memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

思いを馳せる: 訃報 指揮者 ラドミル・エリシュカ氏

2019-10-28 12:13:50 | 
2019年9月1日 腎不全のため88歳で亡くなったチェコの指揮者、ラドミル・エリシュカ氏の訃報が、
2019年10月26日の朝日夕刊に、編集委員 吉田純子氏の筆で記された。

あまりに完璧な、故人を偲ぶに的確な、文章の力に恐れ入ったので、全文掲載させていただきます。


「新世界から」「モルダウ」など、あまりにポピュラーになり、芸術としての奥行きを顧みられなくなっているチェコ音楽の
名誉回復に心血を注いだ。
その真価を認め、晩年の進化を熱く見守り続けたのは、昨今の音楽業界の商業主義に懐疑の目を向け、本物志向を強めつつあった日本の音楽ファンだった。

 根っからのチェコ人。「プラハの春音楽祭」に出演するほどの名匠だが、共産党政権下で西側での活動を厳しく制限された。
1987年の民主化ののちもその名を知られぬまま、教育の仕事に情熱を傾けていた。

 「チェコにすごい指揮者が眠っている」
現日の日本人音楽家からの情報を得た楽団の招きで。2004年に初来日した。
厳しいリハーサルののち、チェコ音楽本来の土の香りと芸術的洗練を併せ持つ、日本人がかつて聴いたことのない響きを編んでみせた。「この人は本物だ」
全国各地の楽団が競うように招聘を決め。09年にはNHK交響楽団とスメタナの「わが祖国」で共演し、同年の聴衆投票で1位になるという奇跡を起こす。

 17年春に体調を崩したが、医者を説得し、秋の来日公演に臨んだ。これが、人生最後の演奏になる、と静かに覚悟を決めていた。
名誉指揮者を務めた札幌交響楽団と奏でたのは、「シェエラザード」。スラブの抒情を湛えた透明感のある弦の響きはまさにこの人の手で育て上げられたものだった。20分に及ぶ2000人の聴衆からの拍手を、楽員の多くが目を赤くして見守った。

 「いつか札響にもっと良い指揮者が現れ、『エリシュカなんかよりずっといい』と喜んで迎えられる日の来ることが、今の私の心からの望みです」
と、インタビューで語った。「日本の人々に出会えて、私の人生は最後に本当に豊かなものになった。愛してくれてありがとう」



この記事は涙なくして読めないし、彼の指揮に演奏が自分のアンテナにかからなかったことを心から悔いた。
探して聴こうと思った人は多かったのではないでしょうか。

歴史に学ぶ~損得の同盟論~

2017-09-04 04:54:05 | 
朝日新聞で読みごたえがあるのは声欄の左のオピニオン&フォーラム欄。
2017年9月1日朝刊で繰り広げられた、ライフネット生命創業者、歴史の著書も多い出口治明氏の同盟論が面白い。

同盟を企業の合併や経営統合になぞらえて、ギブアンドテイクの原理による関係性と説き、
実例を挙げてその成否とメンテナンスの重要性について説明している、その視点と、企業経営者によくある戦国時代の武将ものや三国志ではなく、
近現代の同盟を現在の同盟の参考として挙げている点が新鮮。

ギブアンドテイクの互恵関係がしっかりしていても、メンテナンスを怠ったり、引継いだ新指導者が意味を理解していないと成り立たなくなる例として、
旧ソ連でスターリンが結んだ同盟が、フルシチョフやブレジネフら後継者の時代に有名無実化したこと、成功と失敗がないまぜになった例としては
19世紀後半ビスマルクのイタリア・オーストリア・ドイツの3国同盟。
これは国境紛争を抱えているのを同盟にまとめ上げて英仏との覇権争いに立ち向かっただけでなく、バルカン半島をめぐって、オーストリアと険悪なロシアが仏と結びつかないようにどくろで秘密条約を締結して分断を目指すという複合的な天才技。
それが、独にウィルヘルム2世という若い皇帝が登場するとビスマルクがきずいた複雑な同盟方程式の意味がわからず、「秘密条約は望ましくない、矛盾している」と考えて独ロ歳保障条約をやめてしまう。結果ドイツは仏ロのサンドイッチとなり最終的に第一次大戦で最悪の東西2正面作戦を余儀なくされる。
ビスマルクという天才的なメンテ役がいなくなった三国同盟は、実利を無視して整合性やイデオロギー重視で大惨事を引き起こした。
安定していれば矛盾していても良い。同盟の成否を考える上で非常に示唆に富む例だと思います、というくだりの説得力。

