箕面三中 校長室からのメッセージ

おもに保護者のみなさまに向けたメッセージです。生徒の近況を伝えるとともに、教育と子育てについての情報をお伝えします。

社会に出る中学生に願う

2018年10月31日 09時55分14秒 | 校長からのメッセージ


本日は、3年生の学力テストです。高校進学のためには、いまの学力状況をみるためには、大切なテストになります。

そのため、どの子も真剣に答案に向き合っていました。





さて、私たちは、中学生に対して、「将来、社会に出たら」とか「社会では、そんな行いは許されない」とか言います。



三中の教育目標にも、「社会にかかわろうとする生徒」と、卒業時の目標とする姿を定めています。

中学生は大人になって学校を出ると、いやでも「社会」に出ることになります。

この「社会」に出ることを楽しみに思う生徒もいるだろうし、何かたいへんそうと感じ生徒もいるでしょう。

しかし、ふと立ち止まり考えみると、「社会」とはいったい何でしょうか。

そこで、もし「社会」をたくさんの人の集まりだと考えるなら、いま三中生が通っている学校も、ひとつの社会です。

そして、複数の人が集まると、そこには必ず「関係」が生まれます。親しい関係、あまり親しくない関係、尊重しあう関係、先輩-後輩の関係、利害関係、微妙な感情の関係などです。

とくに上下関係、利害関係、微妙な感情の関係をいま三中で感じている生徒は、社会というものがなんとなく複雑で面倒なものと映ります。



今でさえわずらわしいのに、大人の社会に出るなんて嫌だ。こう感じる生徒もいるでしょう。

その意味で、「社会」とはたくさんの人の集まりであり、それらの人と人の間になんらかの「関係」がある集まりであると言えます。

人間関係だけでなく、社会にはさまざまな決めごとや規則があります。個人の行動に対する制約もあります。好きなことができません。一言でいうと、自由の少ないのが社会です。

その窮屈さから、「仕事がつまらない、社会はうっとおしい」と嘆く人が、私たち大人の中にもいます。

しかし、自由が少ないからと言って、社会から抜け出ることはできないのです。

ただし、よく考えてみると、「社会」とは、たんなる人の集まりであり、「社会」なんてどこにも存在していないということに、私たちは気がつきます。

「社会」とは複数の人の集まりにつけられた名称であり、探しても、探してもどこにもない。そこには、一人ひとりの人間が存在しているだけです。

人間が存在していることの方が、確かな事実です。

だから、他人との関係で、または他人のすることを気にすることで、自分を不自由にしているのは、自分でしかないのです。

もし、社会にかかわり、社会をよくしたいと本当に思うなら、他者が悪いと責める前に、自分がよくならなければならないのです。

「社会」は、相手にばかり求めて、自分の満足いくようにしてくれるユートピアではないのです。

アメリカのニクソン大統領の言葉を借りれば、「国が何をしてくれるかを望むより、あなたが国に何ができるか」です。

(Ask not what your country can do for you—ask what you can do for your country.)

社会が何をしてくれるかを問うより、あなたが社会に何ができるかを問うのです。

三中生は、こんな自覚をもち、「社会」にかかわろうとすることを願います。



生徒には、いつか機会があれば、もう少し平易な表現で、社会にでる心構えとして、以上のことを伝えたいと思っています。

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先生を好きな学校

2018年10月30日 08時35分54秒 | 校長からのメッセージ





昨日の続きです。

学校における、保護者からの要望・苦情は、子ども・教師・保護者という三角形の関係のなかで、起こります。

ということは、教師と子ども、親と子、教師と親との関係が良好であれば、苦情の問題には至らないと考えることができます。

そして、もし問題が生じたならば、三者の関係をよくする方向を目指すことになります。

他方、他のサービス業の業界では、ある商品のサービスに不満をもったなら、他の店に顧客は乗り換え、店と顧客の関係は途切れます。

しかし、学校の場合は、この三角形の関係はずっと、少なくとも子どもが卒業するまでは続きます。

残念なことですが、もし保護者の方が、学校のやり方や学級担任をはじめとする教員に不満をもたれても、この三角の関係から外れることが、通常はできないことになります。

学校の教師は、それをいいことに、好き勝手に振る舞うのは論外として、また、三中にはそのような教師はいないと、私としては願いたいです。

が、「ボタンのかけ違い」により、あるいは教師の配慮が足りず、または教師の「よかれ」という思い込みが原因で、保護者の方からの苦情、子どもからの不満を聞くことが、何度かあるのは事実です。

