memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

フランス映画社元社長柴田駿氏への追悼(蓮見重彦氏による)

2020-03-30 11:07:35 | 映画
2019年12月22日(日)の朝日の文化・文芸欄
「ゴダールの旗のもとで会ったー柴田駿(はやお)さんを悼むー」という追悼文を見つけた。

80年代後半から90年代にかけて、雨後の筍のごとく首都圏に跋扈したアート系のミニシアター、
古くからある3本立ての名画座、いわゆるハリウッド映画、マス映画を避けて、アートや文化の香り高い、
時にアバンギャルド、時にクラシカルな名画を観によく通ったものだった。
その際に指針としたもののひとつは、ファッション雑誌の仮面をつけた文芸誌、中央公論社の「marie claire」
映画評を担当していらした蓮見重彦氏のマニアックな評論、そしてそこから派生した映画全てをおおらかに愛した
故・淀川長治氏、山田宏一氏を交えた映画鼎談「映画千夜一夜」
ミニシアターの客席に身をうずめると「名作を世界から運ぶBOWシリーズ」と船のへさきをモダンにデザインした
シルエットが浮かび上がる・・・それが、フランス映画社配給作品である証で、同時に、良作を観られるブランドでもあった。

その時代を作った一人である、柴田氏に対する、蓮見氏の言葉は、彼らの後の世代、
バブルの名残の文化を消費できる幸せを当たり前と受け止めていたどん欲な消費者であったわたくしは、懐かしさと
感謝の念で受け止めるしかないのであった。

以下、引用です。


数々の優れた監督を日本に紹介してきたフランス映画社元社長の柴田駿さんが、11日、慢性閉塞性肺疾患で死去した。
78歳だった。長年交流のあった映画評論家の蓮見重彦さんが追悼する、

1968年のフランス映画社創立前から知りあっていた柴田駿には、恩義しか感じていない。
私がまがりなりにも映画評論家と呼ばれているのは、彼が、伴侶だった川喜多和子とともに輸入してくれた優れた作品がどっさりとあったからだ。
商業映画から撤退した時期のゴダールを始め、まさか日本での公開など不可能と思われたテオ・アンゲロプロス、ヴィクトル・エリセ、マノエル・ド・オリヴェイラ、カール・ドライヤー、候孝賢、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ヴェンダースなどの作品を。ミニシアターなどという言葉が生まれる以前に、彼は涼しい顔で小劇場で公開してみせた。そうした作品について書くことで、私は批評家への道を歩んでいったのである。気に入らない作品の悪口を書いても、彼との仲がこじれることはなかった。
 最初の出会いは、彼がユニフランスにつとめていた時期の66年、ゴダールが初来日したときのことだ。私がある雑誌のために通訳をつとめたときに、ゴダールにつきそっていた彼と知りあった。また、「気狂いピエロ」の公開を迷っていた別の社に彼とともに呼び出され、丼飯をつつきながら、断乎公開すべしと活を入れたことなども思い出される。以後、『ゴダール全集』(竹内書店)の監訳者として親しみをまし、深夜の長電話もふえていったのだから、われわれは文字通り「ゴダールの旗」のもとに出会ったのだと言える。自分が関わった作品には最後まで責任を持ち、まわりとの軋轢も少なくなかったと聞くが、彼は断乎として自説を曲げない。伊丹十三という人気俳優と離婚した川喜多和子が彼のもとに走ったのは、彼の由緒正しい頑固さに惹かれてのことだろうと思う。
 柴田駿の業績で忘れてはならないのは、ジャン・ルノワールやルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴなどの旧作を公開し、映画史的な展望を開けさせてくれたことにある。中でも「荒武者キートン」を輸入し、ときならぬキートン・ブームをまき起こしたことは重要である。だが、彼はいわゆるハリウッド映画には関わることがなかった。ジョン・フォードについてどんな思いをいだいていたのかいつか訊ねてみようと思っているうちに、彼は呆気なく私たちのもとを去ってしまった。入院中には酸素マスクを嫌い、この酸素をゴダールの住むスイスのロールに送れとつぶやいていたという。
それを耳にしたゴダールからは、ドン・キホーテに倣って、ハヤオ・キホーテと呼んではどうかという言葉が返って来たという。「ゴダールの旗」のもとに出会った私は、いまだ彼のことを故柴田駿と呼ぶ気にはなれない。

