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ゆめと心理と占いのはなし
Por donde, amor, he de ir?
 Rosalia de Castro

女子高生のブドウハゼ原木発見TV再現ドラマを観てたらキューバにまた行きたくなった#2

2019-02-19 18:40:24 | 日記

キューバに初めて行ったのは96年だったと思う。アメリカでキューバ制裁法であるヘルムズ・バートン法が成立した直後で、キューバで見たことはちっぽけな日本人の歴史観を変えるほどの衝撃があった。

キューバへは渡航ビザが必要だった。5,000円くらい出せば旅行代理店がとってくれたけど、好奇心があって自分で東京の大使館まで取りに行くことにした。麻布にある広い大使館はめちゃ豪華に見えたけど、中は質素で閑散として、領事部の窓口は並ぶこともなく書類を提出し4,000円くらい払うと「1週間後に」ってな感じで15分くらいで終わった。事務が効率的だったわけではなく、まだキューバに行きたがる日本人がほとんどいなかったんだろう。

経路は成田からヒューストン、メキシコシティ、カンクン、ハバナだったと思う。トランジットだけだったけどヒューストンはぼくにとって初めてのアメリカ大陸となった。イミグレや税関で働く人たちのネイティブな英語を聞いたとき、「アメリカにいるんだ」って実感がわいた。メキシコシティ空港の記憶は、突然「ロテリア(くじ引き)だ」って、税関のところでボタンのようなものを押させられたことだった。つまり当たればバッグを検査、当たらなければそのまま素通りってこと。「ありえんだろ」って、笑いながらボタンを押したのを覚えている。メキシコシティでの1泊は空港のタクシー運転手に頼んで連れてってもらったホテル。3,000円くらいの地味なホテルだったけど、仕事熱心さが伝わってくる老ホテルマンが好印象で、その後も何回か利用させてもらうことになるいいホテルだった。

翌日の昼の国内線でカンクンに到着。夕方発のハバナ行きに乗る予定だったけど待てど暮らせど搭乗案内はなかった。ここからはキューバのカリビアン航空の便で、古いソ連製の1機で運航しているため、ハバナから来ないとこちらの出発もない。11時を過ぎて、滑走路に小さな双発ジェット機が着くと、待ちくたびれてた乗客からわっと歓声があがった。しかし、やっと搭乗となっても、入口におっさんが数人立っていて、ほとんどの乗客の手荷物を召し上げていた。なぜかよくわからないかったけど、預け荷物として必ず飛行機に載せるからっていうので、衣類などすべてが入ったスポーツバッグをしぶしぶ渡した。おっさんの後ろには100個ほどのバッグが山となっていた。

離陸すると30分くらいでハバナ上空に着いた。でも、窓からはネオンがほとんど見えなかった。タラップを降りて滑走路から真っ暗な空港ターミナルへ数十メートル歩いた。平屋の建物で、中に入ると暗い蛍光灯が陰鬱だった。でも、イミグレのブースの中にいた係官は陽気な奴で、僕の顔を見てちょっとためらって横の仲間の顔を伺った。仲間は「英語だよ、英語」って笑って彼をからかった。当時、カンクンからやってくる外国人はだいたい亡命キューバ人だったからほぼスペイン語で事足りていたのだろう。一瞬の沈黙があって、彼は投げやりにスペイン語で「渡航目的は?」って言った。ぼくはスペイン語で「観光」と答えた。男は急に緊張が解けて得意げに「見ろ。日本人はフレンドリーなんだよ」って、振り返って得意満面に仲間たちに言い放った。でも、ここからが想定外の連続だった。

「どこに泊まるのか?」と質問を受けて、「ハバナのホテル」って答えると「ホテルの予約がないと通せない」って言ってきた。結局その場でホテルの予約をさせられ、3泊230ドルほどを払い、バウチャーをもらい次へ向かった。まあ、何事もいい経験だと腹をくくっていたけど、荷物で途方に暮れた。イミグレで手間取っていたのでそこにはもう誰もいなかった。そしてぼくのバッグもなかった。通りかかった職員に訊くと、あっさりと「載せられなかったから3日後に来て」と言う。キレイな黒人女性だった。「約束が違う」って抗議したけど、彼女は黙ってこちらを見つめるだけだった。つまり、その日は想定外の大事な貨物を載せたのでハバナに戻るには少しでも重量を減らす必要があった。さもないと燃料が足りなくなる危険性があったというわけだ。

カメラが入った小さなバッグだけで出口に向かうと若い白人男性が「タクシー?」と寄ってきた。もう12時をとっくに回っていたし、ぼくは疲れ切っていた。広場の彼の車に向かうとかなりお腹が大きくなった女性が助手席に座っていて、ぼくが手ぶらで後部座席に乗り込むと、彼女は「え?荷物は?」ってこちらを振り向いた。


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