日独伊三国同盟については、失敗例として。
対中戦争で世界の孤児となってあせった日本が結んだやっつけ仕事で細部を詰めずに失敗。
本業がピンチになってあわてて機能しない契約を結んで失敗する企業と同じ。
「新秩序」という頭で考えたスローガン、キャッチフレーズだけがあって契約の細部に真実が宿っていなかったと一刀両断。

対して成功したのは日英同盟。
これはロと英がユーラシア大陸で覇権争い、グレートゲームをしていたという背景あってのラッキーな同盟。
インドを植民地として潤沢な兵力を持っていた英は南アフリカでボーア戦争を始めて50万人もの兵力を貼り付けなくてはならなくなった。
一種ベトナム戦争のように泥沼化して極東が手薄になったところで、日清戦争に勝ち台頭してきた日本に目を付けた。
本来英国は圧倒的な大国で、本来なら日本が組めるような相手ではなかったところ、たまたま英側にこのような実利やニーズがあったから組むことができたため、日露戦争で、日本は情報入手などで有利に戦えた。
それが終わったのはロシア革命が起きて帝政が終わり、グレートゲームをする必要がなくなったから。
世界のパラダイムが大転換したときには同盟の価値も変化する、と。

日米同盟については、かなり長持ちしているが、今、世界が大転換期を迎えているような・・という振りに対しては。
敗戦後のグランドデザイナーというべき吉田茂による明治維新に次ぐ第二立憲政とでもいうべき体制が整えられた。
それは明治以来の国是だった、開国富国強兵という3つのカードから強兵を捨てたということ。
その代わり、米国に守ってもらうという選択だった。
今、日本が酌むべき相手は潜在的には米中欧の3つ。
地政学的な距離感、歴史的経緯、今後の可能性を鑑みて、安全保障は今まで通り米国傘下、交易中心で中・欧とも仲良くというのが最も合理的。
自主防衛という選択肢は、国内総生産(GDP)の倍以上の債務を抱え、高齢化社会を迎える中では非現実的。
問題は日米同盟のパラダイムが冷戦終結で根本的に変わってしまったこと。
かつては米国に軍事的負担を求める一方、日本は対共産圏の不沈空母として基地を提供する強みがあったが、それが終わった。
日本が日米同盟を大切に考えるなら、人材交流をきちんとメンテしなくてはならない。

ドイツのアデナウアー首相とフランスのドゴール大統領が結んだエリゼ条約(仏独協力条約)は上手に手入れされている。
独仏は1870年勃発の普仏戦争以来、3度も全力で殴り合った。第2次世界大戦後、二人が腹を割って話し合い、「殴り合いの結果、欧州の地位が低下し、漁夫の利を得たのは米ソではないか、もうやめよう」と確かめ合った。
二人のすごいところはメンテの具体策として、国境地帯の住民を中心に姉妹町村を無数に誕生させ、1000万人近い人々を交流させた。互いに悪口を言い合わないよう歴史教科書も統一し、仲良くなる仕組みを作った。
仏大統領選でマクロン氏が勝ったのもルペンさんを見て、国民は独仏関係は死活的に大切だともう一度考え直した。根っこにあったのは条約がもたらした交流の深さ。人間は忘れやすい生き物。忘却を防ぐメンテが大切。
そこで心配なのが、日米の交流が細ってきていること。
現在米国にいる留学生100万人のうち、中国人は33万人強もいるのに日本人は2万人を切った。1990年代には5万人は行っていたのに半減。
実態からすると「価値感を共有する日米」は絵空事に思えてしまう。次代の米国を担うエリートたちは日本の16倍以上の中国人と触れあっている。
未来の米国のリーダーたちの友達が日中どちらに多いかは自明です。

