このブログは政治・経済全般をテーマとしています。司法制度改革、司法修習生に対する給費制の是非は、政治テーマのひとつ、という位置づけです。したがって司法修習生に対する給費制の是非(または貸与制の是非)ばかりを取り上げたくはないのですが、
この際、給費制維持の根拠として主張されているもの(このブログのコメント欄等に出てきたもの)について、私の意見を簡潔にまとめておきます。
なお、私は給費制に反対しています。私がなぜ給費制に反対しているのかについては、「私が司法修習生の給費制に反対する理由」をお読みください。
一、お金持ちしか法律家になれなくなる
これは給費制維持の根拠にならないと思います。お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。
そもそも、「お金持ちでなくとも法律家になれる」ルートが制度的に用意されています。したがって、「お金持ちしか法律家になれなくなる」というわけではありません。
日弁連には国民全体でみてどうか、制度全体のバランスからみてどうか、という観点から主張していただきたいと思います。法律家(全体)の利益「のみ」を重視しているかのような主張は、いただけません。また、「お金持ちでなくとも法律家になれる」方法があることを(おそらく意図的に)言わず、「お金持ちしか法律家になれなくなる」などと主張するのも、どうかと思います。
二、司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか
これは、いままで支給されていた給費(つまり給与)が廃止されると、司法修習生は暮らしていけなくなる。したがって司法修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
これも給費制維持の根拠にならないと思います。給費制を廃止する場合、相当額が「無利子」貸与されることになっており、司法修習生が暮らしていけなくなる、などといったことはありません。
三、司法修習生には、労働者としての側面もある
これは司法修習生は「補助的な業務」を行っている、したがって修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
この主張をなさった方によれば、「補助的な業務」といえるのは司法修習のうち「検察修習の2か月間のみ」だとのことです。つまり司法修習の「ごく一部」については、「補助的な業務」であるといえるから「修習生には給与を支給すべきだ」という主張です。
しかし、このような主張は「おかしい」と思います。全体の「ごく一部」が「補助的な業務」であるので、司法修習の「全期間」について給与を支給しろ、といった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。
四、研修医とのバランスがとれない
これは研修医と同様、司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
研修医は医師資格をもった医師であるのに対し、司法修習生は法曹資格をもった法律専門家ではありません。医師資格をもっている研修医と、法曹資格をもっていない司法修習生とを比較し、両者を同様に扱わなければバランスがとれない、などといった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。司法修習生の修習は、研修医の研修ではなく、(医師資格をもたない)医学部学生の臨床実習に相当する、と考えるのが自然です。
したがって、これも司法修習生に給費(給与)を支給する根拠になりません。
五、司法修習は民間企業のOJTに相当する
これは司法修習生が一人前ではないことを認めたうえで、民間企業においては一人前でなくともOJTの際には給与が支給されているではないか。したがって司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
この主張に対しては、司法修習生の圧倒的大多数は弁護士になるにもかかわらず、なぜ、「国が」司法修習生に給与を支給すべきなのかという疑問が生じます。
この主張の趣旨に即して(私なりに)考えれば、「裁判官または検察官になる修習生」と「弁護士になる修習生」の割合に応じ、前者については「国が」、後者については「弁護士会が」給与を支給すべきである、ということになると思います。
このような「国」と「弁護士会」との給与分担制であれば、私は問題なく認められると思います。
六、司法修習生は「拘束」されている
この主張は、「国が」司法修習生を「拘束」している以上、「国が」司法修習生に給費を支給すべきである、というものです。なお、この主張をされた方(おそらく司法修習生)によれば、「拘束」とは「指揮・命令・監督配下にある」ことを指す、とのことです。
たしかに、修習にはそのような側面があることは否定しえないとは思いますが、これは「法曹資格をもたない」司法修習生が「現場」で修習するうえでの「当然の制約」だと思います。このような「当然の制約」をもって、制約の対価として給与を支給しろ、自由侵害の代償として対価を給付しろ、といった主張をすることは「おかしい」と思います。
つまりこれも、司法修習生に対する給与支給の根拠にはならない、と私は思います。そもそも、「そんなに司法修習が嫌なのであれば、司法修習生は給与の支給ではなく、司法修習の廃止を主張すべき」だと思います。
さて、上記のような「根拠にならない」または「根拠として弱い」理由をもって、司法修習生には給与を支給すべきだ、と主張されていることそれ自体が、給与の支給は「おかしい」のではないか、という印象を与えます。つまり、修習生に対する給与支給には「もともと合理的な根拠がない」ので、利害関係をもつ人々が「無理して根拠をさがしだそうとしている」といった感じがします。
もしも、利害関係をもつ人々が「もともと合理的な根拠がない」にもかかわらず、利権(?)維持のために根拠をさがしだそうとしているのであれば、やめたほうがよいでしょう。また、そうではなく、(給費制維持を主張する人々が)本当に給与支給には「合理的な根拠がある」と考えているのであれば、上記に記載したような、「おかしな」根拠は主張しないほうがよい、と思います。「もともと合理的な根拠がない」ので、「無理して根拠をさがしだそうとしている」のではないか、といった疑いをまねくからです。
