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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

晩秋の大山に初めて参詣しました

2012-12-12 10:30:55 | Weblog


 千葉県東葛地区にある知り合いの工務店では、毎年、お盆と正月に関係者一同がバスを仕立てての大山参りに出かけます。大山講の伝統が関東周辺の地でも、江戸時代から綿々と続いているのです。
 今まで大山詣でとは無縁でしたが、厚木在住の友人に案内されて出かけました。

 小田急小田原線伊勢原駅からバスに乗りましたが、晴天ということでウオーキング姿の方が目立ちます。市内を抜けると車のすれ違いがやっとという細い一本道となり、谷間を流れる鈴川沿いを走る頃からは、かつての宿坊であった旅館が見えるようになります。30分ほどで終点大山ケーブルバス停に到着です。

宿坊街を歩く
 バス停から大山ケーブル駅までの宿坊街は、階段状のしんどい登り坂ですが、石の玉垣の宿坊が連なり、宿坊に残る講中の名前から古の大山講の姿を想像したり、みやげ物店や茶店を覗きながらの30分ほどの楽しい散策です。関東各地からの大山道はすべてここに通じていたという雰囲気のある歴史の道です。
 「先導師○○」という屋号がついて宿坊が見られます。先導師とは江戸時代には御師(おし/おんし)と呼ばれた神職で、年に数回、お札や土産を持って各地の檀家を回り歩きました。また、大山参りの講中を組織し、参詣の際には自分の坊に宿泊させ、参拝に付き添いました。最盛期の寛永の頃には166の宿坊があり、現在でも41の宿坊(旅館)があります。
 なお、御師へのお礼に大豆が多かったことから豆腐料理が名物となりました。







大山ケーブルカー
 大山ケーブルカーの歴史は古く、昭和6年に営業を始めました。平成20年に駅名変更され始発駅は大山ケーブル駅となりましたが、女坂と男坂の分岐点を示す旧名の追分駅のほうが歴史を感じます。
 登るにつれて、谷間にそって発展した宿坊を中心とした町並みが鳥瞰でき、相模湾に突き出た江ノ島・・・遠くに霞む大島・・・変化に富んだ眺望で、首都圏にあるケーブルカーの中では抜群の景色が楽しめます
 6分で海抜678メートルのケーブル終点阿夫利神社駅に到着です。





阿夫利(あふり)神社
 名前の由来ですが、大山は周辺の農民からは雨乞いの神として崇められ、「雨降(あふ)り山」と呼ばれていました。頂上に阿夫利神社本社、中腹に阿夫利神社下社、さらに女坂に大山寺があります。下社から頂上の本社まで、徒歩1時間30分の登りです。
阿夫利神社駅からの見晴らしは圧巻です。平塚、茅ヶ崎、藤沢の市街地、その背後に広がる相模湾・・・江戸時代、相模湾を航行する船乗りには大山は目印となり、魚場を探す漁民にとってはなくてはならない山アテだったでしょう。
 また、はるかに望む江ノ島や三浦半島は、大山詣を終え江戸に戻る人々の旅心を、江ノ島、鎌倉、金沢八景へと向かわせたことでしょう。



阿夫利神社下社から見晴台へ
 往復1時間のウオーキングでした。歩き始めて10分ほどで、行者や参詣者が禊をしたという二重の滝があります。大山の中腹を巻くように原生林の中を進む山道は平坦ですが、南側は谷となり、「死亡事故注意」の標識に慎重に足を進めました。
 見晴台は大山頂上直下という位置にあり、東京方面を見通せる広場です。ベンチとテーブルがあり、ハイカーが昼食ととりながら眺望を楽しんでいました。









 ところで、江戸から大山は見えたのでしょうか。江戸の町屋は平屋か二階建て・・・関東周辺の山々は現在よりずっとよく見えたに違いありません。「西の富士、東の筑波」という言葉がありますが、独立峰でない大山は富士山の前山として他の山々と重なり、特定しにくかったと思われます。 



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富岡製糸場の生糸は「水上のシルクロード」で東京に運ばれました

2012-11-27 15:17:57 | Weblog
先週、高崎から上信電鉄で富岡に出かけました。
上州富岡駅前には明治36年に建てられた石造りの繭保管所が現存しています。
市役所には富岡製糸場の世界遺産登録への大きな垂れ幕が下げられていました。

地図を開くと、富岡は高崎の東30キロの山間部にあります。鉄道が敷設されていない明治5年に建設された富岡製糸場からの生糸はどのようにして東京・横浜に運ばれたのでしょうか、調べてみました。


(富岡の旧養蚕農家。風通しの良い二階で蚕を飼っていた)


(僅かに残る桑畑)

 富岡から生糸は荷馬車等で利根川支流・烏川の倉賀野河岸に運ばれ、艀(いかだ)に載せられ、利根川へ下りました。川幅があり、水深が深くなる平塚河岸(太田市と深谷市を結ぶ上武大橋付近)からは親船に積み替え、利根川をさらに下り、関宿で江戸川に入り、いったん東京湾に出て、大川(隅田川)の河口をのぼり、日本橋に向かいました。倉賀野河岸から3日の船旅でした。そこから横浜港へ回送、欧米に輸出されました。
 前橋、高崎、伊勢崎、富岡の上毛産生糸だけでなく、奥州生糸もこの水上ルートを使ったのです。

http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E139.3.7.760N36.17.36.160

 一方、岡谷、諏訪の信州生糸、甲府や秩父の生糸は甲州道を下り、八王子から陸路で横浜港に運ばれました。このルートは浜街道とか絹街道(シルクロード)と呼ばれ、これと対比して利根川ルートを「水上のシルクロード」(高村直助「再発見 明治の経済」)と命名したのでしょう。



(群馬・千代田町・赤岩渡船から利根川上流を望む。平塚河岸は13キロ上流にあった)


 生糸は資源に乏しい日本が自国内で生み出すことができる数少ない特産品で、その海外輸出で得た外貨で、富国強兵を目指す明治政府は欧米からの工業製品、特に軍艦などの軍需品を輸入しました。
 明治3年(1870)から明治38年(1905)までの生糸輸出は年率8.6パーセントで増加し、旧来の輸送手段や経路では対応できなくなり、明治政府は鉄道敷設を急ぎ、明治17年(1884)に上野・高崎間に日本鉄道(高崎線)が開通、上州の生糸だけでなく、奥州や信州上田地方の生糸も高崎線を利用するようになり、生糸鉄道と呼ばれました。
 明治30年(1897)には上信電鉄の高崎・富岡間が開通しました。

参考サイト:

八王子と関東絹の道

生糸輸出と日本の経済発展


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前田家ゆかりの長学寺と北関東の山々を一望する崇台山へ

2012-11-18 20:37:48 | Weblog


富岡製糸場で知られる富岡市に出かけました。
富岡市内には七日市という街がありますが、かつて七日市藩という一万石の小さな加賀藩支藩がありました。その菩提寺が北東4キロにある崇台山(そうだいさん)の麓に抱かれた長学寺です。千年の歴史がある曹洞宗の古刹で、七日市藩前田家歴代の藩主や重臣の墓が所狭しと並ぶ廟所に圧倒されます。樹齢600年の富岡第一の巨木イチョウと参道を彩る楓、境内のアジサイ、崇台山の桜と四季折々の自然を楽しめます。
 
 東京から新幹線、上信電鉄を乗り継いで2時間で上州富岡駅へ・・・長学寺参詣と崇台山へ往復1時間のハイキング・・・帰路、富岡製糸場を見学するという日帰りの旅はいかがでしょうか。


