私がまだ子どもだった頃、両親が突然いなくなってしまったらどうしよう・・・と考えることがよくあった。
そして、それを考えていると不安でいっぱいになり、どうしようもない怖さを感じたものだった。
特に母に対しては「どうして私を置いていったの?」という恨みの感情が湧き上がって来ることがあり、それとは逆にどうしようもなく母が恋しいという気持ちも強く感じることがあった。
子供の頃はもちろんのこと、成長してからも、なぜそのような感情が湧きあがってくるのか分からなかった。
現実生活では両親が自分を置いていなくなるかもしれないという状況では決してなく、わりと恵まれた家庭環境で育ったはずだったから。
ところが、数年前になぜか同じ映像を繰り返し見るようになり、そこからどうしてそのような感情が出てくるのか理由が分かったような気がした。
それは、過去世で自分が抱いていた感情だった。
過去世では、親が何らかの理由で私を育てることができず、修道院がやっていた孤児院に預けられ、そこで育てられた。
まったくこんな事を書くと、妄想で頭がおかしいのではないかと思われるかもしれないが、それでもいいと思って書くが・・・
とにかく、その時の感情が未だに昇華されず、今世に持ち越してきてしまったのだろう。
それが分かってから、母への憎しみや親がいなくなるかもしれないという不安や恐怖は、きれいさっぱり消えてしまった。
ただ時の経過と共に、母親が病気で亡くなり、また父も老齢で残された時間はもうそれほど長くはないかもしれないという、子供の頃に恐怖を覚えていた「両親がいなくなる」ということが現実になってきている。
しかし、今はもう子供の頃のように「親がいなくなったら・・・」という不安や恐怖心はない。
残された父親には、自分ができることは何でもやってあげたいという気持ちになっている。
時々、父の行動や言動にカチンと来ることもあるが、やはり父に対する愛には変わりがない。
年老いて認知症の父の介護や障害を持った長女の子育てなど、傍から見ると、とても不幸で大変そうに思われるかもしれないが、それは全く違う。
そのような経験をさせてくれる彼らを通して、私は多くのことを学ばせて頂いていると思う。
だから、彼らには感謝している。
私の学びに協力してくれてありがとう。
52年間生きてきて、それなりに難問にも直面してきて、そして今、はっきりと分かったことがある。
人が何度も何度も生まれ変わってくる理由のひとつは、愛や慈悲の心を、他人はもちろん、地球上のあらゆる動植物にも、かけることができるようになることだったのだ。
どんなひどい仕打ちをされた相手にも慈悲の心を持てるのか、また、どうしようもなく手がかかる相手にも愛を持ち続けることができるのか、試されているのだ・・・いや、正確に言うと、自分で試しているのだ。
その課題がひとつクリアできた時、心の中には言いようのない喜びが満ち溢れ、そしてとても安らかな気持ちになる。
まだまだ全てをクリアすることは難しいが、一つずつ歩みはゆっくりでも自分の課題をクリアしていきたいと、今とても強く思っている。
ところで、テレビを観ていたら、昔ヒット曲を出して、その後結婚して芸能界を去った元歌手の女性が出演していた。
彼女は結婚後、子どもを授かるが、生まれてきた子はダウン症だったそうだ。
ただせさえ初めての子育ては大変だと言うのに、ダウン症を持った子どもの世話は、本当に大変な苦労があったそうだ。
また、わが子に障害があったということは、精神的にも非常につらかった。
そんなことで、夫との仲がぎくしゃくし始め、ついに夫は家を出て行ってしまう。
夫がいなくなり、彼女はダウン症の息子さんを女手ひとつで必死に育てられたそうだ。
経済的に困窮し、歌手時代の持ち物を売り払い、それでも足りなくなって親戚や知人に頭を下げて借金をしたそうだ。
そして現在、数々の難問を乗り越えて、成長した息子さんと二人で力を合わせて暮らしている彼女の顔からは、愛と慈悲が滲み出ているように思った。
「人生に保障はない。誰も難問に直面する。直面することによって学ぶことができるのだ。
生まれた瞬間から難問に直面する人たちは一番大きなケアと慈しみを必要としているが、命の唯一の目的が愛であることを思い出させてくれるのも、その人たちなのだ」
これは、米国の精神病医キュプラー・ロス女史の言葉だが、「生まれた瞬間から難問に直面する人たち」・・・つまりダウン症を持って生まれてきた息子さんのような人たちが、周囲の人々・・・特に両親に愛を出すことを思い出させてくれるというのはよく分かる。
だから、価値のない人はいない。
犯罪者も自分自身を嫌っている人も、命あるものはすべてに価値があり、その与えられた価値(命)を、どう生かすかが個人個人に与えられている選択の自由なのだと思う。
