箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

異文化の理解をうながす学習

2021年02月28日 08時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルス感染拡大が、東京に日本全国から多くの人々が移住する「東京一極集中」に変化を与えていると言われます。去年の7月ごろから東京都からの転出が増えてきています。

とはいえ、大きな流れでは東京が政治・経済・文化の中心として、依然として大きく「君臨」しているのはゆるぎない事実です。

地方から上京した人は、まず言葉の問題に直面します。方言を使うのがはばかられるという気持ちに陥ります。

しばらくしてから、地元に帰ると「標準語をつかっている。方言はどうした」と周りの人から言われます。


それに関しての、「うしろめたさ」はあるのですが、故郷を離れて東京に住む年数が長くなるにつれ、標準語になじんでくるのが普通のようです。故郷への帰属意識が変化していくのでしょう。

ただし、大阪の人だけは、少し違っているというのがわたしの個人的見解です。

こだわってずっと大阪弁で通す人もいます。大阪人であることのアイデンティティをかたくなに維持しようとする人がいるのです。

私は生まれてこのかたずっと大阪に住んでいます。だから、かりに東京に住んでも、大阪弁をつかおうとすると思います。

大阪人の誇りや気概のようなものを保ち続ける人が多いように思います。

なぜこのことを問題にしているのかと言いますと、グローバル化が進むいまのダイバシティ(多様性尊重)という世界的潮流のなかで、人びとが文化や言葉のちがいをどう克服するかにも関係してくるからです。

マイノリティとマジョリティの関係のなかで、マイノリティはマジョリティに社会的同化していくべきなのかという問題にかかわるのです。

方言を封じこめて、標準語を使い東京に同化することで、その人は「東京人」になります。

これは、マイノリティがマジョリティに合わせる「同化」です。

しかし、本来の多様性尊重とは、マジョリティがマイノリティの文化を尊重し、マイノリティの言葉を受け入れるべきだし、マイノリティもマジョリティの文化を認めることでしょう。

言葉の問題一つとってみても大きいので、おたがいの文化を尊重し合うというのは、それほどたやすいことではありません。

私が校長をしていた中学校に、ある時イスラム系の女子生徒が転入してきました。

その生徒は頭にヒジャブをつけて学校生活を送っていました。
豚肉を食べないので、給食に豚肉が出るときは食べませんでした。
またラマダンのときは、ものを食べないので、給食の時間は教室を離れました。

クラスのまわりの子は、その習慣の説明を受け、「今日も、あの子は食べないんやね」という受け止めをしていました。それでも孤立することなく過ごしました。

このような経験をした生徒は、大人になって異なる言語、食習慣、行動様式と出会っても、その人を理解することができるようになるでしょう。

言葉や食習慣、行動様式は、その人そのものなのです。

わが国で多様性を尊重するには、学校教育で異文化理解の学習の充実が求められます。




困った子なんていません

2021年02月27日 08時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ
学校づくりとは、子どもに視点をあてたとき、「困っている子」が困らない学級や学年をつくることです。

