箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

ことばが落ちている

2022年12月31日 08時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ
次の詩に心惹かれます。


「むねに届く」  山本純子

からだという住まいの
胸のあたりに
郵便受けがひとつ
取り付けてあって
時たま誰かのことばが届いたりする
郵便受けは手の届く高さにはないので
ほとんどのことばは
軒下に落ちている



おとなが子どものことばを確実に受けとめているかが、問われているように感じます。

子どものいうことばだからと高をくくっていると、おとなに子どもの声は届きません。

親としては、心に留めたいですし、学校の教師なら、どれだけ児童生徒のことばをキャッチでかるかの感性が問われます。

おとな同士でも、相手からのメッセージが届くかどうかは、自分と相手の関係によってきまるのだと思います。

個人の問題ではなく、社会の問題

2022年12月30日 08時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ

1212日のブログで、「ともに学び、ともに育つ教育」について書きました。(12日のブログを参照)

 

今年4月に文科省の出した通知が「特別支援学級に在籍する児童生徒は、授業時数の半分以上を(通常の学級から離れて)特別支援学級で学習することを求めるものでした。


そもそも、障害がある子が同じ場所で学ぶことで、多くの問題が出てきます。それは困るので、場所を分けるという発想がでてきます。


しかし、別の場所で学ぶことによって、生じる問題は個人の問題になってしまい、解決できない問題であり続けることになるのです。

 

はたして問題が個人の障害にあるのでしょうか。


マジョリティとしての障害のない人たちが自分たちの生きやすい社会をつくった結果、障害のある人にとっては、生きづらい社会になっているのです。

 

このとき、障害のある人にとっての生きづらさをつくりだしているのは「社会の壁」であり、個人の「障害」ではないのです。この考え方を「障害の社会モデル」と言います。

 

国連が推奨するインクルーシブな文化とは、共に生活することで、その社会が障害のある人にとっての居場所になることを意味しています。


 

学校の場合を考えます。


障害のある子と障害のない子が一つのクラスで学んだとします。

 

「分けない」なら、「ああしようよ、こうしようよ」とクラスの子どもたちは話し合って、いっしょにやっていこうとします。


それにより障害がみんなの問題になるのです。

そして、そのことを体験した子は、他の課題のある子どもも見捨てないというメッセージにもなります。

 

「分けない」からみんなが協働するようになるのです。

これが「ともに学びともに育つ」クラスづくりの真骨頂なのです。


「だれひとり取り残さない」は学校で学資するもの

2022年12月29日 06時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ
SDGsの根本理念は、「だれひとり取り残さない持続可能な社会をつくる」(Leave No One Behind)です。

それを聞いて、いろいろな印象を受ける人も多いのではないでしょうか。

・「だれひとり取り残さない」なんて、えらく高い理想を掲げたものだ。

・みんなを満足させるなんてできないよね

・だれかは取り残されるは仕方ないけど、大多数の人びとが助かればいいというのが本音ではないの。

このようなうがった見方をする人もいるのではないでしょうか。

しかし、私はまず学校教育のなかでこそ、「だれひとり取り残さない」という理念を掲げ、児童生徒にそれを実現する経験を積ませることが大切だと考えています。

学校のなかでは、自分は自由であるし、友だちの自由を尊重することができればいい学級・学校になります。

ただし、そうなれば人はそれぞれなので、対立・衝突・あつれきが起こります。

そのとき、賛成と反対に分かれて、多数決で賛成の多い方を学級や集団の意思とする。

こういうことをおとなの社会でもよくやることですが、学校でも学級会や児童会・生徒会で行われがちです。

多くの人がこちらの意見・考えを支持している。それが決定だ。だから反対でもしたがっていくのが民主的だ。

(それを職員会議という名称で、教職員までが民主的な会議の運営だと勘違いしています。)

