「YOMIURI ONLINE」の「中国の圧力?ダライ・ラマ、南ア訪問中止」( 2011年10月5日12時00分 )
ダライ・ラマ14世が南アフリカ政府から査証(ビザ)が発給されないため、6日から予定していた南ア訪問を中止するとの声明を発表したが、南ア外務省報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べている、と報じられています。
ここで重要なのは、南ア外務省報道官が上記発言を行った「状況」です。
報道官は、「アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の政府よりひどい。(現南ア政府が)中国を怒らせるようなことは一切しないと決めているのは明らかだ」という非難に対して、上記発言を行っています。
普通、このような非難に対してなにか述べる場合には、
しかし、実際には、南ア政府の報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるにとどめています。
このことは、ツツ氏(や読売新聞)の推測、すなわち「南ア政府がビザを発給しない背景には、経済関係を強める中国からの圧力があるとみられる」が(まず間違いなく)正しいことを示しているとみてよいと思います。
南ア政府にとって、このような推測が不当な非難・推測であるなら、国際社会に向けて自国の正当性を主張すればよいのであり、また、それが通常の態度だと思います。このような場合に、あえて自国の正当性を主張せず、反論もしない態度には合理性がありません。
しかし逆に、上記推測が真実であるなら、南ア政府の報道官としては「はい、その通りです。中国政府から圧力がかかったので、中国政府を怒らせないためにダライ・ラマ14世へのビザ発給を行わないことに決定しました」と言うわけにもいかず、かといって「嘘をつくわけにもいかない」ので、「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるにとどめることは、合理的だといえます。
たしかに「訪問中止はダライ・ラマ側の決定」であり、南ア政府報道官の発言は「真実」です。しかし、
南ア政府の報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と事実を述べているにすぎないとはいえ、まず間違いなく、(1) を (2) であると誤解させようとしています。なぜなら普通、「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるときは (2) の状況の場合だからです。
つまり、もし本当に「(2) (南ア政府とは無関係に、ダライ・ラマ側の都合で)ダライ・ラマ側が訪問中止を決定した」のであれば、南ア政府はツツ氏の推測に反論しているはずですが、実際には反論がなされておらず、ダライ・ラマ側の都合で訪問中止になったとは考え難いうえに、
もし「(1) (南ア政府がビザを発給しないので)ダライ・ラマ側は訪問中止を決定した」のであれば、南ア政府は反論するわけにもいかず、かといって圧力を認めるわけにもいかないので、「わざと」話の焦点をぼかし、「事実」のみを述べつつ、「相手が勝手に事実を誤解する」ことを期待する言いまわしをするはずであり、現に南ア政府報道官はそのような態度をとっているので、
まず間違いなく、状況は (1) であり、南ア政府は (1) を (2) だと「誤解させようとしている」と考えてよいと思います。
これと同じようなことは、私の個人的な経験でもあります。
とある都市銀行に勤めている友人に、「あなたとのことを公にしてよいですか?」と私が尋ねたところ、相手は私の質問には答えず、「大丈夫なのか?」「心配してやってるんだぞ?」などと、私の質問にはまったく関係のないことを逆に尋ねてきました。私は「私は大丈夫ですよ」と相手の質問に答えつつ、「それで、あなたとのことを公にしてよいですか?」と尋ね続ける状況が続きました。
延々、1時間ほど「大丈夫なのか?」「私は大丈夫ですよ。公にしてもよいですか?」「大丈夫なのか?」「だから、私は大丈夫ですよ。公にしてもよいですか?」といった「会話」が続いたあとで、やっと相手は
「答えたくない」
「名前を出さないのなら公にしてもいい」
と回答してくれました。