職員室での、教員どうしの会話。

「あの子は授業中、ちっとも勉強しようとしない。ずっと机にうつ伏せになり寝ている」
「起きているときは、友だちにも暴言を言うこともあります」

「そうそう。ほんとうに困った子ですね」
 
こんな会話が交わされることがあります。

その教員から「困った子の扱いをどうすればいいですか?」という質問を受ければ、わたしはこう答えます。

「困った子なんているのですか」

「困った子とは、困っている子ですよね」

学習にそぐわない態度や暴言とか暴力でしか自分を表現できないのです。

そうすることでしか自分の居場所を守れないのです。

そういう点で「困っている子」がいるのであり、「困った子」とは教師の立場で言っているということに気がつきます。

困っている子が困らないようにするのが、教師の役目です。

その子が困らないようにするには、多くの教職員で、さまざまな角度からその子を見ていくのです。
 
そうすると、今まで気がつかなかった子どもの困っている様子が見えてきます。
困っている子は日々ようすが変わることにも気づきます。

困っている子が困らなくなると、クラスや学年が落ち着いてきます。

それは、子どもと子どもがつながり、周りの子が育っているからです。




伝えたい思いを相手に通じる言葉で

2021年02月26日 08時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ


人と人がコミュニケーションをとったり、やりとりをするには、情報を伝達することが必要です。

それだけですむ場合もありますが、「伝えたい」という気持ちが求められることも多いものです。

そのためには、「伝えたい」という気持ちが相手にちゃんと通じる言葉を使い、態度をとらなければなりません。

私も反省することがあるのですが、配慮のたりない言葉や態度は、対人関係でトラブルになります。

学校の教職員なら、児童生徒や保護者・来客、また同僚に対して、配慮のある言葉・態度が必要になります。

「無意識な言動」が人間関係を悪化させます。

私は、基本的に学校の教職員団のような「なべぶた式」の組織では、教職員同士の関係は対等であると考えています。

ベテランだからと言って、「教えてやろう」という上から目線の態度で若手の教員に話せば、言われた側もいい気はしないでしょう。

こうした点を意識しておくことで、日常的な児童生徒や保護者への行動や態度に反映されていきます。

心遣いは言葉遣いとなって、あらわれます。

車いすの子から学んだこと

2021年02月25日 08時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしが以前に勤務していた中学校の担当学年に、車いすで一日中生活する、全面介助の脳性マヒの女子生徒がいました。

大阪府は「ともに学び、ともに育つ教育」を以前から実践していました。

インクルーシブ教育、特別支援教育を全国的に展開する今の時代の前から、可能な限り通常の学級で学習や生活を送ることで、仲間関係を育て、障害のある子もない子も、ともに成長していくという理念で、教育の実践を進めていました。

その脳性マヒの生徒は、一見寝たままで何もできないように、周りは思いがちです。

でも、ある日こんな光景を目にしました。

ずっとリクライニングの背もたれを倒しているのでなく、ときどきは背もたれを起こして、身体ほぐしをします。

そのとき、介助の教職員が「少し起きようか」というと、その子は体いっぱに力を入れて、腰を曲げようとするのです。

このとき、わたしは教職の重要さを思いました。

一見すれば、何一つ自分ではできないように思える重度の障害生徒が、ただされるままでなく、自分の意志で体位をかえようとしている。

そこにいのちの輝きがあったのです。生き抜こうとする精一杯の努力をしているのです。

体を自由に起こせないという点で見れば、赤ちゃんのまま成長が止まっているかに見える人も、その発達段階の中身が豊かに充実していく生き方があるのです。

その充実の過程に、教育者はかかわることができる。

能力の向上をみる「縦の軸」ではなく、かけがえのないその年齢・段階での成長をみる「横の軸」で子どもの発達をとらえる視点を、わたしは教えられたのでした。

障害があろうがなかろうが、何らかの点で困っていたり、生きづらさをもった子が懸命に生きようとするのを支え、光を当てるのが教職であると、いま思います。

日本人は従順? マスク100%から考える

2021年02月24日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今回のコロナ禍で、日本ではマスクをつけることがすっかり定着しました。

電車に乗ると、今ではほぼ100%の人がマスクをつけています。

マスクのおかげで、この冬、学校ではインフルエンザによる学級閉鎖が激減しました。

校長としては、冬季のインフルエンザの流行は、学級閉鎖の迅速な判断を迫られる案件です。

欠席している児童生徒の数、発熱している児童生徒の数、体調のよくない出席児童生徒の数などを養護教諭の協力を得て短時間で把握して、学校医の意見を伺い、教育委員会と相談して閉鎖するかを決めます。

また、何日間の閉鎖をするかも朝の1時間で決め、保護者への連絡、給食で摂取できるものは児童生徒にとらせた上で、速やかに帰宅させます。


ところが、今冬は新型コロナウイルス感染対策で、児童生徒は全員マスクをつけており、それがインフルエンザの流行を未然に食い止めました。

マスクは感染症対策のまさに強力な「武器」になることを実感しました。


ところで、日本人はなぜこうもみんながマスクをつけることに従順なのでしょうか。

ヨーロッパのいくつかの国では、政府のマスク義務化の対策に、マスク反対のデモが起きた国があったと聞き及びます。

私は英語の教員ですが、英語音声学の視点から考えていることがあります。

それは、マスクの中で、発話がこもってしまうと、英語の場合は会話で困ったことになるからというのが私見です。

英語は、日本語とくらべ、母音や子音の数が多いのです。

たとえば、日本語の母音「ア」は一つだけですが、英語では下の発音記号のうち、1行目の5個と2行目の左3個は、すべて「ア」であり、それぞれ音はちがいます。

また子音でもたとえば、[r]と[l]は明確に区別して発音します。readとleadは区別しないと意味が通じなくなります。
これ以外にも子音を区別することはしばしばです。