ちなみに、法律では職員会議は教職員の議決機関ではなく、校長の諮問期間であるという解釈です。

つまり、校長が教職員の意見を聴き、それを参考にして校長が最終決定して学校経営をしていくための会議が職員会議です。

職員会議で決まったから、それがすぐに学校の決定だと間違えて解釈している教職員は少なくありません。

ということはともかくとして、児童生徒が学ばなければならないことは、案に反対する友だちを切り捨てないことです。

だれひとり不満をもたないように対話を重ねて、なんとか解決していき合意を導く道をさがすのです。

その最終結論が結果的に多数派の意見になったとしても、反対だった人も納得できればいいわけです。

場合によっては賛成できない人の事情を理解して、その人のための配慮が提案されることもあるでしょう。

「数が多い方に決定だ。それに従え」では数の論理であり、乱暴すぎることを児童生徒は理解して、なんとか解決策をさがすことを学校で児童生徒が学習するのです。

人任せにせず、自分も考え、発言する。人の痛みに無関心ではない。

だれひとり取り残さないとは、学校でこそ学ぶべき概念・考え方です。









スマホが不安をかりたてる時代

2022年12月28日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
私たちがガラケーからスマホを持つようになり、およそ10年になります。

そして、いまスマホは完全に私たちの生活の中に入り込み普及しました。

電車の中でも、レストランでの食事中も食べながらスマホを見たり、片手でスクロールしたりしている人ごいるのが当たり前のような風景となりました。

スマホは情報の宝箱のようなものです。

だから、みんな手放せないし、画面を見続けます。

この「見続けること」をたくさんの人がやっているのです。

さらにSNSでは自分の考えや意見、感想を自由に書き込みできます。

そして、それを不特定多数の人に見てもらうことが可能になりました。

その意味では、自分が「見る」だけでなく、他人に「見せる」ことも自由にできることになっているのです。

その結果、他者に対して攻撃的な書き込みや誹謗中傷をしている/していないにかかわらず、いつ自分が叩かれるかわからないという不安を持ちながら暮らすことになったのです。

他人に知られたくない自分についての情報が人にさらされる怖さも感じる人もいます。

こんな世の中や社会の問題をみて、「誰かを傷つけるような書き込みはやめましょう」とか「個人情報をアップしないようにしましょう」と学校で教えても、それを上まわるスピードでスマホの被害は増えています。

学校ではそれよりも基盤となる、他者を攻撃したり、叩いたりするのは、人としてけっして許されないという感覚を磨き、意識を高めるような学習しなければなりません。







大学の部活・サークル活動の現況

2022年12月27日 10時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ
このたび、文科省が全国のおよそ550大学の大学生に行った大学生活アンケートの回答によると、大学の部活動やサークル活動への参加が停滞していることが明らかになりました。

「1週間に部活・サークル活動に充てた時間が0時間」と答えた学生が約7割にのぼりました。

また、「1時間から5時間」が2割弱でした。

部活動やサークル活動は、学習や研究活動に加えて、大学生の自治活動として大学生活のなかに大きな位置をしめていたのが常でした。

しかし、いまは部活やサークル活動は、新型コロナウイルス感染拡大した約3年間の間に活動停止や活動縮小に追い込まれたことが多く、大きな影響があったことがわかります。

部活・サークル活動で友人をつくっていた大学生が、なかなかその機会に出会えないという、人間関係が得意でないという今日的な学生の特徴にさらに影を落とします。

人生で学生生活を謳歌できるのは、大学が一応最後になります。

このときの人とのつながりが、のちの人生でも続くことも多いものです。

ふたたび活発な活動家が再開することを願います。





知ってほしい 保健室のこと

2022年12月26日 11時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ

学校の保健室は、けがをしたり、病気の症状をもつ児童生徒がやってくるところです。

 

保健室には、「保健の先生」(養護教諭等)が常駐しています。

 

また、春には法に定められた児童生徒の健康診断が立て続けにあり、検査を受ける子で混雑します。

 

しかし、保健室の役割はそれだけではありません。

 

学校に登校しにくく、教室に入りづらい児童生徒の心の「居場所」になっています。


起立性調節障害(OD)で、おもに午前中に血圧が上がりにくい子が体を休める場でもあります。


また、LGBTQ関係の相談に来る子もいます。さらには友だち関係や異性とのつきあいの相談に来る場合もあります。

 