アクセス
 東京駅8:04→9:05高崎駅 5,060円
 高崎駅9:18→9:58上州富岡駅 770円
 富岡駅⇔長学寺 駅前タクシー 行き1,500円 帰り2,000円(送迎料金含む)
 上信ハイヤー 富岡営業所  TEL:0274-62-2621



 上州富岡駅から県道10号を北上。高田川を渡る橋から西に妙義山方向を望む



 県道を左折、山道へ。上高尾にある長学寺へ向かう。



 長学寺門柱に到着。楓の参道を行く。





 駐車場へ。大イチョウと本堂の屋根が見える。鐘楼堂への80段の階段。





 本堂。戦後の再建、それ以前は茅葺屋根であった





 長学寺から崇台山(299m)への登り口。途中、道標も置かれ、途中の木々に赤色のテープが巻かれた安全な山道。



 広々とした崇台山頂上。海抜299mだが見晴らし抜群、群馬百名山に選出。西に妙義山・浅間山、北に榛名山、北東に赤城山、上毛三山を望む。眼下に、高崎・前橋・安中・富岡市街も見渡せる。桜の名所。







上信電鉄と生糸

 明治5年(1872)フランスの技術を導入、本格的な富岡製糸場が完成。その後、原料繭の大量生産にも成功、安価な良質な絹が日本から世界に輸出されるようになる。明治30年(1897)に高崎駅・富岡駅間に上信電鉄開通、富岡駅前に繭の乾燥・保管施設(現存)も完成、富岡は生糸生産の拠点となった。
繭乾燥施設は市民のための地元物産店「おかって市場」となっている。


     

富岡と学童集団疎開

 太平洋戦争の末期、東京から地方への学童疎開が始まった。東京・王子区(現北区)・神谷国民学校の児童約300名は、富岡の寺院を割り当てられ、長学寺に80名、竜光寺75名など10の寺院に学年ごとに分散疎開、昭和19年9月から昭和20年10月までの一年強を当地で過ごした。
 食糧配給も途切れがちとなり、空腹を抱え、親元を離れての疎開生活は過酷で、ある引率教師は疎開生活を振り返り、「苦しいことのみの生活であったが、しいて楽しみを探せば恵まれた自然のなかで思う存分写生ができたことであろうか」と記している。


 参考資料・「北区教育史」「同成社・近現代史叢書・学童疎開 内藤幾次著」

 



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渡し船、グライダー、そして国宝・妻沼聖天へ・・・利根川ハイキング

2012-11-02 08:13:49 | Weblog

妻沼聖天の本殿が国宝に指定されたと聞いて、友人と出かけることにしました。
利根川沿いにある妻沼聖天は熊谷駅から市営バスで行くのが一般的ですが、健康ウオーキングを兼ねて利根川沿いを歩くルートをさがしました。

 妻沼周辺の地図を広げますと、利根川の北側は群馬県・・・東武鉄道小泉線が館林から大泉町へ伸びています。館林駅から三つ目の篠塚駅に県道152号・赤岩足利線が南北へ走り、駅から6キロ南下すると利根川唯一の県営の赤岩渡船へ、対岸・葛和田に渡り利根川の土手を上流へ歩きます。途中河川敷にグライダーの滑空場があり、刀水橋手前で土手を降りると妻沼聖天に到着です。
 邑楽町(群馬県)、千代田町(群馬県)、葛和田(熊谷市)、妻沼(熊谷市)を歩く15キロのウオーキングです。




篠塚駅から赤岩渡船まで

1. 東武伊勢崎線館林駅から小泉線に乗り替え。9時から14時まで一時間に一本の単線。
 三つ目の篠塚駅で下車。



2. 県道の赤岩足利線は平日のためかトラックの通行が多い。歩道がなく道路の端を歩く。すぐ左手に「太平記の故郷 豪傑・篠塚伊賀守・史跡」の大きな立て看板。北へ7キロ行けば足利尊氏ゆかりの鑁阿寺(ばんなじ)、西に10キロ行けば新田義貞旗揚げの地・生品(いくしな)神社・・・まさにこの地は太平記の故郷と言える。
 県道を避け、一本西側の町道を行く。



3. 農村地帯の雰囲気がホッとする快適な道を進む。道が西に逸れているのに気づく。ようやく出会った散歩の方に道を尋ね、赤岩足利線に戻る。ここからは通学のための歩道があるので一安心。小学校を過ぎると、赤沼渡船の表示。



4. 利根川の土手に突き当たり、階段を登ると利根川が広がる。土手にある船頭待機所に声をかける。千代田丸は動力船で船頭二人で運行、赤岩側に常時待機し、対岸の葛和田からはバス停小屋脇の黄色の旗を揚げて知らせる。県道扱いで渡船は無料。

     

      

グライダーの滑空場を眺めながら歩く

1. 土手を上流に歩く。空には2機のグライダーが白い機体を優雅に旋回させている。
河川敷の妻沼グライダー滑空場に・・・曳航ウインチを積んだトラック、曳航索の先端部のパラシュートに向かう学生・・・土手下には駐機するのは曳航用動力グライダーだろうか。



2. 日本学生航空連盟の建物。ここでのグライダーの研修会を経て、グライダー飛行を体験するとのこと。隣接する広場には、分解したグライダーを運ぶトレーラーやウインチを積んだトラックが駐車している。

   

3. 着陸しようとするグライダー・・・着陸したグライダーに走り寄る学生。四人でグライダーを軽々と押して離陸地点に運ぶ。




4. 離陸直前・・・曳航索の先端部のパラシュートをグライダーのフックに取り付け、操縦する学生が乗り込むと一人が接地している翼を持ち上げ平行に・・・機体脇にはテーブルに無線機を置いただけの指揮所・・・ウインチで曳航すると加速、急上昇・・・機体のフックから外れたパラシュートがゆっくりと曳航索とともに落ちてくる・・・まるでパノラマ写真を見るような2キロのウオーキングであった。



妻沼聖天へ

1. 刀水橋が見えてくる地点で、土手を降り、民家の点在する町道を進む。平らな土地のため、見通しが利かない。犬の散歩の方に妻沼聖天を尋ねると、「ああ、ショウデンサマね」と教えてくれる。
 30分ほど歩き、門前町の雰囲気が残る妻沼の通りに出る。



2. 小さな駐車場の奥に総門が見える。貴惣門といい、幕末の竣工。細い参道が西に延び、本殿に至る。

   

3. 小さな門をくぐると御本殿「歓喜院聖天堂」がある。8年間の保存修理を終え、竣工当時の華麗な色彩を取り戻し、今年の8月に国宝に指定される。



4. 奥殿の壁を飾る精緻な彫刻と華麗な色彩から「埼玉日光」とも言われるようだが、日光東照宮は寛永13年(1636)江戸幕府が莫大な資金を投じて僅か3年で完成、その後も短い周期での絶え間ない修理でその華麗さを後世に伝えてきたのに対し、妻沼聖天本殿は近在民衆からの寄付による浄財で25年の歳月をかけて宝暦10年(1761)に完成、以後日照風雨に曝されままになってきたのをこの度の保存修理で251年前の輝きを取り戻した点が大きな違いである。
 代々、東照宮の建設・修理に携わってきた地元・宮大工が総力を結集した妻沼聖天は、東照宮に勝るとも劣らない作品といえる。利根川水運で栄えた江戸時代の妻沼の経済力と人々の信仰心の支えがあったからだろう。