要するに、「答えたくない」、つまり「公にしてもいいとは言いたくないが、公にしてほしくないとも言いたくない」ということです。「公にしてよい、と答えて自分に不利になることは避けたいが、公にしてほしくない、とも答えられない」ということですね。
同様の「会話」は、「弁護士による「詭弁・とぼけ」かもしれない実例」で紹介した、私と湯山孝弘弁護士との「会話」にもみられます。要約すれば、
湯山弁護士はある日突然、「今まで築き上げてきたものを失いたくないんだ!」と怒鳴り、
私が頼んでもいないのに、一方的にお金を振り込んできたので、私は困ってしまい、「迷惑なのですが…」と伝えようとすると、湯山弁護士は「議論する気はないんだ!」と怒鳴り、私にトンチンカンなアドバイス(取引要求?)をして「アドバイスしてやってるんだ!!」と怒鳴ったりしつつ、
最終的に、カネをやったのだから「ある事柄」を公に出さないようにと「暗に」要求されたのですが、私が承諾しなかったところ、今度は私に対して、私が「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」ので「誰にも言わないほうがいいと思う」と(私がアドバイスを求めていないにもかかわらず)一方的にアドバイス(?)されたために、
私が「それなら警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と尋ねたところ、湯山弁護士は次のような態度をとりました。
これも要するに、湯山弁護士は「警察に行ってもよいかどうかについて、答えたくない」のだろうと考えられます。というか、このように考える以外に、合理的な説明方法はないと思います。
つまり、「警察に行ってもよい」と答えて、私が本当に警察に行っても困るが、「警察に行ってほしくない」と答えるわけにもいかない、だから「答えられない」「答えたくない」のだろう、と考えられます。
もちろん、これはあくまでも私の「推測」であって、湯山弁護士にしてみれば、「それは誤解だ!」という可能性もありえます。ですので、その旨、明記しておきます。
なお、一弁(第一東京弁護士会)の湯山孝弘弁護士において、「それは誤解だ!」ということであれば、その旨、いつでもコメントしてください。私としても、「それは誤解だ!」と湯山弁護士がコメントしてくだされば、湯山弁護士に対して配慮する必要がなくなり、もっと「はっきり」明快に書けるので、とても助かります。
また、湯山孝弘弁護士において、とぼけているのではなく、本当に「どうしても思い出せない」ということであれば、その旨、コメントしてください。いまは湯山弁護士に配慮しているために「はっきり」書いていない部分がありますが、コメントしていただければ、湯山弁護士が思い出せるように、もっと具体的に書いてみます。
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【ヨハネスブルク支局】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は4日、南アフリカ政府から査証(ビザ)が発給されないため、6日から予定していた南ア訪問を中止するとの声明を発表した。
南ア政府がビザを発給しない背景には、経済関係を強める中国からの圧力があるとみられる。
ロイター通信などによると、ダライ・ラマは、7日に80歳となるノーベル平和賞受賞者、デズモンド・ツツ元大主教の招待で南アを訪れ、誕生日を祝う予定だった。しかし、ツツ氏は4日、ケープタウンで記者会見し、「アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の政府よりひどい。(現南ア政府が)中国を怒らせるようなことは一切しないと決めているのは明らかだ」と政府を非難した。これに対し、南ア外務省報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」としている。
ダライ・ラマ14世が南アフリカ政府から査証(ビザ)が発給されないため、6日から予定していた南ア訪問を中止するとの声明を発表したが、南ア外務省報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べている、と報じられています。
ここで重要なのは、南ア外務省報道官が上記発言を行った「状況」です。
