TVで映画の紹介がされていた。
アニメーション「インサイド・ヘッド」
物語は11歳の少女ライリーの頭の中からヨロコビとカナシミが放り出されてしまうというもの。
感情のバランスを失ったライリーは、どんどん不幸せになっていく。
感情たちはライリーを幸せに戻すために大奮闘・・・という物語だそうだ。
私はまだこの映画を観てはいないが、まさに、このところずっと私が考えてきた「感情」の物語というので、このアニメを知った時にとても興味を持った。
ところで、私がなぜ「感情」について考え続けていたのかというと、日々の暮らしの中で次々と変わっていく自分の感情を、第三者のように客観的な目で見ることが多くなってきたからかもしれない。
今とても喜んでいる自分、幸せな気持ちになっている自分、悲しい気持ちになってる自分、怒っている自分・・・などなど、次々と変わっていく自分の感情をすこし持て余していたというのもある。
喜んでいる時やハッピーな感情の時はよいのだけれど、問題は悲しみや怒り、そしてまれにある恐怖の感情が現れる時だ。
それが大きければ大きいほど自分の中のバランスが崩れていき、ともすればその怒りや悲しみ、恐怖を他人のせいにしてしまいそうになる。
本当はそれは他人のせいではなくて、自分自身の問題なのだと分かっているのに・・・
もちろん、すべてが自分自身の問題ではないが、大体ほとんどは自分自身の問題であると思う。
湧き上がる感情は誰のものでもなく自分自身のものであり、単に起こっている出来事には悲しみも恐怖も怒りもない。
それをどう捉えるのかは、それぞれ個人によって違うだけだということが、やっと腑に落ちた。
ある出来事が起こった時、それに対して私が悲しみや怒り、恐怖を覚えても、他の人は何も感じないかもしれない。
それどころか同じ出来事を見て、私とは真逆に歓喜や高揚感を覚える人がいるかもしれない。
物事の捉え方の違いは個人の性格なのか、育ってきた環境(親や出会った教師など)の違いなのか・・・
きっと、その両方なのだろう。
とにかく、私は自分の中に時たま湧き上がる悲しみ、怒り、恐怖の感情を持て余していた。
だから、なるべくそのような感情が湧きあがると予測される出来事から目をそらすようにしていた。
だけど日常生活の中には、避けられない出来事ってたくさんあるのよね。
人間関係、経済問題、子供の問題、健康問題などなど・・・日常生活には色々な出来事が起きる。
生きているということは、そのすべてが修行なのだと思う。
わざわざ山にこもって滝に打たれなくても、どこに行かなくても、今ここでの日常生活の毎日が修行に満ちている。
そして、それらの出来事を自分自身の心のバランスを崩さずに、最善の努力をした上で、やり過ごすことができたら、人はまたひとつ成長できるのだろうと思う。
物事は中立、それは自分の解釈によって変わる。
ある出来事を嫌なことだと思うか、自分を成長させてくれる有り難いことだと思うのかで、その後に起こる事は(本当は自分が起こすのだが)、状況が変わってくると思う。
そうは言っても、もしもまた自分が避けたい感情が沸き起こってしまったら、とりあえず深呼吸をして、感謝の言葉を思い出している。
アニメーション「インサイド・ヘッド」
物語は11歳の少女ライリーの頭の中からヨロコビとカナシミが放り出されてしまうというもの。
感情のバランスを失ったライリーは、どんどん不幸せになっていく。
感情たちはライリーを幸せに戻すために大奮闘・・・という物語だそうだ。
私はまだこの映画を観てはいないが、まさに、このところずっと私が考えてきた「感情」の物語というので、このアニメを知った時にとても興味を持った。
ところで、私がなぜ「感情」について考え続けていたのかというと、日々の暮らしの中で次々と変わっていく自分の感情を、第三者のように客観的な目で見ることが多くなってきたからかもしれない。
今とても喜んでいる自分、幸せな気持ちになっている自分、悲しい気持ちになってる自分、怒っている自分・・・などなど、次々と変わっていく自分の感情をすこし持て余していたというのもある。
喜んでいる時やハッピーな感情の時はよいのだけれど、問題は悲しみや怒り、そしてまれにある恐怖の感情が現れる時だ。
それが大きければ大きいほど自分の中のバランスが崩れていき、ともすればその怒りや悲しみ、恐怖を他人のせいにしてしまいそうになる。
本当はそれは他人のせいではなくて、自分自身の問題なのだと分かっているのに・・・
もちろん、すべてが自分自身の問題ではないが、大体ほとんどは自分自身の問題であると思う。
湧き上がる感情は誰のものでもなく自分自身のものであり、単に起こっている出来事には悲しみも恐怖も怒りもない。
それをどう捉えるのかは、それぞれ個人によって違うだけだということが、やっと腑に落ちた。
ある出来事が起こった時、それに対して私が悲しみや怒り、恐怖を覚えても、他の人は何も感じないかもしれない。
それどころか同じ出来事を見て、私とは真逆に歓喜や高揚感を覚える人がいるかもしれない。
物事の捉え方の違いは個人の性格なのか、育ってきた環境(親や出会った教師など)の違いなのか・・・
きっと、その両方なのだろう。
とにかく、私は自分の中に時たま湧き上がる悲しみ、怒り、恐怖の感情を持て余していた。
だから、なるべくそのような感情が湧きあがると予測される出来事から目をそらすようにしていた。
だけど日常生活の中には、避けられない出来事ってたくさんあるのよね。
人間関係、経済問題、子供の問題、健康問題などなど・・・日常生活には色々な出来事が起きる。
生きているということは、そのすべてが修行なのだと思う。
わざわざ山にこもって滝に打たれなくても、どこに行かなくても、今ここでの日常生活の毎日が修行に満ちている。
そして、それらの出来事を自分自身の心のバランスを崩さずに、最善の努力をした上で、やり過ごすことができたら、人はまたひとつ成長できるのだろうと思う。
物事は中立、それは自分の解釈によって変わる。
ある出来事を嫌なことだと思うか、自分を成長させてくれる有り難いことだと思うのかで、その後に起こる事は(本当は自分が起こすのだが)、状況が変わってくると思う。
そうは言っても、もしもまた自分が避けたい感情が沸き起こってしまったら、とりあえず深呼吸をして、感謝の言葉を思い出している。