言語空間+備忘録

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多数決による武装防衛「強制」の是非

2010-09-05 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.120 )

 非武装的防衛力などといえば、すぐさま、理想主義、一人よがりの空論、あげくのはては幻想だ、という非難が、現実主義を自称する連中から大きくはねかえってくる。ところがこの場合、現実主義とは、既成事実中心主義、先例主義にすぎず、事実や先例がないというだけの話である。現実主義のよりかかる既成事実や先例が大きな力をもっているのは、政治的支配層の価値体系が武装防衛力という先例に結晶しているからであろう。
 ところが、戦争への拘束から平和を救出するという問題には、既成事実や先例は全く何の役にもたたない。昨日の戦争から明日の戦争を予想したり、昨日の平和から明日の平和を類推したりするのは、大きな見当はずれである。第一次大戦から原爆や大衆的レジスタンスの出現を、誰が予想できたであろうか。
 それどころか、武装的防衛力がこれまで、戦争を先きへのばせても、戦争を防止し、平和を幾分でも永続的に保証した実例をただの一回でももっているか。その意味では、武装的防衛力こそ、かえって "大幻想" にすぎないのではないか。ノーベル平和賞をもらったノーマン・エンゼルが、『大幻想』(一九一四年、増補版、三八年) においてくわだてたのは、題名の示すとおり、武装防衛と戦争に人類がしばられている "大幻想" を暴露することにあった。
 ただ、武装的防衛力は既成事実であり、先例であり、そのかぎり現実的であるにすぎない。その現在および未来にむけての意味はかえって、"大幻想" であるかもしれない。既成事実性がふくれあがれば、幻想性もふくれあがるだけの話であるかもしれない。しかし武装防衛力の平和に対する幻想性が、どれほどみごとに証明されたとしても、だからといって、それがそのまま非武装防衛力の幻想性をくつがえす証明になるわけではない。
 非武装防衛力が現実に対して無力な理想にすぎないのは、この理想から防衛政策が一つもでてこないことからもはっきりしているではないか。こういう非難にこたえるためには、非武装防衛力は、防衛政策面にまでおりていなかければならないだろう。
 防衛問題は、防衛目標と防衛力という二つの側面にわかれる。防衛目標はいうまでもなく、自国民の国土、生命、財産の防衛であり、それも他国民の国土、生命、財産を傷つけない防衛でなければならない。国土、生命、財産を数量的にみれば、非武装、武装をとわず、防衛力をもたず丸はだかでいる方が、屈辱や強制や占領を度外視すれば、マイナスやロスが少ないのは明らかである。しかしそれにもかかわらず、国民が丸はだかの方につかないのは、防衛目標には国民の生き方をめぐる原理の問題が国土、生命、財産の問題をつらぬいているからであろう。
 われわれの場合、この原理は戦後の再出発に選択した民主主義なのだが、この民主主義の内容をめぐって国内に相当深刻な意見の対立がある。だから一方の民主主義の解釈に立って、この民主主義の防衛のために命までさしだせと国民に強制するのは、国民の中に内乱を引きおこす結果になる。内乱をまねくような仕方で、防衛目標を守ろうとする防衛原理は、だから大変なあやまりである。防衛原理が、防衛目標を破壊する結果にならないわけにいかない。だから、どのような方法にせよ、防衛目標が防衛できるためには、民主主義についての対立が、次元の高いメタ民主主義によってのりこえられる見透しを打開しなければならない。この打開に努力せずに、民主主義の一方的概念をおしつけられた防衛目標の擁護は、自爆的効果しかもたないのである。


 非武装防衛については、理想主義、一人よがりの空論、幻想である、といった批判がある。しかし、たんに先例がないだけの話である。先例をいうなら、武装防衛こそ、幻想ではないのか。武装防衛によって、戦争の時期が先になったことはあっても、平和を幾分でも永続的に保証した実例がまったくないではないか。
 武装防衛を国民に強制すれば、非武装防衛論を説く者とのあいだで、内乱を引きおこす結果になる。これでは、武装防衛論は防衛すべき国土・生命・財産を破壊してしまう。武装防衛論は、自爆的効果しかもたないのである、と書かれています。



