言語空間+備忘録

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「軍備のもたらす自殺過程」の回避策

2010-09-01 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.86 )

 政治的安全とは、軍備によってよりも、外交と内政によって保障された安全である。自国、他国をとわず、国民が安全に生活をつづける条件は、政治の次元からみれば、外的と内的の両側面にわかれる。外的側面では、国家間の暴力的紛争の予防、もしくは制限がたいせつであるし、内的側面では、政治権力の一方的独占による権力乱用の予防がたいせつである。民主主義は、この両方の予防を実現する最も有効な政治原理だということもできよう。
 外交と軍備は、形式的には国家の独立と安全を保障するという目標において共通しているようにみえる。しかしこの両方のめざす独立と安全は、その質を全く異にしている。一方の安全は政治的であり、他方の安全は軍事的である。一方の独立は、政治的手段を駆使し、他方の独立は、軍事的手段を駆使する。目標をおなじくするといいながら、外交と国防とが国策決定の中でたえずくいちがい、双頭の蛇となってかみあうのは、ある意味で当然であり、目標の質のちがいにもとづくのである。
 外交のめざす政治的安全は、国家相互の権利の平等をみとめあったうえで、国家相互の利害を共同的に調節する過程の中で保証される安全である。軍事的安全保障のように、一方の安全保障がそのまま他方の安全減殺になるような独善的安全ではない。外交による政治的安全は、「あいみたがい (フィフティ・フィフティ)」の公理にたち、相互の利害と権利を両立させ、自発的に尊重しあう微妙なシステムによって保証される。「あいみたがい」の公理は、何らかの意味で政治的に仲よしの国家グループだけに適用され、仲よしでないグループは除外される公理であってはならない。軍事的安全保障が敵味方関係を前提とするのに反し、外交による政治的安全保障は、いかなる国家とも権力や利害の調節は、政治的に可能だとする信条に立たなければならない。主権の相互尊重や内政不干渉や平等互恵や共存的競争が政治的安全を保証する定理とされるのは、この公理や信条から引きだされる結論だからである。たとえば、内政面までたちいるとすれば、各国の内政は当然、伝統、体制、イデオロギーを異にするから、「あいみたがい」の公理よりも、「えこひいき」という党派的原理がものをいう結果になるであろう。
 主権の相互尊重や内政不干渉の定理は、相手の自由をそれだけみとめるのであるから、平等互恵や共存的競争の定理とはちがって、自国の安全保障要求からすれば、消極的、抑制的定理であるのをまぬがれない。これらの定理が政治的安全を保証するのは、「あいみたがい」の公理にささえられているからである。
 だから、政治的安全保障は、軍事的安全の場合のように、最大限の保障を追求するのではなく、むしろ最小限の保障で満足する。最小限の保障であっても、この保障は相互的であるから、平和の前提となることができるのである。政治的安全を最大限まで追求することは決して不可能ではない。しかしその場合はかならず、最大限の権力や軍備による圧力を必要とし、やがて "安全保障" 型帝国主義におちいることは、目のまえのアメリカの実例が雄弁にものがたるとおりである。そうでなければ、安全保障型帝国主義の傘の中に身をあずけ、自主的外交による政治的安全保障に重大な制限をくわえられ、意図と正反対の結果をまねかねばならなくなるのは現在の日本が雄弁に立証するとおりである。
 最小限の保障に満足する政治的安全はもちろん、危険にひんする場合がある。自国の尊厳や致命的利害が他国によって傷つけられたり、軽視されたりする場合、政治的安全にたよる立場は、尊厳と利害において、被害者国と共通の立場にある他の国々に、徹底的にその不当を訴え、これらの国々の政治的援助によって、加害者国の一方的国策を放棄させる方法をえらばなければならない。この方法が不成功におわってはじめて、普通の国家は軍備の発動にものをいわし、戦争にうったえる権利をもつことになるのである。けれども憲法の平和主義は、軍備の最終的発動の権利さえも禁欲し、国際機構、国際社会への信頼と提訴によってこの問題を解決しようとするのである。
 ここにはたしかに、最大な決断が含まれている。憲法の平和主義は、軍備のもたらす自殺過程のほうに賭けるよりも、政治的安全のもたらしかねない危険過程のほうに賭けている。軍備のもたらす自殺過程は証明ずみであると判断し、政治的安全のもたらしかねない危険過程は、未来にむかっての自己実験であると判断するのである。政治指導者はもちろん、われわれ国民も、このパスカル的賭けの意味を充分深くほりさげて、自覚する必要があるであろう。