5. 2万歩、15キロの内容豊かな変化に富んだウオーキング・・・帰路は妻沼からバスでJR熊谷駅へ。


熊谷市のホームページ修復前と比べてみよう」をぜひご覧ください。

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最も近い外国・・・韓国への3泊4日の初めての旅です。

2012-10-24 14:18:34 | Weblog


今年の4月に出発予定だった韓国旅行ですが、北朝鮮の金正日総書記死去の後ということで取りやめ、10月出発に延期しました。しかし、今回も竹島問題で日韓の緊張が高まり、周りからは何も今の時期にという声も聞こえました。

世界遺産・昌徳宮が休日で残念でしたが、代わりに訪れた景福宮は我が国と朝鮮との歴史を振り返ることができ、有意義な旅となりました。 
夜の明洞を一人で歩きましたが、東京の繁華街の夜を歩く感覚と変わりはありません。四日間の旅の中で日本人観光客として不快な体験はありませんでした。

 10月は遠足シーズンのようで、ソウルの景福宮(キョボックン)、水原の華城(ファンソン)・韓国民族村(ハングミンソクチョン)は子どもたちで賑わっていました。景福宮では幼稚園の園児たちが通り過ぎる私たち夫婦に声を揃えて「コンニチワ」と正確な日本語で挨拶してくれたのには驚きました。先生の指示があったようでしたが、日本語を幼稚園で習っているのでしょう。
 水原華城では小学校高学年のグループと出会いましたが、「アンニョンハセヨ」と声をかけると発音から日本人とわかるのか「I like Japan」と少女が答えてくれました。もっとも、通り過ぎる瞬間、「Japanese ドロボウ」と英語と日本語ちゃんぽんで言う男の子の声が聞こえました。大人が話す「ドロボウ」を覚えていたのでしょうか。

 初めての韓国訪問であり、半年ほどのテレビのハングル講座の学習では韓国語もおぼつかず、竹島問題後のソウル事情が分からないこともあり、ソウル観光の2日間は日本語ガイド・ソンヨスンさんをお願いしました。ソウル観光は地下鉄利用を考えていましたが、私たち夫婦とヨスンさん3人ということもあり、移動は全てタクシー利用となりました。





10月7日(晴れ) 金浦空港→ibisミョンドンホテル・・・明洞散策・・・ホテル文化駅ソウル284(旧京城駅仁寺洞→ホテル・・・明洞散策・・・ホテル


.金浦空港バス乗り場⑥からリムジンバス6001番に乗車。バス停の係員から乗車券購入、スーツケース引き取り券も受け取る。車内のアナウンス(テープ)は日本語もありひと安心。40分で宿泊ホテルのイビスアンバサダー明洞前に到着。

.午後2時にヨスンさんとホテルで待ち合わせ。旧京城三越と旧朝鮮銀行の建物の前を通り、旧京城駅(旧ソウル駅)に・・・昨年8月から文化駅ソウル284と名を変えて公開されるようになった。東京駅設計者辰野金吾の弟子塚本靖が設計、東京駅建設の11年後の大正14年に竣工、日本撤退後も2004年まで使用された。現在は文化サークルの展示場となっているが、構内は建設同時の面影が色濃く残る。各所の説明はハングルと英語のみ。





.夕日が残る仁寺洞を散策、景福宮近くから南に緩やかな下りとなっており、王朝時代の両班(ヤンバン・貴族)の屋敷があったところ。没落した両班が自宅の骨董品を売り始めたのが仁寺洞の始まりという。伝統と近代が融合する街。横道の奥にある伝統茶店に入り、茶色のどろりとした暖かいナツメ茶と桃色の冷たい五味子茶(オミジャ茶)を味わう。





.夜の明洞を歩く。南大門に接する明洞はソウル一番の繁華街。NHKハングル講座から消えた懐かしい2pmのユックンの等身大の写真に何度も出会う。ヨスンさん出入りの土産店で家内が買い物。夕食後、ヨスンさん案内で韓方エステへ向かう家内と別れ、一人明洞をぶらつく。




10月8日(晴れ) ホテル光化門広場・・・景福宮散策(守門将交代儀式・・・正殿・勤政殿から一番奥に位置する乾清宮まで)・・・青瓦台・・・三清洞・・・北村韓屋村東大門市場南大門市場・・・ホテル

.広々とした光化門広場には秀吉軍を撃退した李舜臣将軍とハングルを制定した君主世宗の巨大な像が建つ。資料館が地下にあるが10時開館ということであきらめる。広場では農村の稲刈りの様子を紹介していた

       

.景福宮は日本に翻弄された歴史を持つ朝鮮王朝の正宮である。1592年小西行長軍の侵攻で焼失、以後273年間廃墟まま放置され、1868年に興宣大院君が再建するが多大な建設費と皇后閔妃との対立から朝鮮王朝の滅亡につながる。朝鮮を植民地とした日本は光化門(クァンファムン)を移動し、多くの建物を壊し、ここに三階建ての巨大な石造りの朝鮮総督府を建設した。現在の景福宮の多くの宮殿はその後の再建。




 

.景福宮散策の最後は乾清宮(コンチョングン)・・・ここは26代高宗とその妃・閔妃が暮らし、閔妃が暗殺された宮殿。閔妃の後ろ盾となっていた清国が日清戦争で敗れ、ロシアに援助を求めようとする動きを知った大院君側と日本が暗殺に関わったとされる。



.大統領官邸・青瓦台(チョンワデ)は景福宮の背後にある。北朝鮮兵士が背後の北岳山(ブッカサン)から進入しようとして以来、付近の警備は厳重に。現在では青瓦台の写真撮影は許されているが、付近には制服、私服の警察関係者の姿が目に付く。



.イチョウ並木美しい三清洞(サムチョンドン)は、昔ながらの韓屋(ハノッ)を改造したレストランやカフェ、ショップが集まる。ヨスンさんの話だとここ数年で急速に発展、地価も高騰しているとのこと。地元の客で混雑するヨスンさんも初めてという大衆的な食堂・三清洞スジェビ(すいとん)で昼食。


  
.三清洞から細い階段の坂道をジグザクに登り、狭い路地に伝統な造りの韓屋が並ぶ北村韓屋(プッチョンハノッ)マウル(村)へ・・・西に景福宮、東に昌徳宮に挟まれた台地は貴族階級・両班の住まいがあったところ。ソウルの中心街を望み、この付近の絶景ポイントを選んで「北村八景(プッチョンパルギョン)」と称しているそうだ。カメラを持った若い女性の姿が目立つ。
   光化門広場から歩き始めて、1万5千歩、5時間の散策となった。





.車は世界遺産・昌徳宮の脇を通り、東大門市場(トンデムンシジャン)に・・・五間水橋(オカンスキョ)からかつての美しい姿を取り戻した清渓川(チョンゲチョン)を望む。高架道路を撤去し、暗渠のドブ川を元の姿に戻し、市民の憩いの場とした施策は反対を押し切って強行されたが、今では市民から高く評価されている。
 広蔵市場(カンジャンシジャン)の屋台で昼食予定であったが三清洞で済ませたため予定を変更、五間水橋の角にある東大門履物卸売商街(トンデムンシンバルトメサンガ)へ・・・両側にぎっしりと靴屋が並ぶ狭いアーケードは圧巻。ヨスンさんが値引き交渉、2足購入。





