memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

瀬名じゅんさんと納豆そば

2015-05-19 05:51:19 | グルメ
「おんなのイケ麺」
2015年5月15日(火)朝日の夕刊より。

「本むら庵 荻窪本店」の納豆そば

 子供の頃から家族で来ています。父の好きな「せいろそば」がわたしもお気に入り。細い麺でつるっといけちゃう。
 でも、宝塚音楽学校に入ってから退団までの約20年間は来る機会がなかったんです。数年前に来たとき、せいろの変らない味が嬉しかったですね。
 少し前に、納豆が大好きなので「納豆そば」を頼んでみたんです。納豆に混ぜたおろしショウガがほんのり香って、粗目に削ったたくさんの鰹節は存在感たっぷり。満足できる一品で、それ以来いつもこれです。「玉子厚焼」も必ず頼みます。ふわふわで、だしと甘さのバランスが絶妙なんですよ。
 週末は行列ができますが、そばを打っているところが見られるんです。窓ガラスにへばりついている子供を見ると、私もそうだったなあって。生まれ育った街の思い出のあるお店なので、今も行けるってありがたいなと思います。

◆東京都杉並区上荻2-7-11
 ☎03-3390-0325
 納豆そば¥972m玉子厚焼¥723.
 11:00~21:30(9時ラストオーダー)火休

柳宗理のステンレスボウル

2015-05-19 05:32:39 | GOODS
柳宗理の「ステンレスボール」。
販売元は佐藤商事(東京都)。5つSETで希望小売価格¥10000(税抜)。
百貨店やセレクトショップなどで扱っている。

スタイリスト伊藤まさこさんのおすすめ雑貨紹介ページ「そばにおきたい」
伊藤さん担当の最終回の記事で紹介されていました。

 料理を始めてすぐに揃えたのが、工業デザイナーの故・柳宗理さんがデザインしたこのボウルです。
 料理の仕事につき始めて間もない頃だったと思います。気をつけて良く観ていると、料理家さんのキッチンでもよく見かけるのです。まずデザインが美しい。それに加えて機能的。みんなが使うわけが自分で使ってみてわかったのでした。
 大きさはいろいろ。直径13cm、16cm、19cm、23cm、27cmの5種類があって、私は卵白を泡立てるのならば、2番目に大きなもの、サラダ用の葉野菜を水につける時は一番大きなもの、あえ物にはこれ・・といったように使い分けています。
 バラバラにも買えるので、自分の使い勝手に合わせてそろえるとよいのではないでしょうか。わたしは13cmのものを5つ、16cmのものは3つなどと同じサイズを購入。調味料を量ったりお菓子の粉や砂糖を計量したりと様々な場面で重宝しています。
 ステンレスなので、清潔に保てる。そんなところもお気に入りのひとつです。新しい生活を始める人にプレゼントすることもあります。「ずっと使っています」などと喜ばれると嬉しいものです。
 
 



高倉健とイノダコーヒー

2015-05-06 07:02:33 | 
2015年4月28日朝日夕刊記事より

「京ものがたり」のコーナーで高倉健のコーヒーブレイク、という記事がありました。
あのお店に・・・そうなのか、しっくりくる構図だわ・・と思い、そういう場所を持てるというのも人生において大切なのでは、と感じたので、全文転記致します。


 高倉健にとってコーヒーは生活必需品だった。仕事や私的に訪れる土地に、なじみのコーヒー店がいくつもあった。
 その一つが、京都の老舗コーヒー店「イノダコーヒー」だ。約50年勤めたコーヒー職人の猪田彰郎(82)は、「祇園祭の時、萬屋錦之介さんと浴衣姿で見えたのが最初でした。任侠もので人気が出る前。ほれぼれしました」と語る。
 その後、猪田が接客した三条支店に、多いときは一日に朝晩2回通った。店の顔でもある楕円カウンターを好み、昼は、光が差す窓側中央、夜は、柱が目隠しになる入り口側の真ん中が定位置だった。
 モカを基調にした同店オリジナルブレンド「アラビアの真珠」を、砂糖なし、ミルクたっぷりで。うんちくは語らない。一口飲んで、ギョロッと目を見開き、満足そうに「おいしいです」とひと言。