*「気狂いピエロ」から、アンナ・カリーナのカットが添えられていた。
  アンナ・カリーナさんも14日、死去した、とのクレジット付。

小津安二郎と横浜中華街

2015-11-08 04:53:40 | 映画
朝日新聞で連載していた「小津安二郎がいた時代」
2015年2月8日の記事を転載します。

小津映画好きとしては、巡礼地が増えたと言いますか・・・^^
サンマ―メンを頂いてみたいと思います。


 1933年(昭和8)年2月12日。小津安二郎の日記には「支那町安楽」に立ち寄ったことが記されている。同じ月の27日には、母や兄ら7人で「浜の安楽に行く」。横浜中華街にあった料理店「安楽園」のことだ。37年ごろまでの日記を見ると、横浜でロケなどがあると、安楽園で食事をしていたことがわかる。
 戦後の55年ごろから店に出て、2011年に閉店するまで切り盛りしていた安楽富美(ふみ)(84)は、小津が来店した時代を知らない。けれど小津が田中絹代ら俳優と店を訪れると、「大人たちが、今日は小津さんたちがいらしたねと少し華やいで話していた記憶があります」。
 昭和初期の横浜中華街は、関東大震災の被害から立ち直り、大きな料理店が次々と開店し、独特な雰囲気を醸し出す横浜名所として再興しつつあった。中華街の歴史にくわしい横浜開港資料館の伊藤泉美就任調査研究員(52)によると、当時は、政財界人らが多く訪れたと言う。「大通りに面した『庵楽園』は屈指の高級店でした」
 戦後も小津の中華街通いは続く。ひいきにしたのは、庶民的な「海員閣」。2代目店主の張燦けん(金へんに堅)(73)は小津と面識はないが、先代からサンマ―メンとシューマイを好んでいたようだと聞いた。サンマ―メンは横浜発祥といわれる。この店では豚肉とたっぷりの野菜をあんかけにして麺にのせる。
 「秋刀魚の味」(62年)で、加東大介がチャーシューメンを頼んだ後に取り消す場面があるが、最初の脚本ではサンマ―メンになっていた。「小津安二郎の食卓」(ちくま文庫)などの著書がある貴田庄(きだしょう)(67)は、サンマ―メンを海員閣で知った。「サンマ―メンでは、全国的にはわからないので変えたのでしょうが、よほどお気に入りだったのでしょう」
 小津は、松竹関係者や俳優ばかりでなく、共同で脚本を書いていた野田高梧(こうご)や、野田が可愛がっていた若者たちとこの店をよく利用した。「ハイキングの帰りなどによく大勢で行きました」と、井上和子(79)は話す。気のおけない店で、若者に囲まれて小津が楽しそうに酒を飲んでいた姿を覚えているという。小津映画のプロデューサーだった山内静夫(89)は「とにかく大勢で食事をするのが好きな人だった。だから中華料理を好んだのかもしれません」と振り返る。
 戦前、戦後と中華街の味を愛した小津。足跡をたどって海員閣には今も、「小津ファン」が時折訪ねるという。

マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~蓮実重彦の弔辞~

2015-05-04 04:02:00 | 映画
2015年4月14日(火)朝日朝刊掲載

蓮實重彦氏によるポルトガルの巨匠、106歳で逝ったマノエル・ド・オリベイラ監督への弔辞が掲載されました。
全文を転記したいと思います。

「心の不自由 語った巨匠~106歳マノエル・ド・オリベイラ監督を悼む~」

 あの高齢なクリント・イーストウッドさえその前に恭しく頭を垂れた偉大な映画作家マノエル・ド・オリベイラが、106歳の生涯を閉じた。このポルトガルの巨匠は、100歳を超えてもなお精力的に映画を撮り続け、国際映画祭はその新作を奪い合い、103歳の作品「家族の灯り」(2012年)にジャンヌ・モローとクラウディア・カルディナーレが共演していたように、スターたちも彼の映画への出演を競い合っていた。小津安二郎、マルセル・カルネ、ジョン・ヒューストンなどの「往年の巨匠」と同世代だったこの監督が、21世紀にもなお優れた作品を発表していたのは奇跡というほかにはなく、その穏やかな死とともに、20世紀はついに終わったと呟かざるをえない。

 オリベイラの名を世界に高らしめた「繻子の靴」(85年)を撮った時、監督はすでに80歳に近かった。上映時間7時間に迫るこの超大作の成功により、ほぼ一年に一作を発表する巨匠と認められたのだが、それ以前の彼は、1933年から74年までの独裁的なサラザール政権によって作家の自由を奪われていた。彼自身に不幸な沈黙を余儀なくさせたポルトガルの歴史は、過去から現在にいたるまで、傑作「ノン、あるいは支配の空しい栄光」(90年)に大胆に語られている。政治的な自由が回復してもなお人間が囚われている心の不自由を彼は「神曲」(91年)で鮮やかに描いて見せ、名高いピアニストのマリア・ジョアン・ピリスを優雅な狂女役として抜擢したことでも世界を驚かせた。
 「ボヴァリ―夫人」の大胆にして繊細な翻案「アブラハム渓谷」(93年)の渓谷とは、監督がその生涯を過ごしたポルトを流れるドウロ河両岸のなだらかな地形を意味する。習作といってよい初の中編の「ドウロ河」(31年)や長編第一作の「アニキ・ボボ」(42年)以来、監督が自ら泥棒役を演じて笑わせる「わが幼少時代のポルト」(01年)にいたるまで、この河のゆるやかな流れとそれを見下ろす起伏豊かな土地の光景は、彼の作品を活気づける忘れ難いイメージにおさまっている。「アブラハム渓谷」には、フローベールがその長編小説を執筆したセーヌ河畔の家を対岸から描いた水彩画とまったく同じ構図が挿入されており、そのことを指摘したところ、偶然の類似をことのほか喜ばれた監督は、その画面を撮った場所を案内するからぜひポルトに来るようにといわれた。ところが、親しい映画作家や批評家は、ポルト詣でにはこぞって大反対だった。街の高級レストランで美味しい料理を満喫してから必ず自宅に招待されるが、夜の急勾配の細い道路を90歳近い監督が鼻歌まじりにハンドルを握って猛スピードで疾走するのには、生きた心地がしないからだという。

 「神曲」がベネチアで上映された折に初めてお会いしたとき、80歳を超えていたオリベイラ監督は、ホテルのプールで鮮やかなダイビングを披露しておられた。青年時代には水泳と体操の選手で、カーレースでも優勝しているのだが、90歳を過ぎてから小津安二郎の生誕100年を祝いに来日されたとき、鎌倉の墓前でじっと頭を垂れておられた監督は、帰り際にいきなり円覚寺の長い階段を後ろ向きに軽々かけおり、まわりの者たちを呆気にとらせた。厳格きわまりない演出家がときに演じてみせるあの身軽さが、長寿の秘訣だったのだろうか。合掌。

