12月12日のブログで、「ともに学び、ともに育つ教育」について書きました。(12日のブログを参照)
今年4月に文科省の出した通知が「特別支援学級に在籍する児童生徒は、授業時数の半分以上を(通常の学級から離れて)特別支援学級で学習することを求めるものでした。
そもそも、障害がある子が同じ場所で学ぶことで、多くの問題が出てきます。それは困るので、場所を分けるという発想がでてきます。
しかし、別の場所で学ぶことによって、生じる問題は個人の問題になってしまい、解決できない問題であり続けることになるのです。
はたして問題が個人の障害にあるのでしょうか。
マジョリティとしての障害のない人たちが自分たちの生きやすい社会をつくった結果、障害のある人にとっては、生きづらい社会になっているのです。
このとき、障害のある人にとっての生きづらさをつくりだしているのは「社会の壁」であり、個人の「障害」ではないのです。この考え方を「障害の社会モデル」と言います。
国連が推奨するインクルーシブな文化とは、共に生活することで、その社会が障害のある人にとっての居場所になることを意味しています。
学校の場合を考えます。
障害のある子と障害のない子が一つのクラスで学んだとします。
「分けない」なら、「ああしようよ、こうしようよ」とクラスの子どもたちは話し合って、いっしょにやっていこうとします。
それにより障害がみんなの問題になるのです。
そして、そのことを体験した子は、他の課題のある子どもも見捨てないというメッセージにもなります。
「分けない」からみんなが協働するようになるのです。
これが「ともに学びともに育つ」クラスづくりの真骨頂なのです。
学校の保健室は、けがをしたり、病気の症状をもつ児童生徒がやってくるところです。
保健室には、「保健の先生」(養護教諭等)が常駐しています。
また、春には法に定められた児童生徒の健康診断が立て続けにあり、検査を受ける子で混雑します。
しかし、保健室の役割はそれだけではありません。
学校に登校しにくく、教室に入りづらい児童生徒の心の「居場所」になっています。
起立性調節障害(OD)で、おもに午前中に血圧が上がりにくい子が体を休める場でもあります。
また、LGBTQ関係の相談に来る子もいます。さらには友だち関係や異性とのつきあいの相談に来る場合もあります。
実際、話を聞いてもらったり、少し休んだら、「教室へ行く」といって戻っていく子もたくさんいます。
また、新型コロナウイルス感染が拡大したここ数年は、不安を抱える児童生徒が訪れてくる子の相談相手に養護教諭がなったりと、大忙しです。
また、保健室を訪れてくる子の話し相手になっていると、なかには学級でのいじめや家庭でのが兆候が透けて見えてくることもあります。
そのような場合も含めて、養護教諭と学級担任、または生徒指導担当や教育相談担当の教員、スクールカウンセラーさらには校長・教頭等の管理職との連携が欠かせないのです。
必要に応じて学校外の専門機関につなぐ必要のあるケースにも、養護教諭は対応し、コーデネーターの役割をすることもあるのが現状です。
ふつう養護教諭(養護助教諭)になるには、大学の教育学部とか看護学部の中の専門養成課程を卒業し、教員免許を取ります。
そして、自治体、私立学校の教員採用試験に合格すると、学校に勤務することになります。
その業務の多さと、たいへんさをみると複数人数の配置が望ましい職だと思いますが、大規模校を除いて多くの学校が一人の養護教諭(養護助教諭)の配置になっているのが現状です。
わたしは中学の頃、国語の授業で物語や小説を朗読したことがよくありました。
その後、英語の教師になりましたが、授業でも教科書の英文の音読はよく指導しました。また、英単語も生徒がとにかく声に出して発音することを重視してきました。
いまも国語の授業や英語の授業を参観し、授業者(教師)に助言することが多いのですが、最近は朗読や音読をあまりしない授業が多いのが気になっています。
これは、社会全体が音読をあまりしなくなったことに関係するのかもしれません。
たとえば、感染拡大防止のためでもあるでしょうが、電車内で会話をしている人は少ないですし、話していても小声で話していることが多いです。
さらに、みんなが黙々とスマホを見ています。
なかにはイヤホンで、自分の世界の中だけに音声を閉じ込めているのです。そして外部からの音はシャットアウトしています。
しかし、考えてみれば音読とか朗読する行為は、自分の口を動かして発した音を耳で聞き確認することになります。