 引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「非武装的防衛力は幻想であるか」(久野収・著) の冒頭部分です。

 著者は非武装防衛論を主張しておられます。非武装防衛論は、国家間の問題は政治的手段 (話し合い) で対処すべきである、というものであり、

 国内における論議 (日本は武装防衛でいくか非武装防衛でいくかの大方針決定) についても、多数決による「強制」ではなく、「話し合い」で意見をまとめるべきである、という著者の主張には、「徹底的な話し合い主義」といった趣があります。



 いつまでも、のんびり「話し合い」を続けていてもよい問題であれば、著者の意見にも説得力がありますが、国防の問題は、いつまでものんびり話し合っていてもよい問題ではないと思います。話し合っているあいだに、他国から軍事侵攻されてしまえば、一巻の終わりです。

 一方に武装防衛論を説く者がおり、他方には、非武装防衛論を説く者がいる。このような状況下で、ある程度「話し合い」を重ねたならば、その時点で、武装防衛か非武装防衛か、「どちらかに決めなければならない」と思います。

 そしてその際、民主主義社会では、国民の多数決によって決めることになると思いますが、いかに論議をつくしたうえで、とはいえ、多数決で「強制」してはならない、と考えるならば、社会における意志決定は、事実上、不可能になってしまうでしょう。



 そもそも、武装防衛を国民に強制してはならないという発想は、逆にいえば、非武装防衛を国民に強制してはならないという発想をも、導きだします。

 著者の述べているように、日本においては「国民が丸はだかの方につかない」とするならば、日本国民の大多数は武装防衛を支持しているのであり、非武装防衛を実践しようと望んでいる者は、少数である、と考えられます。すくなくとも、著者の理解に従えばそうなるはずです。

 とするならば、少数者の意志を尊重するために、多数者の意志を犠牲にすることを「強制」してしまう著者の論理は、いかがなものかと思います。

 したがって、多数決で「強制」してはならないという著者の論理は、受け容れ難いと思います。



 それでは、多数決で決することを肯定したうえで、私自身はどう考えるか、ですが、

 私は、「理念としての非武装防衛論」には、魅力があると思います。防衛の対象が「私の個人的な利益」であれば、私は、非武装防衛論に賛成しているかもしれません。実際、私は「私の個人的な利益」と「他者の個人的な利益」とが対立する場面では、「話し合い」に向けた努力を続けてきています。

 そして、たとえば「弁護士による「詭弁・とぼけ」かもしれない実例」などにおいて、私が「話し合い」に向けた努力を続けてきたうえでの実感を述べれば、

 この理念が本当に「正しい」のか、疑問なしとしません。すくなくとも、ギリギリまで「話し合い」に向けた努力をするという方針は、本当に大変です。また、「損か得か」でいえば、あきらかに「損」です。上記の例でいえば、弁護士が「おかしな」行為、おそらく「違法な」行為を行っているのはあきらかであり、たとえば弁護士会に苦情を申し立てるなど、なんらかの強制的手段を私がとっていれば、私にとって有利な方向で、問題は簡単に解決された (つまり損得で考えれば、あきらかに強制的手段がよい) と断言できます。

 したがって、(話し合いで対処する方針が正しいか否かはともかく) こんな大変な方針を、「他者に強制してよいのか」には、疑問があります。

 そこで私は、防衛の対象が「私以外の人にもかかわる利益」であるために、非武装防衛論的な理念を他者に強制してはならない、との考えかたに立ち、

   国民の大多数が非武装防衛論を支持しないかぎり、武装防衛論を支持する

という立場です。つまり私は、著者とほぼ同じ理念を支持しつつも、著者とは正反対の結論 (武装防衛論) を支持しています。