箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

油断は禁物 自転車の運転

2018年11月30日 15時58分30秒 | 教育・子育てあれこれ

l

本日、6限に、全校生徒に向け、「自転車安全教室」スケアードストレートを、グランドで行いました。

自転車と自動車を実際にグランドに入れ、衝突シーンなどを実演します。

もちろん、はね飛ばされる人は、専門のスタントマンです。

関東から来てもらいました。

自転車を運転する中学生が安全運転をするための安全確認や内輪差への理解などを、実演をみて学習しました。

私も自転車とぶつかる乗用車に乗せてもらいましたが、迫力がありました。

生徒からは、事故シーンがリアルなので、驚きの声があがりました。


ただ、この恐怖体験は、過去に事故にあったりしている生徒には、その時の記憶がフラッシュバックしてくることがあります。

体育祭の座席の要領で、グランドにレジャーシートをしいて、クラスごとに実演を見ましたが、見たくない生徒は、離れて別の場所にいました。



私からのあいさつを紹介しておきます。


三中スケアードストレート あいさつ
H30(2018).11.30
「敵は自動車ではなく、自分自身」

100人いれば約75台。これが大阪府の自転車台数です。一方、100人いれば約55台が全国です。全国的に見ても大阪では多くの人が自転車を使います。

そして箕面市でも多くの中学生が利用します。そして、自転車が巻き込まれる交通事故が多発しています。

箕面市では2012年の1月より、「自転車安全利用条例」が始まっています。

この条例が生まれるきっかけとなったのは、六中の2年の生徒が自転車に乗っていて、被害になった死亡事故でした。

ある男子生徒が箕面市今宮付近で自転車に乗っていて、自動車とぶつかり即死する事故があったのです。

生きていれば、その子は今年23歳を迎えることになるのです。そのとき、私は六中で教頭をしていました。

当時、どれだけ多くの人が悲しみ、苦しんだか。親御さんはもちろん、教員もその子の友だちも、どれほど動揺したことか。

箕面市では、自転車による事故で、命を落とす人があってはならない。このために、スケアードストレートによる自転車安全教室をするようになりました。

さて、今日は、皆さんにはちょっとした恐怖を感じてもらいます。恐怖を実感することで、自転車の安全運転をするようになることが、今日の授業のねらいです。

そのために、今日は遠く関東のほうから、スタントマンの方が来てくださいました。めったに体験できない授業です。大切な1時間にしてください。

私からお願いしたいことが1つだけあります。皆さんにとっての身の安全を守るときの敵は自動車ではなく、自分自身だと意識しておいてほしいということです。


自分の身を守るためいつも安全を考えながら自転車を運転することが、運転者の責任なのです。

敵は自動車ではなく、自分自身の油断であることを覚えておいてください。

今日のスケアードストレートは皆さんの安全運転の意識と習慣が合わさって、初めて効果が出るのです。

ではみなさん、今日のスケアードストレートを、自分の命と人の命を守るために活用してください。よろしくお願いします。




小学生を少し越えるだけで中学生

2018年11月29日 16時13分15秒 | 教育・子育てあれこれ




今日は2時から、新入生体験入学会でした。

西南小6年生が211人、南小6年生が82人でした。

おもに1年生の代表生徒が、各授業の案内を担当してくれました。

生徒会長の歓迎の言葉のあと、小学生から中学校生活についての質問コーナーがあり、1年生の代表生徒が答えました。




14:35より、前もって選んでいた授業体験です。

9教科の9授業を体験してもらいました。



授業風景 (クリックしたください)