.渋滞する通りを南大門市場(ナンデムンシジャン)に、・・・ソウル最大の市場であったが、隣接する明洞に移転した店も多く、かつての勢いがないようだ。この地区も日本語の呼び込みも多いが、ヨンスさんによると、日本語が話せなければ商売にならないとのと。ホテルまで歩き、明日の水原旅行で困ったことがあったら電話連絡するようにと念を押すヨスンさんと別れる。ありがとうございまし


10月9日(晴れ) ホテルソウル駅水原駅華城行宮・・・華城散策(西将台・・長安門・・華紅門・訪花随柳亭・・蒼龍門・・烽火台・・八達門)佳甫亭(カボジョン)カルビ韓国民族村水原駅ソウル駅>→ホテル

.今日からガイドなしの個人旅行。ホテルを7時15分に出発、朝早いこともありソウル駅まで10分で到着。窓口で「スオン トウジャン(水原 2枚)」で切符購入、「プラットフォーム?」と日本語で尋ねると、乗車券に赤で「5」、出発時間・ムグンファ号・スオンに印を付けてくれた。

 

.ガラガラだったムグンファ号だが漢江(ハンガン)を渡り、次の永登浦(ヨンドウンポ)で満席となる。指定席に関係なく座る姿が見られた。途中から地上に出て並行する地下鉄は満員・・・列車利用で正解。30分で水原に到着。

 

.地図を手に入れようと水原城観光案内所に行くが9時開業、タクシー乗り場に戻る。一般タクシーを待つ人が多く、隣の模範タクシー乗り場に。八達門(パウダルムン)を抜け、八達山の裾野にある行宮駐車場に・・・。頂に見える西将台(ソチャンデ)への道を駐車場にいた係員の若い女性に尋ねる。ネイティヴと変わらない英語に驚く。整備されている階段の山道を一気に143メートルの高さにある西将台まで登る。城内を見下ろせる指揮所であるだけに景色は抜群。
 最高地点の西将台からは城壁沿いに周辺の景色を楽しみながら下る一方の楽な道、韓国最大の城門・長安門で入場料を払い、華城の白眉といわれる水原川を城内に取り入れる華紅門・訪花随柳亭、弓道広場のある蒼龍門、のろしの数で敵の状況を知らせる烽火台、八達門まで3時間のゆっくりとした5キロのウオーキング。途中、3組の日本人ツアー客と出会う。訪花随柳亭では私たちを含めて10数名の日本人が占拠。




















.八達門でタクシーに乗る。行き先を告げないうちに「カボジョンカルビ?」と運転手に尋ねられたのにはビックリ。昼時であり、カメラを持ち、ハットとメガネという典型的な日本人スタイルから分かったのだろう。20世紀初頭には全国3大牛市場のひとつである大規模な牛市場があったことから、水原はカルビが有名。ソウルから各国大使も来店するという超有名店・佳甫亭カルビへ。本館と別館(予約客専用)が道路を挟んで向き合っている。サービス料金の昼食カルビを食べる。



.佳甫亭カルビから韓国民族村(ハングッミンソクチョン)へタクシーで30分,16,000ウオン。水原市はソウル中心街まで地下鉄で1時間、通勤圏内。高層住宅が目立つ。水田風景が見えてくると民族村が近い。
前日までに連絡すれば日本語ガイドも可能とのことだったが、日本語の案内板が完備しており、ガイドなしでもそれなりに楽しめる。20万坪の敷地に実際に使われていた家屋168棟を全国各地から移築して復元展示、韓国の生活文化に触れられる施設も多いとあるが、時間がなくほとんど見学できなかった。一日2回公演の能楽とチュルタギ(綱渡り)を見ることができたのは幸運だったが・・・
  帰りは水原駅への無料バスに乗車。









10月10日(小雨) ホテル・・・明洞散策・・・ホテル→金浦空港

帰路もリムジンバス6001番を利用。バスは一方通行の周遊で、中心部を回るので空港への帰路は30分以上余計にかかる。また、金浦空港は国内線乗客がほとんどで、国際線ターミナルで降りる乗客は少数,あわてて空港最初の停留所で降りる。
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西伊豆・土肥の津波対策は万全でしょうか

2012-09-02 06:39:38 | Weblog


ふるさと土肥はシーズン最後の海水浴客で賑わっていました。
富士山と南アルプスが夏には珍しくその姿を見せていました。
早朝の浜辺では、一ヶ月にわたり海水浴客の安全を守ってきたライフセービング部の大学生が今シーズン最後の打ち合わせをしていました。




 南海トラフ地震被害想定が発表され衝撃が広がっています。伊豆半島は南海トラフの東端にあり,津波は西海岸にある下田、松崎、土肥、戸田などの町を直撃します。土肥の津波対策はどうなっているのでしょうか。

 津波避難ビルに指定されている旅館から海岸を望んだ映像です。6階建て以上の13軒の旅館が津波避難ビルに指定され、地震が起きたらまず近くのビルへ避難というのが町の方針です。
 しかし、NHKで放映された「釜石の奇跡」を見ると子どもたちは海岸近くの避難ビルではなく、より安全な高台への避難で助かっています。



 土肥は南北に山が迫っています。近くの高台も重要な避難場所です。清雲寺の背後の墓地もその一つでしょう。しかし、避難経路の表示はなく、住民の方にしか知られていません。



 町では山への本格的な避難路の工事も始めています。小学校脇から北側の山へ登る道の整備です。この道は昔からのミカン畑に通じる主要な山道で、町の中心近くにあります。



 心配な点もあります。海水浴シーズンの津波避難です。昨年、埼玉県の高校は40年以上続いた伊豆での臨海学校を取りやめて話題になりましたが、不特定多数の海水浴客の避難をどうするかが課題です。
 南海トラフ地震では津波は5分で到達するといわれています。緊急地震速報に連動する海水浴全員に届くような大容量の警報設備の設置、近くの高台への避難路の整備、ライフセーバーの大学生や海の家・旅館関係者の協力での海水客の避難誘導訓練も必要となるでしょう。



 3・11直後に土肥に訪れていますが、あれから一年半たった現在でも、津波避難ビルの指定と一箇所の避難路工事の着工だけ・・・土肥町から伊豆市と行政が広域になった分、防災計画への取り組みが遅れているのではと不安になります。





 
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秩父・三峯神社から霧藻ケ峰を歩く

2012-08-01 07:33:13 | Weblog


秩父鉄道が主催するハイキング「深緑の山歩き 霧藻ケ峰へ」に友人と参加しました。

三峯神社の奥宮である妙法ケ岳、白岩山、雲取山の三つの峰は古くからの信仰の山であり修験者が修行した山々でしたが、近代になり三峯神社、霧藻ケ峰、白岩山を経て雲取山に至る登山ルートが整備されました。

三峰神社から霧藻ケ峰への往復・・・往路2時間、復路1時間半のハイキングです。海抜1,100メートルにある奥宮から1,523メートルの霧藻ケ峰まで、桧、杉、ブナ、ミズナラなどの木々に覆われた道を歩くハイキングは、まさに「深緑の山歩き」でした。

秩父鉄道三峰口駅から三峰山駐車場まで専用バスで・・・駅は海抜300メートル、荒川は深い渓谷となっており、国道140号は荒川を渡り、かつてのロープウエイ駅へ入り口であった大輪の鳥居を過ぎ、渓谷沿いを登っていく。山頂まで杉や桧に覆われた周辺の山々が美しく、山肌にしがみつくように集落がある。海抜530mにある秩父湖で国道と別れ、三峰駐車場へと標高差500mを一気に登る。