日米同盟でもう一つ大事なのは、負担の平準化。米軍は駐留しているから防衛に本気になるわけで、基地は必要条件。
「常時駐留なき日米安保条約」はあり得ない。その中、沖縄が全体の米軍基地の7割を引き受けているのは異常。
損を沖縄に引き受けさせて、本土が得をしている構図はギブアンドテイクになっておらずそこに依拠した日米同盟は不安定。
本土が多くの基地を引き受けることが、日米同盟を長持ちさせる十分条件です。

と、ここまで、過去の歴史の検証と現在への影響と現状把握、そして未来への仮説、と実効性をを持つ歴史観の開示をできるヒトはそうそういないのでは。
政治を経済的な実利性で合理的に判断するベネチア人を描いた塩野七生の「海の都の物語」を読んだとき以来の感動でした。

ウィーンフィルのコンマス、ライナー・キュッフィルさんの思い出語り

2015-06-14 20:46:05 | 
2015年6月10日(水)が3回目。
「人生の贈りもの~わたしの半生」で、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルさん(64)が思い出を語っている連載があるのだが、色々と興味深いことばかり。

その中で、今回は、同時代のバイオリニストについてのコメントが興味深かったので、そこだけ引用しておこう。

11歳で初めてバイオリンを持ち、9年後にはウィーン・フィルで弾いているなんて。信じられません。

色々と幸運に恵まれていただけですよ。私の前任だったウィリー・ボスコフスキーさんがたまたまコンサートマスターをおやめになったんです。確か60とちょっとで。それで、師事していたフランツ・サモヒル先生が、後任のオーディションの準備をきちんとしてくださったから。わたしは別にポストが欲しかったわけではなく、オーディション会場に行って演奏して帰ってきた。それだけです。
 
緊張しましたか?

いいえ、まったく。オーディションは、いかにリラックスして弾くかが大切ですね。自分が審査員を務める立場になったいま、そのことがよくわかります。オーディションに来る若手の中には、何が何でもこのポストに就かければ、と相当なプレッシャーを抱えている人がたくさんいますからね。
でも私はそんなことをまったく考えていなかった。「オケと一緒にコンチェルトを弾けるのは楽しいな」「ホルスト・シュタインが指揮してるなぁ」という心持ち。気持ちよく、何のプレッシャーも感じることなく演奏したのがよかったのでしょう。
 
シュタインが指揮ですか!

ええ、彼は当時、ウィーン・フィルの重要な指揮者の一人でしたから。コンマスのオーディションは2日にわたって行われます。初日は1人でソロの作品を奏でて、2日目はオケと一緒。オケの中で弾いたり、コンチェルトの一部を演奏したりします。

学生時代、ウィーン・フィルはよく聴いていましたか?

いいえ。学生時代に実際に足を運んだのは、ウィーン・フィルが演奏しているウィーン国立歌劇場のオペラだけ。それも、学生用の安い立ち見席で2,3回見たくらいです。ウィーン・フィル単独のコンサートには一度も行っていません。ニューイヤーコンサートは白黒テレビで見ていましたけどね。

一度も?

ええ。でも、当時の代表的なバイオリニストの演奏はほとんど聴いています。オイストラフやグリュミオ―、コ―ガンも。例外はハイフェッツとアイザック・スターン。ハイフェッツは戦後、オーストリアに来なくなったし、スターンも1950年代に一度来て以来、ウィーンになかなか来ないので聴きそびれました。

印象に残る巨匠は?

あのころ巨匠と呼ばれていた人たちは、それぞれが特別な存在だったのです。誰もがほかの誰とも違う。それこそ目を閉じて聴いていても、「これは誰だ」とわかるくらい、個性の際立った人たちばかりでした。残念ながら、いまはそうではない。若い人たちは同じような演奏をしますね。
特に印象に残っているといえば、オイストラフでしょうか。彼とはいろんな思い出があるんですよ。

往年のバイオリンの巨匠、オイストラフとの思い出とは何ですか?