英語を話す人は、マスクをつけると音がこもり、相手が聞きとりにくくなるので、マスクを嫌がる人がいる。

一方、日本語は、たとえば、「すみません」でも「すみません」でも、聞く側には通じてしまいます。マスクで音がこもって発音されても理解されるのです。

また、元来日本人は、話し手の口を見る習慣がないのですが、英語圏の人びとは見る習慣があるので、マスクをしていては表情が伝わらないので、嫌がるのではないでしょうか。

このような言語の音声上の相違と会話文化の違いがあり、日本人はマスクを付ける抵抗感がないのではないかと、考えた次第です。

他にも、何を着るか、何を身につけるかという選択のように、個人の自由を大切にする英語圏の考え方が、全員マスク着用への抵抗感になっているのかもしれません。

理由はいくつもあるのではないかと、考えます。





地元愛 「好きやねん、大阪!」

2021年02月23日 07時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「GoTo トラベル」について、政府は「GoTo が新型コロナウイルス感染を拡大させたというエビデンスはありません」と言います。

そうかもしれません。GoToトラベルによって、Aさんが〇〇県のBさんを感染させたという事例や証明はないのでしょう。

しかし、人は数字やエビデンスではなく、気持ちや感情で動くものです。

「もう、あちらこちらへ出かけてもいいんだ」というムードをつくったのは、GoToであることは確かです。

第三波が来るかもしれないという、まったく大丈夫でない状況なのに、そのムードをつくってしまったのは、罪深いことでした。

そのようにして緩んだ気持ちは、もうもとには戻りませんでした。だから感染は拡大し、緊急事態宣言の二度目の時は、街にはたくさんの人が出ていました。

一回目の時には、大阪市内の繁華街では本当に一人も人がいないこともあったのでした。

それでも、大阪市は今回の緊急事態宣言下で、時短営業をきっちりと守っている店がほとんどです。夜の8時になるときっちりと店を閉める飲食店がほとんどです。

それとともに人の数がぐっと減ります。

一方、東京の街は時間が来ても、開いている店がけっこうあり、人も多く歩いています。

この違いはどこから来るのでしょうか。

私は地元愛だと思っています。

東京では、バブル期に都心に古くから住みついていた人が外へ出てしまいました。

いま人が多いのは、あらたに地方から出てきた人が東京に愛着をもてないことの表れといえるかもしれません。

意欲的に「感染を減らそう、私たちの街だから」という気持ちになれないのでしょう。

しかし、大阪はなんだかんだといっても「大阪、好きやねん」という人が自分も含めて、多いと感じます。

吉村知事が真摯に新型コロナウイルス対策に向き合っている態度をみれば、「大阪から感染を減らしたい。協力せなあかん」という気持ちになります。

これに地元愛が重なるから、ちゃんと時間を守るし、遅くまで出歩くことを慎む。これが、個人差があることは認めたうえでの大阪人の傾向です。

「大阪のおばちゃん」はおせっかいで、ヒョウ柄が好きそうで、苦手という人もいるでしょうが、大阪の人は「大阪のおばちゃん」が大好きです。

「大阪のおっちゃん」は、ボケとツッコミを入れることしか考えてない、他府県の人から揶揄されることもありますが、基本的にわざとボケて、ツッコまれたいのです。

地元愛は地元を守ろうという態度になって現れるように思います。

どう思う この表現

2021年02月22日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ

ファミリーマートの惣菜シリーズ「お母さん食堂」のネーミングが、物議を醸し出しています。

「ご飯づくりは母親が担うものというすり込みになるので、名称を変更してほしい」というのが反対派。
