクニックに走る面接に意味があるのかさえ、感じるのです。

かりに内定をもらっても、その経過は最終面接まですべてオンラインで進み、直接訪問がないまま就活が終了する場合もあると聞きます。

入社後になり、「こんなはずでなかった」と言う思いで、後悔し、ますます退社する学生が出ないかが心配になります。



中学生の進路指導では、面接練習は対面ですし、生徒にはできる限り高校訪問をして学校説明会に参加するように進めます。

コロナ渦の中ですが、進路や就職は人生の「一大イベント」なので、できるだけ人と人が直接会い、自分の五感を使いどんな進路先・就職先であるかを、被面接者が知ることのできる機会を大切にしたいと思います。


オンラインの強みをいかす

2021年08月26日 06時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ

コロナ渦により、学校教育の領域にも、オンラインが普及しました。

もちろん、教育ではオンラインが万能というわけではなく、教師と児童生徒、児童生徒同士の対面した活動が必要なのは言うまでもありません。

ただ、不登校の子どもたちにはオンラインの教育的かかわりが有効なこともあるようです。

不登校の子は通常学校に来るのが難しい状況にあります。学校に来れれば、教室に入れなくても、別室で学習課題に取り組むことで、学習活動が実現できます。

しかし、学校に来れない子の場合、学校で学習課題に取り組むことができません。

そんなとき、家庭にいながら、学校の教師と家庭にいる児童生徒がオンラインでつながれ、教材に取り組むことができますし、わからないところを教師に聞くことができます。

教師も、支援したり、教えたりすることができます。

じっさい、オンラインを使い、学校に来られず家庭にいる子が、オンラインで学習できている例も増えました。

ただし、不登校の児童生徒の支援には、子どもが安心できる居場所の提供と、何でも話すことができる人間関係が欠かせません。

不登校の子どもの支援は、おとなが子どもとの信頼関係を築くことが始まりになります。

そのための家庭訪問は必要です。

そこから信頼関係を広げ、オンラインでコミュニケーションをはかり、それからオンライン学習へ移行していきます。

個に応じた支援や学びを、オンラインが開くことになります。


オンラインを使うと、学校の教師は定期的に継続して子どもに声かけができます。

それは子どもにとって、教師という家族以外の人と話ができることになります。

その積み重ねにより、学習へと導いていくことができます。

ただし、オンラインは過渡的な支援であり、その先にはリアルに人とつながり、学校に来られるようになることを、学校はねらいにすべきでしょう。


今・これからの子どもに未来を託す

2021年08月25日 08時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ

1964年の1回目の東京オインピックは、わたしはまだ学齢期でなく、おぼろげにしか覚えていません。

でも、子どもごころに、「華やか」だったのを覚えています。

とくに開会式は、まだ日本のテレビは白黒がほとんどで、この開会式を見るためにカラーテレビを思い切って購入した家庭もあったほどです。

第二次世界大戦で敗戦となり、焼け野原となった国土を復興し、未来にバラ色を描く国民の希望と一致した大会でした。

日本国民が一体感をもっている感覚は、子ども心にも感じたものでした。

そしてその後、日本経済は飛躍的な発展を遂げ、国民の生活は大きく向上しました。

所得が向上し、電化製品をみんなが買えるようになり、高度経済成長を実現しました。

あれから半世紀がたち、日本社会からは「華やかさ」が消えました。

1980年代のバブル崩壊後、経済は低迷しています。
複数回の大震災。原発事故、あいつぐ自然災害、感染症の拡大流行などに襲われ、日本社会は華やか差が消え、輝きがなくなっり、閉塞感に覆われています。

高度経済成長期に建造されたインフラは老朽化し劣化しています。

社会保障制度も頭打ちです、

こうなると、政治や行政は、その場しのぎの「応急手当」に追われます。

このように2回の国内オリンピックを経験した私としては、その歴然とした差を感じるとともに、社会の衰えを感じざるを得ません。

学校教育にしぼっていいうと、私の少年時代には開けていく未来を漠然と感じ、「努力すれば報われる」「がんばればいい暮らしができる」というイメージを抱き、実際にそうなりました。

しかし、いまの子どもたちは。未来にどんな夢を描けるのでしょうか。衰えて、老化していく社会を漠然と肌で感じるでしょう。

教育の「専売特許」は、子どもが将来を夢見て、未来社会に希望を抱き、目を輝かせることです。

どちらかというと、過去よりも未来を見つめることを得意分野にします。

だから、卒業式での校長の式辞には、「未来」という言葉がよく出てくるのです。

しかしながら、いまは「衰退」が目立つ。こんな世の中ですが、社会の老化は人びとの知恵と工夫により対応できることを教えるのも、教育の役割です。

超高齢化社会や経済の低迷をあまり意識しすぎると、日本社会全体が衰退していくとまで錯覚します。未来の希望を失いがちになります。

出産に目を向けると毎年80万を超える新生児が日本社会に加わっていくのです。この子たちはやがて、日本社会に参加していくのです。

この子たちが、健やかに成長し、学力を身につけ、他者とつながる楽しさを学び、大きな発展でなくても、心が豊かに過ごせるように育てていくには、学校教育の力が大きいのは変わりません。