*編集委員による追記*

オリベイラ監督は1908年、ポルトガル北部の港町ポルトに生まれた。国際的な評価を得たのは70代になってから。99年には「クレーヴの奥方」でカンヌ映画祭の審査員賞を受賞している。その作風は時に正調、時に破調で変幻自在。人を食ったような展開もままあり、観客の予断を許すことがなかった。
 2010年のカンヌでは、「アンジェリカ」(仮題)が「ある視点」部門のオープニングを飾った。美少女の遺体にカメラマンの青年が夢中になるという独創的で美しい物語だった。この時のパーティで、101歳の監督にお目にかかった。握手をした手の厚みと温かみは、今でもよく覚えている。
 2日に106歳で死去。「アンジェリカ」は日本での配給権を持っていた会社が相次いで破綻。「幻の傑作」になりかけたが、このほど公開が決まった。年内の公開を目指している。

有馬稲子が語る小津映画の現場

2015-03-03 07:07:43 | 映画
朝日の朝刊で連載している「小津安二郎がいた時代」
小津映画のファンとしては色々な側面からその撮影現場、人となり、時代がうかがえて楽しみなインタビュー記事である。
2015年3月1日(日)は女優の有馬稲子。
今回はわたくしが感じる小津映画の魅力も期せずして語られていて・・・。共感しました。

以下全文。

ただふりかえるだけの場面だった。当時、すでに大女優だった原節子が何度も何度もやり直しをさせられていた。
 「そばでみていたら、緊張でもう顔ががくがくけいれんしてきました」
 有馬稲子が、初めて小津安二郎の映画「東京暮色」(1957年)に出演した時のことだ。「ただでさえ、しわぶき(せき)ひとつ聞こえない静かな現場なんですから」 32年生まれ。宝塚歌劇団を経てスクリーンデビュー。「東京暮色」までに30本以上の映画に出演していた。 
 だが、小津の撮影現場はそれまでと全く違った。まず、食器やコップなど小道具をセンチ単位で動かし、長い時間をかけて位置を決める。それから役者が決められた位置に入る。スタッフは目で合図を交わし、聞こえるのは演技指導をする小津の小さな声。「厳粛な現場でした」
 「東京暮色」では自由に演技ができた。「余計なことを考えなかったせいかもしれません」。山田五十鈴との2人の場面を見ると、「大女優の山田さんを相手に、我ながらよくがんばっていたと思います」。
 ところが、翌年に出演した「彼岸花」ではたっぷり絞られた。「まわりの人の様子から小津監督の偉大さに気づいて、プレッシャーを感じるようになったんでしょうか」
 ほんの短いセリフを何十回も繰り返した。「違うなあ」。小津が手本を示す。「とってもお上手なの。でもそんなふうにできなくて」。静かな現場で緊張が高まる。「厳しかった。唇がけいれんしてきました」
 撮影が終わると厳しさは一転した。よく食事に誘ってくれた。なかでも横浜のレストランで食べたステ―キのおいしさは今も覚えている。高級店ではなく、老夫婦が切り盛りするこぢんまりとした店。内装も雰囲気も「小津好み」だったという。
 時を経て気づいたことがある。「彼岸花」で山本富士子はきれいな京都弁を話し、浦野理一のあでやかな和服を着ていた。「私はチャコールグレーの地味な感じの服装でセリフも短く、ちょっとうらやましかったの」と笑う。でもチャコールグレーは小津が好んだ色。後から見ると2人のコントラストはまるで美しい絵画のようだった。小津美学を実感した。
 もう一つ感じるのは、日本語の美しさ。「晩春」(49年)を始め、小津作品の原節子のセリフには今でもうっとりする。父親役の笠智衆らに使う自然な敬語が心に残る。
 「小津映画の中にしか残っていない世界かもしれませんね」