15:20から、部活動の見学でした。6年生が好きなクラブを選んで、少し活動したり、見学しました。

再度、生徒昇降口前に全員がクラスごとに集合して、解散しました。




また、16:00からは、三中校区子ども会議を、生徒会と児童会合同で行いました。







体験入学会での、私からの冒頭のあいさつを紹介します。


<平成30(2018).11.29>  新入生体験入学会あいさつ

「昨日の自分を越えるだけでいい」

6年生のみなさん、今日はようこそ箕面三中へ来てくれました。

こんなお父さんがいました。これは実際にあった話です。

毎日忙しいお父さんに、まとまった10日間の休みがとれました。

お父さんは言いました。

「どこか遊びに連れていったるわ」

小学校5年生と6年生の子どもは、喜んでついてきました。

「どこへ行くの」
「まあ、黙ってついてこい」

自宅の三重県から3人は電車に乗り、名古屋駅に着きました。新幹線に乗りました。

「どこへ行くの」
「黙ってついてこい」

東京に着きました。大都会にビックリしていると、羽田空港でおりました、

飛行機に乗ると、いつのまにか二人は眠ってしまぃした。

目がさめて、またビックリしました。ロサンゼルス空港でした。

そして、3人は夢の国に着きました。

そうです。3人は本場のディズニーランドへ行ったのでした。



お父さんは、2日間遊べるパスポートを買ってくれました。

お父さんは「高かったんや。ぜったいなくすなよ」といいきかせ、2人を自由にしました。

10分後、2人が戻ってきました。「お父ちゃん、パスポートなくした」

お父さんは、「自分らではなんとかせい。あそこにいって説明してこい」とカスタマーセンターに行かせました。

1時間後、2人は大喜びで帰ってきました。

カスタマーセンターで、パスポートをなくしたことを身ぶり手振りで説明していたら、ほかのお客さんまであつまり、大騒ぎになり、人だかりができました。

同情された2人は、パスポートを再発行してもらい、その上、ファーストパスまでもらいました。

ここから、2人は変わりました。度胸がつき、誰にでも積極的に身ぶり手ぶりで話しかけるようになりました。

何よりもアメリカ人が大好きになりました。

2人は言いました。

「今度は友だちと来たい。僕が案内をする。だから英語を勉強するんだ」



みなさん、中学校生活に不安をもっている人もいるかもしれません。

昨日の自分を越えるだけでいいのです。度胸がつきます。


きょうの三中体験入学会で、昨日までの小学生を少し越えればいいのです。

体験入学会で、昨日の自分を少し越えれたと思ってくれることを願っています。

4月からは、中学校生活が待っています。きょうは、楽しんでいってください。


**********************

「できる」の記憶を上書き

2018年11月28日 10時03分58秒 | 教育・子育てあれこれ




本日、期末テストの2日目です。

私たちおとなは、子どもがテストでいい点をとると、いわゆる「勉強ができる子」と考えます。



ところで、中学生には、勉強ができる、スポーツができる、堂々と人前で話せる、社交的である、我慢強い、誰とでと話せる・・・、など自分をはかるいろいろな「基準」があります。

そんなときに、私が生徒を諭す言葉があります。

「ありのままの自分」でいいので、自分をうけとめ、認めることです。

これは、よく言われることですが、中学生にとっては、ありのままの自分をうけとめなさいと言われても、言葉としては入るでしょうが、実感が伴わないのがふつうでしょう。

それは、人生の経験が多くないので、無理もないことかもしれないのです。

ありのままの自分でいいというのは、平たく言うと、自分が弱い人間だと思ってもいいということです。

何かすごいことを成し遂げていなくても、弱いまま進めばいいのです。

弱い自分をオープンにして、飾ったり、無理して周りに合わしたりせず、「弱くて、自信がないけど、これが私です」となれば、「ありのままの自分」を出せます。

すごい人やいい人でなければならないという思い込みは、自分を苦しくします。

なかなか、ポジィティブになれないけど、それを含めて自分。だからこそ、一歩ずつ進んでいく。

これで、いいのだと思います。

私がこういうのも、三中生のなかに、「〜すべき」にとらわれすぎて、クラスや学校の中での自分に行き詰りを感じて悩んでいる生徒がいるからです。

ただ、自信のない人が自信をつけるには、「自分もやればなかなかできるんだ」という自分の可能性を信じることができるようになることです。

好きなことに没頭する、夢中になると、人はふだん以上の力を発揮するものです。

そのような経験を一つでも積むことで、新しい記憶が上書きされます。自分の可能性がわかるようになります。

すぐには難しくても、行ったり来たりしながら、ゆっくりと大人になっていけばいい。

行ったり来たりの経験は、その子にとって、けっして無駄にはなりません。

(写真と本文の内容は、関係ありません。)