報道官は、「アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の政府よりひどい。(現南ア政府が)中国を怒らせるようなことは一切しないと決めているのは明らかだ」という非難に対して、上記発言を行っています。
普通、このような非難に対してなにか述べる場合には、
- 中国に配慮しているか否か、
- ビザを発給する意思があるか否か、
- ビザを発給しないのであれば、なぜ発給しないのか、
しかし、実際には、南ア政府の報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるにとどめています。
このことは、ツツ氏(や読売新聞)の推測、すなわち「南ア政府がビザを発給しない背景には、経済関係を強める中国からの圧力があるとみられる」が(まず間違いなく)正しいことを示しているとみてよいと思います。
南ア政府にとって、このような推測が不当な非難・推測であるなら、国際社会に向けて自国の正当性を主張すればよいのであり、また、それが通常の態度だと思います。このような場合に、あえて自国の正当性を主張せず、反論もしない態度には合理性がありません。
しかし逆に、上記推測が真実であるなら、南ア政府の報道官としては「はい、その通りです。中国政府から圧力がかかったので、中国政府を怒らせないためにダライ・ラマ14世へのビザ発給を行わないことに決定しました」と言うわけにもいかず、かといって「嘘をつくわけにもいかない」ので、「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるにとどめることは、合理的だといえます。
たしかに「訪問中止はダライ・ラマ側の決定」であり、南ア政府報道官の発言は「真実」です。しかし、
- (南ア政府がビザを発給しないので)ダライ・ラマ側は訪問中止を決定した
- (南ア政府とは無関係に、ダライ・ラマ側の都合で)ダライ・ラマ側が訪問中止を決定した
南ア政府の報道官は「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と事実を述べているにすぎないとはいえ、まず間違いなく、(1) を (2) であると誤解させようとしています。なぜなら普通、「訪問中止はダライ・ラマ側の決定だ」と述べるときは (2) の状況の場合だからです。
つまり、もし本当に「(2) (南ア政府とは無関係に、ダライ・ラマ側の都合で)ダライ・ラマ側が訪問中止を決定した」のであれば、南ア政府はツツ氏の推測に反論しているはずですが、実際には反論がなされておらず、ダライ・ラマ側の都合で訪問中止になったとは考え難いうえに、
もし「(1) (南ア政府がビザを発給しないので)ダライ・ラマ側は訪問中止を決定した」のであれば、南ア政府は反論するわけにもいかず、かといって圧力を認めるわけにもいかないので、「わざと」話の焦点をぼかし、「事実」のみを述べつつ、「相手が勝手に事実を誤解する」ことを期待する言いまわしをするはずであり、現に南ア政府報道官はそのような態度をとっているので、
まず間違いなく、状況は (1) であり、南ア政府は (1) を (2) だと「誤解させようとしている」と考えてよいと思います。
これと同じようなことは、私の個人的な経験でもあります。
とある都市銀行に勤めている友人に、「あなたとのことを公にしてよいですか?」と私が尋ねたところ、相手は私の質問には答えず、「大丈夫なのか?」「心配してやってるんだぞ?」などと、私の質問にはまったく関係のないことを逆に尋ねてきました。私は「私は大丈夫ですよ」と相手の質問に答えつつ、「それで、あなたとのことを公にしてよいですか?」と尋ね続ける状況が続きました。
延々、1時間ほど「大丈夫なのか?」「私は大丈夫ですよ。公にしてもよいですか?」「大丈夫なのか?」「だから、私は大丈夫ですよ。公にしてもよいですか?」といった「会話」が続いたあとで、やっと相手は
「答えたくない」
「名前を出さないのなら公にしてもいい」
と回答してくれました。
要するに、「答えたくない」、つまり「公にしてもいいとは言いたくないが、公にしてほしくないとも言いたくない」ということです。「公にしてよい、と答えて自分に不利になることは避けたいが、公にしてほしくない、とも答えられない」ということですね。
同様の「会話」は、「弁護士による「詭弁・とぼけ」かもしれない実例」で紹介した、私と湯山孝弘弁護士との「会話」にもみられます。要約すれば、