三峰山駐車場に50分で到着。海抜1100m地点の駐車場は霧で覆われていた。ここから三峰神社は北へ10分、ハイキング路は南へ進む。

三峰千年の森と名づけられた木々の間に石楠花が集められた庭園のような雰囲気の森を過ぎ、樹齢を感じさせる桧や杉の間を進む。登山道というより参道といった趣

炭焼き平へ・・・炭焼き窯がほぼ原型を留めている。

  

やがて登り坂に・・・薄日が差し込んでくる



あと標高150メートルを登り切れば霧藻ケ峰・・・しかしここからが急坂

太陽寺を経て麓へ降りる道と霧藻ケ峰への登山道分岐点・地蔵峠へ。雲取山を経て奥多摩に抜けるカナダ人ハイカーと話を交わす。

 

海抜1500メートル地点で霧を抜き出て、和名倉山、両神山の山並みを望む
(冒頭の写真)

霧藻ケ峰の命名者、秩父宮殿下・妃殿下のレリーフを見るハイカー



霧藻ケ峰は青空の下にあった。(休憩所はトイレを除いて閉鎖中)



アクセス:

三峯神社ホームページを参照
○バスは平日3便、土・日・祝日で5便、ハイキングで利用するなら西武秩父駅9:10発(平日)、9:10発、10:10発(土・日・祝日)を・・・。
○秩父鉄道主催沿線ハイキングはホームページで確認


参考までに:

三峰山「空中ケーブル」
 
 大正末期から昭和の始めにかけてケーブルカーブームが起こり、筑波山(大正14年)、高尾山(昭和2年)、御岳山(昭和9年)と相次いで建設され、昭和14年には三峰山と麓の大輪との標高差680メートルを8分で結ぶロープウエイが完成、「空中ケーブル」として営業を開始した。しかし近年になり三峰山まで観光道路が通じたこともあり、利用者減と老朽化で2007年に廃止された。

雲取山登山ルートの変遷

 三峰口駅からバス、ロープウエイを乗り継いで三峯神社に参詣、さらに5時間半で雲取山へというのがかつてのメインルートだったが、ロープウエーが廃止され、さらに東京都側の奥多摩からは日原林道や後山林道を車で雲取山登山口まで入ることができるようになり、三峰口からの雲取山登山者は減少した。ちなみに雲取山は東京都の最高峰(2017m)。
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NHKテレビの苗場山登山を懐かしく楽しみました

2012-07-21 07:57:47 | Weblog


昨夜、7月20日のNHKテレビは夏山登山の特集でした。紹介された中で苗場山は2度ほど登ったことがあり、家内と当時の思い出を語りながら、懐かしく視聴しました。
 
 日本百名山の一つ苗場山は海抜2,145メートル、新潟県と長野県の県境にあります。新潟県側からかぐら・みつまたスキー場から登る祓川ルートと長野県側の小赤沢から登る二つのルートを利用するのが一般的です。テレビでは祓川ルートの和田小屋からのスタートでした。赤湯へ下りるルートは経験がありませんので期待をしていましたが、赤湯温泉の映像が中心で頂上から赤湯までの下山の様子がカットされていたのは残念でした。

私の苗場山登山記録です。



2百年前、鈴木牧之も祓川ルートを登りました

 関越道塩沢石打ICの出口で左折、17号線を苗場方向へ。神立のリゾートマンション群を右手に見ながら登り坂の国道を行くと、芝原トンネルがあり、次の短いトンネルを抜け、三俣の民宿村へ入る道を右折します。清津川を渡り、みつまた高原を経て、みつまた・かぐらスキー場へと林道を進みます。  

  途中、新幹線利用の登山客を越後湯沢駅から和田小屋まで運んだ帰りのタクシーとときどきすれ違います。林道管理小屋を抜けてしばらく走ると、スキー場の入り口にある苗場山登山口に到着、20台位の車が駐車できる空き地があります。
 道幅が十分の登山道をスキーリフトに沿って登ると和田小屋に到着、ここからいよいよ本来の登山道です。

文化八年(1811年)旧暦の七月、牧之は12名の友と案内人に導かれ、麓の三俣から清津川を渡り、このルートを登っています。「・・・椈樹森列して日を遮り、山篠生ひ茂りて径を塞ぐ。枯れたる老樹折れて路に横たりたるを踰るは臥竜を踏がごとし・・・藤かつら笠にまとひ、繁る竹身を隠し、石高くして径狭く、一歩も平坦のみちをふまず・・・」と記しています。

今では牧之たちが苦労して登った道は三合目までは車で、それから先は登山道に沿うような形で作られたスキーコースが神楽ヶ峰まで伸びていますから、200年前の面影は全くありませんが、岩だらけの登山道は歩きにくく、何度も躓きながら足を引き上げるような感じで登りました。

 登山口から3時間半で頂上まで登れると案内書には書いてありますが、体調不良気味で年に一、二回しか山に登らない私は5時間も掛かりました。それにしても、道なき道を山篠おしわけながら麓から登り切った牧之をはじめ当時の人々の健脚振りには驚嘆します。



 神楽ヶ峰から頂上に至る様子は牧之の描写そのものでした。山頂直前の「雲尾坂」と現在呼ばれる細い尾根道は、北越雪譜では「馬の背」となっていますが、こちらのほうが的確な命名だと感じました。

 牧之が登った200年前にも、苗場山に登る人は居たらしく、牧之一行は頂上の「・・・木の枝、山ささ、枯れ草など取りあつめ、ふじかつらにて、はひ入るばかりに作りたる・・・」という小屋に一泊しています。

頂上にある小屋の一つ、遊仙閣のご主人のお話ですと、恐らく同じ場所にあったのだろうということです。また、牧之が眼にした山頂からの「・・・越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す。千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛を残せり。ここに眼を拭て扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置くが如し・・・」という眺望は、現在でも条件が揃えば、年に何度かは見ることができるとのことです。但し、千曲川は他の川の間違いだろうとのことでした。

 日帰り登山をする人も多いようですが、とても無理、小屋に一泊しました。翌朝、同じ道を戻りましたが、赤倉山から赤湯温泉に下山する人、小赤沢に降りる人も多かったようです。

 
秋山郷からの小赤沢ルート

前夜は切明温泉宿泊、午前8時に車で出発、405号線を津南方面へ進みます。和山集落を過ぎ、栃川を渡ってすぐが上野原集落です。バス停留場脇の道を右折して集落の中に入ります。鈴木牧之にちなんで建てられた宿のよさの里を通り過ぎ、左手に天保の大凶作・疱瘡のため滅んだ上村集落跡があります。細い道路を更に登ると右手の高台にある自然にできた神秘的な池、天池(あまいけ)があり、ここから望む鳥甲山(2,038m)の険しくそそり立つ岩壁に圧倒されます。

道路はここで左に曲がり、山腹に沿った平坦な未舗装道路となります。途中、展望台を過ぎ、やがて小赤沢からの道路と合流、苗場山登山道の三合目駐車場に到着です。トイレも整備された数十台が駐車できる広い駐車場です。

登山道は林の中に入っていきます。やがて日も差し込まない原生林の中の道となります。原生林を抜けると、潅木が多くなり、周囲は明るくなりますが、だんだんと坂がきつくなり、昇り降りを助けるため、ロープが吊るされている急坂の道となります。やがて見晴らしの利く坂を登り切ると、木道が設置されている平坦な湿原に出ます。ここからは頂上の湿原まで一時間弱です。

 木道を歩き始めて直ぐ、和山からの登山ルートが合流、やがて道は唐松の林の中に道が入っていきます。唐松の低い木を乗り越えたり、潜ったりで、岩の多い道は、平坦だが意外に体力を使います。ここを頑張ると頂上部の広い、池塘が点在する湿原に出ます。