クレヨンの1色

2018年11月27日 12時13分22秒 | 教育・子育てあれこれ




早いもので、今日は2学期の期末テスト1日目を迎えました。

この時期、発熱で体調を崩している生徒も少しいますが、どの生徒も真剣に答案に向かっています。

定期考査は、中学生の学習にとっては、やはり大きなものです。

何十年も教職に就いていますが、定期考査の意味は、中学生にとってはやはり大きなものです。

たしかに、定期考査は高校入試への準備という役割もあります。

しかし。一定期間学習に向かってきて、それを復習してテストに臨む。このことで身につく学力は、大人になったときの知識や生活していくための力になります。





さて、3年の美術のテストでは、色鉛筆を持参することになっていました。


色鉛筆もですが、私は小さいとき、親から24色のクレヨンを買ってもらいました。

とても嬉しかったのを覚えています。


私の子どもの頃からある24色のクレヨン。

それを見て、これは赤いから変だとか、これは黄色いから値打ちがない。

クレヨンを見て、こんなふうには、誰も感じないです。

人間も同じです。

この人とはちがう、あの人ともちがう。

その子、その子の特性があります。その特性の強い子もいれば、そうでない子もいます。

「わたし」という色であるからこそ、価値があるのです。

それなのに、「ぼくはスポーツができないからダメなんだ」

「わたしってなにをしてもムダ」

というように、自分の値打ちを抑えこんでしまうと、せっかくのあなたの魅力が見えなくなってしまうよ。

このように、三中の子に伝えたい。


あなたの人格や価値観、考えかたは、この地球(ほし)の上に70億色あるクレヨンの中のたった一色という、かけがえのない存在です。

自分を信じて、本音を表に出してみよう。その感情が、あなたの世界をカタチづくり、その積み重ねが、あなたを幸せに導くんだよ。

このように、三中の子に伝えていきたいです。

学校をよくするには

2018年11月26日 12時03分34秒 | 教育・子育てあれこれ



「学校」や「三中」というと、大きい、漠然としすぎていると感じてしまいます。

自分と直接の関係がないというように、遠い存在に感じてしまいます。

そうではなく、「学校」を自分の家と同じだと感じるとどうでしょうか。

自分のことを気にかけてくれて、安心に生活が送れて、必ず戻ってくることができる場所。

そのような学校にとって、いちばん大切なのは人です。

その人の人柄は、学校の顔になって反映します。

10月31日のブログにあるように・・・
「社会」とは、たんなる人の集まりであり、「社会」なんてどこにも存在していないのです。

同様に、「学校」とは、たんなる人の集まりであり、「学校」なんてどこにも存在していないのです。

あるのは建物だけです。その建物の中には、人間が一人ひとりが存在しているだけです。

もし、学校をよくしたいと本当に願うなら、他人が問題とか、自分以外の人を責める前に、生徒や教職員一人ひとりが、自分自身をよくするべきでしょう。

その「少しでもよくしょう」という意思や意欲をもった人同士の関係が、学校であるのです。

つながりながらも、自分の学びをもつ

2018年11月25日 13時14分12秒 | 教育・子育てあれこれ



私は何度か、生徒に「孤立はよくないが、孤独は大切」と説いています。

それは、中学生は自分を見つめる時間ももたないと、三中の教育目標である「自立に向かい」にくいからです。

一方、誰かと一緒にいるときは、相手へのきくばりや適切な距離感を保つなど、バランスが必要になります。

いくら仲のよい友だちでも、自分は相手ではないことを考え、ほどほどの距離感をわきまえることが大切です。

一人ひとりは、個人としてあるのですから、他者とつながりながらも、個人としての存在を考え、個人としての学びも大切にしてほしいと思います。

いくら仲がよいからといって、いつも一緒とか、相手が自分の思い通りになってほしいと望まないほうがいいでしょう。

そのような人間関係は、相手を束縛しますし、一人になったときの個人のの自由な学びは遠のいてしまいます。

だから、「孤独」になる時間をもつことがいるのです。


一方、「孤立」は他者との人間関係がない状態ですから、自分が困ったときに「助けて」と言えない。

自立とは、自分を見つめ、自分の学びをたよりに、自分でできることは自分でやり、行動に責任をとるが、助けが必要なときには、他者とつながり助けてもらえる人間関係を保っていることです。

