箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

寒さゆるむ頃

2019年02月28日 18時22分51秒 | 教育・子育てあれこれ



寒さがゆるみ始めたと思うと、雨の日となった2月末日を迎えました。

明日からは弥生を迎え、春が待ち遠しい気分になります。

しかし、3年生には一般選抜入試や卒業式があり、春はまだ来ていません。

とはいえ、私立専願でもう進路先の高校が決まった生徒が3割ほどいますが、「フワフワ」せず、今日の授業の様子では、熱心に学習に取り組んでいます。

私が見ていても、思考力を働かせている様子が伺えます。


さて、三中が受けている「確かな学びを育む学校からづくり推進事業」の進み具合を確認するため、大阪府教委の支援員が授業の視察に来られました。

5限目に1年の音楽、2年の理解、社会、英語、3年の社会、英語を見てもらいました。

その後の箕面三中の場合は、軌道にのっている授業研究を、地道に続けていくとよいという提言をいただきました。

2年の生徒たちも、去年よりも、格段に学習に取り組むようになりました。

また、仲間関係が落ち着き、1年間でかなり成長したと、私は感じますし、学年の教職員と同じ実感をもっています。






午後4時ごろからは、希望の生徒にフッ素塗布をしました。

保健師さんと歯科医さんに来てもらい、まずは歯みがきをしてから、フッ素を塗布しました。


かくして、三中の2月が過ぎてゆきます。

誰もが完全ではない

2019年02月27日 13時46分53秒 | 教育・子育てあれこれ



失敗や過ちは、誰にでもあります。

自分のことに関心が向きやすい昨今であり、気がつかず他人に迷惑をかけることもあります。

また、そのことに関してほかの人から指摘されたとき、素直になれず自分を守ろうとする意識がはたらくことになり、「ごめんなさい」と言えないことになります。

この点で、Chicagoの名曲である『Hard to Say I’m Sorry』を『素直になれなくて』という曲名に翻訳したのは見事であると思います。

それはともかく、素直になれない時こそ、自分の立場を、相手の立場に置き換え、そこから自分の言動を見つめなおします。

すると、それまで気がついていなかったことに、気がつくかもしれません。

わたしたちは、もともと不完全なものです。不完全な自分を認める、その自覚があって、「すみませんでした」という一言が出てくるのでしょう。

自分が不完全であるが、相手も不完全なものです。不完全な人どうしが、この社会で生きている。

相手に対して寛容な人間関係は、自分の不完全さを認めることから生まれてくるのだと思います。


学校から出す書類

2019年02月26日 19時18分08秒 | 教育・子育てあれこれ


いま、3年生が公立高校一般選抜入試出願書類に目を通して、最終的に不備がなければ、校長印を押しています。

あわせて、出願時に一緒に高校に提出する「自己申告書」もすべて読み、私からのコメントを添えて返します。

(もちろん、コメントは生徒個人がとっておくもので、高校には提出しません。)

自己申告書には、3年間を振り返って、自分が何を学んできたかを、克明に綴っています。

そこには、感心させられる生徒の努力の跡が伺えます。

例えば、部活を3年間やってきて、どんな努力をしてきたか、クラスの行事に向けて委員をやり、どんな苦労をしたか、でも周りにどれだけ支えられてきたかなどが記されています。