山田宏一、ローレン・バコールを悼む

2014-09-20 06:47:24 | 映画
2014年8月12日、ハリウッドの大女優ローレン・バコールが亡くなった。
ハンフリー・ボガードの作品上でも、その後は私生活でもお似合いの大人のカップルとして印象に残るクール・ビューティ―。
小学生の頃、少年雑誌の折り込み付録についていた淀川長治氏監修のハリウッド名女優選(今から思えば贅沢な企画だった)の並いる美人女優の中でも、そのまなざしの強さとひんやりとした個性的な美貌に見いったもので、後年、半自伝「私一人」を読んで、ボギーとの道ならぬ恋を成就させるまでの大変な葛藤と泣きぬれる日々を送ったことに驚いた。

8月19日の朝日文化欄に彼女の追悼記事が載っていた。
筆者は山田宏一氏。
わたくしの中では、大学生から社会人になる頃、80年代から90年代にかけてのミニシアター全盛期に浴びるほど観たジャームッシュなどのニュージェネレーション映画とともに過去の名作をむさぼるように観た時期の指針となった「映画千夜一夜」という対談集があったのだが、その3人の一人として蘇り。
博識にしてとりわけハリウッド映画の全盛期についてリアルに語れる稀有な記憶を持つ座長の淀川長治氏、独特の視点でインテリ好みの映画論を展開する蓮実重彦氏(この当時、marieclaireという女性誌の仮面をかぶった月刊の文芸誌が中央公論社から出ていたのだが、そこに彼はよく寄稿していた)、そして大先輩2人の丁々発止を穏やかに眺めておぼっちゃま扱い(それは淀川氏が^^)されていた、フランスのヌーヴェルバーグもの専科のようなポジションで情緒的なものの見方をする山田宏一氏、という流れでの記憶があり、なんともいえない感慨深い思いがしたものです。

彼がローレン・バコールを悼む。全文、引用させていただきます。

タイトルは

ヒーローのこびない「相棒」-ローレン・バコールさんを悼む―

 ローレン・バコールさんが12日、89歳で亡くなった。彼女が自伝の日本語版『私一人』の出版を機に来日したのは1984年10月。もう30年も前になるのだが、つい最近のことだったような気がする。
 映画デビューは20歳のとき、「いきなりタバコをすうシーンだった」と彼女は言った。「タバコは、映画では、なんといっても絵になるし、男と女のエロチックな関係を暗示するものだったからでしょうね」。宿泊先のホテルでささやかなインタビューをした。「今はもう禁煙しているんですよ。でも、東京に来てから、ちょっとくたびれたせいか、がまんできなくなって、昨夜久しぶりに一服やってしまったけど」
 ハワード・ホークス監督の44年作品「脱出」で、バコールは25歳も年上のタフガイ、ハンフリー・ボガード(愛称ボギー)を相手に、生意気に、というか、不敵に、というか、物怖じもせず、タバコをすい、ハスキーボイスで「用があったら口笛を吹いて」という忘れ難いせりふをはくのだ。上目づかいにじっと見つめる印象的なまなざしから「ザ・ルック」という呼称も生まれた。
 映画そのままに恋をし、年齢差を超えてボギーと結婚。つづけて「三つ数えろ」「潜行者」「キ―・ラ―ゴ」という3作に共演して永遠のカップルとして記憶されることになるのである。
 40年代から50年代にかけてハリウッドで流行したハードボイルド・タッチのスリラー映画、フィルム・ノワールのヒロインといえば、ファム・ファタール(運命の女)とよばれる男を誘惑して破滅にみちびく魅惑の悪女と相場が決まっていたが、バコールだけは悪女になったことはない。その敏捷な動きと鋭い知性とユーモア、個性的な美貌によって、男に媚びることなく、おそらく初めて、死と背中合わせに生きるヒーローの最もよき協力者、相棒になるというユニークな存在だった。
 57年にボガードが食道がんで亡くなった後のキャリア、実生活における歌手のフランク・シナトラとの恋、舞台で知り合ったジェイスン・ロバ―ズとの再婚、ブロードウェーのスターとしての成功も、みじかくも美しく燃えたB&B(ボギーとバコール)の愛の神話のかなたにかすんでみえるくらいである。