だから、「孤立はよくないが、孤独は大切」なのです。

秋の大阪府中学生演劇祭

2018年11月24日 12時38分10秒 | 教育・子育てあれこれ




今日は、大阪府中学生演劇祭でした。

箕面三中演劇部が出場しました。

三中の劇のタイトルは、「君は私達と変わらない」で、クラスの仲間づくりについてのテーマをとりあげました。

台本は、三中2年生の演劇部部員が創ったオリジナルです。



凛という発達障害の子が、自分の特性について、クラスの友だちに打ち明ける。

最初は、その特性に少し戸惑っていたクラスの仲間たちが、それを聞いて「打ち明けてくれてありがとう」と応えます。

「凛は私達の友だちだよ」と誓い、友情を以前にも増して強くするというストーリーです。

部員たちのセリフの言い回しは、ふつうの学校生活で使っている会話の仕方で、たいへん自然な印象を観客に与えました。

また、メッセージ性が強く、学校での仲間づくりの面でも大切なことを伝える劇で、私は台本が秀作であると感じました。

この演劇祭は、当初の予定から日程がずれ込み、期末考査1週間前に入りました。

演劇部の子は、当番生徒以外は、自分たちの出番が済むと、足早に帰宅しました。

「してあげる」に注意

2018年11月23日 16時57分39秒 | 教育・子育てあれこれ




私が、人間関係について、よく気になるのが、「〜してあげる」という言い方や発言です。

「〜してあげる」とか「〜してあげた」と言うとき、その人には相手に対するある意味の「上から目線」が、どことなく感じられます。

また、「相手のためを思って」という考えが入っているように感じられます。

そのとき、相手に対して「したい」と本当は思っていないのかもしれません。

たとえば、教師がAという生徒に「勉強をみてあげる」とか「勉強をみてあげた」と言いました。

勉強をみてやったという、上から目線を感じたり、本当はみたくないが、「教師だからみなければならない」と、自分に課して、我慢してみて勉強をみているのかもしれない。

私は、このように考えてしまいます。

しかも、その場合、相手のほうは、本当は勉強をみてくれることを迷惑がっていることがあります。

でも、まあ先生だから、我慢して「勉強されてやっている」のかもしれないのです。

つまり、「してやっている」教師も「されてやっている生徒も、両方が我慢しているのです。

これでは、その先生の生徒の人間関係が、うまくいきにくいと思います。

じつは、このようにして、教師と生徒の関係がしっくりいかない場合もあるようです。

この例は、親子関係にもあてはまります。

ときどき、わが子に「してあげる」や「してあげた」という言葉を使われる親御さんがいます。

その親は、本音では我慢しているかもしれません。

同様に、子どもも、我慢しているのかもしれません。

その我慢が、ときとして、親子の言い争いに発展することがあるのです。

どちらもが、「こんなに我慢しているのに」という思いが強く出て、親子関係がしっくりといきません。

でも、我慢すると、そこに不満が生まれるのが常です。

教師が心から「勉強をみたい」という能動性で行動するときには、勉強をみる動機は「自らの欲求」になっているので、「ああ、あの子の勉強をみれてよかった」という満足な気持ちになります。

「したくないが、教師だから、生徒のためにしなければならない」、「してやった」という意識は不満を生みます。

その不満により、相手に感情をぶつけたくなってしまうのです。

総合的にみれば、「〜してあげる」教師と生徒が、また、親と子が我慢しあっているという点で、依存しあっているといえます。

教師と生徒、親と子はたがいに自立しあった関係であるべきです。

三中が、教育目標に掲げている「自立」にはこのような捉え方もあるのです。


久しぶりの全校朝礼

2018年11月22日 10時57分01秒 | 教育・子育てあれこれ





本日は、久しぶりの朝礼がありました。

私からの講話は、10月11日のブログに書いている「好かれようと思うな、好きになれ」でした。

10月に話したいと思っていた話でしたが、朝礼が流れたので、11月の朝礼で話しました。

実際、生徒たちは、友だち間で気を配りながら学校生活を送っています。

今日の話が、少しでも楽に、心地よく生活をする一助になればと願い、話しました。


その後は、表彰伝達で、箕面市青少年弁論大会での受賞の表彰、「ありがとうを伝えたい人へ」の作文表彰(2年生2名)、サッカーに関する市長表彰、部活の大会での受賞生徒への表彰をしました。