そこで、三中はどうするべきなのか。

おおざっぱに、率直に言えば、生徒が教師を好きになってくれればいいのであり、親御さんが教師に好感をもってくださればいいのです。

教師に親御さんが不満、不信感をもち苦情につながるのは、三中の教師が子どもを大切にしたいないと感じられたとき、子どもが三中の教師を嫌っていると、親御さんが感じたときです。

この点で、親御さんと学校の良好な関係づくりの道すじが見えてきます。

わが子や他の子どもが、日々の三中生活を通して成長していること、そしてその成長のために、三中な教職員がどうかかわっているのかが、学校から親御さんに伝えていることが必要です。

また、何よりも三中の教師と三中の生徒の関係が良好であることが、子どもを通して親御さんに伝わることが重要であるのです。

至らない点、お気づきの点があれば、三角形の関係をよくしていきたいので、お伝えください。



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手をとりあうパートナー

2018年10月29日 13時36分17秒 | 校長からのメッセージ




教育を、サービス業になぞらえて、学校も「企業努力」をして、教育の質を高めるべきだという社会からの要請を受けるときがあります。

会社では、顧客が満足できるように、商品の質を高め、サービスの改善を図っているではないか。

だから、学校も子どもや保護者が満足できるように、教育の質を高め、教育内容を改善していくべきだ。

この論理は、一定の筋が通っています。

三中の子に楽しく充実した学校生活を送らせて、学力を向上させるために、三中教育を改善していくべきと、私も考えます。

学校教育自己診断(今週水曜日配付予定)のねらいも、その点にあります。

しかし、誤解をおそれずに言うならば、一般のサービス業に寄せられる要望や苦情と学校に寄せられるそれらでは、性質が若干違うと思います。

それは、サービスを受けるのは誰かという点です。

小売業などに寄せられるクレームは、商品が期待通りでない場合に起きます。

そこで、商品を改良したり、顧客のニーズに応える新商品の開発、さらに社員の接遇を見直して、研修で改善を図ります。

しかし、学校は、子どもの豊かな成長、人格の完成を目指しています。(教育基本法「教育の目的」)

その文脈では、保護者は学校教育の受け手ではなく、あくまでも、子どもが受け手です。

保護者と学校は、協力しあい、子どもの成長にかかわり、人格の完成を目指すために、ともに活動するパートナーです。

ですから、保護者の学校に対する要望や苦情は、子どもへの適切なサービスについての考え方や方法、教育環境などについて、お互いの立場を理解しあい、課題があれば改善していく機会となります。

保護者の願いと、学校が目指す方針をすり合わせ、教職員と保護者でともに子どもを育てていくことが重要になります。

保護者と手をとりあって行う営みが、学校教育の王道です。

それならば、三中の保護者の方は、わが子がどのように育ってほしいと願い、学校にどう努力をしてほしいのかを伝えてくださればいい。

三中はそれをわかろうとしなければなりません。学校の教育目標と学校で行なっている活動を伝え、理解してもらわなければならないのです。

その上で、保護者の方に分担してもらえることをお願いしたいと思います。

このパートナー原理が、公教育をつらぬく主軸なのです。

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多言語への対応

2018年10月28日 12時31分01秒 | 校長からのメッセージ



日本を訪れる外国人旅行者が、5年連続で過去最高を更新していると聞きます。

8年ほど前、ビジネス誌に、今後日本は観光立国になっていくという記事があったのを覚えていますが、その通りになりました。

また、外国人の就労者や技能実習生も増加してきています。とくに、技能実習生は地方で増加していており、箕面市にいるとあまり気がつきません。

わが国は、急速に多国籍化が進んでいます。

それとともに、言語を使ったコミュニケーションの必要性が高まっています。

昨年度の3年生が、公立高校入試の「自己申告票」で、高校では英語を使う学習をしたい、将来英語を使う仕事に就きたいと、書いていた生徒がけっこう多かったのもうなずけます。