実際、話を聞いてもらったり、少し休んだら、「教室へ行く」といって戻っていく子もたくさんいます。

 

また、新型コロナウイルス感染が拡大したここ数年は、不安を抱える児童生徒が訪れてくる子の相談相手に養護教諭がなったりと、大忙しです。

 

また、保健室を訪れてくる子の話し相手になっていると、なかには学級でのいじめや家庭でのが兆候が透けて見えてくることもあります。

 

そのような場合も含めて、養護教諭と学級担任、または生徒指導担当や教育相談担当の教員、スクールカウンセラーさらには校長・教頭等の管理職との連携が欠かせないのです。

 

必要に応じて学校外の専門機関につなぐ必要のあるケースにも、養護教諭は対応し、コーデネーターの役割をすることもあるのが現状です。

 

ふつう養護教諭(養護助教諭)になるには、大学の教育学部とか看護学部の中の専門養成課程を卒業し、教員免許を取ります。

そして、自治体、私立学校の教員採用試験に合格すると、学校に勤務することになります。

 

その業務の多さと、たいへんさをみると複数人数の配置が望ましい職だと思いますが、大規模校を除いて多くの学校が一人の養護教諭(養護助教諭)の配置になっているのが現状です。


朗読、音読のすすめ

2022年12月25日 08時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ

わたしは中学の頃、国語の授業で物語や小説を朗読したことがよくありました。

 

その後、英語の教師になりましたが、授業でも教科書の英文の音読はよく指導しました。また、英単語も生徒がとにかく声に出して発音することを重視してきました。

 

いまも国語の授業や英語の授業を参観し、授業者(教師)に助言することが多いのですが、最近は朗読や音読をあまりしない授業が多いのが気になっています。

 

これは、社会全体が音読をあまりしなくなったことに関係するのかもしれません。

 

たとえば、感染拡大防止のためでもあるでしょうが、電車内で会話をしている人は少ないですし、話していても小声で話していることが多いです。

 

さらに、みんなが黙々とスマホを見ています。


なかにはイヤホンで、自分の世界の中だけに音声を閉じ込めているのです。そして外部からの音はシャットアウトしています。

 

しかし、考えてみれば音読とか朗読する行為は、自分の口を動かして発した音を耳で聞き確認することになります。

 

授業での朗読の場合は多くの聞き手がいて、音を介して小説や物語、時には詩、漢詩、短歌、俳句などを朗々と、リズムを大切に感情を込めて読み上げる効果があります。

 

音声学的に言えば、朗読は文字言語を音声言語に変えることにより、自分の発する音により、文字を構成し直し、省察的にとらえ直す活動です。

 

ひらたくいえば、朗読により、音となった声が外の世界に出されて、それをまた耳で聞いてもう一度自分に戻ってくることで、自分の胸に訊くことができるのです。


その結果、自分の考えや思考が膨らみ、活性化するのです。

 

また、声を出すことで心のモヤモヤが薄らぎ、気分が晴れてくるとも思います。

 

このように考えると、言葉と音声はもともと密接につながっているといえるのです。

 

 

ところが、時代の流れとともに、読書は一人で黙々と文字を追う作業になり、今では「黙読」が主流になってしまいました。


スマホなどの情報コミュニケーションツールの近年の発達が黙読に拍車をかけているのです。

 

 

若い国語の教員の世代も、あまり朗読を指導しない人が増えてきました。

 

わたしなどは、学生時代に習った朗々と朗読した漢詩のリズムが今でも残っています。

 

「こじんにしのかた こうかくろうをじし 

えんか さんがつ ようしゅうに くだる 

こはんの えんえい へきくうにつき 

ただみる ちょうこうの てんさいに ながるるを」


(故人西辞黄鶴楼 

 煙花三月下揚州 

 孤帆遠影碧空尽 

 唯見長江天際流  

      [李白])

 

およそ50年ほどたっても、今でも口に出してこの詩をその時のリズムのとおり発することができます。

 

実は朗読や音読は、記憶にしっかりととどめるという効果もあるようです。

 

学校では、音読や朗読を指導する授業をなくしてはならないと思うのです。


「給食の時間は不安です」

2022年12月24日 13時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ

兵庫県に川西市という自治体があります。

 