 北越雪譜の序文を書いた京山人百樹は苗場山の地勢を牧之より聞き、「・・・おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂を平坦になし、馬の背の天険をたのみてここに住居し耕作をもしたるが、亡びてのち其の灵魂ここにとどまりて苗場の奇異をもなすにやと思えり・・・」と記しています。

江戸の一流の知識人である京山でさえ、当時の俚言を信じていたことになります。もっとも山小屋で出会った地元の方も、初めて苗場に来たとき、池塘の水面が反射してビニールハウスが作られているのかと錯覚したと言われていましたから、池塘を太古に放置された田圃と考えたのも無理からぬことです。

こちらのルートの所要時間は登り4時間、下り3時間の日帰り登山でした。三合目駐車場からは小赤沢を通り、津南町を経て、松之山温泉に泊りました。

頂上の宿泊施設の予約
頂上には遊仙閣(Tel 0275-87-3268)と苗場山自然体験交流センター(Tel 0257-67-2202長野県栄村観光協会)の二つの宿泊施設があります。シーズン中は予約をしておいたほうが良いでしょう。

遊仙閣は惜しまれつつも廃業されたそうです。




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栃木市大平山から関東平野を望むハイキング

2012-05-23 13:45:13 | Weblog


先月に続いて栃木県大平山を訪れました。
前回、廻らなかった謙信平、太平山、大中寺を訪れました。
関東平野を一望する眺望には感動しました。
東南に筑波山、北に日光連山が姿を現していました。
南に見えるはずの東京スカイツリーと富士山は秋の楽しみとします。

東武線新大平下駅から客人神社(まろうどじんじゃ)、謙信平、太平山神社、ぐみの木峠、晃石山、大中寺を経て新大平下駅に戻る5時間のゆったりとしたハイキングでした。案内板はありますが、大平町観光協会(電話0282-43-9213)作成のパンフレット「大平山・晃石山を歩こう!!」に助けられ、安心して歩くことができました。行かれる方は、ぜひ、地図を入手されてください。

新大平下駅東口から謙信平を経て、大平山神社まで

 .線路越しに、大平山系が市街地の背後に見えます。



 .踏み切りを渡り、稲荷神社脇の道を北に・・・例幣使街道が県道と合流する交通量の多い信号を渡り、客人神社に向かいます。


 
.歴史を感じさせる客人神社の階段を登り参詣、左手の山道に入ります。

 .杉林の中の階段状の坂を登り、舗装林道を横切ると快適な登りとなります。



 .茶店の駐車場に出て、眺望が一気に開けます。筑波山が意外に近くに聳えているのには驚きました。天慶の乱(940年)、当地の豪族・藤原秀郷が、筑波山に本拠地を置く平将門と戦ったのも納得できました。



 .栃木市方面からの自家用車や観光バスが登ってくる一般道を歩きます。桜並木に沿って茶店が連なり、なかなか趣があります。関東平野の眺望が素晴らしく、年間を通じて観光客が訪れます。



 .地元が生んだ作家・山本有三の碑があります。代表作品「路傍の石」の一節「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきたかいがないじゃないか」が刻まれています。



 .車道が終わって階段を登ると大平山神社です。子どもの成長を祈願する絵馬が並んでいましたが、「やけどの痕が薄くなりますように・・・」と書かれた三歳の女の子の絵馬に心打たれました。




大平神社から晃石山へ登り、大中寺を訪れ、新大平下駅へ

  .神社の階段を戻ると、いよいよ晃石山へのハイキング・・・多くのハイカーは太平山公園に車を置いて、ここからぐみの木峠・晃石山へ向かいます。新大平下駅から歩き始めるハイカーは少数派のようです。ぐみの木峠までは平坦な林道・・・大中寺からぐみの峠へ登ってきたハイカーもいました。左手に下に、雨月物語に出てくる中山が見えます。



  .晃石山への登りは距離はわずかですが、木の根がむき出しのきつい登りです。ハングライダー基地を通り過ぎると頂上はすぐです。

  

  .晃石山山頂の広場は小さいですが、ベンチが二つあります。北側に展望が開け、雪を頂いた日光白根山や男体山など日光連山が見えます。

       
  
.晃石神社を経て、大中寺へと下ります。林の中に設置されたモノレールで頂上に向かうハングライダーとすれ違いました。

      

  .力水で一服。すぐに林道(舗装)に出て、左方向へ・・・道路沿いにはアジサイが植えられた平坦な道を大中寺へ・・・



.大中寺は平安時代末期に真言宗の寺として創建され、荒廃されたままになっていたのを室町時代末期に快庵妙慶禅師が曹洞宗の寺として再興しました。戦国時代は上杉家、江戸時代は徳川幕府の庇護を受け、現在に至っています。この寺の縁起が「雨月物語・青頭巾」の話として伝わっています。



.大中寺の南には中山という小山があり、県道を横切ってその裾野にある歩道に入れば、新大平下駅まで20分です。その昔、木々に覆われたこの中山を越えて、寺から山の鬼が夜な夜な富田(現大平町)にやってきたのでしょうか(雨月物語・青頭巾より)。





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電車で行く日帰りハイキング・・・新緑の栃木県大平町へ

2012-04-20 15:30:22 | Weblog


写真は今回のハイキングコース全景です。
ぶどう園の奥の大平町西山田の集落の左端が出発点のかかしの里・・・山の鞍部が桜峠・・・一番高い山が晃石山・・・中央の山腹で満開の桜が咲いているのが清水寺・・・これらを一周する3時間のハイキングでした。

大平町のNPOかかしの里募集のハイキングをネットで知りました。
以前から、大平山には一度は訪れたいと思っていましたので、渡りに船と参加しました。
東京・北千住駅から東武スカイツリーラインで1時間半、東京の桜は散っていましたが、大平町では満開でした。

電車はひたすら北に向かって走ります。利根川を越え、30分経つと丘陵が見え始め、関東平野が尽きるところが栃木県の大平町です。
 新大平下駅で下車、人通りのほとんどない町を東に向かって歩き、「富田(とみだ)」の信号に面した「例弊使街道・富田宿本陣」という看板のあるお宅を過ぎると、田畑の向うに大平山系が東西にわたって屏風のように立ちはだかっています。

 東の端が4,000本の桜の名所「大平山(おおひらさん)346m」、中央の一番高い山が「晃石山(ひろいしざん)419m」、西に「馬入不山(うまいらずやま)315m」の太平山系で、その稜線を歩き、中腹にある「大中寺」「晃石神社」「清水寺(せいすいじ)」を訪れるハイキングコースがあります。

 今回の「第3回太平山系南山麗トレッキング」は約30名の参加者で、海抜90mにあるかかしの里から晃石山・馬入不山の鞍部の桜峠291mへ登り、稜線を晃石山419mへ・・・晃石神社から林道西山田線に降り、清水寺を経てかかしの里に戻るという3時間の周遊ハイキングでした。

かかしの里を9時30分に出発です。遠方に桜が満開の大平山が見えます



ブドウ畑のあぜ道を進みます。参加者には家族連れも見られました。



清水寺の桜を右手に見ながら、桜峠に進みます。山道に入り、傾斜もきつく感じます。




桜峠の東屋の屋根が見えてくれば、あと、一息です。




桜峠です。戦国時代、上杉軍に敗れた地元・皆川勢の兵が金の鹿の置物を埋めた伝説が残る古くからの峠です。山桜が多いことから桜峠と呼ばれるようになりました。
参加者最年少の少女は記念撮影です。