 寡黙な役柄が多かった高倉だが、一緒にコーヒーを飲んだ人たちは皆、「よく話をされました」と振り返る。猪田の前でも、朝は無口に新聞を読んでいたが、夜はおかわりを重ねて、旅した欧州の思い出などを生き生きと語った。
 「冗舌さの根底にあるのは、秘めた孤独感でしょう」と、30年にわたって高倉を取材した出版プロデューサーの谷充代(61)。孤独と、個の時間を知るからこそ、心を許す人や、好きな空間に浸るときは、言葉がほとばしるのだとみる。

 常に精進し、高みを目指す高倉を、共演した田中邦衛(82)は「峻烈な山」にたとえた。20数年前、それをどう思うのかと、谷が高倉に尋ねると、熟考の末、「人は誰でも幸せになるために必死でもだえているんじゃないでしょうか。きれいごとではない。修羅場です。でも確実に幸せに向っている。そう信じたいんです」と答えた。
 高倉がもがきながら進んだ人生には、逃れきれないスターの孤独や、愛する人との別れがあった。1982年、元妻の江利チエミが急死したとき、混乱を避けて彼女の自宅の裏でこっそり手を合わせた。母親が危篤のときは、周囲に迷惑をかけまいと映画の撮影を続けた。
 「俳優ってつらいな」。東映時代から親交があり、江利を弔う私的な旅に同行した京都市の会社経営者、西村泰治(76)は、そうつぶやく高倉の孤独を間近で見た。「旦那(高倉)は、太陽みたいにすごい人ですが、その分つらいことも、ぎょうさんあったと思います」
 西村もまた、イノダコーヒーに高倉と通った。印象的なカウンターは今も変わらない。
 高倉が世を去って5カ月あまり。コーヒーブレイクを共にした人たちは、その時間を「人生の宝物」だと語る。


*イノダコーヒーを訪れた高倉健さんが、コーヒーと一緒に、時々注文したのがチーズケーキだ。「意外でしょうが、甘いものが好きなんですよ」と西村さん。包装のセロハンを丁寧にはがし、いつもおいしそうに食べていたという。
 現在、店で提供するチーズケーキは、東京・銀座で人気のあった老舗ドイツ料理店「ケテル」(閉店)のレシピを受け継いだものだ。本家のノウハウを生かし、自社工場で手作りしている。甘さは控えめで、中のレーズンがアクセントに。本支店で食べられるほか、直営のケーキ工房「ケテル」(京都市中京区六角通高倉東入堀之上町128 ☎075・254・2504)でも購入できる。

新宿「礼華」の酸辣湯麺

2015-05-04 08:31:56 | グルメ
なんと去年の切り抜きから・・・
2014年8月26日朝日の夕刊。恒例の「おんなのイケ麺」

城之内早苗さんのおすすめの紹介文がとても好みの感じで・・・。

「中国料理 礼華(らいか)の酸辣湯麺(サンラ―タンメン)」

事務所の社長の紹介でこちらのお店を知ってからは、スタッフやプライベートで友達ともよく行きます。「落ち付いて食事をしたい」というときには一番のお店です。

 他の店でもサンラ―タンメンは食べてきましたが、こちらはお酢がきいていてくどくなく、ひと味違います。酸味や辛さなど味付けはしっかりしているのに、さっぱりとしていて優しいんです。私好みの細麺でスルスルと箸が進み、完食して満腹なはずがまだ食べられる気がするほど。お店の方に聞くと、冷房にこたえた体にもおすすめですって。体の内側から温まるんでしょうね。元気がないとき、無性に食べたくなります。健康のバロメーターですね。
 お茶にもこだわっていて、良い香りの中国茶に癒されます。店内は洒落た雰囲気で、味はもちろん、色んな点で楽しめます。「大人女子」に訪れてもらいたいですね。