古くは源満仲が移り住んだ場所で、清和源氏発祥の地となっているまちです。

 

その川西市の教育委員会が今年の5月に新型コロナウイルス感染対策に関連したアンケートを市内の小学校2年生から6年生を児童に行いました。

 

「学校生活で不安を感じる時間」は給食の時間と答えた子がいちばん多くなりました。

 

その理由は、「少しは友だちと話したい」以外に「マスクを外すのがこわい」という不安な気持ちををあげた子が多かったのです。

 

「黙食」については、国も感染防止対策をしていれば、「給食中に会話してもかまわない」という通知を今年11月に出しました。

 

今は会話しながら食べているのと黙食を続けているなど、自治体によって対応は分かれます。


マスクを外して感染するのが怖いと不安がる子どもの気持ちが伝わってきます。

 

およそ3年がたちこれほどまで子どもにマスク着用が定着してしまったことが、「マスクを外すと怖い」に表れています。


もう一つの怖さとは、顔全部をさらすのが恥ずかしくて怖いという気持ちも反映しているのかもしれません。

 

給食中のコミュニケーションは大切ですし、黙食については科学的根拠に基づき、子どもに正しい知識を伝えマスクを外すことについて,客観的に考えること下できるようにするべきでしょう。

 


「サッカーに集中するとき」 終わってからは・・・ 

2022年12月22日 12時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ

サッカーワールドカップはアルゼンチンの優勝で終わりました。

 

日本だけでなく、世界中で大きな声援や応援が沸き起こり、こと日本で言えばJリーグのできる前から現在まで、日本のサッカーファンは大きく増えてきました。


Jリーグが発足した頃は、ワールドカップ出場するまでの力はまったく及ばないような日本のサッカー事情でした。


それが、年数がたつにつれて実力をつけ今にいたり、世界と互角にたたかえるほど強くなりました。サポーターの喜びもひとしおかと思います。

 

さてこのたび、開催国となったカタールでの人びとへの差別的な処遇に抗議する選手や国に対して、国際サッカー連盟は抑制をかけました。

 

それを受けて、日本サッカー協会の出した見解に、わたしは少々の違和感を覚えました。

 

「差別や人権の問題は当然、協会として良い方向にもっていきたい。しかし、この段階でフットボール以外のことで、いろいろ話題にすることは好ましくない。今はサッカーに集中するときだ」

 

このような発言が出されました。

 

そうでしょうか。

 

課題は二つ同時に起こることもあり、その両方に対応するのが組織として当然だと私は考えます。

 

とはいえ、諸般の事情は理解できますのでサッカーに集中せざるをえない状況もわからなくもありません。

 

しかし、サッカーに集中するというならば、日本サッカー協会はサッカーが終わった今、「差別や人権の問題を良い方向にもっていく」アクションを起こしてくれるのでしょうか。

 

その点について、今後の推移を見守っていきたいと思います。


国内農業の振興が未来を開く

2022年12月21日 09時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ
日本をはじめとして、世界の先進国は経済のグローバル化を進めてきました。

生産コストを抑えるため、こぞって賃金の安い国へ生産工場を移してきました。

その結果、工業化が進んだ新興国はいまや豊かになったケースが多く、食生活が変わりました。

先進国と途上国の経済格差が縮小し、2000年代にはブラジル、中国、インド、ロシアは工業化に必要な資源やエネルギー、食料を大量に消費するようになったのでした。


そして、2010年代後半には、原油や鉄鉱石、穀物の価格が上昇しました。


今まで日本は安くて質のいい食料を思う存分輸入できましたが、現在はその安定確保が揺らいでいます。

2000年からの20年間で、日本が世界に対して占める国内総生産は15%から6%にまで落ち込みました。

新興国のそれが20%から40%にまで拡大したのとは対照的です。

ただし2020年には、新興国の経済成長の勢いはいったん鈍くなり、原油等の価格はの上昇はおさまりました。

しかしながら、2020年後半からは新型コロナウイルス拡大やウクライナ危機による供給制限で、また価格が上がり出しています。

おりしも、原油価格はアメリカの増産や世界的な自動車でのガソリンの需要低迷より、OPECは減産体制をとっていたのですが、ウクライナ侵攻が始まり、価格が急騰し、現在にいたっています。