「そこまで言うのは言葉狩りだ」というのが肯定派です。

二つの主張に分かれて、インターネット上にさまざまな意見が書き込まれています。

反対派のきっかけは女子高校生であり、オンラインによる署名活動を繰り広げ、賛同する署名数はいま8000近くになっています。

男の人は、自分たちは仕事をして、ごはんづくりが母親の負担になっていることに気がついてほしい。

男性が意識しないと、知らず知らずの間に「きめつけ」ができあがり、ごはんは女性がつくるものという偏見がなくならない。

このような考えで、反対派の署名活動が進んでいます。

一方、肯定派は「お母さん食堂を守ろう」というこれまたオンライン署名活動を行なっています。

インターネット上には、「(反対派が)そんな点まで問題にすると、言葉狩りではないか」という反発も書かれています。


わたしの経験ですが、子どもの頃、母がよくおにぎりを握ってくれました。

関西・大阪のおにぎりは、ふつうご飯を塩で味をつけ、握った表面に味付けのりを巻きます。(関東ではのりは味付けのりを使わず、焼きのりを使うそうです。)

わたしの母はいま高齢になっていますが、何年か前に久しぶりに母の握ったおにぎりを食べました。

そのとき、何とも言えない、あのなつかしい、「おふくろの味」を思い出したのです。少年時代が蘇るような感覚でした。

その経験に照らして思うのは、今回の肯定派の人たちは次のような感情をもったのではないでしょうか。

「おふくろの味」と言われるような、自分が抱くある意味のノスタルジーのような感情、「お母さん」という肯定的な意味あいを認めたらどうなんだ。

その思いが先鋭化すると、「言葉狩りだ」という意見になるのではないか。わたしはそう思います。


では、当のファミリーマートはこの論争をどう受け止めているのでしょうか。

「(賛否両論どちらも)貴重な意見として受け止めており、今後さまざまな意見を聞きながら方向性を決定してまいりますが、現在では未定でございます。」(毎日新聞)というコメントを出しています。

ファミリーマートとしては、状況を見ながら判断するとのことです。


私はこのコメントを読み、お母さん食堂のネーミングの是非は先延ばしにして、論争が進むほど商品の認知度が上がるというファミリーマートの目算があるとも受けとります。


では、最後に「ブログを書いているあなたはどう思うねん?」と問われたならば、どちらかというと、声を上げた女子高校生を擁護したいです。

おそらく、何10年か前なら、この広告はすんなり受けいれられていたのではないでしょうか。

しかし、最近ではオリンピックに関して会長の発言に異を唱え、反発があったように、人びとの意識は高くなっています。

そんな状況で、今回、高校生が「おかしい」と意見表明したことに意味があると思います。

それだけ、子どもの意識も高まってきたことを評価したいのです。


ところで、学校教育の範ちゅうでは、中学生が平和学習をして、戦時中の人びとの生活を知り、わたしがよく聞く感想があります。

たとえば、戦争中の防空壕での暮らし、沖縄のガマでの避難生活、戦火の中を逃げまわった体験を聞き、いまの自分の生活と比べます。

「戦争中はたいへんだったのだと思いました。わたしは、いま家で、お父さんが働いてきてくれて、お母さんがおいしいごはんを作ってくれて、恵まれているなと感じます・・・」

この感想は、中学生が感じたことをそのまま書いているので、批評はしません。が、しばしば聞く最近多い感想です。

この感想にあるように、「お父さんは仕事、お母さんは家事」というすり込みを子どもが受けている影響は、私たちが思う以上に強いのです。

それに、店内の「お母さん食堂」の表示の横に添えられているイラストのお母さんが、白いエプロンを身につけ、頭には白い手ぬぐいで描かれており(カバー写真参照)、いかにもせっせと家事に励む昭和のお母さんを表しています。