なかには、読んでジーンとくるようなことを告白している生徒もいます。

「そうだったたのか。よくがんばったんだ」と感じさせることを書いています。

ですから、時間はかかりますが、私はコメントを添えて、一人ひとりの生徒を励ましたいと思います。

また、文言も、誤字も学級担任が見ていますが、私もチェックして、修正を求める場合があります。

高校側に、その生徒を正しく知ってもらいたいので、誤字のまま提出させるわけにはいきません。





さて、私は役職柄、教職員が出す文書をチェックしたり、決裁します。

そのとき、感じるのは、自分が普段から生徒に話す、その口調のまま文面にする教職員が若い人たちの中に散見することです。



たとえば、「なので」という接続詞です。

「私は我慢強いほうです。

なので、これぐらいの暑さには耐えることができます。」
.
このように、文章にする教職員がいます。

学級通信は、ある意味で、インフォーマルな文書です。

しかし、学校から出す文書であることにかわりはありません。

だから、このような文章には、「なので」を「だから」とか「ですから」に修正します。

ということは、おそらくこの先生は、学級で生徒に話すときも、「なので」を使っているのかもしれません。

しかし、言葉は時代とともに変化するもので、大人も同じ傾向があります。

たとえば、「かぶっている」という表現は、少なくとも10年前までは「重なっている」という意味では使っていなかったと思います。

先日、正式な講演会の場で、講師の先生が「いや〜、日がかぶってしまいましてね」というのを聞いて、私は驚きました。

修学旅行のときには、学外の人が「いま、ここで生徒の整列を解くと、わちゃわちゃしてたいへんになります」という発言をききました。

それを聞いて、納得している教職員。

あまり、好ましくない言葉ですが、「混雑、混乱する、とまどう」よりは、うまく状態を表す言葉だと、納得することもあります。

ただし、学校発公式文書は、正しく言葉や表現を使って出したいと考えています。


卒業に向けて

2019年02月25日 17時21分01秒 | 教育・子育てあれこれ



今日から1・2年生は、学年末テストが始まりました。

今年度最後の定期テストになります。

1年生は、思えば1学期の中間テストで、「テストの受け方」を伝え、中学生として習慣化できるように指導してきました。

机の上にはテストに必要なもの以外は置かない。机のなかは空にする。
終了の合図ですぐに鉛筆を置くなど、

さまさまなきまりごとが定着して、習慣として確立され、テストを受けています。





3年生は午後から、卒業制作にとりかかりました。

大壁画を、クラスで、各生徒で、分担してパーツの絵を描きます。

そのために、渡り廊下の所定の場所まで、ポスターカラーをもらいに行き、教室内外で絵を描いています。

描き終えた絵は最後に貼り合わせ1枚の大壁画にします。







14:50からは、3年合唱祭でした。

各クラスがそれぞれ1曲ずつ合唱して、最後に学年の全体合唱で、「大地讃頌」を歌いました。


私からの講評をお示しします。
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3年合唱祭講評〈H31.2.26〉

3年生のみなさん、今日はお疲れさまでした。
合唱を見ている、聴いている側の立場から講評を言います。

まず、みなさんの表情を見ていました。クラスにいる喜び、学年で歌う喜びの顔を見ました。

つまり、みなさんは顔で歌っていました。

次に、歌う姿勢を見ました。たしかに声は、最後はのどから出ます。でも、その声は体全体から出ていました。

つまり、みなさんは体で歌っていました。

最後に、これが一番見えにくいですが、みなさんは歌詞とメロディーに心を込めて歌っていました。

つまり、みなさんは心で歌っていました。

さすがに3年生です。
みなさんは、顔と体と心で歌っていました。

みなさんが、3年前に入学してきたときから、私は三中にいましたので、この3年間の成長をしみじみと感じることができます。

たくさんの話をみなさんにしてきましたが、あとは卒業式の式辞だけになってしまいました。

卒業式でも、「大地讃頌」を顔と体と心で歌いきって、立派に卒業していってください。
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まだ3月14日の卒業式までに、もっと歌い込み、さらに磨きあげていきます。

















ソロコン関西大会

2019年02月24日 15時44分27秒 | 教育・子育てあれこれ


本日、全日本中学生管打楽器ソロコンテスト関西大会が、大阪音楽大学ミレニアムホールで開かれました。

近畿(大阪・兵庫・京都・和歌山)の中学生99名が出場しました。

箕面三中から、3年女子生徒1名が出場しました。


彼女は、フルート演奏で、去る2月2日のソロコンテスト大阪府大会で、上位に入賞して、今回の関西大会出場権を得ました。

そして、演奏曲は、フルート・ソナタ 第1楽章アレグロ・マリンコリーコ(F.プーランク作曲)でした。


第1楽章の表題の「マリンコニーコ」は、英語のmelancholy、日本語の「憂鬱」 (ゆううつ)という意味です。

憂鬱というと、なにか重くるしい、湿っぽいイメージを持ちます。

しかし、彼女が奏でたのは、もっと乾いたような軽やかさでした。そのように、私は感じとりました。

短調と長調をおりまぜて、なにか解き放たれるような旋律に惹きつけられました。

演奏後、本人は、「やりきった感があります」と、コメントしてくれました。

その結果、優秀賞を受賞しました。

"教育"と"教養"

