memory of caprice

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マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~蓮実重彦の弔辞~

2015-05-04 04:02:00 | 映画
2015年4月14日(火)朝日朝刊掲載

蓮實重彦氏によるポルトガルの巨匠、106歳で逝ったマノエル・ド・オリベイラ監督への弔辞が掲載されました。
全文を転記したいと思います。

「心の不自由 語った巨匠~106歳マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~」

 あの高齢なクリント・イーストウッドさえその前に恭しく頭を垂れた偉大な映画作家マノエル・ド・オリベイラが、106歳の生涯を閉じた。このポルトガルの巨匠は、100歳を超えてもなお精力的に映画を撮り続け、国際映画祭はその新作を奪い合い、103歳の作品「家族の灯り」(2012年)にジャンヌ・モローとクラウディア・カルディナーレが共演していたように、スターたちも彼の映画への出演を競い合っていた。小津安二郎、マルセル・カルネ、ジョン・ヒューストンなどの「往年の巨匠」と同世代だったこの監督が、21世紀にもなお優れた作品を発表していたのは奇跡というほかにはなく、その穏やかな死とともに、20世紀はついに終わったと呟かざるをえない。

 オリベイラの名を世界に高らしめた「繻子の靴」(85年)を撮った時、監督はすでに80歳に近かった。上映時間7時間に迫るこの超大作の成功により、ほぼ一年に一作を発表する巨匠と認められたのだが、それ以前の彼は、1933年から74年までの独裁的なサラザール政権によって作家の自由を奪われていた。彼自身に不幸な沈黙を余儀なくさせたポルトガルの歴史は、過去から現在にいたるまで、傑作「ノン、あるいは支配の空しい栄光」(90年)に大胆に語られている。政治的な自由が回復してもなお人間が囚われている心の不自由を彼は「神曲」(91年)で鮮やかに描いて見せ、名高いピアニストのマリア・ジョアン・ピリスを優雅な狂女役として抜擢したことでも世界を驚かせた。
 「ボヴァリ―夫人」の大胆にして繊細な翻案「アブラハム渓谷」(93年)の渓谷とは、監督がその生涯を過ごしたポルトを流れるドウロ河両岸のなだらかな地形を意味する。習作といってよい初の中編の「ドウロ河」(31年)や長編第一作の「アニキ・ボボ」(42年)以来、監督が自ら泥棒役を演じて笑わせる「わが幼少時代のポルト」(01年)にいたるまで、この河のゆるやかな流れとそれを見下ろす起伏豊かな土地の光景は、彼の作品を活気づける忘れ難いイメージにおさまっている。「アブラハム渓谷」には、フローベールがその長編小説を執筆したセーヌ河畔の家を対岸から描いた水彩画とまったく同じ構図が挿入されており、そのことを指摘したところ、偶然の類似をことのほか喜ばれた監督は、その画面を撮った場所を案内するからぜひポルトに来るようにといわれた。ところが、親しい映画作家や批評家は、ポルト詣でにはこぞって大反対だった。街の高級レストランで美味しい料理を満喫してから必ず自宅に招待されるが、夜の急勾配の細い道路を90歳近い監督が鼻歌まじりにハンドルを握って猛スピードで疾走するのには、生きた心地がしないからだという。

 「神曲」がベネチアで上映された折に初めてお会いしたとき、80歳を超えていたオリベイラ監督は、ホテルのプールで鮮やかなダイビングを披露しておられた。青年時代には水泳と体操の選手で、カーレースでも優勝しているのだが、90歳を過ぎてから小津安二郎の生誕100年を祝いに来日されたとき、鎌倉の墓前でじっと頭を垂れておられた監督は、帰り際にいきなり円覚寺の長い階段を後ろ向きに軽々かけおり、まわりの者たちを呆気にとらせた。厳格きわまりない演出家がときに演じてみせるあの身軽さが、長寿の秘訣だったのだろうか。合掌。

*編集委員による追記*

オリベイラ監督は1908年、ポルトガル北部の港町ポルトに生まれた。国際的な評価を得たのは70代になってから。99年には「クレーヴの奥方」でカンヌ映画祭の審査員賞を受賞している。その作風は時に正調、時に破調で変幻自在。人を食ったような展開もままあり、観客の予断を許すことがなかった。
 2010年のカンヌでは、「アンジェリカ」(仮題)が「ある視点」部門のオープニングを飾った。美少女の遺体にカメラマンの青年が夢中になるという独創的で美しい物語だった。この時のパーティで、101歳の監督にお目にかかった。握手をした手の厚みと温かみは、今でもよく覚えている。
 2日に106歳で死去。「アンジェリカ」は日本での配給権を持っていた会社が相次いで破綻。「幻の傑作」になりかけたが、このほど公開が決まった。年内の公開を目指している。


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