ゆえに、学校教育関係者のわたしは、自身がたしかにおふくろの味というノスタルジーは感じながらも、令和の時代の高校生の感性をたのもしく思うのです。

できれば、女子高校生だけでなく、男子高校生から声が出ればよいとも思います。

ほかの問題に関しても言えることですが、「おかしい」と第一の声をあげるのは、マイノリティの側であることが往々にしてあるからです。

その点でこの広告は、生徒たちに男女の対等性を考えさせる学習のいい教材になると、わたしは思います。

生徒たちにこの写真を見せて、どう思うかを意見交流させることができます。

答えがすぐには見つかりにくい問いに対して、意見を自由に出し合い、お互いが納得のいく答(正解でなく「納得解」)を導き出す学習になればいいのです。









食品ロスをなくすために

2021年02月21日 08時19分00秒 | エッセイ

ほんの少し前まで、大阪にはたくさんの外国人観光客があふれていました。

地下鉄に乗ると大きなスーツケースをもった外国人がたくさんいました。

ホテルでエレベータに乗ると、同乗した人が中国語を話している。

大阪ミナミの繁華街は、外国人の買い物客でごった返していました。

新型コロナウイルスの1回目の緊急事態宣言以降、街からは外国人観光客が消えました。

関西に来た外国人は2012年が273万人、2019年には1321万人へ急増していたのです。しかし、2020年春以降は、ほぼゼロ人になったのでした。

観光地では外国人が来なくなり、食品がたくさん売れ残りました。

食品業界では、賞味期限までの期間が3分の1を過ぎると販売にまわすのを中止し、廃棄してしまうことが多いようです。

このような事情も加わり、食品ロスをどう減らすかがいまの大きな課題です。

そこで最近は、賞味期限内の余剰食品を事情の説明したうえで、ネット販売する商法が出てきています。

飲食店向き高級品が割安で買えるので、消費者もお買い得感があります。黒毛和牛、ホタテなどに人気があります。

ただし、ネット販売に出されるのはほんの一部で、日本全体の食品ロスは年間で600万トンを軽く超えます。

食品ロスは日本だけの問題ではありません。国連で定めたSDGs(持続可能な開発目標)では「つくる責任 つかう責任」として、食品ロスの問題をとりあげています。

国内で食品ロスの問題に取り組む例があります。

たとえば週3日の午後だけ店を開け、4種類のパンのみを打っているパン屋さんがあります(広島県)。

この店は、5年後に流行が終わるパンではなく、長年残るパンを売っていきたいという思いで、日もちしない具材を使わずシンプルなパンを販売することで食品ロスを解消しています。

飢餓の危機に瀕している国がある一方で、食品ロスの問題は人類の課題です。

その課題解決を図るのがSDGsです。

SDGsの推進に効果を上げる新しい産業を、日本は創出しなければならないのです。

ずっと前には、企業の使命は営利追求のみでよかったですが、その後社会貢献という価値が加わり、さらにSDGsがプラスされています。

時代は、いまやSDGsに取り組む企業こそが社会から認められる流れになっています。

沖縄修学旅行のゆくえ

2021年02月20日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ


美しい海、豊かな自然、琉球王国の時代の文化が脈々と引き継がれた食文化や歴史の宝庫である沖縄へは、例年約2400校、人数では40万人を超える修学旅行生が訪れます。

2020年度では、新型コロナウイルス感染拡大の影響をうけ、沖縄への修学旅行をとりやめた学校もありました。

その一方で、感染対策を適切におこない、実施した学校も多くありました。



ところで、生徒たちは沖縄修学旅行でどんなことが学べるのでしょうか。

まず独自の風土と歴史の中で織りなされた文化を学びます。カチャーシーやエイサーの踊り、ガジュマルの木のもとにたたずみ、三線の音色を聞きます。




また、琉球時代の歴史に触れることもできます。
さらに、時間に縛られない、ゆったりと時間が流れる、のどかなテーゲー文化を知ります。

さらに、「いちゃりばちょーでー」の言葉にあるような、人と人が出会えば友だちになるという、人情豊かな沖縄の人たちに出会います。

また、「民泊」を利用すれば、地元の人の家に生徒が泊めてもらい、家族のように迎えてくれる沖縄の人の温かさにふれることもできます。

また、豊かな自然の中をいかした体験学習ができます。シュノーケリングで海中のきれいな魚が泳ぐようすを楽しむことができますし、その他のマリンスポーツも体験できます。



さらには、紅芋を掘りチップスをつくる、サーターアンダギーを実際作ってみる、パイナップルのジャムづくりもできますし、海で拾った貝殻を使ったアクセサリー作りもできます。土を練ってシーサーをつくることもできますし、琉球ガラスのコップも作れます。