桜峠からは稜線を行きます。最初の急坂には手すりが設置されています。木々の間から西山田集落の畑が覗けます。





晃石山の頂上です。晴天の休日ということもあり、混雑・・・北の方角に見える雪をかぶった日光連山は、残念ながら春霞のため、見えませんでした。



晃石神社で休憩、天慶の乱(940年)に藤原秀郷がここで平将門との戦への勝利を祈願したことが知られています。天気がよければ、将門の本拠地である下総の国・筑波山を望むことができます。



杉林の中を西山田の林道まで下ります。途中、虎目石と呼ばれている巨石、唯一の水場である力水があります。ハングライダー用のモノレールが見えます。



舗装された林道を西に進むと清水寺です。ここでトイレ休憩。



山桜が咲く山裾にある梨畑沿いの道を下ります。振り返ると晃石山が見えます。



12時半にかかしの里に到着。山桜が多い大平山系の「万本桜まつり」が行われ、地元の方のショーが行われていました。桜が終わると、新緑が美しい季節が始まります。ハイキングコースを山つつじが彩ります。



アクセス情報です



北千住駅ー新大平下駅 860円
新大平駅ーかかしの里 徒歩50分(路線バスはありません)




 
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地下鉄銀座線の新型車両の話題から・・・

2012-04-07 10:59:10 | Weblog
昨日の新聞に地下鉄銀座線の新型車両の話題が載っていました。
あの車両をどのようにして地下鉄に搬入したかという古くからある疑問に答えたものです。
愛知県で製作した車両はトレーラーで中野区にある丸の内線の地上基地に運ばれ、丸の内線を走り、赤坂見付で銀座線に乗り入れるということでした。

 そういえば、赤坂見付駅では丸の内線と銀座線が同じホームの左右に並行して発着します。昭和2年(1927年)に我が国最初の地下鉄として銀座線が建設された際、続いて丸の内線の建設が始まります。赤坂見付駅にそのホームと渡り線路を作り、赤坂見附 - 四谷見附まで工事が始まりましたが、太平洋戦争の戦局悪化のため建設が中止されます。

 数年前、ニュース映像でアルゼンチンのブエノスアイレスの地下鉄に懐かしい丸の内線の旧型車両が走っているのを見て驚き、我が国の使用済みの中古車両が輸出され、アルゼンチンで使われてことに日本の技術水準の高さに優越感を覚えたものです。
(ブエノスアイレスの地下鉄映像がYou Tubeで紹介されています)
http://www.youtube.com/watch?v=436OxI-uGqQ


しかし、この優越感は根拠のないものであったことを後日知ることになります。
 大正時代に東京で東洋初の地下鉄が計画されたとき、そのモデルとされたのが1913年からすでに営業していたブエノスアイレスの地下鉄でした。トンネル断面が小さく、車両自体も小さい規格は建設費も安く、我が国の実情に合っていました。軌間もブエノスアイレス地下鉄の標準軌(1435mm)をそのままに、車両もまるごと模倣しました。
 これが、丸の内線の走行車両がそのままの姿でブエノスアイレス地下鉄を走ることができる理由でした。いわば、地下鉄の里帰りといったところでしょうか。

 銀座線・丸の内線の標準軌・1435mmにはもうひとつのトピックがあります。大部分が狭軌・1067mmである他社線と相互乗り入れができないのです。東京メトロ千代田線に小田急電鉄のロマンスカーが走っているの見たことがありますが、千代田線も小田急線も狭軌・・・相互乗り入れができるのです。



 地下鉄発祥の地・銀座線浅草駅から地上に出ると、東京スカイツリーがまじかにそびえています。しかし、「とうきょうスカイツリー駅」(旧業平橋 ・なりひらばし駅)に行くには、浅草からたったのひと駅ですが、東武線に乗り換えなければなりません。銀座線が狭軌だったら東武線と相互乗り入れしていたのに・・・と残念に思う人がいるかもしれません。
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町中の人々が迎えてくれた真壁のひなまつりでした

2012-03-04 17:12:58 | Weblog
3月3日、真壁ひなまつりに出かけました。
2月4日から一ヶ月に亘って開かれていたひな祭りの最終日でした。
久しぶりの穏やかな日差しに恵まれ、人々で賑わいました。
つくばTXの終点つくば駅9時30分の始発バスは満員、臨時バスが増発されました。

 「寒い中、真壁に来てくれる人をもてなせないか」という住民の思いから始まった真壁のひなまつり、町中の人々にあたたかく出迎えてもらいました。
200軒近い家々が雛飾りを披露・・・玄関先に、座敷に、蔵へと自由に見てもらおうという心意気に感動しました。

 茨城県で初めての重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けた真壁町は、400年前の町割りそのままの町並みの中に、江戸末期・明治・大正・昭和に建てられた見世蔵、蔵、木造の町家、門、築地塀が並び、ひな祭りの雰囲気と調和していました。

 東日本大震災で多くの建造物が被害を受け、開催を危ぶまれた真壁のひなまつりでしたが、青色のシートで屋根を覆った家々の中でのひな祭りには一層心を打たれました。

 長屋門を持つ農家では、美しい庭の奥にある蔵に飾られた雛壇を公開していました。庭を歩く見学者を琴で迎えてくれたのは山中 聖愛(きよら)さん・・・ありがとうございました。



 ある旅館では2階の大広間を開放、ここでも琴の演奏がひな祭りを盛り上げていました。床の間には町で一番古い300年前の享保雛が飾られていました。



ボランテイアの女性には一時間に亘って案内していただきました。来年の再会を誓って拍手で労をねぎらいました。



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英国のフットパスー湖水地方とコッツウオルズーを歩く

2012-02-20 14:34:47 | Weblog


2月19日の朝日新聞とっておきの旅」で朝日旅行主催の英国フットパスウオーキング募集が載っていました。新緑が美しい5月から6月の初めにかけて、湖水地方と丘陵地帯のコッツウオルズを歩こうという8日間の旅です。

英国では村を取り囲むように広がる牧場や耕作地を自由に歩くことが、公共の権利(right of way)として認められて来ました。生垣・溝・土手に設けられた「あぜ道」、時には農場や牧場を横切って歩いて自然を楽しむのです。それぞれの地方の観光案内所tourist information(小文字iがトレードマーク)やホテルには手書きのフットパス地図が置いてあり、だれでもが気軽にウオーキングを楽しめるのです。

Cotswoldsコッツウオルズにある「英国で最も美しい村」といわれるbiburyバイブリーと隣接するArlingtonアーリントンを衛星写真で見てみましょう。ズームインすると左上に二つの村が現れ、周辺に農地や牧場が見えてきます。このなかにはいくつものfootpathがあります。

20年前に出かけたときの写真ですが、フットパスウオーキングの一端をご覧ください。

◎宿泊したバイブリーのThe Swan Hotel スワンホテルです。



近くに15世紀に馬車の車輪を作っていた鍛冶屋から始まったInn(宿屋)、The Catherine wheel キャサリーンホイールもあります。

◎白鳥が遊び、鱒が泳ぐ清流コルン川River Coln、奥に石造りの橋が見えます。




◎17世紀の紡績職工が住んだArlington row(長屋)は史跡として保存されています。



◎footpathとなっている麦畑のあぜ道や牧場です。




フットパスのウオーキングには当然、ルールがあります。
地図を入手して、そのルートに従って歩かなければなりません。標識があれば、それに従います。
ウオーキング専用ですから、自転車は入れません。なお、犬は飼い主の責任で一緒に連れて行くことができます。
農場の牛・馬・羊などの家畜が外に出ないようにフットパスに扉が設けられている場合は、開けたら必ず閉めるという暗黙のルールがあります。