そして、それを考えていると不安でいっぱいになり、どうしようもない怖さを感じたものだった。
特に母に対しては「どうして私を置いていったの?」という恨みの感情が湧き上がって来ることがあり、それとは逆にどうしようもなく母が恋しいという気持ちも強く感じることがあった。
子供の頃はもちろんのこと、成長してからも、なぜそのような感情が湧きあがってくるのか分からなかった。
現実生活では両親が自分を置いていなくなるかもしれないという状況では決してなく、わりと恵まれた家庭環境で育ったはずだったから。
ところが、数年前になぜか同じ映像を繰り返し見るようになり、そこからどうしてそのような感情が出てくるのか理由が分かったような気がした。
それは、過去世で自分が抱いていた感情だった。
過去世では、親が何らかの理由で私を育てることができず、修道院がやっていた孤児院に預けられ、そこで育てられた。
まったくこんな事を書くと、妄想で頭がおかしいのではないかと思われるかもしれないが、それでもいいと思って書くが・・・
とにかく、その時の感情が未だに昇華されず、今世に持ち越してきてしまったのだろう。
それが分かってから、母への憎しみや親がいなくなるかもしれないという不安や恐怖は、きれいさっぱり消えてしまった。
ただ時の経過と共に、母親が病気で亡くなり、また父も老齢で残された時間はもうそれほど長くはないかもしれないという、子供の頃に恐怖を覚えていた「両親がいなくなる」ということが現実になってきている。
しかし、今はもう子供の頃のように「親がいなくなったら・・・」という不安や恐怖心はない。
残された父親には、自分ができることは何でもやってあげたいという気持ちになっている。
時々、父の行動や言動にカチンと来ることもあるが、やはり父に対する愛には変わりがない。
年老いて認知症の父の介護や障害を持った長女の子育てなど、傍から見ると、とても不幸で大変そうに思われるかもしれないが、それは全く違う。
そのような経験をさせてくれる彼らを通して、私は多くのことを学ばせて頂いていると思う。
だから、彼らには感謝している。
私の学びに協力してくれてありがとう。
52年間生きてきて、それなりに難問にも直面してきて、そして今、はっきりと分かったことがある。
人が何度も何度も生まれ変わってくる理由のひとつは、愛や慈悲の心を、他人はもちろん、地球上のあらゆる動植物にも、かけることができるようになることだったのだ。
どんなひどい仕打ちをされた相手にも慈悲の心を持てるのか、また、どうしようもなく手がかかる相手にも愛を持ち続けることができるのか、試されているのだ・・・いや、正確に言うと、自分で試しているのだ。
その課題がひとつクリアできた時、心の中には言いようのない喜びが満ち溢れ、そしてとても安らかな気持ちになる。
まだまだ全てをクリアすることは難しいが、一つずつ歩みはゆっくりでも自分の課題をクリアしていきたいと、今とても強く思っている。
ところで、テレビを観ていたら、昔ヒット曲を出して、その後結婚して芸能界を去った元歌手の女性が出演していた。
彼女は結婚後、子どもを授かるが、生まれてきた子はダウン症だったそうだ。
ただせさえ初めての子育ては大変だと言うのに、ダウン症を持った子どもの世話は、本当に大変な苦労があったそうだ。
また、わが子に障害があったということは、精神的にも非常につらかった。
そんなことで、夫との仲がぎくしゃくし始め、ついに夫は家を出て行ってしまう。
夫がいなくなり、彼女はダウン症の息子さんを女手ひとつで必死に育てられたそうだ。
経済的に困窮し、歌手時代の持ち物を売り払い、それでも足りなくなって親戚や知人に頭を下げて借金をしたそうだ。
そして現在、数々の難問を乗り越えて、成長した息子さんと二人で力を合わせて暮らしている彼女の顔からは、愛と慈悲が滲み出ているように思った。
「人生に保障はない。誰も難問に直面する。直面することによって学ぶことができるのだ。
生まれた瞬間から難問に直面する人たちは一番大きなケアと慈しみを必要としているが、命の唯一の目的が愛であることを思い出させてくれるのも、その人たちなのだ」
これは、米国の精神病医キュプラー・ロス女史の言葉だが、「生まれた瞬間から難問に直面する人たち」・・・つまりダウン症を持って生まれてきた息子さんのような人たちが、周囲の人々・・・特に両親に愛を出すことを思い出させてくれるというのはよく分かる。
だから、価値のない人はいない。
犯罪者も自分自身を嫌っている人も、命あるものはすべてに価値があり、その与えられた価値(命)を、どう生かすかが個人個人に与えられている選択の自由なのだと思う。