世の中をとりまく英語環境について、表題のことを言いたいですね。色々な場面でTOEICという試験がよく使われますが、あれについてもそう思います。もちろん、あの試験自体は能力判定の効率性とか結果の分かりやすさとかを考えれば、よく出来た試験だと思います。悪い物だとは全く思いません。ただ、やらせる側の人に、表題のような事をよく分かっておいてもらいたいです。本当に必要な場面だけでうまく使ってほしいし、良くも悪くも結果の過剰なウェイティングはしないでほしい。
大体、あのようなハードなリスニング、短時間での大量の英文処理に対応する能力を、皆さん学生時代にしっかりと養成してもらった記憶がありますか?私は最近の英語教育環境に詳しいわけではありませんが、学校英語であのような試験に対応可能な能力など、身に付くはずがないと思います。できなくて当たり前なんです。でも、就活とか、就職してからも色々な場面でやらされますよね。なんでこんなにイジメられなきゃならないのでしょうね(笑)。
大学入試とかもそうです。私は高校の頃、某、門の赤い大学に入りたくて仕方がなかったのですが、力及ばずでした。当時、通常の学校の授業ではまず対応不可能と思われる”難問”を前に、絶望感に打ちひしがれたものです。予備校とかの総評でも「普通の高校生にはまず解けないだろう」なんてコメントが平気で載ってたりして。
オイオイ、一体、何を試験したいんだ?
って感じでした(笑)。最近はどこの大学でもそのような難問はやや影を潜めたと聞きますが、それでも、入試が学校の授業だけではなかなか厳しいことは、あまり変わっていないでしょう。本当にそれでいいんですかねぇ。
普通の教育の範囲を逸脱した試験で点が取れる人間を選別することの意味って、何なのでしょう?そのような人間が本当に”優秀”なのでしょうか?普通の教育をしっかりとしたものにして、その範囲内で確実に努力した人間をうまく選抜する、そんな世の中になってもらいたいものです。
TOEICなんて、恐れなくてもいいんですよ。点数が悪くても卑下する必要も全くない。やらせる方も良く分かっていないのですから。頑張らなきゃ、と思った時に、自分が本当に興味が湧いた時に、しっかりとした勉強を始めればいいんです。私も最初は全然できませんでした。
しっかりと仕込んだものを試す、それこそが”試験”のはずです。予想外の出来方をする人間を選別することは、試験という言葉の本来の定義からは外れた営みだと思います。そういう営みもあっていいと思いますが、そんな物に強制参加させられる筋合いはありません。
大体、あのようなハードなリスニング、短時間での大量の英文処理に対応する能力を、皆さん学生時代にしっかりと養成してもらった記憶がありますか?私は最近の英語教育環境に詳しいわけではありませんが、学校英語であのような試験に対応可能な能力など、身に付くはずがないと思います。できなくて当たり前なんです。でも、就活とか、就職してからも色々な場面でやらされますよね。なんでこんなにイジメられなきゃならないのでしょうね(笑)。
大学入試とかもそうです。私は高校の頃、某、門の赤い大学に入りたくて仕方がなかったのですが、力及ばずでした。当時、通常の学校の授業ではまず対応不可能と思われる”難問”を前に、絶望感に打ちひしがれたものです。予備校とかの総評でも「普通の高校生にはまず解けないだろう」なんてコメントが平気で載ってたりして。
オイオイ、一体、何を試験したいんだ?
って感じでした(笑)。最近はどこの大学でもそのような難問はやや影を潜めたと聞きますが、それでも、入試が学校の授業だけではなかなか厳しいことは、あまり変わっていないでしょう。本当にそれでいいんですかねぇ。
普通の教育の範囲を逸脱した試験で点が取れる人間を選別することの意味って、何なのでしょう?そのような人間が本当に”優秀”なのでしょうか?普通の教育をしっかりとしたものにして、その範囲内で確実に努力した人間をうまく選抜する、そんな世の中になってもらいたいものです。
TOEICなんて、恐れなくてもいいんですよ。点数が悪くても卑下する必要も全くない。やらせる方も良く分かっていないのですから。頑張らなきゃ、と思った時に、自分が本当に興味が湧いた時に、しっかりとした勉強を始めればいいんです。私も最初は全然できませんでした。
しっかりと仕込んだものを試す、それこそが”試験”のはずです。予想外の出来方をする人間を選別することは、試験という言葉の本来の定義からは外れた営みだと思います。そういう営みもあっていいと思いますが、そんな物に強制参加させられる筋合いはありません。