しかし、いまや英語ができるだけでは十分ではなく、多言語に対応できることも求められています。

観光地やイベント窓口では、歴史や地域に関する情報を確実に伝え、文化への理解を深めてもらうためにも、多言語で対応する状況が進行しているからです。

役所では、必要書類を説明したり、申請したりするときにも、多言語による対応が大切です。

また、学校でも、子どもや保護者が外国籍で日本語がわからない場合、日々の授業や学校生活、とりわけ高校入試制度の説明や懇談時に、多言語対応が必要になる場合があります。

「言葉の壁」は、多くの問題を生み出し、外国人が日本で生活する上で、さまざまな機会をなくしてしまうと言えます。

いまは、英語のみならず、多言語に対応できる人育てや翻訳・通訳の制度や配慮を充実していかねばならないのです。
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自分をつくり変える

2018年10月27日 18時45分22秒 | 校長からのメッセージ



私の母は高齢になり、自由に歩くことが難しくなってきています。

母が体力的に弱ってくると、私には忘れていた情が蘇ってきます。

私が幼い頃、病院通いをしていたとき、保育所に通うとき・・・
一緒に寄り添ってくれた日々を思い出します。


みなさんも、わが子を出産して、かわいがり、お子さんに寄り添った日々があることでしょう。

赤ちゃんを抱いたとき、自分がいのちをかけて産んだ子どもに、母性本能を注ぎ込んだ日々があったことでしょう。

まさに、母子一体の絆から子どもを育ててこられたわけですが、成長するにつれ、子どもはその一体感を忘れていきます。

そして、中学生になったいま、母子一体はすっかり分離してしまったと感じることもあるかもしれません。

しかし、赤ちゃんの頃の母子の強いつながりは、無意識の底にしっかりとインプットされています。

私が、最近、母と一緒に過ごした少年時代を思い出すのも、無意識の底にインプットされていた愛情が呼び覚まされるからだと思います。

さて、母子一体の体験の強い子は、総じて自己を認め、自分を価値のある人間だと思う傾向が強いようです。

いわゆる自己肯定感が高いのです。

そして、成長するにつれ、友だち、先生、先輩、地域の人との人間関係を広げながら、他者とつながり社会やコミュニティに参加していきます。

母子一体感とは、言い換えれば、子どもが母親にたっぷりと依存する人間関係です。

この母子一体感から始まり、人間関係を他者に広げていく中で、子どもは自分らしさに気づき、新しい自分につくり変えていこうとします。

このように、自己を変容していくことが、中学生らしい子どもの成長であるとも言えます。
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変わると思うから