こんな時代の先行きを展望したとき、世界の人口増と工業化の進展とともに、日本にとって資源や食料の安定した輸入は難しくなるでしょう。

私は中学のとき、社会の授業で先生から「資源のない日本は、外国から資源を輸入して工業製品をつくる工業国です」と習いました。

そのとき明るいムードに溢れていました。

しかし、それはもはや昭和の残像になりつつあります。

今の子どもは未来に展望をもちにくいのです。

とくに、人が生きていくのに不可欠な安定した食料確保の点でどう対応していくかは、日本にとって重要課題です。

もちろん日本も手をこまねいて見ていたわけではなく、コストがかかっても国内生産を増やし、その規模を広げて輸出に転じる方策をとってきています。

しかし、その途中で企業農業と個人経営の農業の開きが拡大してきています。

わたしの家の近くでは、耕作を放棄した農地が増大し、森が増えています。

過疎化が進み、田畑は荒れ、農業を引き継ぐ人が見つかりにくくなっています。

これからは、食料生産を増やすため、農地と人と森林と水と地域を循環させ、そこから生み出されるエネルギーを再生可能なものにする持続可能な農業経営が必要です。

衣食住のうち、とくに農業の振興をはかり、明るい未来を拓いていくべきでしょう。

人は十分に食べないと、働くことも娯楽を楽しむこともできません。

そうでないと、学校では児童生徒に将来に希望をもたせることもできないでしょう。









日本に来た外国人にとっての医療提供

2022年12月20日 12時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ
日本での多文化共生社会実現にむけ、外国人や外国につながりのある人が日本の地域で安心して暮らすことができることができるかどうかは大きな課題です。

もちろん、日本語がわからなければ安心した生活は送れません。

人間どおしのつながりも、外国人等を安心させます。

それ以外にも、健康で暮らせることも大きなことで、在留外国人が日本医療を受けれないと、安心した生活を送ることができません。

母国と医療制度がちがう。

文化の相違により、医療に対する考え方がちがう。

つまり、「日本ではこうなっています」と一方的に説明して、伝えるのではなく、相手の文化医療制度を理解して、双方向のなかでの一致点、合意点を見つける努力をしなければならないのです。

人が安心して暮らすことのできるための支援がセーフティ・ネットですが、それになぞらえるなら「医療のセーフティ・ネット」整備が不可欠です。

たとえば、日本の病院に在留外国人が初めて行くときには、同行できる通訳者の制度を整えるなどは行政が行うべきでしょうが、その隙間を埋める民間ボランティアの存在も無視できないものです。

ボランティアだからこそ、柔軟に自由に融通をきかせて対応できることもあるでしょう。

実際に活動・活躍しているボランティア団体もいま、国内にはあります。

また、通訳アプリの精度も近年向上してきたいるので、うまく活用していきたいです。

ただし、そういった活動を貫く基本的考えを整理しておかなければなりません。

日本では地理的な問題で考えちがいをしていますが、そもそも人びとは昔から世界中を移動をしてきたという歴史があるのです。

そして、文化や言語のちがいを理解しあい、お互いに尊重しながら、それぞれが変わりながら生活してきたのです。

ですから「日本に来たからには、日本の制度にあわせてもらわなければ」ではないのです。





発達障害 サポートのあり方

2022年12月19日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ
発達障害の児童生徒は、教師からの適切な支援があれば、困り感をカバーして、通常学級でほかの子といっしょに学習したり、生活することができます。

1時間の授業の流れを明示して、とまどいを減らしたり、板書の書き方を工夫したり、たくさんノートを写さなくていいように配慮したり、その子の才能をクラス全体に引き上げたり、その子の特性にあった支援をします。