たいへん多い賞状の枚数で、かなり時間をとりましたが、全校生徒の前での表彰は、授与される人にとっては、大切な機会でした。





次に、夏休みに書いた平和作文の朗読を行いました。

作文朗読の冒頭には、人権教育担当の永田から、次のようなメッセージを全校生徒に伝えました。

「私は、夏休みに入ってから、広島県呉市へ災害ボランティアとして行きました。

中学生にも会いましたが、災害の復旧のため、部活もできないとのことでした。土砂をのけるために、奮闘していますが、のけてものけても、なかなか進まない。

呉の人たちは、今を生きるために土砂と闘っていました。

『何をさせてもらうことができますか?』と問うと、『直接の支援でなくても、呉のことを想ってくれるだけでいい』と聞きました。

三中のみなさん、みなさんの日常という『あたりまえ』は、奇跡の上に成り立っているということを考えてほしいのです。」


1年、2年、3年の代表生徒が、それぞれ1名ずつ全校生徒に朗読しました。

平和について、考えていることが、しっかりと伝わってきました。

戦後70年以上が過ぎ、戦争体験が風化していく傾向がある中、戦争体験のない中学生が学習したことをこのように文章にまとめていくことが、いかに大切かと思います。

勇気を奮って、練習もして、自分の考えや想いを発表してくれた代表生徒のみなさんに、私から感謝の意を伝えます。 ありがとう。


自己責任とは

2018年11月21日 10時16分52秒 | 教育・子育てあれこれ



紛争地を取材するために入ったジャーナリストが捕らえられ、解放されたときわが国では「自己責任」で行ったのだから、捕まえられても仕方がない。

くわえて、周りに迷惑をかけたのだから、謝るべきだという批判が、ネット上でそのジャーナリストに向けられました。

私は、この批判が適切かどうかについてコメントをする立場ではないので、差し控えます。

しかし、その「自己責任」について考えていることがあります。

それは、わが国では、自己責任という言葉が、本来の意味とは違う意味で、現在使われていることです。

1990年代に、わが国で「自己責任」が言われ出したころは、「自己責任・自己決定」と、二つの概念が並んで使われていました。

自分の行動を人まかせにせず、自分で責任をもち、主体的に意欲的に日々の生活を送り、自分の人生や生き方を自ら決定していく大人にしていきたい。同時に、他者とつながり、協力しながら生きていくという教育的な意味をもつ言葉でした。

私は英語科の教員であり、英語での自己責任については、次のように理解しています。

Self-responsibilityとは、たとえば・・・

「山に今日登ってもいいですが、途中で暴風雨になると聞いていますよ。事故が起こりやすくなることは分かっているよね?それでも登山を楽しみたいなら、行くのは自由だよ。」です。

つまり、この場合、行くなとは言っていないのです。行く人の自由も認めているのです。

これが、本来の自己責任の意味です。

しかし、わが国で現在使われている「自己責任」は、行ってはいけないと言っているのに、それをきかずに行ったのだから、自分で責任をとれ、自業自得だという、誤った解釈になるのです。

また、「あなたの貧困や生活苦は、あなたの努力が足りなかったたからだ」ときめつけるのも、誤った自己責任論に基づいています。

本人の力だけではどうしようもないことを、本人の責任だと責める今の風潮に、私は違和感と戸惑いを覚えます。

たとえば、貧困で学費がなく、大学進学をあきらめるのは、本人の責任ではなく、社会のしくみの問題です。

それは、個人の責任にかえしてはならない問題です。


今の日本社会は、みんな余裕がなく、閉塞感も漂っています。何か息苦しさを感じながら生活しています。

失敗すれば、お前自身のせいだから、仕方がない。

今の時代は、「自立」として、誰にも頼らない孤立を子どもや大人に強いることになってはいないでしょうか。

私が三中の子どもたちに伝えたい「自立」は、

学校教育目標にあるように、

自分でできることは自分の力と責任でやりましょう。でも、人にはできないこともあります。そんなときには、「助けて」と言える豊かな人間関係を広げようね、ということです。