あれは1970年の第4回チャイコフスキー国際コンクールでした。舞台から客席を見ると、そこにオイストラフとシゲティとコ―ガンという3人の大物が座っている。オイストラフは慈悲深いお父さんのような雰囲気。コーガンは、小柄でとても険しい顔をしていました。19歳だった私はかなり緊張しましたよ。
 その2年後、ブタペストへウィーン・フィルの公演で行ったときです。クラウディオ・アバドの指揮でハイドンの「バイオリンとオーボエ、ファゴット、チェロのための協奏交響曲」を弾いていたら、客席にまたオイストラフが座っている。彼がいると、やっぱりいい演奏をしなければという意欲が高まります。

そうそう、チャイコフスキー国際コンクールのことを伺いたい。本選には進めなかったのですか?

出場した顔ぶれがすごかった。1位はギドン・クレーメルで、2位は指揮者になったウラジーミル・スピバコフと藤川真弓。藤川さんは素晴らしい演奏でした。  

長くヨーロッパを拠点に活躍し、高く評価されてきた藤川さんですね。確かに、名手ぞろい。

クレーメルの最初の奥さんだったタチアナ・グリンデンコもいましたしね。とにかくすごい面々が本選まで進んでいましたから。私は最初でダメでした。

えっ一次で?

ハハハ。でも最後まで会場に残って他の人の演奏を聴きましたよ。

なぜ落ちたのですか?途中でとまったとか?

私の演奏より、みなさんがよかったということ。
録音が残っているかどうかわかりませんが、2度と聴きたくないですね。でも、みなさんの演奏を聴けたのはとてもいい経験でした。

周りはキュッヒルさんが1位と予想したのでは?

それはないでしょうね。師事していたフランツ・サモヒル先生も、おそらく私に経験を積んでほしいと思っていたはず。それに当時、旧ソ連は国としてとてもコンクールに力を入れていました。出場者も多いし、とにかく彼らはチームだった。そもそもこのコンクールは長い間、優勝はほぼ旧ソ連の人という時期がつづいていましたから。

多くを与えられた者は・・

2015-06-14 20:25:55 | 
タレントのパックンことパトリック・ハ―ランさんの「一語一会」
2015年4月30日の朝日夕刊より。

ハーバードで比較宗教学を学んだあと卒業後の進路を考えあぐねて福井県の小学校で働くことになったアメリカ人の幼馴染に誘われての来日から、英会話学校講師をしながらのアマチュア劇団時代。本格的に役者をと東京へ。知人を介して吉田真さんとであってお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。

「僕の人生、ほとんど誰かの言葉で動いてきたんだけれどね」

 節目ごとに出会った様々な言葉でも、とりわけ色濃く記憶に残っているのが、高校の英語教師だったホーリー・クロンキ―先生の一言。気性が荒く、怖い存在だった。
 最初の出会いは小学生のころ。地元の高校生が出演する劇で子役を務めることになった。演出をしていたのがクロンキ―先生で、その厳しさに度肝を抜かれた。一生懸命頑張っている子供に向かって「何だ、それは!」「練習してないだろ!」と怒鳴りまくっていた。
 高校生になり、その「怖いおばさん」と再会した。英語の授業を受け、演劇を教えてもらった。「僕の成積はそれまでAばかりだったのに、どんなに頑張っても彼女がくれる評価はBとかBマイナスだった」。誰よりも上手く歌えて踊れているはずの舞台でも一番怒られた。「ナニコレ?と不満でしたよ」
 ある日の放課後、「なぜ僕にだけ厳しいんですか?」とクロンキ―先生に猛然と抗議した。すると先生はきっぱり言った。
 「多くを与えられた者は多くを求められるのです。優れたものをたくさん与えられているのだから、あなたに対する基準は他の人たちとは異なります。あなた自身も自分に対する基準を上げなくては」
 耳慣れない言葉の重みに圧倒された。「それまでチヤホヤされてばかり。自分の可能性や素質、義務について諭されたのは初めてでしたね」。
先生への感情は信頼に変り、勉強も演劇も一層の高みを目指すようになった。のちに、その言葉は新約聖書の引用と知った。
 「自分が周りに何を求められ、何が出来るのかなって考えます。あの一言がなかったら、いまの自分と全然違っていただろうな」