 日本国憲法は、政治的安全保障と軍事的安全保障とを比較して、「軍備のもたらす自殺過程のほうに賭けるよりも、政治的安全のもたらしかねない危険過程のほうに賭けている」。なぜなら、「軍備のもたらす自殺過程は証明ずみであると判断し、政治的安全のもたらしかねない危険過程は、未来にむかっての自己実験であると判断」しているからである。したがって、「政治指導者はもちろん、われわれ国民も、このパスカル的賭けの意味を充分深くほりさげて、自覚する必要があるであろう」と書かれています。



 引用部分は、本書第二部「久野収の『非戦論』」に収録されている、「『安全』の論理と平和の論理」(久野収・著) の一節です。



 著者によれば、政治的安全保障と軍事的安全保障の相違は、下表のようになります。

  政治的安全保障 (政治的手段=外交による安全保障)
     (1) 国家相互の権利の平等をみとめあったうえで、
        国家相互の利害を共同的に調節する過程の中で保証される安全
     (2) いかなる国家とも権力や利害の調節は、政治的に可能だとする信条に立つ
     (3) 最小限の保障で満足する

  軍事的安全保障 (軍事的手段=軍備による安全保障)
     (1) 一方の安全保障がそのまま他方の安全減殺になるような独善的安全
     (2) 敵味方関係を前提とする
     (3) 最大限の保障を追求する (したがって対立は不可避であり、危険)



 これを見ると、「話し合い」を重視する政治的安全保障がよさそうではあります。しかし問題は、相手国が「話し合い」に応じようとしない場合です。この場合について、著者は、
自国の尊厳や致命的利害が他国によって傷つけられたり、軽視されたりする場合、政治的安全にたよる立場は、尊厳と利害において、被害者国と共通の立場にある他の国々に、徹底的にその不当を訴え、これらの国々の政治的援助によって、加害者国の一方的国策を放棄させる方法をえらばなければならない。この方法が不成功におわってはじめて、普通の国家は軍備の発動にものをいわし、戦争にうったえる権利をもつことになるのである。

と述べています。

 要は、ギリギリまで「話し合い」によって解決する努力を続けるべきであり、万策尽きたときにはじめて、「軍備の発動にものをいわし、戦争にうったえる権利をもつ」、というのですが、

 結局のところ、最後の最後は「軍備によらなければならない」ことには変わりなく、それなら、「軍事的安全保障の限界と、その有効性」で述べたように、軍事的安全保障も重視し、(普段から) 軍備を整えておくべきである、という話になります。いざというときになって、あわてて軍備を構築しようとしても、間に合わないからです。



 ところが著者は、続けて次のように述べています。
けれども憲法の平和主義は、軍備の最終的発動の権利さえも禁欲し、国際機構、国際社会への信頼と提訴によってこの問題を解決しようとするのである。
 ここにはたしかに、最大な決断が含まれている。憲法の平和主義は、軍備のもたらす自殺過程のほうに賭けるよりも、政治的安全のもたらしかねない危険過程のほうに賭けている。軍備のもたらす自殺過程は証明ずみであると判断し、政治的安全のもたらしかねない危険過程は、未来にむかっての自己実験であると判断するのである。政治指導者はもちろん、われわれ国民も、このパスカル的賭けの意味を充分深くほりさげて、自覚する必要があるであろう。


 しかし、「軍備のもたらす自殺過程は証明ずみである」と考えた場合であっても、

 対策 (回避策) としては、著者の述べているような「パスカル的賭け」を行う道のほかに、

 「軍事的安全保障の限界と、その有効性」で述べたように、軍事的安全保障一本槍ではなく、「軍事的安全保障も、政治的安全保障も、どちらも重要であり、どちらか片方に偏ってはならない」と考えたうえで、「シビリアンコントロール」を徹底する道もあります。



 前者は、いかなる場合であっても軍事的手段にはうったえない、という点で、倫理的に優れており、魅力があります。

 後者は、いわば修正路線であり、現実的である (安全性が高い) と考えられる点で、魅力があります。

 どちらを選ぶかは、最終的に、「理念に賭けるか、現実路線を歩むか」の選択だと思います。国民の総意で前者を決断する、というなら話は別ですが、

 「安全保障」を論じるならば (論理のみで考えるならば) 、その目的に合致する選択、すなわち後者をとるべきではないかと思います。