なお、これまで(私なりに)検討してきた上記「給費制維持の根拠」とはやや異なった主張も、当ブログのコメント欄でなされました。
以下では、その主張を(私なりに)要約しつつ紹介し、その是非を考えたいと思います。
七、総合得点方式で考えるべきである
この主張の要点は、上記「給費制維持の根拠」はすべて、「単独では給費制維持の根拠にならない」ことを認めつつも、「それらを合計すれば根拠になる」というものです。
わかりやすくいえば、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」という主張です。
たしかに、個々の要素を「総合的に」考えるべきだとは思います。この点には同意します。しかし、なぜ「足し算」をするのでしょうか? この論法の問題点は、この「足し算」にあります。
なぜ「足し算」がおかしいのか。
それは、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えればわかります。
上記論法によって、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えた」としましょう。
しかし、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えれば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある『とはいえない』」という要素で、80点(100点-20点)獲得。「研修医とのバランスがとれない『とはいえない』」という要素で、90点(100点-10点)獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。したがって、「合計で100点を超えた」ので「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」ということになります。
さて、上記論法によって、「給与を支給すべきである」(=給費制を維持すべきである)という結論と、「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」(=給費制を廃止すべきである)という結論、両方が導かれました。どちらの結論が正しいでしょうか? 答えは「あきらか」です。正しいのは「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」です。
もともと、「50点に満たない」要素を次々に「足し算」して100点を超えたところで、その主張(政策)が「正しい」とはいえないはずです。総合的に考えることは重要だと思いますが、「総合的に考える」イコール「足し算」ではないと思います。
結論としては、司法修習生に対する給費制(給与支給制)を維持すべきだとする根拠は、すべて「根拠にならない」または「根拠というには弱すぎる」ということになります。
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なお、私は給費制に反対しています。私がなぜ給費制に反対しているのかについては、「私が司法修習生の給費制に反対する理由」をお読みください。
一、お金持ちしか法律家になれなくなる
これは給費制維持の根拠にならないと思います。お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。
そもそも、「お金持ちでなくとも法律家になれる」ルートが制度的に用意されています。したがって、「お金持ちしか法律家になれなくなる」というわけではありません。
日弁連には国民全体でみてどうか、制度全体のバランスからみてどうか、という観点から主張していただきたいと思います。法律家(全体)の利益「のみ」を重視しているかのような主張は、いただけません。また、「お金持ちでなくとも法律家になれる」方法があることを(おそらく意図的に)言わず、「お金持ちしか法律家になれなくなる」などと主張するのも、どうかと思います。
二、司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか
これは、いままで支給されていた給費(つまり給与)が廃止されると、司法修習生は暮らしていけなくなる。したがって司法修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
これも給費制維持の根拠にならないと思います。給費制を廃止する場合、相当額が「無利子」貸与されることになっており、司法修習生が暮らしていけなくなる、などといったことはありません。
三、司法修習生には、労働者としての側面もある
これは司法修習生は「補助的な業務」を行っている、したがって修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
この主張をなさった方によれば、「補助的な業務」といえるのは司法修習のうち「検察修習の2か月間のみ」だとのことです。つまり司法修習の「ごく一部」については、「補助的な業務」であるといえるから「修習生には給与を支給すべきだ」という主張です。
しかし、このような主張は「おかしい」と思います。全体の「ごく一部」が「補助的な業務」であるので、司法修習の「全期間」について給与を支給しろ、といった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。
四、研修医とのバランスがとれない
これは研修医と同様、司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
研修医は医師資格をもった医師であるのに対し、司法修習生は法曹資格をもった法律専門家ではありません。医師資格をもっている研修医と、法曹資格をもっていない司法修習生とを比較し、両者を同様に扱わなければバランスがとれない、などといった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。司法修習生の修習は、研修医の研修ではなく、(医師資格をもたない)医学部学生の臨床実習に相当する、と考えるのが自然です。
