memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

有馬稲子が語る小津映画の現場

2015-03-03 07:07:43 | 映画
朝日の朝刊で連載している「小津安二郎がいた時代」
小津映画のファンとしては色々な側面からその撮影現場、人となり、時代がうかがえて楽しみなインタビュー記事である。
2015年3月1日(日)は女優の有馬稲子。
今回はわたくしが感じる小津映画の魅力も期せずして語られていて・・・。共感しました。

以下全文。

ただふりかえるだけの場面だった。当時、すでに大女優だった原節子が何度も何度もやり直しをさせられていた。
 「そばでみていたら、緊張でもう顔ががくがくけいれんしてきました」
 有馬稲子が、初めて小津安二郎の映画「東京暮色」(1957年)に出演した時のことだ。「ただでさえ、しわぶき(せき)ひとつ聞こえない静かな現場なんですから」 32年生まれ。宝塚歌劇団を経てスクリーンデビュー。「東京暮色」までに30本以上の映画に出演していた。 
 だが、小津の撮影現場はそれまでと全く違った。まず、食器やコップなど小道具をセンチ単位で動かし、長い時間をかけて位置を決める。それから役者が決められた位置に入る。スタッフは目で合図を交わし、聞こえるのは演技指導をする小津の小さな声。「厳粛な現場でした」
 「東京暮色」では自由に演技ができた。「余計なことを考えなかったせいかもしれません」。山田五十鈴との2人の場面を見ると、「大女優の山田さんを相手に、我ながらよくがんばっていたと思います」。
 ところが、翌年に出演した「彼岸花」ではたっぷり絞られた。「まわりの人の様子から小津監督の偉大さに気づいて、プレッシャーを感じるようになったんでしょうか」
 ほんの短いセリフを何十回も繰り返した。「違うなあ」。小津が手本を示す。「とってもお上手なの。でもそんなふうにできなくて」。静かな現場で緊張が高まる。「厳しかった。唇がけいれんしてきました」
 撮影が終わると厳しさは一転した。よく食事に誘ってくれた。なかでも横浜のレストランで食べたステ―キのおいしさは今も覚えている。高級店ではなく、老夫婦が切り盛りするこぢんまりとした店。内装も雰囲気も「小津好み」だったという。
 時を経て気づいたことがある。「彼岸花」で山本富士子はきれいな京都弁を話し、浦野理一のあでやかな和服を着ていた。「私はチャコールグレーの地味な感じの服装でセリフも短く、ちょっとうらやましかったの」と笑う。でもチャコールグレーは小津が好んだ色。後から見ると2人のコントラストはまるで美しい絵画のようだった。小津美学を実感した。
 もう一つ感じるのは、日本語の美しさ。「晩春」(49年)を始め、小津作品の原節子のセリフには今でもうっとりする。父親役の笠智衆らに使う自然な敬語が心に残る。
 「小津映画の中にしか残っていない世界かもしれませんね」