国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

1. 初日

2021-04-17 | 運転免許
(投稿前に思い当たりましたが、随分長いですね。連続ドラマの初回2時間スペシャルのようなもんだと思って下さい。)

北海道旅行(昨年9月)から帰ってから間もなくのことですが、Lindaが意を決したような表情で言いました。

「私、自動車学校へ行く。」

それを聞いて私は「ついにその気になったか」と思ったのでした。以下、その背景について書いてみます。

80歳を過ぎた父は運転が怪しくなり、車庫入れの時に擦ったりぶつけたりすることもしばしば。本人もそろそろ返納を考えなければいけないと感じていたようですし、私もそれを願っていました。けれども病院や趣味の彫刻教室へ行くための足が要る。となれば道は一つしかありません。Lindaが免許を取ることです。

こうなると分かっていれば、ニューヨークからボリビアに戻った彼女にあちらで免許を取らせておき、3ヶ月の経験を積んだ上で来日すれば、こちらで学科試験に合格して日本の免許に切り替えることもできたのですが、後の祭りです。もっとも向こうでは簡単に免許が取れるらしく(注)、技術が未熟なままに日本で乗り始めていたら重大事故を起こしたかもしれないので、結果的には良かったと考えています。(注:私はJICAボランティアでパラグアイに住んでいた時、必要があって自動二輪の免許を取得しに役所へ足を運んだのですが、視力検査と血液検査 (輸血が必要になった時のため) の後、わずかな手数料を払ってその日の内に交付されました。帰国後に翻訳証明書を付けて申請したので小型二輪なら乗れます。1度もその機会はないですが。ちなみに当時滋賀県は小型まででしたが、中型までOKという県もあったのでわざわざ住民票を移してまで切り替えた隊員OBもいたそうな。)

けれどもそれは言葉の壁があって簡単ではありません。外国語で教習が受けられる自動車学校は近くにはなし。(敦賀や大垣も当たってみましたがダメでした。)それで日本語にもう少し自信が付くまで待ってほしいと言われ、それまでの準備ということでアマゾンにて購入したこの本を渡し、学科の勉強をしてもらうことになりました。

ところが数年前に父が田んぼの水を見に行く時に一時停止を怠ったため衝突事故を起こしました。幸いにも廃車にするだけで済みましたが・・・・・重大な人身事故が起こってしまったら、それこそ「破滅」「後の祭り」です。Lindaもこの事故のニュースには随分と心を痛めたようですし、何かが起こる前に手を打たなければならないと腹を括ったのでしょう。

それで9月終わりの土曜日、二人で入校手続きに行きました。なお電話で問い合わせ、外国語で教習は受けられないものの学科試験には外国語の問題も用意されていること、数は少ないものの卒業した外国人もいることを確認していたので、私も何とかなるだろうと考えました。(今思うには楽天的に過ぎました。)

軽トラを運転する場合には普通車でもMT(マニュアル)の免許が必要となりますが、Lindaには必要ないだろうと考えてAT(オートマティック)限定コースにしました。料金を支払う際に通常コースか安心コース(定額)のどちらにするかを尋ねられました。後者は追加料金(ともに1回5500円の補習料金や再検定料)が発生しない分だけ高額に設定されているとのこと。迷いましたが、仮に元が取れなかったとしても「あの時安心にしとけば」と後悔するよりはマシと判断。(そこそこ年齢もいってますから若い人ほどスムーズにはいかないだろうと考えたこともあります。一種の保険ですね。)あとスペイン語の学科教本(試験問題付き)を購入するかも訊かれました。これですね。決して安くはありませんでしたが、自動車学校経由なら1割引ということで注文。

その後、2階の教室で適性検査を受けることになりましたが、予想外の事態が。テストは全て日本語。Lindaにはできるはずがありません。ところが手助けは一切してはならないと言われたため私も黙って見ているしかありませんでした。(その結果で入校を拒否するようなことはないと言われたので引き下がりましたが。)開始後しばらく経ってからラミネートされた英語の説明が配られましたが、それでも何をすればいいのか全くわからない問題もあったとのこと。