2018年10月26日 16時27分29秒 | 校長からのメッセージ



教師は、ときとして、生徒を叱ります。

もちろん、生徒にとって理不尽だと思う叱りは問題外です。

また、生徒の人格を否定する叱り方も、教師として許されるものでないことは当然です。

そういうことではなく、生徒のことを思って、叱らなければならないときがあります。

私も今までに、何度か生徒を叱ってきました。


でも、"叱る”っていうのは、エネルギーを使うことです。

できることなら、誰もが叱りたくないのです。

それは、親御さんがお子さんを叱るときも、同じ気持ちでしょう。

それでも、教師が生徒を叱ったりするのはなぜでしょうか。

それは、何かが変わると思っているからです。

生徒の場合だけでなく、教職員を叱る場合も同じだと思います。

私は、基本的に叱るよりも、相手に気づきが生まれるように話します。

でも、叱るときもあります。

その教職員が変わることを信じて叱るのです。


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自然と共に生きる

2018年10月25日 07時16分32秒 | 校長からのメッセージ



現代社会は、経済至上主義であり、また無駄なことを否定して、効率を重視します。

それらを否定するわけではありませが、自然に委ねる生き方は、ある意味で豊かな生き方だと、私は思います。

次の俳句に、私は心を惹かれました。

作者は有名な俳人ではない、70歳代のある被災者です。

身一つとなりて薫風ありしかな


思いもしなかった大津波に遭遇して、家や財産を全部失ってしまった。

茫然自失の日々をしばらく過ごしていた。

しかし、ふと我にかえると、そこにはかけがえのない家族がいて、今年も初夏の薫風が変わらず吹いていた。


打ちひしがれていた間にも、季節は確実に変わり、自然は絶え間ない命の循環を行っていた。

震災をくぐり、自らの命を繋いだのだと、薫風で確かめる様子が伝わってきます。

「ありしかな」は詠嘆の言い切りです。強く言い切ることで、心の向きが変化します。生きていこうという覚悟が固まります。

この俳句を詠むと、私はAKB48の曲「風は吹いている」(2012年)を思い出しました。

「この変わり果てた 大地の空白に 言葉を失って 立ち尽くしていた 何から先に 手をつければいい・・・
それでも未来へ 風は吹いている 頬に感じる いのちの息吹 それでも私は 強く生きていく・・・」