また、必要に応じて「通級指導」も行います。

これは、決まった時間だけ、通常の学級からその子が別の支援教室へ行き、学習上・生活上の困難に応じた指導を受けます。

通級指導は、ふつう専任の特別支援教育に詳しい、経験をもった教員が担当し、軽度の発達障害をのある子は個別指導を受けることができ、効果も上がっています。

ただ、発達障害の可能性がある子で、通級指導指導を受けれている児童生徒は、全国で1割程度となっていて、担当者の増員が望まれます。

また、教職経験年数の少ない教員が増えてきた学校の現状のなかで、発達障害の子をサポートできる知識・技能に乏しい教員もいて、支援が適切でないこともあります。

教員の特別支援教育への意識の向上をはかり、知識・技能を研修する機会の充実が望まれます。

発達障害 ラベリングにあらず 

2022年12月18日 09時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ
通常学級(多くの児童生徒が在籍する一般的な学級)の中には、発達障害の児童生徒も在籍しています。

発達障害は大別すると・・・

*学習障害:本の文章を読んだり、文字を書く、計算するのが苦手。漢字をなかなか覚えられない子など。

*広汎性発達障害:対人関係関係を築いたり、やりとりが苦手。あることへのこだわりが強い。自閉症やアスペルガーの症状を示します。

*ADHD:注意力がほかの子どもとちがうとか、多動性の障害をもつ。

この3つはきっちりと分けれることもありますが、いずれかが重なる児童生徒もいます。

また、なかには知的障害を伴うこともあります。

そのような「発達障害の可能性のある児童生徒」は、このたび通常学級に8.8%いると調査結果が発表されました。

10年前の前回では6.5%でした。20年前の前々回は6.3パーセントでしたので、この10年間で大きく増えました。

この数字だけを見ると、発達障害の子は増えてきたと見なすこともできます。

ただ、この調査は教師の回答をもとにしています。教師間で発達障害の認知が進み、理解が深まり、「この子は発達障害に該当する」という回答が増えたからとも考えることができます。

従来なら「じっとすわっておれない子」とか授業に集中できず落ち着きに欠ける子と言っていた子のなかには、その特徴や傾向、専門的知識をもとに発達障害の可能性があると教師が判断したからです。

8.8%はもちろん医師が検査をして発達障害と診断した子どもも含めて教師が回答した数字です。

大切なことは、「発達障害」というラベルをつけることで、教師が「納得」してしまわないことです。

つまり、「この子はどうして授業中落ち着きがないのだろうと感じていたが、発達障害だったのか。ならば・・・」。

その「・・・」の部分が大切です。

「できなくても仕方ないね」とだけ考えるか、発達障害に見合う支援をしようと思うかです。

「発達障害」という判断、見立てや診断はその子の困り感を理解して、最適のサポートをするために使われるべきなのです。

このことは学校だけではなく、大人の社会でも同じです。発達障害という言葉は、ここ10年ほどでメディアでも紹介されてることが増え、知る人が増えました。

たとえば、「あの人は場の空気が読めないね。発達障害じゃないか」で、済ませることがあるのでないでしょうか。

「〇〇さん、その赤いネクタイは派手すぎますよ」と状況を考えず、唐突に言った人がまわりからひんしゅくをかうだけでスルーされるなどです。

では、学校での最適なサポートについては、次回のブログで書きます。

歴史や経験から展望する

2022年12月17日 09時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は中学生のとき、このまま使い続ければ、いずれ原油は枯渇すると、英語の文を読んだことを覚えています。