2019年02月23日 22時23分34秒 | 教育・子育てあれこれ








昨日の5・6限に、一年生は福祉体験学習を行いました。

もとは、この体験学習は1月に予定されていましたが、インフルエンザによる学級閉鎖で実施できませんでした。

そのため、今日に延期して、実施した次第です。

生徒たちは、5つのコースに分かれて、体験学習をしました。

①点字体験
②子どもとのふれあい体験
③要約筆記体験
④高齢者体験
⑤視覚障害体験

なかでも、私の印象に残った講師のことばを一つ紹介します。

高齢者体験で、

高齢者にとっては、「きょういく」と「きょうよう」が大切なのです。今日行くところがあることと、今日用事のあることが大切。これが生きがいになるのです。

人生100年時代と言われる今日、高齢者がいつまでも、健康で長寿を保ち、認知症予防のためにも、意味の深いことばだと、私はかみしめていました。



悩み多き青春時代

2019年02月23日 07時00分24秒 | 教育・子育てあれこれ



私の青春時代は、思い起こせば、ああでもない、こうでもないと悩み多きものでした。

大阪府東能勢村(現豊能町)いう田舎で生を受け、緑多き自然の中で育ちました。

春にはレンゲの花が咲く野原を走り回りました。

夏には、クワガタやセミを採取しました。

秋には、色づいた樹木で落ちる夕陽をながめ、物悲しい気分になりました。

冬には、凍るような寒さの中、学校に通い、何度も積もった雪で雪合戦をしました。

小学校入学の頃は、クラスは10人の単級でした。

小学校4年に宅地造成され、初めて転入生が来ました。

中学時代も単級でしたが、卒業時には25人となっていました。

自然の中で大きくなり、小規模の学校で育った私は、純朴な田舎の子でした。


それが高校では、1クラス45人で学年が10学級ある「都会の学校」へ、突然入学しました。

都会の子がまぶしく見えました。私にとっては、カルチャーショックともいえる都会の子との出会いで、馴染むのにけっこう苦労をしました。

心許せて、しっくりとくる友だちを求め、さまよっていました。

おそらく、青春というものはだれにとっても、たいへんで悩み多きものです。

でも、くわえて、わたしの場合は、都会と田舎の狭間で、悩みの連続でした。

自分が田舎育ちということで、自分を卑下しました。

今でこそ、「田舎暮らし」が注目され、田舎に住みたいという人もいます。テレビでも、その話題を取り上げています。

しかし、1970年代当時は、街に住まない人は「田舎もん」として、豊能地区の子は能勢の子を蔑んでいました。

「陸の孤島」とも言われました。

そんな時、「孤島と違うわ。能勢電の駅まで、家から歩いてすぐや」と、言い返すエネルギーも吸い取られ、悔しがっていました。

私は劣等感のかたまりでした。

極めつけが、当時は全校生徒の名簿が、住所ものせて配られていたのですが・・・

ある日、クラスのある男子が、私の住所を見つけて、「こいつは東能勢村や。村やで!」と大声で言いました。

周りの生徒は、豊中市、池田市、箕面市の子で、一部大阪市淀川区の子ばかりでした。

彼の言葉は、田舎育ちを気にしている私に、深く突き刺さりました。


心ない言葉は、深く相手を傷つけます。

私はうっくつして、ああでもない、こうでもないと、自分の居場所を求めて、さまよっていました。

こんな悩み多き青春時代でした。



そんな私にも転機がやってきました。

高校2年のとき、同じクラスになった4人と友だちになりました。

一人は大阪市、二人は豊中市、一人は箕面市(桜井)の生徒でした。

それからは、5人はいつも一緒に行動しました。2年のときには、文化祭でファイアストームというイベントを満喫しました。

その友だちとは、今もつきあっています。

私の高校生活は、劇的に変わりました。毎日が楽しく、今思い出しても、その当時の思い出は、私の記憶のなかで、キラキラと輝いています。

私は人に傷つきましたが、人に支えられました。


三中の子も、中学時代、高校時代に心許せる友人に出会ってほしいと願うのは、わたしの体験がそう思わせるのです。

また、友だちには心ある言葉を使ってほしいのです。


そして、私は、生まれこのかた、ずっと同じふるさとに住んでいます。

今では、自然の中で育ったことが、自分のアイデンティティだと感じています。

なぜ、高校生の頃、あれほどコンプレックスを感じていたのかと思うほどです。

育った頃の自然とは、だいぶ様変わりしましたが、それでもまだまだ自然が残っています。