私は、秋元康さんの歌詞は、いつも的確にテーマを表現していて、聴く人を前向きな気持ちにさせる。私は見事だと思っています。

地震も津波もすべて自然のなせる技です。自然は人びとを痛い目にあわせました。

しかし、震災後でも、薫風を受けることで自然を感じる。

これは、震災後も、人びとの自然への信頼は少しも揺るがないということがわかります。

これが「自然と共に生きる」という、真の意味だと思います。

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それぞれのふるさと

2018年10月24日 17時45分54秒 | 校長からのメッセージ



この頃、古民家に移り住みたいという人がいたり、または移り住んだ人がカフェを開いている様子がテレビにとりあげられたりします。

「田舎暮らしでのんびりしたい」、「田舎暮らしが私に向いている」。

野菜を作って、自給自足の生活に憧れる人がいます。

しかし、田舎に住み続けている私から言わせると、たしかに自然は豊かでいいですが、自然とはそんな甘いものではないのです。


虫はいっぱい出ます。ヘビやマムシが出ます。

農作業をしていたら、蜂に刺されることもあります。

野菜を作るには、充分な肥料を入れないと満足なものはできません。

イノシシやシカが出没して、作物を食い荒らします。

夜にイノシシと遭遇すれぼ、身の危険を感じます。

古民家には、ネズミが住んでいることもあります。

移り住んだ日から、天井裏ではネズミがレースをしているかもしれません。



私は、ブログでよく自然と共に生きる素晴らしさを伝えています。

しかし、それは、生まれて長年住んでいるからこそ、到達する境地です。

田舎生活の苦さを知っているから、自然への愛着が生まれます。

人にとって、自然を楽しむのは、オールタイムではなく、パートタイムでいいと、私は考えます。

大きな店舗があり、日用品は手に入れやすく、インフラが整った都会の生活は、住みやすくていいと思います。

間違っても、今まで都会生活に慣れた人が、「老後は田舎で、ゆったりと過ごしたい」なんて思わない方がいいです。

田舎にゆったりとした生活などありません。

春や夏には、雨の後、草が伸びてきます。夏の炎天下でも、草を刈らないと、土地が荒れます。

「WBTCが28度を超えているから、草刈りはしません」なんて、言えないのです。

庭に植木があれば、葉刈りをしないと伸び放題になります。都会の家の庭と違い、植木の本数がケタ違いに多いです。

秋には、落ちた枯葉を片付けなければならない。

冬には、道路が凍結していないか注意しなければなりません。


優雅な生活など、期待できません。


しかしながら、そのようにして自然と格闘することを続けていると、自分の田舎に愛着が出てくるのです。

そんなときに、「ふるさと」の歌詞に触れると、自分の実感と重なります。

「うさぎ追し かの山 こぶな釣りし かの川

夢は今も 巡りて 忘れがたし ふるさと」


この歌詞を聞くと、私は自分の少年時代を思い出します。

小学生のときには、近くの山でうさぎ狩りの学校行事がありました。

近くの川では、ごはんつぶを餌に釣り糸を垂らすと、川魚がとれました。

この歌詞は、都会にいてふるさとを想うシーンだと思いますが、私にとっては、いまも昔と同じふるさとなのです。

私は、三中の子はいいところに住んでいると思います。

適度に自然が残り、インフラは整備されていて、買い物にも困らないし、阪急電車に近いです。
梅田まですぐ行けます。

そして、それぞれの人にそれぞれのふるさとがあります。

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発達障害は理解のためのツール

2018年10月23日 16時28分21秒 | 校長からのメッセージ




最近、世の中では「発達障害」という言葉がよく使われるようになってきました。

教育関係者の中では、いまから15年ほど前に、子どもの「発達障害」について認識が広まりました。


それに遅れて、職場に人づきあいが苦手な人や単純なミスを繰り返す人を問題にして、最近では「あの人は発達障害じゃないか」という言い方がひとつのブームになっています。

そして、「きっとあの人は発達障害なんだ。だから職場でうまくいかないんだ」と妙に納得してしまう。

コミュニケーションのスキルが低い人を、安易に発達障害とレッテルを貼ることに、私は違和感を感じます。

発達障害を知っているということは、その人への理解を深めるための知識であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

学校の教師も同様です。子どもが検査を受けて、発達障害の診断が出ると、「ああ、それであの子は、学習やクラスの人間関係ででうまくいかないのだ。それで、わかったよ」で「納得」して終わってしまう危惧を抱きます。

そうではなく、「だから、こういう配慮が必要になるね」とか「こうしたら、あの子が困らなくてすむね」、「こうしたら、クラスでの人間関係がうまくいくね」と、子どもを理解するためのツールを得るために診断があるはずです。

職場でつまづく人を、安易に「あの人はきっと発達障害なんだ」と流行語のように使う、いまの風潮に、私は戸惑いを覚えざるをえないのです。

レッテルを貼るだけに使われる「発達障害」という言葉は、当事者を職場から排除する方向に働きます。

それぞれの人に得意なことや苦手なことがあります。私にもあります。私たちは、もっと個人の多様な能力を見るべきなのではないでしょうか。

他者から「コミ障」と言われ、安易に発達障害のレッテルを貼られた人は傷つきます。

「発達障害」はあくまで、その人を理解してつきあうためのツールです。
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ほめ続けると、万能感をもってしまう

2018年10月22日 18時42分01秒 | 校長からのメッセージ




親が子どもをほめて育てることは大切です。

でも、子どもは、自分は万能ではないことにも気づかなければなりません。

思春期になっても、失敗しないよう、親が手をかけすぎ、失敗しても「あなたは悪くないのよ。まわりが悪いんだから」と、子どもをなぐさめ続けたとします。

すると、子どもは、自分の行動のどこが悪かったのか、何が間違っていたのかを、ふりかえり、自己修正する力を身につけることができません。

じつは、中学生が一人になり、自分を見つめ、自己修正する機会をもつことは、とても大切なのです。

さらに、子どもは失敗を誰かのせいにすることがあり、ごくまれにありますが、「そう、お母さんが悪かったのよ」と引き受けてしまうと、子どもは大人になっても、何でも親のせいにし続けます。

中学生は、親の評価のみならず、外界の客観的な評価を受けなければなりません。

親がいくら、「おまえはすごい」と言っても、客観的には「ふつうの子」かもしれません。

その現実を、子ども自身が受け入れ、自分の本当の力を知る必要があります。

小さいときからほめられつづけ、「自分はなんでもできる」という万能感から抜け出せず、自己のイメージを膨らませ続けた子どもは、社会に出たときには、必ずといっていいほど、大きな挫折を味わいます。


だからこそ、子どもは思春期に親に反抗しながら、親のいうことが唯一絶対ではないことを、思い知る必要があります。
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リア充な曲