三中の子には、つまずいたり、失敗した人に自業自得だとは言って排除しない、そのつまずきや失敗の後ろにある社会の問題を見つけ、他者とつながり、助け合って生きていく人になってほしいと、強く願います。

みんな大阪人になる

2018年11月20日 13時12分06秒 | 教育・子育てあれこれ





先日、京都市を訪れました。

いつものように、マクドの表示は黄色のMのバックは赤色ではなく、こげ茶色でした。

ユニクロの文字は、白い字に赤色のバックではなく、赤色の文字にバックは白色でした。

紅葉の木々は、古都の雰囲気を醸し出し、歴史ある街を染め出していました。

さすがに、景観を重んじる京都でした。



それと比較して、大阪の街はどうか。

通天閣の日立のネオン、道頓堀のかに道楽の巨大なカニ、あまりにも大きいグリコのネオン。



みなさんは、どちらに落ち着きを感じるでしょうか。

私は、事あるごとに、自然の大切さを説いています。

ですから、自然あふれる古都の京都に親しみを覚えるように見えるかもしれませんが、じつは大阪です。

京都には、屋外広告などには強烈な規制をかける景観条例がありますが、大阪にはありません。

しかし、京都にはなくて、大阪にあるのは「雑多」です。

派手な看板などは、最初はひく人が多いかもしれませんが、何度かその中に身を置くと、妙に落ち着いてきます。

そして、いつのまにか人が変わったように、街に愛着を覚えるようになります。

それからは、テレビで俳優が変わったイントネーションの大阪弁を言っていると、「それ、ちがうやろ!」「こう言うんや。・・・」とテレビに向かって言うのです。

その意味で、大阪人というものは、最初はいないのかもしれません。

大阪に住むと、みんなが「大阪人になる」のです。

事実、うちの妻は四国からきましたが、いまは大阪をこよなく愛する「大阪人」です。

私は、三中の子から、大阪弁を聞くと、何かしら落ち着いて、ホッとするのです。

本気に触れる

2018年11月19日 10時31分54秒 | 教育・子育てあれこれ




あるとき、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが、大学で講義をしました。

その講義は、「演技とは想念を集めて、蒸留したものを肉体で、増幅させて観客に届けるものである」という内容でした。

聞き手にとっては、何か意味深遠で、理解するのが難しい話だったと思われます。

聞き終わって 、ある学生が手をあげて質問しました。

周りも、きっとかなり高尚な質問なんだろうと思います。

しかし、質問はこんなものでした。

「わたしは夜中に突然叫び出したくなります。玉三郎さんはどう思われますか」

なんか、場違いのような、そぐわない質問でしたが、玉三郎さんは次のように答えまた。

「叫び出したくなる気持ちは、悪いことではないです。それは、何かを生み出す力になります。
その気持ちをノートに書き記しておくといいでしょう。自分が叫びたくなる理由を書いてみると、創造的な活動になるでしょう」

学生の場にそぐわないような質問に、即座に答えた玉三郎さんは真摯に答えてくれました。

講義のあとて、玉三郎さんは「あの質問は面白かった」と言ったそうです。

一方、学生は、「ふだんからずっと考えていたのて、素直にぶつけてみようと思いました」とのことでした。

学生の本気の質問だったので、玉三郎さんの「本気」に触れたのかもしれません。

人の本気は、その気合いとか熱心さがほかの人びとにも通じるのだと思います。

教師が生徒に話すとき、親が子どもに話すとき、ときとして本気で話す場合もあるでしょう。

本気で話す言葉は、生徒・子どもに通じるのだと
、私は思います。

「そやけど」の応酬

2018年11月18日 12時06分18秒 | 教育・子育てあれこれ



対話においては、自分と相手がいます。

「〜してほしい」という相手への要求が中心になった会話は、「そうか」「そうなの」「そうやね」というような相手の気持ちを汲んで理解をする言葉が出てきません。




たとえば、
子どもが、「あしたは、どこかへ行こうよ」と言いました。

母親が「でも、明日は午後から雨が降ると、天気予報で言ってたよ」という会話をしてこなかったでしょうか。

つまり、「でも」が口ぐせになっていないかということです。

親子で公園にいて、子どもが「まだブランコに乗りたい」と言っても、「でも、もう家に帰る時間だから、ダメよ」。

子どもがまだ小さいときには、黙ってきいていました。

子どもは納得していたのではないのですが、親は「わが子はわかったくれている」と思いこんでいました。

もし、この「でも」(=「そやけど」)を、自分の言いたいことだけを言うために使われていたなら、そうやって10年以上も使ってきたのなら、中学生になった子どもに対しても、「でも」というのが習慣になっています。