文化活動にも光を当てる

2021年08月24日 07時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ

わたしは校長在任期間に、中学生の部活動の試合・大会・コンクール・発表会・展示会などに時間が許す限り、応援こため足を運びました。

部活と聞けば、世間一般の人は真っ先に運動部の活動を頭の中に描くのではないでしょうか。

でも、中学生で部活をしている生徒は、運動部だけでなく、文化部に入っている生徒もいるのです。

また、運動部は体力がいるが、文化部は芸術の才能が必要と考える人はけっして少なくはないでしょう。

しかし、わたしは吹奏楽部や演劇部の生徒の活動を見るに及んで、コンクールや劇場での演奏・演技などは想像以上に「体力勝負」のところがあります。

部員一人ひとりが厳しい練習に汗を流し、努力に努力を重ねて、本番に臨んでいるのです。

音楽、マーチングや演劇の部員が、運動部員と遜色がないほどの「全身を使った動き」をしていることは、実際に会場で見てはじめてわかることです。


しかし、日本ではプロの活動でも、メディアの報道はスポーツが中心です。TV中継もスポーツの方が多いのです。また、スポーツの大会に協賛する企業数は、芸術や文化活動のそれよりもはるかに多いのです。

しかし、むかしから言われるように「文武両道」は大切です。どちらかに偏ってはいけないという教えは真理をついているのではないでしょうか。

ましてや、スポーツに偏重し、そのうえお金をつぎ込み、国のメンツをかけて強行したオリンピックは、このコロナ渦のなかでも「特別扱い」だったと感じています。

そのような社会は、芸術や文化を軽んじるだけでなく、学問・学術的研究までも軽視するのでないかと危惧します。

音楽や演劇のイベント舞台イベント、展覧会などは、中止や延期、オンライン配信にかわるなど、大きな影響を受けてきました。

ワクチンの開発がなかなか進まない日本を考え、ますますその危惧を抱きます。

平和主義の根幹

2021年08月23日 08時39分00秒 | 教育・子育てあれこれ
戦争というのは、いちばん弱い者のところに、

ダメージを与えるようにできているのです。

だから、この憲法による幸せの恩恵について

じっくり考えて、まもっていかないと

未来は危ないよ、と言いたいのです。

愛川欽也『みんなの9条』から



愛川欽也さんはタレントであり、反権力・反戦争を信条とした平和主義者でした。

彼は2015年に永眠しましたが、その志ははたいへん強固なとのでした。

私たちは、その意志・遺志を引き継いでいくのです。

憲法改正の論議がありますが、賛成とか反対という前にすることがあります。

それは、次世代を担う今の中学生は社会の公民で日本国憲法について学習して、自分は戦争や平和についてどう考えるかという考えをもってほしいのです。







共存と平和を示したアスリートたち

2021年08月22日 06時12分00秒 | 教育・子育てあれこれ


東京オリンピックは、主催者が人としての尊厳を軽くみているようすを明らかにしました。

しかし、選手の方からは、総じて個人の尊厳を大切にしたいという思いやメッセージが伝わってくる大会だったと思います。

北京五輪のときロシアが自分の国を侵攻しましたが、東京オリンピックではジョージアの選手はロシアの選手と表彰台でハグしあいました。

女子サッカーでは、試合開始前に「ブラック・ライブズ・マター」の運動の意味で、片膝をピッチにつく選手がたくさんいました。

シリアの選手は、トライアスロンの試合後、長い時間をかけ、連帯の必要性をアピールしました。

オリンピック実施に反対の声が多い中、強行されました。その点で、いつも以上にオリンピックの意味に注目が集まった大会でした。

そのなかで選手がとった行動は、主催者の個人の尊厳を軽く見る態度と対比され、国や民族、人間の共存と平和を強く訴えた思いが際立ちました。

学校でも、生徒たちにオリンピックの話題で話すこともあるでしょう。

とくに競技に関係する部活では、その種目での選手の活躍が話題にのぼることが多いですが、世界にはこれだけ人の尊厳を大切にし、平和を望む人が多いことも知らせていくべきでしょう。

気づいたときには、こんなに大きくなっていた

2021年08月21日 07時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ
世論というものは、コロコロ変わるものと、今回の東京オリンピックで、あらためて感じました。