「ふるさとは遠くにありて想うもの」という言葉がありますが、私の場合は、いまもむかしも同じふるさとで、わたしは田舎に生まれたことを誇りに思います。

悩み多き青春時代でしたが、いま考えてみると、私は自然に育てられ、自然のなかで生きています。


以前、生徒の親御さんに言われました。

「この先生の話を聞くと、なぜかほんわかした気持ちになる」

そのときに、気づきました。

私が話す言葉には、どこか自然が息づいているのだ。

このように、自覚しています。


自分の存在を認められること

2019年02月22日 13時48分23秒 | 教育・子育てあれこれ



2月の全校朝礼が、今日ありました。

全校生徒の前で話すのは、1月17日の避難訓練以来でした。

私からの講話を紹介します。

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自分の存在を認められること  
<H31(2019).2.22 全校朝礼>


私がある日の朝、三中に向かっていました。

阪急石橋駅の改札口を出て、阪急タクシーの前まで来た時、白いベンチコートをきたお姉さんがいました。

彼女は、通行する人にポケットティシュを配っていました。ポケットティシュの裏には、お店の広告がついていたものでした。その人はアルバイトでティシュ配りをしていたのでした。

通勤や通学で石橋駅の改札口を通る人は、みんな足早に過ぎていき、誰もがティシュには目もくれず、お姉さんが「どうぞ」と差し出しているのに無視をして通り過ぎる人がほとんどでした。

お姉さんは、それでも黙々と「おはようございます。どうぞ」とティシュを差し出していました。

私が通りかかると、そのお姉さんは、同じように「どうぞ」とティシュを差し出しました。

私は受け取り、「お疲れさま」と声をかけました。すると、お姉さんはハッとしたように、「あ、ありがとうございます」と、ニコッとして答えてくれました。

三中生のみなさん、この実話を聞いて何を感じましたか。言っておきますが、私は自分が親切な優しい人ですと言いたいのではありません。

では質問を変えます。ハッとして「ありがとうございます」とニコッとして答えてくれたときのお姉さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

教室でなら、みなさんの考えや意見を一人ずつ聞くのですが、私は500名以上の全校生徒に問うていますので、答えはその人その人それぞれだと思います。私の考えを言います。

それは、お姉さんは自分の存在を認められたと感じたからうれしかったのではないかということです。

そのお姉さんがデートの待ち合わせで改札口外に立っていたとして、たまたま通りかかった人から声をかけられることはなかったはずです。

一生懸命働いていたからこそ、わたしはねぎらいの言葉をかけたのです。

人が一番つらいのは、「自分は見捨てられている」、「誰からも気にかけられない」という思いではないでしょうか。

誰からも顧みられなければ、社会の中に存在していないのと同じことになってしまうのです。

では、話題をみなさんの生活に引き寄せましょう。学級や委員会、クラブというものも、社会のようなものです。基本的には、見知らぬ生徒同士が集まっている集合体です。だから、そこで生きるためには、他者から何らかの形で承認される必要があるのです。

そして人を承認する方法の一つが、「気にかけているよ」という声かけやまなざしです。

さらに、突っ込んで言うと、コミュニケーションです。

しかし、コミュニケーションというのは、けっこう難しいのです。相手にも感情があるので、自分の気持ちがちゃんと伝わらなかったり、言ったことで誤解を受けたりで、けっこう過酷です。

しかし、だからこそ、私はコミュニケーションの可能性も大きいと思います。

コミュニケーションによって、人から自分が、笑顔や勇気や元気をもらえることもあるのです。コミュニケーションをすると偶然に生まれるいいこともあります。

それは言うほうは予想外のことでも、相手の気持ちにストンと入る場合もあるのです。

コミュニケーションは、人によっては耐えきれない、「煩わしい」と思う場合もあるでしょう。

でも逆に、何かに目覚め、何かに気づき、大きなものを得る可能性もある。このことを、三中生のみなさんは覚えておき、やはりコミュニケーションに頼って生きる人になってください。
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この後、表彰伝達、人権作文の朗読、部活後輩から三年の先輩に贈るメッセージなどを行いました。