授業での朗読の場合は多くの聞き手がいて、音を介して小説や物語、時には詩、漢詩、短歌、俳句などを朗々と、リズムを大切に感情を込めて読み上げる効果があります。
音声学的に言えば、朗読は文字言語を音声言語に変えることにより、自分の発する音により、文字を構成し直し、省察的にとらえ直す活動です。
ひらたくいえば、朗読により、音となった声が外の世界に出されて、それをまた耳で聞いてもう一度自分に戻ってくることで、自分の胸に訊くことができるのです。
その結果、自分の考えや思考が膨らみ、活性化するのです。
また、声を出すことで心のモヤモヤが薄らぎ、気分が晴れてくるとも思います。
このように考えると、言葉と音声はもともと密接につながっているといえるのです。
ところが、時代の流れとともに、読書は一人で黙々と文字を追う作業になり、今では「黙読」が主流になってしまいました。
スマホなどの情報コミュニケーションツールの近年の発達が黙読に拍車をかけているのです。
若い国語の教員の世代も、あまり朗読を指導しない人が増えてきました。
わたしなどは、学生時代に習った朗々と朗読した漢詩のリズムが今でも残っています。
「こじんにしのかた こうかくろうをじし
えんか さんがつ ようしゅうに くだる
こはんの えんえい へきくうにつき
ただみる ちょうこうの てんさいに ながるるを」
(故人西辞黄鶴楼
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
唯見長江天際流
[李白])
およそ50年ほどたっても、今でも口に出してこの詩をその時のリズムのとおり発することができます。
実は朗読や音読は、記憶にしっかりととどめるという効果もあるようです。
学校では、音読や朗読を指導する授業をなくしてはならないと思うのです。
兵庫県に川西市という自治体があります。
古くは源満仲が移り住んだ場所で、清和源氏発祥の地となっているまちです。
その川西市の教育委員会が今年の5月に新型コロナウイルス感染対策に関連したアンケートを市内の小学校2年生から6年生を児童に行いました。
「学校生活で不安を感じる時間」は給食の時間と答えた子がいちばん多くなりました。
その理由は、「少しは友だちと話したい」以外に「マスクを外すのがこわい」という不安な気持ちををあげた子が多かったのです。
「黙食」については、国も感染防止対策をしていれば、「給食中に会話してもかまわない」という通知を今年11月に出しました。
今は会話しながら食べているのと黙食を続けているなど、自治体によって対応は分かれます。
マスクを外して感染するのが怖いと不安がる子どもの気持ちが伝わってきます。
およそ3年がたちこれほどまで子どもにマスク着用が定着してしまったことが、「マスクを外すと怖い」に表れています。
もう一つの怖さとは、顔全部をさらすのが恥ずかしくて怖いという気持ちも反映しているのかもしれません。
給食中のコミュニケーションは大切ですし、黙食については科学的根拠に基づき、子どもに正しい知識を伝えマスクを外すことについて,客観的に考えること下できるようにするべきでしょう。
サッカーワールドカップはアルゼンチンの優勝で終わりました。
日本だけでなく、世界中で大きな声援や応援が沸き起こり、こと日本で言えばJリーグのできる前から現在まで、日本のサッカーファンは大きく増えてきました。
Jリーグが発足した頃は、ワールドカップ出場するまでの力はまったく及ばないような日本のサッカー事情でした。
それが、年数がたつにつれて実力をつけ今にいたり、世界と互角にたたかえるほど強くなりました。サポーターの喜びもひとしおかと思います。
さてこのたび、開催国となったカタールでの人びとへの差別的な処遇に抗議する選手や国に対して、国際サッカー連盟は抑制をかけました。
それを受けて、日本サッカー協会の出した見解に、わたしは少々の違和感を覚えました。
「差別や人権の問題は当然、協会として良い方向にもっていきたい。しかし、この段階でフットボール以外のことで、いろいろ話題にすることは好ましくない。今はサッカーに集中するときだ」
このような発言が出されました。
そうでしょうか。
課題は二つ同時に起こることもあり、その両方に対応するのが組織として当然だと私は考えます。
とはいえ、諸般の事情は理解できますのでサッカーに集中せざるをえない状況もわからなくもありません。
しかし、サッカーに集中するというならば、日本サッカー協会はサッカーが終わった今、「差別や人権の問題を良い方向にもっていく」アクションを起こしてくれるのでしょうか。
その点について、今後の推移を見守っていきたいと思います。