■東京都新宿区1-3-12 ☎03-5367-8355
 平日の11:30~14:00は¥1000(土日祝は¥1296)、17:30~21:30は\1425。

マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~蓮実重彦の弔辞~

2015-05-04 04:02:00 | 映画
2015年4月14日(火)朝日朝刊掲載

蓮實重彦氏によるポルトガルの巨匠、106歳で逝ったマノエル・ド・オリベイラ監督への弔辞が掲載されました。
全文を転記したいと思います。

「心の不自由 語った巨匠~106歳マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~」

 あの高齢なクリント・イーストウッドさえその前に恭しく頭を垂れた偉大な映画作家マノエル・ド・オリベイラが、106歳の生涯を閉じた。このポルトガルの巨匠は、100歳を超えてもなお精力的に映画を撮り続け、国際映画祭はその新作を奪い合い、103歳の作品「家族の灯り」(2012年)にジャンヌ・モローとクラウディア・カルディナーレが共演していたように、スターたちも彼の映画への出演を競い合っていた。小津安二郎、マルセル・カルネ、ジョン・ヒューストンなどの「往年の巨匠」と同世代だったこの監督が、21世紀にもなお優れた作品を発表していたのは奇跡というほかにはなく、その穏やかな死とともに、20世紀はついに終わったと呟かざるをえない。

 オリベイラの名を世界に高らしめた「繻子の靴」(85年)を撮った時、監督はすでに80歳に近かった。上映時間7時間に迫るこの超大作の成功により、ほぼ一年に一作を発表する巨匠と認められたのだが、それ以前の彼は、1933年から74年までの独裁的なサラザール政権によって作家の自由を奪われていた。彼自身に不幸な沈黙を余儀なくさせたポルトガルの歴史は、過去から現在にいたるまで、傑作「ノン、あるいは支配の空しい栄光」(90年)に大胆に語られている。政治的な自由が回復してもなお人間が囚われている心の不自由を彼は「神曲」(91年)で鮮やかに描いて見せ、名高いピアニストのマリア・ジョアン・ピリスを優雅な狂女役として抜擢したことでも世界を驚かせた。
 「ボヴァリ―夫人」の大胆にして繊細な翻案「アブラハム渓谷」(93年)の渓谷とは、監督がその生涯を過ごしたポルトを流れるドウロ河両岸のなだらかな地形を意味する。習作といってよい初の中編の「ドウロ河」(31年)や長編第一作の「アニキ・ボボ」(42年)以来、監督が自ら泥棒役を演じて笑わせる「わが幼少時代のポルト」(01年)にいたるまで、この河のゆるやかな流れとそれを見下ろす起伏豊かな土地の光景は、彼の作品を活気づける忘れ難いイメージにおさまっている。「アブラハム渓谷」には、フローベールがその長編小説を執筆したセーヌ河畔の家を対岸から描いた水彩画とまったく同じ構図が挿入されており、そのことを指摘したところ、偶然の類似をことのほか喜ばれた監督は、その画面を撮った場所を案内するからぜひポルトに来るようにといわれた。ところが、親しい映画作家や批評家は、ポルト詣でにはこぞって大反対だった。街の高級レストランで美味しい料理を満喫してから必ず自宅に招待されるが、夜の急勾配の細い道路を90歳近い監督が鼻歌まじりにハンドルを握って猛スピードで疾走するのには、生きた心地がしないからだという。

 「神曲」がベネチアで上映された折に初めてお会いしたとき、80歳を超えていたオリベイラ監督は、ホテルのプールで鮮やかなダイビングを披露しておられた。青年時代には水泳と体操の選手で、カーレースでも優勝しているのだが、90歳を過ぎてから小津安二郎の生誕100年を祝いに来日されたとき、鎌倉の墓前でじっと頭を垂れておられた監督は、帰り際にいきなり円覚寺の長い階段を後ろ向きに軽々かけおり、まわりの者たちを呆気にとらせた。厳格きわまりない演出家がときに演じてみせるあの身軽さが、長寿の秘訣だったのだろうか。合掌。

*編集委員による追記*

オリベイラ監督は1908年、ポルトガル北部の港町ポルトに生まれた。国際的な評価を得たのは70代になってから。99年には「クレーヴの奥方」でカンヌ映画祭の審査員賞を受賞している。その作風は時に正調、時に破調で変幻自在。人を食ったような展開もままあり、観客の予断を許すことがなかった。
 2010年のカンヌでは、「アンジェリカ」(仮題)が「ある視点」部門のオープニングを飾った。美少女の遺体にカメラマンの青年が夢中になるという独創的で美しい物語だった。この時のパーティで、101歳の監督にお目にかかった。握手をした手の厚みと温かみは、今でもよく覚えている。
 2日に106歳で死去。「アンジェリカ」は日本での配給権を持っていた会社が相次いで破綻。「幻の傑作」になりかけたが、このほど公開が決まった。年内の公開を目指している。