そして、子どもの思春期になると、今まで抵抗しなかった子が、イラ–ときます。

なんで、うちの親はいつも「でも」で、私の言うことを否定するの! いつも、そうなんだから!

一方、子どもの方も、口がたつようになり、「でも」で応酬するようになります。

「でも、そう言うお母さんだって、・・・」。


このようにして、お互いが自分の言うことをわかってほしいとなり、言い争いが激しくなります。

以上のような家庭もあるかもしれません。


親は親、子どもは子ども、というように、お互いが「相手の自由」を認めることで、何かあったときには、相談しあえる親子関係を築いていきたいところです。

(写真と本文の内容は、関係ありません。)


ムダを味方につける

2018年11月17日 13時31分25秒 | 教育・子育てあれこれ



イヤなことを我慢して続けるのはムダであり、好きなことに集中してとりくむべきである。

このような考え方も一つです。

しかし、イヤなことやムダと思えることを、いつかどこかでつながっていくと考え、自分の栄養にしていくのも賢明な生き方ではないでしょうか。


イヤなこと、苦手なことを我慢して続けるのは、精神的にもよくないし、その人の人生にとって得ることが少ない時間と考えがちです。

でも、私が経験を通して考えるところでは、若いうちはムダが栄養になります。イヤなことから逃げずに続けることが、挫折を乗り越える力になります。

イヤなことから逃げれば、その人は将来も生き方も、イヤなことからつねに逃げるようになります。

この世の中、イヤなことから逃げる人がいます。もっともらしい理由をつけて。

社会全体が効率を重視しがちで、学校でも教員の働き方改革が進められています。

しかし、こと教職に関しては、目には見えにくい救育活動の特質がもっと社会から理解された上で、働き方改革を進めていくべきでしょう。

概して、三中の子は我慢強い子が多いと、私自身は感じていますが、若いうちはムダと思えることでも、それが自分の栄養になると思い、味方につけ取り組んでほしいと思います。

三中に秋田の中学生が来た

2018年11月16日 15時59分19秒 | 教育・子育てあれこれ






今日は、昨晩大阪に宿泊した由利本荘市の中学生10名が三中にやってきました。



全員が中学2年生で、由利本荘市の各中学校の代表生徒で、箕面市訪問団をつくり、引率教員1名と由利本荘市教育委員会から1名の引率者に付き添われ来てくれました。




9時に三中に到着しました。箕面市の教育長のあいさつ、私の歓迎の言葉のあと、校内見学を済ませました。



2限は、3年C組の音楽の授業に10名全員が入り、三中の生徒といっしょに合唱をしました。

「HEIWAの鐘」と「あの空」を秋田の子と三中生が歌い、素晴らしいハーモニーを聞かせて聞かせてくれました。




3限は、2年生5クラスの授業に2名ずつ分かれて、授業を受けました。



4限は、3年A組の英語コミュニケーションの授業に10名全員が入り、英語活動をしました。



給食は、三中2年生の5クラスに、2名ずつ入り「給食交流」をしました。



給食後の昼休みには、生徒会役員の生徒との交流会で、いじめについていっしょに考えました。

5限には、ふたたび2年生の授業に入り、授業を受けました。




三中の子は、歓迎のカードを準備してくれていたりして、フランクに話しかけてくれました。

なかには、三中の子は大阪の子です。会話の流れがはやく、ポンポンと言葉があちらこちらから出てきて、ツッコミも入るので、とまどった秋田の子もいたようです。


その後、お別れのあいさつをして、伊丹空港に向かいました。

私は伊丹空港で、お別れをしました。