それから1ヶ月以上経っていたと記憶していますが、その結果を記した教習原簿を見て驚きました。たしか5問のうち2問はA〜Eまでの5段階評価のうち最低ランクのEでした。額面通りなら(日本語が解らないという事情が考慮されなければ)「運転の適性は全くなし」と見なされてしまうところでした。

最後に学科教習の第1回を受けて初日は終わりました。(内容は全く憶えていません。)

後日追記


本文で触れたバイクの免許ですが、30年近く前のことなのでとっくに捨てたと思っていたのに捜したら出てきました(翻訳証明書は紛失)。フラッシュのせいで半目になっています。日本なら間違いなく撮り直しですね。

さらに追記

翻訳証明書も人生で初めて取得したパスポート(公用旅券)のケースから見つかりました。(我ながら物持ちがいい。)そのために返送料も含めてたしか8000円以上払ったような記憶が。先に書いたように日本では原付も含めてバイクには全く乗っていませんから、丸損ということになりますが・・・・・将来海外で役に立つ日が来るかも?

ついでながら公用旅券についても少し。縦15.5cm×横10cmと今より少し大きめです。当時は一般旅券が赤(現在のような有効期限5年、10年の区別なし)、公用旅券が緑、そして外交旅券が茶色、そして緑の人は帰国時の税関で何もチェックされず、茶色の人には職員が「お疲れ様でした!」と最敬礼で迎えてくれると聞いたことがあります。あくまで噂ですが。(なお、私はそうは聞いていてもちょっと高いウイスキーを免税範囲の3本を超えて持ち込んでいたので、正直に申告して関税を払いました。)


この旅券の有効期限は出国から帰国までで渡航先は予め決められています。私の場合は派遣国のパラグアイとその前に語学研修を受けることになっていたメキシコ、そして任期中に1回だけ休暇を取って隣国に旅行できるため、ブラジル、アルゼンチンおよびボリビア。さらに任期終了後の帰路も公務員以外は3週間以内なら変更できるため経由地としてチリとエクアドルが加わりました。

上はボリビアのビザと出入国のスタンプが押されたページです。ブエノスアイレスからサンタクルスに入ったのが1991年8月18日、そしてラパス(エル・アルト国際空港)から出国したのが30日ということで約2週間滞在した訳ですが、(住んでいた先住民の村は別として)パラグアイよりずっと居心地が良かったことを憶えています。とはいえ、後にボリビアとこれほど深い結び付きができることになるとは想像だにできませんでした。
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新連載開始

2021-04-17 | 運転免許

昨晩はLindaの免許取得を祝って焼肉(鉄板焼)。駅前の店で出てきたような高級品(近江牛)ではなく、業務用食材店で買った輸入牛(USA産)ですが、家で食べるには十分です。なお、試験に落ちて気落ちした状態で焼肉というのは最悪なので、昨日の朝は守山の運転免許センターへ向かう途中に彦根の職場に寄り、肉を自室の冷凍庫に入れておきました。晴れて合格となったため午後出勤して取り出し&解凍しましたが、不合格だったらそのままにして後日持ち帰るつもりでした。

気が付いてみれば免許センター米原分室での初受験(2月16日)からちょうど2ヶ月が経っていました。以後4度落とされ続け、5度目にしてようやく合格。この間、Lindaは飲酒も控え目にしていましたので、昨日はスパークリングワインとビールを注がれるままに飲んで久しぶりに酩酊していました。そして私は「このままワインが年代物になってしまうかと思った」と軽口を叩いて怒られました(苦笑)。またテレビを一緒に観ることもほとんどなくなっていたため、録り溜めた番組が20以上。昨日23時までまとめて再生しましたが、見終わるにはまだ数日かかります。

さて、既に書いた通り今日から私たちの悪戦苦闘の日々について連載を始めることにします。実は(合格後すぐ公開するつもりで)2月から執筆を始めていたため、結果的に書き溜めることになりました。たぶん20回分はあるでしょう。「運転免許」のカテゴリで投稿しますので、Categoriesの下から2番目をクリックすれば「現在」の記事を省いて時系列で読めます。
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