2018年10月21日 10時20分08秒 | 校長からのメッセージ


松任谷由実の曲に、「海を見ていた午後」があります。

「山手のドルフィンは
静かなレストラン
晴れた午後には
遠く三浦岬見える
ソーダ水の中を
貨物船が通る」

これを聞いて、関東に住んでいない若い人は「山手のドルフィンというレストランに行ったみたい」と思ったのではないでしょうか。

彼女は、作品で、私たちが見たことも、行ったこともない、したこともない経験、景色、感情を味あわせてくれました、

いまの若い子がいう「リア充」的感覚を歌にして伝えてくれます。

加えて、彼女は類まれな作曲力で、透明感を出したり、憂い感、場所自慢は行ってみたくなるようなメロディとリズム感を醸し出しました。

これが、多くの人びとに支持されるきっかかとなったのでないか。

そして、名曲というものは、時代を超えて年齢に関係なく、歌いつがれます。

私は、イーグルスの「Hotel California」やシカゴの「素直になれなくて(Hard to say I'm sorry)」などは、時代を超えた名曲だと思います。

また、中島みゆきの「糸」やAIの「Story」などは、三中生も世代に関係なく、合唱祭などで歌います。

私は、できるだけ、いまの中学生が聞く最新のJポップも聞くようにしています。

いまの中学生の感覚を身につけておくと、三中生との会話に年齢層の段差がなく、話せるからです。


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人が集まる場所

2018年10月20日 14時28分15秒 | 校長からのメッセージ



今日はかやのお宝人権まつりが、らいとぴあ21でありました。

そのお祭りの一角に、バンブーダンス体験コーナーがあり、三中のALTと教員と外国人市民がコーナーを担当しました。

バンブーダンスは、閉じたり、開いたりする長竹2本をまたいで踊る、フィリピンなどに伝わる伝統的なダンスです。

和気あいあいとしたなかで、外国人と地域の人たちが楽しんでいました。

たくさんの市民が集うお祭りで、私は教え子と会い、久しぶりのたくさんの積もる話ができました。

懐かしかったとともに、「人が集まる場」は大切だと感じました。




さて、閑話休題。「人が集まる場」についてのエピソードです。

三中の教室や体育館にいると、北側から阪急電車箕面線を、電車が走る音が聞こえます。

三中校区にお住まいの方なら当たり前のことかもしれません。

でも、私は3年前に三中に着任したときは、その音が新鮮で驚いたのを思い出します。

私は三中の前に、五中、二中、六中と経験しましたが、全8校の市立中学校で、阪急電車が走る音が聞こえるのは三中だけです。

また、私は高校時代から阪急電車箕面線を、通学で利用していました。

みなさまにとっても、なじみ深い阪急電車の話題をお伝えします。



『乗る人がいなくて赤字になるなら、乗る客をつくり出せばよい。

それには沿線に、人の集まる場所をつくればいいのだ。』



こう言って、集客力を説いたのは、阪急電車の創業者である小林一三さんでした。

彼は阪急沿線に人が集まる魅力的な場所を作りました。

それがいまの 阪急宝塚線の原形となっています。

1910年に箕面有馬電気軌道は宝塚本線・箕面線で運行を開始しました。

そして、鉄道沿線に住宅地を開発し、サラリーマン向けに安価な価格で提供しました。

1911年には宝塚新温泉の営業を開始しました。

1913年には宝塚歌唱隊(現在の宝塚歌劇団)を組織するなど、沿線の魅力を高めて鉄道経営や宅地開発との相乗効果を高めました。

その後も、宝塚大劇場の建設、宝塚ホテルの設立などを進めました。

このように、彼は自分の言葉を具現化したのです。

今の宝塚沿線の開発・発展は、小林一三さんの尽力によるところが大きいのです。
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三中あれこれ

2018年10月19日 17時10分13秒 | 校長からのメッセージ





昨日の6限目には、生徒総会と生徒会役員選挙を行いました。

役員選挙は、生徒会長定数1に対して、2年生が1名立候補、副会長定数1に対して、2年生が1名立候補、執行委員定数4に対して、1年生が6名立候補して、8人が立会演説を行いました。