きっとできるよ

2019年02月21日 08時35分06秒 | 教育・子育てあれこれ


昨日と今日の2日間、朝の登校時に三中生徒会のメンバーが、西南小の校門に立ち、朝のあいさつ運動を行いました。

これは、三中校区子ども会議で、児童会と生徒会合同でできる活動を考え、発案されたものです。

西南小の児童の登校に合わせ、児童会と生徒会が「おはよう」と声をかけます。

集団登校で登校してくる子どもたちは、あいさつに対して、あいさつで返します。

「おはようございます」の一言だけですが、この一言の意味は大きいと思います。無言で通りすぎるよりも励ましのメッセージとなることがあります。





さて、子どもを励ますことについては・・・

子どもを励ますことは、失敗を怖がってチャレンジをしないといういまの子どもに必要な声かけです。

そして、外国につながる子どもが増えている日本の学校という状況をみたとき、子どもを励ます言い方は、英語でどう表現するのかを考えてみます。

「きっとできるよ」は、You can do it.

「やってごらん」は、Try it. となります。

試しに、おそるおそるやってみたら、2回目はもっとうまくできるようになります。

「今度はもっとうまくできるよ」は、You can do it better this time.

これは、仕事や子育てなどの場面でも使われる定番表現です。

「きっとうまくいくことを確信しているよ」は、I'm sure you can do it.

「あなたにはやれる力が本当はあるのだよ」は、I know you can do this.

確信をもって励まされると、人は「よし、やるぞ」と意欲が湧いてきます。

(本文後半は、『讀賣新聞』2019年2月13日号の「河谷隆司の侍イングリッシュ」より引用しました)


誘いを断れない

2019年02月20日 09時48分35秒 | 教育・子育てあれこれ



今の時代、中学生は必要以上に友だちを大事に思います。

一人では、いられない。一人と思われるのはイヤ。

そんな中学生に問いたいことがあります。

「そんなに友だちが大切ですか?」と。

たとえば、友だちの言うことだから、断れないという三中生がいます。

でも、私はこれはちがうと思います。

誘いを断れないような人を友だちというのなら、私は友だちなどいらないというのが、私の考えです。

「ごめんね。その日は別のやらなくてはならないことがあるから、また今度」と軽く遠慮なく伝え、相手も「残念。でもまた今度ね」と言ってくれるのが、本当の友だち同士なのではないかと思います。

