言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

核廃絶は不可能、核の傘は必要

2010-09-07 | 日記
 引用は、「多数決による武装防衛「強制」の是非」で引用した部分の続きです。



佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.122 )

 防衛目標を守る防衛力は、抑止力、反撃力、挑発力という三つの側面によってその目標を実現する。三つの力は、防衛力であるかぎり、武装防衛力であろうと非武装防衛力であろうと同じである。三つの防衛力を武装防衛力だけの専売特許だと考えるのは、それこそ既成事実中心主義、先例主義による頭脳汚染の公害的結果であるにすぎない。非武装防衛力も武装防衛力とちがう仕方であっても、この三つの力を通じて防衛目標を実現するのである。まえの二つの力はプラス効果、最後の一つはマイナス効果をもつのだが、厄介なのはこの三つの力が、とくに武装防衛力では、ジレンマになるほどからみあっているところにある。
 現実主義の政治家や御用学者は口をひらけば、阿呆の一つおぼえのように核の抑止力をいい、あたかも抑止力は、核の専売であるかのようないい方をくりかえしている。けれども実はすべての武装、すべての軍備が抑止力をもとうとしたのであり、実際、部分的にはもってもいたのである。"備えあれば憂いなし" というスローガンは、まさしく武装なり軍備なりの抑止力を一方的に誇張した宣伝である。武装や軍備が抑止力としてはたらくためには、その武装や軍備が、反撃力としてものをいえなければならない。相手の攻撃が抑止されるのは、相手の攻撃力を上まわる反撃力があるからである。反撃力といえば聞えがよいが、反撃力は実は、攻撃力である。だからこそ先制攻撃が、相手の攻撃をまえもって抑止するという美名でしばしば実行されたのである。反撃力と攻撃力の間に一線をひくことはできない。そのうえ、反撃的攻撃力は、かならず相手側の武装や軍備を挑発するマイナス効果をともなう。
 こうして攻撃力中心に編成された抑止力、反撃力、挑発力の悪循環は、相手側の抑止力、反撃力、挑発力の悪循環とからみあいながら、大破局にむかって進行するのである。武装や軍備にたよる防衛力では、三つの力の悪循環をたちきる方法は、みつけだされにくい。それどころか、武装防衛力は武装にたよるかぎり、攻撃や反撃に訴えれば、それは戦争を意味するのだから、防衛力としては積極的攻撃をとれない消極的防衛力にしかすぎない。これこそ、武装防衛力のいわばアキレスのかかとである。
 核兵器の出現は、防衛力の攻撃的、反撃的側面が無効になり、抑止的側面と挑発的側面だけがはばをきかす結果を引きおこした。相手側を核攻撃すれば、相手側から核爆弾の洗礼をうける結果になるし、相手側の核攻撃をうけて、自国の防衛目標の大部分が絶滅したあとで、相手方に報復的核反撃をくわえる結果になっても、両方ともナンセンスである。核兵器が他殺と自殺を同時におこなう兵器であり、使用不能の兵器だといわれるのは、この事情をさしているのである。
 核兵器の抑止力も、その抑止効果をほんとうに発揮できるのは、自国がもち、相手側がもたない場合だけにかぎられる。相手側がもってしまえば、それはもはや相互の抑止力ではなく、恐怖のバランスとよばれている現象が生じる。バランスというと、何か安定状態を意味するようだが、実はこのバランスは少しも安定を意味しない。バランスを判定する第三者的アンパイアがどこにもいなくて、当事者同士が、相互にバランスをさぐりあい、核の拡散にともない、当事者はますますふえる一方だから、アンパイアのいない多次元バランスは、安定どころか、裏側にとめどのない軍拡を含む不安定きわまるバランスである。だから核の抑止力を強調する論者が、証拠にもちだす、現に大戦争がないではないかという事実は、恐怖のバランスの結果であるか、世界各国民の核兵器への憎悪意志が、支配者の使用意志をこれまでははるかに上まわってきた事実の結果であるかは、実験が不可能である以上、かんたんに断定できない。現実主義者は既成現実を支配者の意志にあうように解釈しているだけであって、ほんとうの原因をつきとめたうえで、既成現実を説明しているのではないのだという議論もなりたつ。現実主義者も実は、ウィッシュフル・シンキング (希望的観測) のとりこである点では、あまりいばった口はきけない。
 万一、バランスの結果であるとしても、戦術核兵器の出現は、核兵器の通常兵器化を意味し、通常戦争から戦術核兵器を局地的に使用する限定局地核戦争への道がかなりなだらかになり、そこから全面局地核戦争へいく道がなだらかになったことを意味するであろう。その意味で、戦術核兵器の発明は、大変な犯罪行為である。


 ここでは、武装防衛力について論じられています。著者は続けて、非武装防衛力について論じているのですが、その部分は、次回に引用します。



 一般に、核兵器は使用不能の兵器であるといわれていますが、著者は、

   戦術核兵器の出現によって、核兵器は通常兵器化し、
   限定局地核戦争から全面局地核戦争への道がなだらかになった

と述べています。つまり、

   かつては使用不能だったが、現在では使用不能ではなくなりつつある、

ということです。



 したがって、「戦術核兵器の発明は、大変な犯罪行為である」と著者はいうのですが、安全保障を考えるに際して、「大変な犯罪行為である」などといってもはじまりません。ここで重要なのは、