「目安箱」の充実や服装に関する校則の変更、あいさつの溢れる学校、いじめZERO活動をさらに進めるなどの活動を進めていきたいという所信表明をしました。

会長、副会長は定数内なので、全校生徒の拍手で承認されました。

執行委員は、投票を行い、4人が当選しました。

また、引き続き、本日、後期生徒会委員を各学級で決めました。

2018年度後期生徒会も、活発な活動を期待します。





昨日、本日は、お隣の瀬川保育園の子どもたちが、園外散歩で三中の中庭に遊びにきました。

三中の噴水池(「七つ角の井」)の亀に餌をやって楽しんでいました。

小さい子どもたちが無邪気に、三中の広々とした中庭の散歩を楽しんでいるのを見ると、心が和みます。





また、本日6限の参観授業には、平日にもかかわらず、たくさん来てくださり、ありがとうございました。

また、授業参観の感想アンケートにも、忌憚のないご意見をくださり、ご協力ありがとうございます。

学級懇談会にも、けっこうたくさんの保護者のかたの出席がありました。

重ねて、ありがとうございました。
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悩むことで悩みを忘れる

2018年10月18日 13時14分12秒 | 校長からのメッセージ



私は、三中の子に求めることは、「自立のために自分で考え、自分で行動をきめる」ということです。

だから、教職員にはその大切さを説いています。

生徒にも、「中学生は自分を見つめ、自分で考えなさい」と、さまざまな機会で話したり、諭したりする場合がよくあります。

そして、自分を見つめるために孤独になる時間ももたなければなりません。

もちろん、自分で考えるためには、おとなの見守りが必要なのは、当然ですが。

悩み多いのが、思春期の特徴です。

自分に自信がもてなかったり、友だちとの比較で劣等感をもったり、「中学生は悩むのが仕事ですよ」と、親御さんに話したりします。

そのとき、その背景には、「人は悩むことによってのみ、悩みを忘れることができる」という信念があります。

そのようにして、悩みから抜け出した生徒は、もう納得しています。

たしかに、悩む姿を見て、おとなは心配しますが、その心配してくれる人が傍らにいること、またその助けを借り、子どもは自分の気持ちに決着をつけます。

この力には、時として、私たちは感心させられることもあります。

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みんなが求める幸福

2018年10月17日 14時07分27秒 | 校長からのメッセージ






今回とりあげるのは、二日前と三日前に、このブログで触れた「幸福」についてです。


小学校の卒業式に出席すると、多くの場合、卒業証書をもらうとき、子どもたちは自分の夢を宣言します。

たとえば、「私は将来医師になって、病気の人を助けます」とか「私は将来花屋さんになって、美しい花を売ります」などです。

その夢の実現のため、三中生となった今でも努力を続けている人もいるでしょうし、どうせ夢だからと忘れてしまっている人もいるでしょう。


私は思うのですが、将来の夢と人生の目標はちがいます。

将来の夢は人それぞれです。思い思いの職業を描きます。

しかし、人生の目標は、みんなに共通しています。


みんなに共通しているものは、幸福になるという人生の目標です。

幸福になることを求めない人はいません。

お金もちになることが、幸福かといえば、必ずしもそうではないです。

人がうらやむような生活をしていても、その人の心が幸福であるとは限りません。

でも、心が幸福なら、ほかの人から見て不幸に見える生活をしていても、その人は幸福です。

私には、孫がいますが、たまに会う孫と娘と一緒にいる時間や元気に育っていることを思うとき、幸福を感じます。

三中の親御さんなら、お子さんが元気に成長していること、家族が楽しく毎日を送っていることに幸福を感じることでしょう。

幸福な心は、お金で買うことはできません。心が幸福でないままで、外に幸福を求めようとするから、幸福になるのが難しくなっているのです。

自己を認め、他者をうらやましがらず、ものごとを人のせいにしない。

それが幸福な心だと思います。幸福とは、職業や生活の形ではなく、自分の心のありようそのものなのです。
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