かりに、それが断る口実であったとしても、気にしないことです。

そんな大らかな、大人としての人間関係を学んでほしいのです。

三中でも、実際にありました。

あの子はLINEで、わたしの誘いを断ったのに、その日は別の子と一緒にいたと聞いた。

だから、あの子を友だちから外した。

こんなことが、いじめとして起こりました。

最近は、メッセージへの既読や返信がないだけで、人間関係がおかしくなる友だち関係が増えているように思います。

そんな人間関係の人は友だちではなく、たんなる知り合いです。

会っていて、またはメールでも、自分が楽しいと感じることができる人が友だちです。

そんな友だち関係を温めていってください。

私は、三中の子にこう伝えたいのです。

スマホ時代を生きる子ども

2019年02月19日 11時49分57秒 | 教育・子育てあれこれ



竹内和雄さんは、もと大阪府の学校の先生で、いまは不登校、いじめ、ネット問題などを研究して文科省、総務省、警察庁の子ども関連の委員を務められています。

以前には、箕面市のPTA大会にも、講師としておよびしました。


その竹内さんは、次のように文章を起こしています。

大阪府の今年のデータでは、

小6の約半数がスマホをもっています。

中1ではさらに伸び、77パーセントになります。


私の上の娘の場合、高校の入学を期に買いましたが、いまでは中学入学で買い与えることが多くなっているのです。

子どもが、「みんな持ってるから、買ってよ」というのは決まり文句ですが、77パーセントは約8割なので、ほんとうに「みんなが持っている」のです。

また、日常的にインターネットに接続する子どもは、小1で約半数にもなります。びっくりする数字だと言えます。

ネット接続は、いまや低年齢化しているのです。男子は携帯ゲーム機からネット接続している子が多いようです。


ネット接続で、一番よくすることは動画視聴で、どの学年も3割程度います。

とくに、小学生のYou Tube好きは強く、スマホからだけでなく、ゲーム機や家庭のパソコンやタブレット、親のスマホを使い見ています。

女子は学年が上がるにつれ、動画やゲームが減り、SNSが増えます。

最近、子どもはLINEをあまり使わないと聞きますが、実態はそうでなく、日常的にLINEを使っています。

とくに中1と高1がよく使います。新しい環境に入り、友だちをつくる必要からです。

高1の男子は約38パーセントが、4時間以上ネット接続しています。

ただし、高2、高3では受験のため下がっていきます。

しかし、女子は増えていきます。「親に怒られても、友だちが大切」だと言います。


こんな時代を子どもたちは生きています。大人はこの状況を受け入れて、対策を考えなければならないのです。

私たちは、スマホ時代を生きる子どもたちが健やかに生きる社会をつくっていく責任があります。

以上の通り、竹内さんが述べられています。


そうだとするならば

2019年02月18日 13時40分21秒 | 教育・子育てあれこれ



①あの人は、早合点が多い。だからよく失敗する。

②あの人は早合点が多い人だとすれば、失敗をよくすることになる。

たとえ、「よく失敗をする」という同じ判断をしたとしても、①と②ではずいぶん意味あいが違います。

「〜だとすれば」という言い方は、はじめから決めつけをしているわけではありません。

一つの条件のもとで考えるとこうなりますというのが②です。

①のような固定的な見方は、思い込みや偏見につながることがあります。

ときには、自分の考えが思い込みやひとりよがりになっていないか、自らを顧みたいのです。

学校の先生が、「あいつは(私自身は、生徒のことを「あいつ」と表現するのも、好ましくないと考えています)こういう生徒だから・・・」と、同僚に話していることがあります。

その見方がきめつけになっていないか、自分のその生徒とのかかわりと自分の見方をふりかえることが、必要になります。

山田太一さんは、いみじくも『路上のボールペン』のなかで、次の通り述べられています。

それは多くの考えの中の一つの考えなのであるから、「だから」という言葉で結論と結びつけてはいけない。「そうだとすれば」という保留をつけなければならない。

①の表現は、私もですが、結論を導くときに私たちがよく使います。

私たちが陥りやすい誤りを、一歩踏みとどまらせてくれる教えだと思います。

集中力を高めるために

2019年02月17日 09時33分17秒 | 教育・子育てあれこれ





いま三中2階の給食コーナーには、「集中力アップ」の特集が掲示してあります。

集中力をアップする体力的トレーニングもあるようですが、食べ物に気をつかうのも効果があるようです。

ドコサヘキサエン酸を含む青魚は、体にもいい上に、集中力を高めるのにもいいようです。

炭水化物の摂り過ぎはよくないと、最近よく言われますが、集中力をつけるためには必要な栄養素です。

箕面市の学校給食は、いまや低アレルゲン給食になっていますので、ピーナッツや卵は使いませんが、これらは集中力アップには欠かせない食べ物です。

また、朝食を中学生がとって登校することも、箕面市ではあまり問題にならないほど、たいていの子は食べています。

私は教頭、校長になる前は、箕面市の学校園全体の人権教育の仕事をしていましたので、大阪府下の子どもこ状況を研修する機会がありました。

ある府下の自治体の教員から聞いた話です。

朝、子どもが登校してこないので、家に起こしに行くと、鍵は開いたままで、親は仕事に出かけ、誰もいない家に生徒が一人で布団をかぶって寝ている。

暖房器具は見当たらない。その子は寒いので、布団の中で犬を抱いて暖をとっている。

当然のように、朝食を食べる習慣がないのです。

このような家庭があるのも、大阪府下の実態であると知りました。



大阪府全体で見ると、朝食をとってこない児童生徒のことが、地域の課題となり始めたのが、15年ほど前からでした。


そして、「朝食を食べると学力が上がる」と短絡的に言われ、朝食キャンペーンをはる自治体がありました。

朝食摂取で集中力が上がるのは確かなことですが、それよりも、朝食を食べる食習慣があるということは、生活習慣が確立され、それが学習習慣に影響して、結果的に学力向上につながるというしくみです。