   核兵器は使用不能の兵器ではなくなりつつある、

という、ただ一点です。



 この点について、著者は続けて、次のように述べています。



 エスカレーション理論こそは、一度戦術核兵器がつかわれれば、全面核戦争になる大きな危険を裏側から証明しているのであり、その大きな危険があればこそ、局地限定核戦争から全面核戦争までの段階を人工のかぎりをつくして、数百段階にも区別したのである。この区別は実は、危険の大きさをものがたっている。ベトナム戦争のはじめ、アメリカはたしかに、限定核兵器をつかう意志をひそませていた。化学兵器や細菌兵器をつかって戦術核兵器使用への道をなだらかにしたのは、その証拠である。ベ平連に参加した多くの人びとの中には、アメリカにベトナムで戦術核兵器をつかわしてはならないという意志が生きていたと考えられる。通常戦争を戦術核兵器の戦争にまでエスカレートさせない世界各国民の意志が、支配者の戦術核兵器使用の意志を上まわっているからこそ、既成現実は核戦争せとぎわの断崖でからくも立ちどまっているのだ。こういう説明も、充分なりたつ根拠があるだろう。
 だから核の抑止力というのも、はなはだ危険な抑止力であって、抑止力であるかどうかはうたがわしい。なぜなら抑止力は、使用の意志を背景にしなければ抑止力としてものをいわないし、使用の意志は、戦術核兵器によって発動のブレーキが一つ大きくはずされたとみられるからである。核兵器をつかう意志をぜんぜん放棄して、つかわない核兵器を蓄積するだけでは、相手に抑止力としてはたらかない。武装的防衛力の場合、抑止力は攻撃的な反撃力に裏づけられなければ、抑止効果を発揮しないからである。
 核抑止の危険は、自国が核をもたずに他国の核の傘ににげこんでいるから、比較的軽いというようなものではぜんぜんない。自国の核であろうと、他国の核の傘であろうと、核抑止の危険は同様である。核戦争のボタンをおす権利を他国にあずけているかぎり、むしろ危険は、屈辱的な危険である。NATO (北大西洋条約) が実質的に解体したのは、NATOの核兵器のボタンを誰がおすかをめぐって、フランスが離反し、通常兵力の半分を提供しながら、ボタンへの権利を許されていない西独が離反したからである。こうして、西独と東独が新しい交渉の舞台におどりでてきたのは、ボタンの問題が一つの重要な原因であった。
 われわれの場合も、核の傘のボタンは、もちろん日本人が相談にあずかれそうもなく、そのうえ原水爆が日本の基地にかくされているかどうかをしらべる権利もない。さらに厄介なことは、通常兵器にもつかえるし、核弾頭もつけられるミサイルが、われわれの周囲にごろごろころがっているという状況がくわわる。
 核バランスの危険は、恐怖のバランスということばが示すとおり、バランスが物理的兵器の面から人間心理の面にうつされた。ここから危険はさらに大きくなるのだが、この問題にふれることはやめて、結論をいそぐことにしよう。
 われわれはできるだけ早く、核の傘をはずさなければならない。日米安保条約をやめるという通告をアメリカにむかっておこなわなければならない。核の傘からはのがれたいが、政治的、経済的にはアメリカと手をくみつづけたいと考えている人びとと、核の傘をつづけてアジアにおけるアメリカと政治的、経済的どころか、軍事的にも運命をともにしたいと考える人びとが一緒になって、安保をささえている。そこで安保をやめたあとの日本の防衛をどうするか、アメリカとの関係をどうするかをはっきりさせる問題が重大になってくるであろう。


 核には抑止力があるというが、疑わしい。「通常戦争を戦術核兵器の戦争にまでエスカレートさせない世界各国民の意志が、支配者の戦術核兵器使用の意志を上まわっているからこそ、既成現実は核戦争せとぎわの断崖でからくも立ちどまっている」という説明も、成り立つのである。日本はできるだけ早く、核の傘をはずさなければならない。日米安保条約をやめるという通告をアメリカにむかっておこなわなければならない、と書かれています。



 著者は、

   核兵器は使用不能の兵器ではなくなりつつあるので、

   本当に核兵器に抑止力があるのか、疑わしい。
     ( 世界各国民の意志が支配者の意志を上まわり、
       核兵器が使われていないだけかもしれない。)

   したがって、早急に核兵器をなくさなければならず、
   日本はできるだけ早く、核の傘をはずさなければならない。
   日米安保条約をやめる旨、アメリカに通告しなければならない、

というのですが、



 逆に、

   核兵器が使用不能の兵器ではなくなりつつあるので、

   日本が核の傘をはずし、日米安保条約を破棄してしまえば、
   「対日本」については、エスカレーション云々の問題は生じず、
   日本に対して核が使用される可能性は劇的に高くなる。

   したがって、核の傘をはずし、日米安保条約を破棄するなど、
   安全保障論としては、論外である、

という考えかたも成り立ちます。



 私は、核廃絶は、不可能だと思います。核は危険であり、廃絶すべきである、というのはその通りだろうとは思います。しかし、核が危険なのは、「自分が」使うからではなく、「相手が」使うかもしれないからだと思います。つまり、

   他国が核を持っておらず、自国のみが核を持っている状態が、いちばん安全

なわけです。「軍事的安全保障の限界と、その有効性」において (私が) 述べたのと同様の論理によって、

   「自分の国は」核を持ちつつ、「他の国が」核を廃絶するのを待つ

のが、安全保障を考えるうえで、最善の選択になるはずです。したがって、世界をとりまく状況が劇的に変化しないかぎり、

   核廃絶は、どんなに叫んだところで、現実には不可能

だと考えられます。



 とすれば、核の傘をはずすだとか、日米安保条約を破棄するなど、論外だということになります。核廃絶が不可能である以上、日本が率先して核の傘をはずし、他国が同調するのを待ち続けたところで、なんの効果もありません。その間、日本が危険にさらされ続けるだけの話です。

 以上により、「核廃絶は不可能なので、核の傘をもたないことは無意味である。したがって核の傘は必要」であると考えるべきだと思われます。