くわえて、太平洋戦争で唯一の地上戦となり、多数の尊いいのちが失われた沖縄での当時の惨状を伝える戦跡を訪れることができます。

座学では学べないような平和を希求する沖縄の人びとのこころを学ぶこともできます。平和の尊さに触れ、平和を考える貴重な機会を与えてくれます。



このような子どもにとっては得ることの多い修学旅行ですので、2021年度は継続または再開してほしいと願っています。

そのためには、万全な感染対策を学校も受け入れる側も取らなければなりません。

交通機関の点では、航空機は上空の新鮮な空気を取り入れ、機内の空気を滞留させない高性能フィルターを使った換気を実行しています。



貸し切りバスでも、新型コロナウイルス対応のガイドラインを遵守するように努力を重ねています。

宿泊で言えば、民泊は沖縄の人と濃厚接触になりやすいので、ホテル泊が適切でしょう。
各ホテルでは感染対策を講じるのはもちろん、発熱や体調不良に備え、通常準備する保健用の部屋の増設が必要になります。

また、食事もセットメニューにするとか、ビュッフェ形式をとるなら手袋の着用を義務付けるなどの配慮がいります。



体験学習では、密にならないようにして屋外での体験学習に変更する工夫もできます。資料館の見学や屋内で行う学習なら生徒と生徒の距離をあけるなどの対応が求められます。

新型コロナウイルス接触確認の活用や沖縄県新型コロナウイルス対策パーソナルサポートRICCA(リッカ)を活用できます。

このような感染対策を保護者に説明して、理解・納得してもらったうえで、子どもを送り出すことができるようして、沖縄修学旅行を実施していかなければなりません。


多様性尊重のために

2021年02月19日 08時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルス感染拡大が、東京に日本全国から多くの人々が移住する「東京一極集中」に変化を与えていると言われます。

去年の7月ごろから東京都からの転出が増えてきています。

とはいえ、大きな流れでは東京が政治・経済・文化の中心として、依然として大きく「君臨」しているのはゆるぎない事実です。

地方から上京した人は、まず言葉の問題に直面します。方言を使うことがはばかられるという気持ちに陥ります。

しばらくしてから、地元に帰ると「標準語を使っている。方言はどうした」と周りの人から言われます。


それに関するある「うしろめたさ」はあるのですが、故郷を離れて東京に住む年数が長くなるにつれ、標準語になじんでくるのが普通のようです。

故郷への帰属意識が変化していくのでしょう。

ただし、大阪の人だけは、少し違っているというのがわたしの個人的見解です。

東京へ移ってもこだわってずっと大阪弁で通す人もいます。大阪人であることのアイデンティティをかたくなに維持しようとする人がいるのです。

私は生まれてこのかたずっと大阪に住んでいます。だから、かりに東京に住んでも、大阪弁を使おうとすると思います。

大阪人の誇りや気概のようなものを保ち続ける人が、大阪の場合多いように思います。

なぜこのことを問題にしているのかと言いますと、グローバル化が進むいまのダイバシティ(多様性尊重)という世界的潮流のなかで、人びとが文化や言葉のちがいをどう克服するかにも関係してくるからです。

マイノリティとマジョリティの関係のなかで、マイノリティはマジョリティに社会的な同化をしていくべきなのかという問題にかかわるのです。

方言を封じこめて、標準語を使い東京に同化することで、その人は「東京人」になります。

これは、マイノリティがマジョリティに合わせる「同化」です。

しかし、本来の多様性尊重とは、マジョリティがマイノリティの文化を尊重し、マイノリティの言葉を受け入れるべきだし、マイノリティもマジョリティの文化を認めることでしょう。

言葉の問題一つとってみても大きいので、おたがいの文化を尊重し合うというのは、それほどたやすいことではありません。

私が校長をしていた中学校に、ある時イスラム系の女子生徒が転入してきました。

その生徒は頭にヒジャブをつけて学校生活を送っていました。

豚肉を食べないので、給食に豚肉が出るときは食べませんでした。

またラマダンのときは、ものを食べないので、給食の時間は教室を離れ、別室にいました。

クラスのまわりの子は、その習慣の説明を受け、「今日も、あの子は食べないんやね」という受け止めをしていました。
それでも孤立することなく過ごしました。

このような経験をした生徒は、大人になって異なる言語、食習慣、行動様式と出会っても、その人を理解することができるようになるでしょう。

言葉や食習慣、行動様式などの文化は、その人そのものなのです。

わが国で多様性を尊重するには、子どものときから学校教育での異文化理解の学習の充実が求められます。



最近の若い女優に見る突き抜け感

2021年02月18日 10時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ
人の写真を撮るとき、逆光にならないようにするというのは、多くの人が心がけてやっていることだと思います。