この世論は、メディアによって形成されることが多いと思います。

開催前には、「これでもやるのかオリンピック」という報道をしておき、いざ始まると「感動物語」を流し続けました。

大衆はメディアに同調し、反対したり、感動したり、コロコロと世論は変わりました。

つまり、大衆は気分や雰囲気に流されやすいのです。
 
ということは、権力者がメディアを利用すれば大衆をなびかせることができるとも言えます。

権力者が毎日毎日同じ主張を繰り返せば、大衆は感化されていきます。

ドイツでの話です。

農夫が畑に野菜を植えています。

毎日畑に行き、草を引いたり、つるに竿を立てたりして世話をします。

毎日、野菜を見ているので気がつかなかったのですが、あるときふとみると、ものすごく大きくなっていることに気がついたのでした。

ナチスドイツはこのようにして大きくなりました。

小さな積み重ねが、やがては後に引き返せないほどの巨大な勢力となるのです。

だから、メディアはものごとの本質を見て、大衆に与える影響を考慮して、事実を報道する責任があります。

また、受けとる側は、つねに「批判的思考」をもち、「ほんとうにそうだろうか」、「なにか問題はないだろうか」という態度と客観性をもってメディアが発する情報を吟味したいのです。





教壇に立っていることをよろこんでいますか

2021年08月20日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
お若い方々よ

打席に立った時、三振するのも

情けないゴロを打ってアウトになるのも、かまわない。

見逃し三振さえも許してしまおう。

いけないのは、ただひとつ。

「打席に立っていることがよろこべないこと」だ。

その打席に立ちたくて目を輝かせたのではなかったのか。

         『羊どろぼう』(東京糸井重里事務所)




日本を代表するコピーライター糸井重里さんの言葉です。

この言葉はどんな仕事にも通じるのではないでしょうか。

「教師になりたい。教壇に立ち、子どもたちに授業をしたい」。

いま、せっかく希望を抱き教育採用試験に合格して、4月から目を輝かせて教壇に立った初任者で、すぐに辞め学校を去っていく人がいます。

「自分にはむいていません」。

初任者だから、失敗もミスもします。

わたしもいろと失敗をしました。

でも、退職まで36年間勤めました。

それには先輩教員のサポートや仕事仲間、同僚の助けがあったからだと思います。

いまは、多忙をきわめる学校現場です。ほかの教員のことをかまっている時間がない。

一人で悩み、一人で辞める教師。

お互いのことをよく知り、となりの先生のことを気にかける職場でこそ、教師業を続けていけると思います。



言葉で人はつながる

2021年08月19日 08時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ


人は言葉でものごとを考えます。また、理解して、お互いに意思疎通をします。

校長は年に何回かは式辞を読みます。

入学式や卒業式では、ふつう式辞用紙に書いた文を読む上げるのです。

その経験から思いますが、あいさつの一部分を読むとばしてしまうと、前後の文章の意味がつながらなくなります。

そこで、読み手が書かれた文字をたんに読んでいるのではなく、意味を考えながら読んでいるからとばしたことに気がつくのです。

聞き手も意味を考えながら聞いています。

読み手は、意味を考えながら読んでいるので、あいさつに感情が入ってくる箇所が当然出てきます。身振り・手振りが入ることもあります。

あいさつには、その核心と言われる部分があります。

その部分を読むときには、力強く言ったり、わざとゆっくりと言ったり、二度繰り返して言ったりします。

先日の広島での平和記念式典の国の代表あいさつでは、読み飛ばしが問題になりました。

「唯一の戦争被爆国であるわが国は、核兵器のない世界の実現に向けた努力を重ねていく」(大意)という核心の部分が抜けてしまったそうです。

何よりも聴いている広島の人たちが残念に感じたことでしょう。

あいさつは、言葉を媒介として、話し手と聞き手がそれぞれ思考し、思いを巡らせ、「本当にそうだな」と思うとき、共感が生まれ、お互いがつながるのです。





「話さなければわからない」時代

2021年08月18日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ

日本では、伝統的に築かれてきた地域での人とヒトのつながりが希薄になってきました。

地縁的つながりから離れ、自分の選択で所属するグループをきめ、集団・社会を作る時代とグローバリゼーションは重なるのです。

グローバル化した世界では、ヒト、モノ、カネ、情報が、国境を越え国々を行き交います。

すると異なるイデオロギーをもった人同士の衝突が起こります。
 
このあつれきは、他者への不寛容となって現れるのです。

今まで移民を受け入れてきた国が、移民を排除する流れが増えています。

そして、今はコロナ禍でグローバル化が一時的にストップしていますが、自粛に応じない人を攻撃するのも不寛容です。

「話せばわかる」という許容性は、遠い時代の言葉になっていくのかもしれません。


誰が戦争体験を引き継ぐか

2021年08月17日 08時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ

一昨日は、終戦記念日でした。

戦争体験者が少なくなり、体験の風化が叫ばれます。

でも、体験を引き継いで受けていくのは、いまを生きている人です。

被爆者であろうがなかろうが、戦争体験者であろうが、なかろうが、平和について一人ひとりが考え、自分ができることをする。

戦争体験の継承は、その行動の延長線上にあるのです。

戦争体験者が戦争体験を語るのは、家族に対してだけでないのです。

広島や長崎を平和学習で訪れてくる児童生徒に対して、体験者は話してきました。

二度と戦争を繰り返さないために、次世代はできることは小さなことでもやっていくのです。

何か平和のためにできることをする。

それが学校の平和学習のねらいです。