ルールではありませんが、他のウオーカーに出会ったら、挨拶するのも楽しいものです。湖水地方のバターミア湖buttermereを一周したときのことです。こちらの挨拶に「Hello, again!」と答えてくれ、同じ方に2度出会ったのだと知らされたのも楽しい思い出となっています。

バターミアの地図を開き、ズームアウトすると500mから800mの山々に挟まれる二つの湖が見えます。小さいほうがバタミア湖です。
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1月、高尾山に登る

2012-01-16 13:48:20 | Weblog
1月8日、正月明けの土曜日、高尾山に登りました。
真冬の晴天でしたが、風が凪いでいて、暖かな登山日和でした。
ミッシュランの三ツ星観光地となっていらい、人気沸騰・・・
頂上は観光客で賑わっていました。

新宿駅から1時間、381円で登山口まで行ける
東京スカイツリーは当然のこと、都心まで見通せる眺望
富士山をまじかに見ることができる
体力に応じたコースを選べる
休憩所・トイレが要所要所に設置され、安全快適な登山ができる
などが人気の理由でしょう。


高尾山は筑波山と並んで、永年にわたって首都圏の小学生や中学生の遠足の候補地でした。人気のケーブルカーは高尾山は昭和2年、筑波山はそれより早く大正14年に建設されました。
現在は健康志向でケーブルカーを利用せず、海抜200mのケーブルカー口から599mの頂上まで登るのがトレンドとなっています。

登山コースは、家族ずれにやさしい歴史ある1号路、沢すじを登り紅葉時期には登り専用となる6号路、稲荷山の尾根を登る南面の明るいやや健脚向きの稲荷山コースがあります。
さらに高尾山から小仏城山を経て相模湖に下りるコースも人気の的です。
詳しくは次のサイトの地図を参照ください。
http://takaozanyuho.com/guide/

稲荷山コースを登りました。

10時、京王線高尾山口駅に到着・・・ハイカーが目立ちます。高尾駅から単線区間であることを知りました。



徒歩10分でケーブルカー駅です。右手に行けばに1号路、左手直ぐに稲荷山コース、奥に6号路です。

   

海抜200mの稲荷山コース入口です。身体が慣れていないうちに登る階段の登山路は息が切れます。

   

左手下に圏央道高尾山インターが建設中です。明るい林間の道を進みます。



海抜400mにあるあずま屋が見えてきます。ここから東京スカイツリー、都心のビル群が遠望できます。

   

稲荷山から高尾山への尾根道を行きます。富士山が左手に見えるようになると、5号路、6号路が集まる休憩ポイントに到着、頂上はすぐです。

   

最後の階段の急坂を上りきると、599mの頂上に到着です。11時20分でした。冒頭の写真は高尾山頂上からの富士山です。

   

早めの昼食を取り、小仏城山を目指します。頂上にデジタルテレビ中継局のアンテナが見えます。

  

左手に富士山の絶景を眺めながら、快適な尾根道を進みます。絶景ポイントの一丁平のあずま屋を過ぎれば頂上まで直ぐです。

   

13時に670m小仏城山に到着です。午後になり景色が鮮明になり、東に筑波山もわずかに山容を確認できます。南西には富士山と相模湖が並んでいます。

   

ここから小仏峠を経て相模湖に抜けられますが、今回は再度景色を楽しみながら、往路を戻ることにしました。
途中、高尾山頂上の北側斜面で、めずらしいシソ科の多年草であるシモバシラをみることができました。昨年はまったく出なかったそうです。



午後3時前の稲荷山コースです。午後の日差しが差し込む静かな下山路となりました。




初夏、友人と再訪しました。














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「うつくしま・ふくしま」へ出かけ、日本人の原風景に出会いましょう

2012-01-06 17:15:37 | Weblog
年末年始を福島県南会津町湯の花温泉で過ごしました。
平坦な高層湿原を頂上に持つ田代山を望む鄙びた温泉地です。
放射線量は0.05・・・都内と変わりません。しかし福島県であることから、風評被害の波は押し寄せ、温泉客もスキー客も激減、当地の主力である観光業にかかわる人々には痛手です。温泉で出会った地元の方は、経営する民宿の温泉が地震後出なくなり、今はスキー場で働いているとのこと、賃金が支払われるかどうかと不安を口にされていました。四月からは復興工事の仕事で、沿岸部に出かけるそうです。

美しい山々、清き流れが待っています

元日の福島民報には「うつくしま復興」の文字が踊っていました。湯の花温泉周辺だけでも、田代山の他に、湯ノ倉山や大嵐山があります。5月下旬の山開きを多くの登山者が待ちわびています。



湯ノ岐川は岩魚や山女の宝庫です。この清流は舘岩川と合わさり、夏には釣り人や水遊びの子どもで賑わいます。下流は鮎釣で知られる伊南川、水量豊かな只見川、新潟平野を潤す阿賀野川となって日本海に注ぎます。



作家・立松和平が「日本人の原風景」と称した集落が訪れる人を包んでくれます

 湯の花温泉から3キロ南へ行く水引集落があります。部落の入り口に湧水があり、水引と呼ばれるようになったのでしょう。戸数は20軒くらいでしょうか。会津地方の最南にある奥まった山間集落です。
 ここで見られる茅葺曲家は3軒だけ、しかも東京のNPOが管理しています。屋根の葺替え、補修に手間と費用がかかり、現代住宅に切り替える住民が増えるにつれて、「結いっこ」と呼ばれる建替え相互扶助の制度が廃れ、町からの曲家補助金も打ち切られ、今では曲がり家に住む人はいなくなりました。しかし、住民の絆は強く、全戸が家族のような絆で結ばれており、立松和平がなんども訪れたことで知られています。



 舘岩川沿いに走る国道352号に面した茅葺曲家集落です。舘岩地区の中心・松戸原から2キロ西です。明治40年の大火で全戸13戸が焼失、近在や新潟の13人の棟梁とその弟子たちが一年をかけて茅葺曲家を再建、統一された美しさが際立ています。現在11戸で住民の方々が生活しています。
 昨年、文化庁より重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けました。福島県では大内宿に続いての2番目の指定です。17世紀初頭から綿々と400年続いている集落で、舘岩川に面していることから、前沢という地名となりました。



「バッタリ小屋」がうつくしまの懐かしい音を聞かせてくれます

 湯の花から水引へと歩きはじめて直ぐ、「バッタリ小屋」という標識がありました。毎年、湯の花に来ていますが、目にするのは初めてです。水引でであった方に尋ねると、昔は小川に沿って一軒ごとに「バッタリ小屋」を持ち、米、きび、そば、ひえ、あわの脱穀、精白・製粉を行っていたとのことです。現在では湯の花に大工さんが復元したバッタリ小屋があるだけだと話してくれました。
 庭園でよく見る鹿威し(ししおどし)と似た構造の脱穀製粉用具で、バッタリとは擬音語なのでしょう。



 翌日出かけた前沢集落の入り口で、水車小屋とバッタリ小屋が並んで保存してありました。雪に埋もれており、バッタリの構造は想像するしかありませんでいたが、その後、ネットで調べてみると、前沢の水車小屋とバッタリ小屋が稼動している映像と音がYou Tubeに載っていました。







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