湯山弁護士はある日突然、「今まで築き上げてきたものを失いたくないんだ!」と怒鳴り、
私が頼んでもいないのに、一方的にお金を振り込んできたので、私は困ってしまい、「迷惑なのですが…」と伝えようとすると、湯山弁護士は「議論する気はないんだ!」と怒鳴り、私にトンチンカンなアドバイス(取引要求?)をして「アドバイスしてやってるんだ!!」と怒鳴ったりしつつ、
最終的に、カネをやったのだから「ある事柄」を公に出さないようにと「暗に」要求されたのですが、私が承諾しなかったところ、今度は私に対して、私が「絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした」ので「誰にも言わないほうがいいと思う」と(私がアドバイスを求めていないにもかかわらず)一方的にアドバイス(?)されたために、
私が「それなら警察に行って自首しようと思いますが、警察に行ってもかまいませんか?」と尋ねたところ、湯山弁護士は次のような態度をとりました。
私「警察に行ってもかまいませんか?」
湯山弁護士「大丈夫なのか?」
私「私は、大丈夫ですよ。警察に行っても、かまいませんか?」
湯山弁護士「どういうことだろうか?」
私「『いままで築き上げてきたものを失いたくないんだ!!』と怒鳴っておられたので、私が警察に行くと、お困りになるのではないかと思い、お尋ねしています」
湯山弁護士「何のことでしょうか?」
私「湯山さんが忘れているか、とぼけているかのどちらかでしょう」
湯山弁護士「警察に行く必要はない」
私「警察に行く必要があるかどうかは、尋ねていません。警察に行っても、かまいませんか?」
湯山弁護士「警察に行く必要はない」
私「いや、だから、警察に行く必要があるかどうかは、尋ねていません。警察に行っても、かまいませんか?」
湯山弁護士「警察に行く必要はない、と助言します」
私「私は、助言は求めていません。警察に行っても、かまいませんか?」
湯山弁護士「なにが言いたいのでしょうか?言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」
私「ですから、私は、警察に行ってもかまいませんか? と、はっきり言っています。警察に行ってもいいかどうかについて、答えていただけないでしょうか?」
湯山弁護士「こだわるのはやめましょう。私は、こだわりはありません」
私「私は、こだわってはいませんよ。『絶対、絶対、絶対、絶対、絶対に許されないことをした』と言われたので、それなら自首しようと思うのですが、私が警察に行くと、お困りになるのではないかと思い、お尋ねしています。警察に行っても、かまいませんか?」
湯山弁護士「もう何も言うことはありません!!」
私「助かります。求めてもいないアドバイスをされて、とても、困っていました。それで、私の求めていること、すなわち、警察に行ってもいいかどうかについて、答えていただけないでしょうか?」
湯山弁護士によって、「会話」は一方的に打ち切られた。
これも要するに、湯山弁護士は「警察に行ってもよいかどうかについて、答えたくない」のだろうと考えられます。というか、このように考える以外に、合理的な説明方法はないと思います。
つまり、「警察に行ってもよい」と答えて、私が本当に警察に行っても困るが、「警察に行ってほしくない」と答えるわけにもいかない、だから「答えられない」「答えたくない」のだろう、と考えられます。
もちろん、これはあくまでも私の「推測」であって、湯山弁護士にしてみれば、「それは誤解だ!」という可能性もありえます。ですので、その旨、明記しておきます。
なお、一弁(第一東京弁護士会)の湯山孝弘弁護士において、「それは誤解だ!」ということであれば、その旨、いつでもコメントしてください。私としても、「それは誤解だ!」と湯山弁護士がコメントしてくだされば、湯山弁護士に対して配慮する必要がなくなり、もっと「はっきり」明快に書けるので、とても助かります。
また、湯山孝弘弁護士において、とぼけているのではなく、本当に「どうしても思い出せない」ということであれば、その旨、コメントしてください。いまは湯山弁護士に配慮しているために「はっきり」書いていない部分がありますが、コメントしていただければ、湯山弁護士が思い出せるように、もっと具体的に書いてみます。
■関連記事
「ダライ・ラマ、90歳頃に輪廻制度の存否決定」
「チベット亡命政府の方針」
「弁護士法 56 条に定める「品位を失うべき非行」の基準」