memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

京都のロシアレストラン「キエフ」

2014-11-18 04:22:51 | グルメ
朝日夕刊2014年11月4日の記事より。

加藤登紀子さん(70)の22年前に他界された父幸四郎さんが祇園に残したロシアレストランキエフ。

京都出身、ハルビンでロシア語を学び、関東軍や満鉄でロシア人のスパイ探索などに携わり、終戦後東京でロシア料理店を開いて成功を収めた父。
1972年、ソ連の古都キエフ市が京都市と姉妹都市になったのをきっかけに東京の店を妻に任せ、単身で京都に戻り新しい店を開いた。
「家族全員が反対でしたよ」

だが、父がなぜ京都の店にこだわったのか、今ではよくわかる。家族と共に2歳のときに引き揚げた登紀子は中学生までを京都で過ごした。
「『故郷のない人間として生きるのは一番悲しいこと』父はそう言っていました。故郷をなくした私たちに京都を残したかったのでしょう。
 キエフ開店の年、登紀子は学生運動の指導者として服役していた藤本敏夫と獄中結婚。出産のため休業し翌年の復帰の直前、初めて人前で歌ったのがキエフのステージだった。
 
 百万本のバラの花を あなたにあなたにあなたにあげる
 登紀子は今、年2度キエフでディナーショーを開く。数多いレパートリーから、旧ソ連の大ヒット曲に自ら訳詞をつけた「百万本のバラ」は、特にここでは必須の曲だ。
 グルジアの貧乏画家と女優の悲恋をつづる歌詞はロシアの反体制詩人の作。ラトビア出身の人気作曲家が曲をつけ、ソ連の国民的歌手と言われたア―ラ・プガチョワが歌った。ペレストロイカ直前の82年、多様な国と民族が生んだヒット曲だ。
 だが第2次世界大戦中にソ連に統合され、「ふるさと」を奪われていたラトビア人には複雑だ。ロシア人の関わった「モスクワ発の流行歌」を歓迎しないむきもあったと言う。
「革命は国境のない世界を目指したはず。なのに、民族間の対立を深めてしまった」と登紀子は嘆く。
「私が歌う時はどの国とも同じように愛を持って向き合っていきたいの。ハルビンは大陸の東の端。私の故郷はユーラシアなんだから。
 来年はラトビアからオーケストラを招いての「百万本のバラコンサート」を全国で開く。
 そもそも屋号の「キエフ」。ソ連はすでになく、現在はウクライナの首都としてロシアとは厳しい対立の只中だ。「ロシアレストラン」が名乗るのは奇異でもある。
 だが登紀子の兄でキエフの現社長、幹雄(76)は言う。「店名は変えません。ロシア人もウクライナ人も仲良くやってほしいから。切実な願いです」


ロシアレストランキエフ
京都市東山区縄手通四条上ル鴨東ビル6F
☎075・525・0860
正午~22:00
ボルシチやきのこのクリーム煮壺焼きなどランチは1250円~、ディナーは3600円~

 月に数回、ロシア音楽をはじめとするショーやライブ、環境問題の講座なども開かれる。ロシア文化研究家でもある歌手、山之内重美さん(66)は、旅先のソ連で知り合った幸四郎さんの代から店とかかわり、今もステージで歌う。
「文化の発信点でありたいという志に共鳴しました」
 屋上では夏季のみビアガーデンも開かれ、ロシア料理をつまみに鴨川の風を受けながらジョッキが交わせる。





コメントを投稿