逆光を受けた人を真正面から撮ると、人物は暗くなります。

とはいえ、最近の画像処理ソフトやアプリはよくできていて、逆光真正面でも、後で人物を明るくすることもできます。

しかし、逆光をうまく使い、人物写真を撮ることもできます。




それは、後ろに光を背負って、斜めから人物を撮ると、その人物は輝いて見えます。
キラキラ感が増すからです。

また、最近はスマホのカメラでも、一眼レフで撮ったように、背景をぼかした人物を浮き上がらせることができます。

このように、撮影技術が進化してきました。

そのような撮影方法や撮影機器の向上はあるのですが、それを差し引いたとしても、最近の若い女優さんは、昔と違って写真や動画を撮られ慣れていると感じます。

スマホの普及により、インスタ映えする映り方を心得ているからでしょう。

みんなが、とても自然なうつりかたになります。

また、写真だけでなく映像でも、しぐさや演技が自然です。

理知的で、繊細な感性を醸し出し、さすが女優という突き抜けた存在感を出しているように感じます。

それに加えて、何かオーラを感じます。そのオーラの正体とは「自信」なのかもしれません。

自信とは、楽しむことです。本人が楽しいと思っていることを、親も周りの人も「楽しいはずないだろう」と否定はできません。

自分が楽しいと思うことには、なん人も干渉できないのです。

そのあたりが突き抜けた存在感を示しているのでしょう。

その点で、学校教育の中でも、中学生が自信を高めるには、本人がなにか楽しいと思うことをもつことだと、わたしは思います。

好きなこと、楽しいことは、意欲が高まる最大のモチベーションだと思います。

もうすぐ花開く 早咲き桜

2021年02月17日 18時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ
しばらく暖かい日が続いていました。

しかし、うってかわり今日は風が冷たく、寒い日になりました。

まだ桜の花が開くまでには、日数がかかるようです。

しかし、もうすぐ花を開く桜を見つけました。

それは早咲きの「河津桜」です。

写真のように、大阪の地でつぼみをふくらましているのを今日見つけました。

中学校の花壇に植わっています。

もう間もなく花をつけるでしょう。

厳しい寒さの今冬でしたが、春はもうそこまで来ていると予感させます。

河津桜を眺めたひとときでした。

子どもが社会に働きかける

2021年02月17日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
北海道に北見北斗高校という学校があります。