したがって、これも司法修習生に給費(給与)を支給する根拠になりません。
五、司法修習は民間企業のOJTに相当する
これは司法修習生が一人前ではないことを認めたうえで、民間企業においては一人前でなくともOJTの際には給与が支給されているではないか。したがって司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
この主張に対しては、司法修習生の圧倒的大多数は弁護士になるにもかかわらず、なぜ、「国が」司法修習生に給与を支給すべきなのかという疑問が生じます。
この主張の趣旨に即して(私なりに)考えれば、「裁判官または検察官になる修習生」と「弁護士になる修習生」の割合に応じ、前者については「国が」、後者については「弁護士会が」給与を支給すべきである、ということになると思います。
このような「国」と「弁護士会」との給与分担制であれば、私は問題なく認められると思います。
六、司法修習生は「拘束」されている
この主張は、「国が」司法修習生を「拘束」している以上、「国が」司法修習生に給費を支給すべきである、というものです。なお、この主張をされた方(おそらく司法修習生)によれば、「拘束」とは「指揮・命令・監督配下にある」ことを指す、とのことです。
たしかに、修習にはそのような側面があることは否定しえないとは思いますが、これは「法曹資格をもたない」司法修習生が「現場」で修習するうえでの「当然の制約」だと思います。このような「当然の制約」をもって、制約の対価として給与を支給しろ、自由侵害の代償として対価を給付しろ、といった主張をすることは「おかしい」と思います。
つまりこれも、司法修習生に対する給与支給の根拠にはならない、と私は思います。そもそも、「そんなに司法修習が嫌なのであれば、司法修習生は給与の支給ではなく、司法修習の廃止を主張すべき」だと思います。
さて、上記のような「根拠にならない」または「根拠として弱い」理由をもって、司法修習生には給与を支給すべきだ、と主張されていることそれ自体が、給与の支給は「おかしい」のではないか、という印象を与えます。つまり、修習生に対する給与支給には「もともと合理的な根拠がない」ので、利害関係をもつ人々が「無理して根拠をさがしだそうとしている」といった感じがします。
もしも、利害関係をもつ人々が「もともと合理的な根拠がない」にもかかわらず、利権(?)維持のために根拠をさがしだそうとしているのであれば、やめたほうがよいでしょう。また、そうではなく、(給費制維持を主張する人々が)本当に給与支給には「合理的な根拠がある」と考えているのであれば、上記に記載したような、「おかしな」根拠は主張しないほうがよい、と思います。「もともと合理的な根拠がない」ので、「無理して根拠をさがしだそうとしている」のではないか、といった疑いをまねくからです。
なお、これまで(私なりに)検討してきた上記「給費制維持の根拠」とはやや異なった主張も、当ブログのコメント欄でなされました。
以下では、その主張を(私なりに)要約しつつ紹介し、その是非を考えたいと思います。
七、総合得点方式で考えるべきである
この主張の要点は、上記「給費制維持の根拠」はすべて、「単独では給費制維持の根拠にならない」ことを認めつつも、「それらを合計すれば根拠になる」というものです。
わかりやすくいえば、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」という主張です。
たしかに、個々の要素を「総合的に」考えるべきだとは思います。この点には同意します。しかし、なぜ「足し算」をするのでしょうか? この論法の問題点は、この「足し算」にあります。
なぜ「足し算」がおかしいのか。
それは、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えればわかります。
上記論法によって、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えた」としましょう。
しかし、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えれば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある『とはいえない』」という要素で、80点(100点-20点)獲得。「研修医とのバランスがとれない『とはいえない』」という要素で、90点(100点-10点)獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。したがって、「合計で100点を超えた」ので「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」ということになります。
さて、上記論法によって、「給与を支給すべきである」(=給費制を維持すべきである)という結論と、「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」(=給費制を廃止すべきである)という結論、両方が導かれました。どちらの結論が正しいでしょうか? 答えは「あきらか」です。正しいのは「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」です。
もともと、「50点に満たない」要素を次々に「足し算」して100点を超えたところで、その主張(政策)が「正しい」とはいえないはずです。総合的に考えることは重要だと思いますが、「総合的に考える」イコール「足し算」ではないと思います。
結論としては、司法修習生に対する給費制(給与支給制)を維持すべきだとする根拠は、すべて「根拠にならない」または「根拠というには弱すぎる」ということになります。
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