高倉健とイノダコーヒー

2015-05-06 07:02:33 | 
2015年4月28日朝日夕刊記事より

「京ものがたり」のコーナーで高倉健のコーヒーブレイク、という記事がありました。
あのお店に・・・そうなのか、しっくりくる構図だわ・・と思い、そういう場所を持てるというのも人生において大切なのでは、と感じたので、全文転記致します。


 高倉健にとってコーヒーは生活必需品だった。仕事や私的に訪れる土地に、なじみのコーヒー店がいくつもあった。
 その一つが、京都の老舗コーヒー店「イノダコーヒー」だ。約50年勤めたコーヒー職人の猪田彰郎(82)は、「祇園祭の時、萬屋錦之介さんと浴衣姿で見えたのが最初でした。任侠もので人気が出る前。ほれぼれしました」と語る。
 その後、猪田が接客した三条支店に、多いときは一日に朝晩2回通った。店の顔でもある楕円カウンターを好み、昼は、光が差す窓側中央、夜は、柱が目隠しになる入り口側の真ん中が定位置だった。
 モカを基調にした同店オリジナルブレンド「アラビアの真珠」を、砂糖なし、ミルクたっぷりで。うんちくは語らない。一口飲んで、ギョロッと目を見開き、満足そうに「おいしいです」とひと言。

 寡黙な役柄が多かった高倉だが、一緒にコーヒーを飲んだ人たちは皆、「よく話をされました」と振り返る。猪田の前でも、朝は無口に新聞を読んでいたが、夜はおかわりを重ねて、旅した欧州の思い出などを生き生きと語った。
 「冗舌さの根底にあるのは、秘めた孤独感でしょう」と、30年にわたって高倉を取材した出版プロデューサーの谷充代(61)。孤独と、個の時間を知るからこそ、心を許す人や、好きな空間に浸るときは、言葉がほとばしるのだとみる。

 常に精進し、高みを目指す高倉を、共演した田中邦衛(82)は「峻烈な山」にたとえた。20数年前、それをどう思うのかと、谷が高倉に尋ねると、熟考の末、「人は誰でも幸せになるために必死でもだえているんじゃないでしょうか。きれいごとではない。修羅場です。でも確実に幸せに向っている。そう信じたいんです」と答えた。
 高倉がもがきながら進んだ人生には、逃れきれないスターの孤独や、愛する人との別れがあった。1982年、元妻の江利チエミが急死したとき、混乱を避けて彼女の自宅の裏でこっそり手を合わせた。母親が危篤のときは、周囲に迷惑をかけまいと映画の撮影を続けた。
 「俳優ってつらいな」。東映時代から親交があり、江利を弔う私的な旅に同行した京都市の会社経営者、西村泰治(76)は、そうつぶやく高倉の孤独を間近で見た。「旦那(高倉)は、太陽みたいにすごい人ですが、その分つらいことも、ぎょうさんあったと思います」
 西村もまた、イノダコーヒーに高倉と通った。印象的なカウンターは今も変わらない。
 高倉が世を去って5カ月あまり。コーヒーブレイクを共にした人たちは、その時間を「人生の宝物」だと語る。


*イノダコーヒーを訪れた高倉健さんが、コーヒーと一緒に、時々注文したのがチーズケーキだ。「意外でしょうが、甘いものが好きなんですよ」と西村さん。包装のセロハンを丁寧にはがし、いつもおいしそうに食べていたという。
 現在、店で提供するチーズケーキは、東京・銀座で人気のあった老舗ドイツ料理店「ケテル」(閉店)のレシピを受け継いだものだ。本家のノウハウを生かし、自社工場で手作りしている。甘さは控えめで、中のレーズンがアクセントに。本支店で食べられるほか、直営のケーキ工房「ケテル」(京都市中京区六角通高倉東入堀之上町128 ☎075・254・2504)でも購入できる。