全日制課程と定時制課程があり、定時制課程は、NHK学園高等学校の協力校となっています。

この高校の生徒たちは、このたび「探求学習」の一環で、北見市にスターバックスコーヒーがないことに着眼し、スターパックスコーヒージャパンに開店を提案しました。

その結果、昨年11月に北見三輪店が出店しました。


生徒たちが「なぜ北見市には、スタバがないのか」をテーマにして、学習に取り組みました。

この高校の探究学習では、グループごとに課題を設定して、研究をして、課題解決を試みることにチャレンジします。

学習では、出店がない原因や出店のための条件を検討しました。

スタバでアルバイトをした人からの聞き取りをしました。また、出店している帯広市、釧路市と北見市の人口比率を調べました。

その結果、北見市は他のニ市と比較して、土地が広く、人口密度が低いという事実を明らかにしていきました。

また、交通量も少ないことが原因でないかという仮説を複数立てました。

約半年をかけた学習で、出店のメリットを考察して、スターパックスと電子メールをやりとりしました。

その結果、スタバの方から出店の知らせを受けました。

生徒たちは開店前の店舗に特別招待をされ、開店を祝うことができました。

また、生徒たちの誘致活動に対してスターパックスから感謝の言葉を受けました。

子どもの願いを実現させるスターパックスという企業の柔軟な姿勢も素晴らしいですが、探求学習に取り組んだ生徒たちも大喜びでした。



さて、小中学校でも、児童生徒が「総合的な学習の時間」で、地域の課題を調べて、行政や市役所に提案することもあります。

その学習の結果、たとえばまちづくりや地域の公園づくりに子どもの声や要望が反映されるケースもあります。

しかし、小中学生では、年齢的にリサーチが不十分であったり、有効性がないとか、採算があわず、実現性の乏しい提案であったりするので、要望がかないにくいのが実情です。

それに対して、高校生にもなると、かなり探求が深く、考察もしっかりとできることが多く、企業に課題解決を迫るだけの力を出せるのだと、わたしは考えます。


今の日本では、子どもは進学のための学習だけをしていればいいと、保護者もまわりも考えがちです。

そんな環境に置かれた子どもたちは、自分たちにとって社会を遠いものとして捉えがちです。

そのような子どもたちに、「私たちも真剣に探求学習にとりくめば、企業や社会を動かすこともできる」という実感をもたせることは、たいへん意味のあることです。

子どもたちに社会を身近に捉えさせる、自分たちも真剣に課題の解決に取り組めば、変化を起こすことができる。

その経験を積む学習が必要なのです。




自分をつくる〜知識は荷物にはならない〜

2021年02月16日 08時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ


中学生には、国語の教科書を大切にしてほしいと思います。国語の教科書は、小説や随筆、論説文などの宝庫です。

子どもは、思春期の時期に「自分」をかたちづくっていくものです。

その自分をかたちづくるうえで、土台というか下地をつくることが大切になります。

国語の教科書はたんなるきっかけであり、そこから関連した本を読むことができます。

たとえば、芥川龍之介の『トロッコ』を教科書で学習したら、『羅生門』をよむとか、太宰治の『走れメロス』を学習したら『人間失格」に広げていくなどします。
人がどう生きていくかというヒントが見つかるかもしれません。

その点で、国語の教科書はいろいろな作家の作品に触れるプレリュード(前奏曲)、イントロのようなものです。

若い頃によい文章に触れると、一生の教養が身につきます。

自分をつくるのには、国語だけでなく、歴史も大いに役立ちます。

たんに歴史上のできごとを覚えるのではなく、「なぜそのできごとが起きたのか」、「そのできごとでどのような影響があったのか」という視点で歴史を学習するのがよいでしょう。

今の時代、学校の授業では、知識を活用する力を育てることに注意が向けられがちです。

しかし、知識そのものはとても大切です。このような学習をして身につけた知識は将来、その人が生きていくうえで役立つものです。

「知識は、荷物にはならない」のです。

行って、出会って、読んで、経験すること

2021年02月15日 08時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ

中学生の部活動について、思うことがあります。

小学生の時からスポーツクラブに所属して、活動している子は置いておくとして、中学からその部活を始めた子の場合です。

いい指導者やコーチ、または先輩に出会っただけで飛躍的に、劇的にその子の技術があがることなど、そうそうないということです。

うまくなるには、ただ一つしかありません。毎日コツコツと練習に励むしかありません。

部活動と同じように、子どもがおとなへと成長していくのには、さまざまな人に出会い、いろいろな書籍を読み、あちこちの場所へ行くなど、毎日着実に数多くの経験を積んでいくことで、おとなへと成長していくのです。

「おいしいスイーツの店ができた」と聞いて、「あっ、そう」では本当に知ったことにはならないのです。実際に行って、食べてみて、はじめておいしいスイーツだとわかるのです。

だから、中学生には、自分で実際にやってみて、自分で調べてみて、経験することが大切だと言いたいのです。

そして、そのことは大人でも同様だと思うのです。

学校教育の分野で言うならば、教育に関する事業や施策の方向を決めるとき、わたしは「答えはいつも現場にある」を意識していました。

実際に学校現場の子どもの様子や保護者の願いを聞き、必要な事業や施策の方針や方向性が決まるのです。

このことは、教育だけでなく、営利を求める企業も同じであり、現場の声や願いを聞くことなくして、顧客満足に近づくことはできないのです。

社会や世の中は変化していきます。いままで当然と考えていたことも、当然でなくなることもあります。

このとき大切になるのが、自分で実際にやってみて、調べて、経験することであるのです。

ひとつの考えにこりかたまらず、たくさんの人と出会い、書籍に出会い、経験を重ね、学習し続けることが、いまの時代必要なことだと思います。