また、地球温暖化も当時はオゾン層の破壊が地球温暖化を早めると言われていました。

大学のときには、石油輸出国機構OPECの石油減産が日本経済に大きな影響を与えることを英語でディスカッションしたりしました。

しかし、その後サウジアラビアが増産したりして、いつの間にか石油問題は切実な問題として常に意識することもなくなりました。

地球温暖化といっても、正直なところ自分が生きている間は大丈夫なんだろうと、勝手に思い込んでいました。

しかし、最近の世界情勢では、1970年代の第1しオイルショック、1980年代の第2次オイルショック以降、またもや石油危機を迎えています。

また、温暖化は肌で感じるようになり、自然災害も大規模なものが多発するようになりました。

これほど短期間で、気候変動や天然資源の問題がやってくるとは思っていませんでした。

一方で情報通信技術は大きく進歩しました。

わたしは携帯電話をもつようになり、この12月でまる24年になりましたが、その間の機器の進歩はめざましいものでした。

このようなふりかえりをすると、変化し多様化する社会のなかで、今後も学校教育に求められる知識や技能がどうなっていくかは、想像しにくいものです。

しかしながら、とんな変化がおころうとも、歴史や経験は貴重な財産です。

過去の経験や歴史を呼び起こして、変化に対応しうる教育を学校は実践しなければなりません。

不透明な未来社会であっても、子どもが前向きで、意欲的に学習する学校であってほしいと思います。




水面に石を投げ、波紋を広げよ

2022年12月16日 10時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしは大学生のとき、英語の部活に所属して、英語のディスカッションをしていました。

当時日本経済にとって懸案になっていた石油危機や日米貿易摩擦などをテーマに英語でディスカッションをしていました。

英語を話すためのツールとして、大学生同士でディスカッションをして議論を重ねたものでした。

遠征をして大学同士の交流ディスカッションもしました。

大会の前には合宿もして、夜遅くまで練習をしたりもしました。

そのとき、常に意識していたのはロジック(logic)をもって、論理的に話すということでした。

その後、縁あって教職に就きましたが、話していてもふと気がつくと、大学時代に覚えた論理的な話し方を意識している自分に気がつきます。

校長講話をするときも、感動的なエピソードや「つかみ」をどこにもってくるかという推敲を何度もしましたが、原稿を書き終わって自分で論理性をチェックしていました。そのあと、原稿を覚えて話しました。


さて、当時の大学生は英語のディスカッションをしていなくても、日本語でもよく議論をしました。

別に反対の意見を言っても、それが人間関係で後で尾を引くこともなく、けっこう互いが言いたいことを言っていました。

しかし、今の大学生はおしなべて議論を避けます。

だから、議論にならないのです。

自分の考えや意見を言おうものなら、静かな湖の水面に石を投げ、波紋がどんどん広がり、その場の「和」を乱すことになり、周りへの影響が大きくなる。

そのように、考えているかのようです。

それは、今わたしが教員採用試験の面接練習で、教育に関する集団討論を大学生にしてもらっても同様です。

メンバーと意見が違っても、「反対」とはぜったいに言いません。

相手を気遣い話しているのが伝わってきます。

わたしなどは、英語のディスカッションで議論を一定程度した上で、手を挙げてチェアマンに「Objection!」(反対!)と叫んで、反対意見を言ったものです。

自身が教員採用試験を受けたときも、当時全国で吹き荒れていた中学生の校内暴力の原因は何かと問われたことに対して、ほかの学生は教師と生徒の信頼関係がないからと言っていました。

わたしはそうでなく、偏差値で輪切りにする高校入試、過熱する受験戦争が原因だと、データをもって主張しました。


そもそも、議論するとは他の人の意見をけなすことではありません。

考えや立場の異なる人同士が、何かの問題についてそれぞれの意見を表明し、対立を乗り越えて、一致点を見つけ出し、あるときは自分の意見や考え方を引き下げ、おりあいをつけ合意を形成する。

つまり合意形成のために議論するのです。


とはいえ、反対されると人は感情が動くことはよくあることです。

意見の違いが、「あんなこと言われた」「腹が立つ」となるのです。

しかし、だれでも自分のことを大事にしたいですし、ときには自分の生き方は認めてほしいし、一生懸命に生きているのです。

そこに共通点を見い出し、共感をもち、いっしょにやっていこうよ。

利害関係が絡んできても、相手に敵対感情をもたず、合意を導きだすのです。

今の時代、多様性社会、多文化共生。インクルーシブとか言葉が先行しているのが日本社会です。

外国人といっしょに仕事をすることも増えています。障害のある人を包摂する社会をめざしています。

ほんとうにそのような社会を志向するのなら、個人間の意見のぶつかりあいは、かならず必要になり、避けることはできないのです。

その覚悟と自覚をもって、議論して、おたがいここで共に生きていこうとする次世代を育むのが、学校の差し迫った今日的教育課題だと考えます。