学力の高い学校の児童生徒は、アンケートをすると朝食を食べている児童生徒の比率が高くなるので、朝食摂取→高学力と短絡的に結びつくのです。



学力の高さは、生活習慣、学習環境、学習意欲、自尊感情、文化的リソース、親からの期待度などさまざまな要因が関係しています。

また、この給食コーナーに書いてあるように、朝食を食べない→集中力が上がらない→学習意欲が持続しないとなります。






たしていくこと

2019年02月16日 14時45分19秒 | 教育・子育てあれこれ



本日、青少年健全育成市民大会がメイプルホールで開催されました。

ささゆり褒章が、箕面三中の3人に贈られました。

ささゆり褒章は、青少年の場合、箕面市内の学校に在学する青少年で顕著な活動をした人に贈られます。

三中の受賞生徒は、それぞれ

・第33回日本クラブユースサッカー選手権(U-15)に出場

・第31回都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会に出場

・第40回全国JOCジュニアオリンピックカップ春季水泳競技大会に出場



また、箕面三中卒業生1名もささゆり褒章を受けました。

・平成29年度全国高等学校選抜自転車競技大会に出場(現高校2年生)


さらに、もみじ顕彰の方も箕面三中卒業生2名が受賞しました。

もみじ顕彰は、箕面市の青少年のためになる、とくに顕著な活躍・貢献をした人に贈られます。

・第24回日本管楽合奏コンテスト高等学校B部門に出場して、最優秀グランプリ賞・文部科学大臣賞を高校1年生2名が受賞。



これらの活躍に対して、3名の三中生、三中卒業生3名にそれぞれ贈られました。おめでとうございます。

3名の生徒と3名の卒業生のチャレンジとその成長に、私からも賛辞を送ります。




さて、これらの受賞を通して、私の感想を述べます。

とかく大人は、子どもをみるとき、「ひくこと」で考えがちです。

学校で先生は生徒の成長を、家庭で親は子どもの成長を、「ひくこと」で考えがちです。

自分が思い描く、この子が「こうなってくれたら」という期待を満点とします。

その満点から、これができていない、あれがダメであると、ひくことで子どもを見ます。

しかし、産まれたばかりの赤ちゃんは何もできないのです。成長でみれば0点です。

そこから子どもが大きくなるにつれ、話せるようになった、歩けるようになった・・・と、たしていくことで、子どもの成長を感じ取ります。

子どもが努力したことについて、いい結果が出ないと、これができないという、ひくやり方では、子どもの方はしんどくなります。

まず、できるようになったことを当たり前と思わないことです。

そして、これができるようになったというチャレンジしたことに目を向けます。

現状からたしていく見方で子どもをみていくことが、結局は、子どもの可能性を伸ばすことになるのです。

教職は感性なり

2019年02月15日 09時10分04秒 | 教育・子育てあれこれ




熟練した教師の言葉は、「よく見てくれているな」と生徒に感じさせ、それでいて「最後は自分で責任を引き受けようとしてくれている」と生徒に思わせます。

そんな教師には、優しい言葉でも、厳しい言葉でも、それは、生徒をしっかりと見ていればこそ出てくるものです。

その生徒をよく観察して、その子の気持ちや心情に思いを察して、そのときに、その子にいちばん必要な言葉を投げかける。

それが、生徒をねぎらう言葉でも、励ます言葉でも、叱る言葉でも、相手の心に必ず届きます。

私はそんな教師になりたいとずっと思ってきましたし、今も思っています。

今までの私の教職経験では、不用意な言葉で、生徒を傷つけ、悔いたこともあります。

こちらの思いが生徒に伝わらず、残念な気持ちになったこともあります。

でも、そんなとき、フォローして、支えてくれた同僚や先輩教師がいました。

三中の教員も、生徒をしっかりと見て、その内面の心の動きを察して、適切な言葉かけができる人になってなってほしいと考えています。

これができるには、一定程度の教職経験を積まないと身に付きません。

しかし、経験よりも大事なのは、生徒の心情や気持ちを感じとるアンテナです。言い換えれば、教師の感性というものです。

この感性はもともと備わっている場合もあるでしょう。そんな人は教師になるべくしてなった人です。

でも、多くの場合は身につけたいと日々実践を重ねて、生徒の喜怒哀楽を身近で共感することで磨かれていくのだと考えています。