言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

「正義の押しつけ」と一神教・多神教

2010-09-03 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.109 )

久野  アメリカはこうした点を考えず、自己の文明が一番高いと思っている。特殊文化というものを知らないんですね。文明しか知らなくて、それで自分の文明が一番高いと自惚れているわけです。

佐高  カウボーイ的文明観というか、挫折を知らない坊ちゃん的正義感ですね。

久野  ハンス・コーンの『アジア民族運動』などによれば、奥地のイスラムと沿海のイスラムは非常に違っていて、奥地のイスラムはたいへん反近代文明的でシーア派的なんですね。それに対して、沿海イスラムはスンニ派的で妥協的なんですよ。
 沿海イスラムは、インドネシアもそうですが、スンニ派で、わりに西洋化されていて女もベールをとる。きついのはベドウィン族と暮らしているシーア派ですね。シーア派を山回教と言い、スンニ派を海回教とも言うらしい。

佐高  そうしたことは、日本にとっての石油供給国という考えだけでは見えてきませんね。

久野  日本は、非ユダヤ教的、あるいは非キリスト教的文化圏に、イスラム圏とともに属している仏教圏であるわけで、また、儒教圏と言ってもいいかもしれませんが、ともかく、アメリカの尻馬に乗ってアメリカの言う通りにカネを出しつづけていたら、アイデンティティを失う。自己喪失にいたるということです。少しそれに気づいているから、右翼の野村君や鈴木君は、アメリカの大国主義とイギリスの旧植民地主義に対する反撃ののろしをあげているのだと思う。
 何もイラクに連帯する必要はないけれども、アメリカに同調する必要もない。イスラム教やユダヤ教やキリスト教の一神教的伝統に対して、仏教的な多神教の精神――ほんとにこの信仰が生きているなら――を発揮すべきでしょう。

佐高  それぞれを宗教に擬した三つの指輪の話というのがありますね。各々が自分の持っている指輪こそほんものであると証明できるように努力せよという……。

久野  林達夫的『三つの指輪物語』ですね。そもそも世界宗教というのは、肉体的暴力による戦争にかえて、知能による競争の立場をとって生まれ、広まってきたんでしょう。
 戦争には肉体的暴力による殴り合い、殺し合いか、知能による競い合いか、二つしか方法がない。知能による相手の折伏、説得、あるいは共感を得るという方法を世界宗教が考え出した。
 だから、世界宗教は、国境とか、個人の生命とか、経済的利害を超えた生き方、あるいは考え方の相互の頭脳的戦いの道を開き、部族とか民族に縛られていた人間を解放したわけです。あなたの好きな魯迅が言っているように、頭脳の紙の弾丸は、ほんものの弾丸には肉体は勝てない。しかし、紙の弾丸は、弾丸を撃っている当人の頭に命中する、それを期待して、言葉による紙つぶてを打ちつづける以外にない、という立場です。
 紙つぶてが当たれば、頭が変わることを信じるのが、文化の立場だと、魯迅は言っている。
 しかし、これは、ぼくに言わせれば「教権」の立場ですね。教権を一つの教育力と考えてもよいし、宗教力と考えてもよいけれども、教権を軍権や政権から独立させたのが、世界宗教です。しかし、世界宗教は、とくに一神教の場合には、ときどき政権や軍権といっしょになって異教徒を弾圧する場合があるわけです。

佐高  ブレインによる戦争から再び、肉体的暴力による戦争に戻ることがあるということですね。

久野  また、ユダヤ教やキリスト教やイスラムといった戦闘的一神教では、殉難者、すなわち殉教者の位置が非常に高くなりますね。これは儒教や仏教にはない。儒教や仏教では、殉教者にかわって、悟りを獲得した「覚者」が高い位置を占める。全体として、殉教者はそれほど評価されないんです。
 しかし、一神教では、ヨーロッパの寺院を見ればわかるように殉教者の列また列ですよ。モンマルトルも名前は「殉教者の山」という意味ですからね。


 戦争と宗教について論じられています。一神教 (とりわけキリスト教) が戦闘的であるのに対して、多神教 (ここでは儒教・仏教も含む) の精神は異なる、とされています。



 引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「戦争と宗教と憲法」(久野収・佐高信の対談) の一部分です。



 久野収・佐高信両氏の言葉の前提には、「アメリカは好戦的である。アメリカには、自分が信じる正義を押しつけている面がある。その背景には、一つの神 (正義) しか認めないキリスト教の存在がある」という発想があると思われます。

 たしかに、アメリカには「自分が信じる正義を押しつけている面がある」とは思います。

 しかし、「押しつけはいけない」という考えかたを押し進めれば、たとえば「他国の軍事政権が (その統治下の) 国民を弾圧・虐殺していても、知らんぷりすべきである」ということになってしまいます。こういう考えかたもありうるとは思いますが、「知らんぷりすべきではない」という考えかたのほうが、自然だと思います。

 また、両氏の考えかたを徹底すれば、「どこかの国が、どこかの国に軍事侵攻した場合にも、知らんぷりすべきである」ということにもなりかねません。どちらの側につくにせよ、「自分 (日本) の信じる正義を押しつける」ことになるからです。これでは、「「軍備のもたらす自殺過程」の回避策」で引用した久野収の主張、

自国の尊厳や致命的利害が他国によって傷つけられたり、軽視されたりする場合、政治的安全にたよる立場は、尊厳と利害において、被害者国と共通の立場にある他の国々に、徹底的にその不当を訴え、これらの国々の政治的援助によって、加害者国の一方的国策を放棄させる方法をえらばなければならない。


は、説得力を失ってしまうと思います。自分の国が侵攻されたときになって、「徹底的にその不当を訴え」たところで、助けてくれる国は現れないと思います。そもそも、「助けようとすれば正義の押しつけになる (いかなる場合であっても軍事侵攻は許されない、という価値観の押しつけになる) ので、助けてはならない」はずです。

 したがって、両氏の見解がこのような趣旨であれば、批判自体が不適切であると思います。



 私なりに推測するに、おそらく両氏の真意は、「言論・論理による話し合いによって対処すべきであって、戦争といった暴力的・軍事的手段によって対処することは許されない」ではないかと思います。

 しかしながら、このような主張は、「相手が言論・論理による話し合いに応じようとしない場合」や「話し合ったけれども妥協が成立しない場合」には、「知らんぷり」するのと、実質的に大差ない結果を招きます。

 したがって、「アメリカには、自分が信じる正義を押しつけている面がある」とはいえ、それを完全に否定してしまえば、「それではどうすればよいのか」という問いが当然、生まれてしまいます。とすると、「正義の押しつけ」はよくない、などと簡単には言い切れないことになってしまいます。



 ……この問題は難しいので、さらに考えたいと思います。



 次に、宗教を「肉体的暴力による戦争」に代わる、「知能による競争」「ブレインによる戦争」である、と捉えている点についてですが、このような捉えかたもありうるとは思いますが、これはすこし、ちがうのではないかと思います。

 宗教は最終的に、「信じるか信じないか」に帰着します。論理的思考によって「信じるか信じないか」が決まるものではありません。したがって、論理による戦いと捉えるには、やや無理があると思います。

 これは一神教のみならず、多神教においても同様です。「悟り」を重視する仏教の場合には、「信じるか信じないか」とは多少、異なった面がありますが、仏教にいう「悟り」とは、他者による説得 (=論理的説明) によって得られるものではありませんので、論理による戦いと捉えるには、やや無理があることには変わりありません。

 そもそも、宗教を「戦い」「競争」と捉えているあたり、なにかがちがう、と思われてなりません。